ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

観音経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

常識を消せば超能力は発現する

神仏に、願いが叶うことをお祈りをした時、どんな人の願いが叶うのだろうか?
それは、祈る人が、祈りを捧げる神仏について、
「どれだけ大きな力を持っているか?」
「どれだけ自分を愛してくれているか?」
と考えているかで決まる。
「愛してくれているか」について言えば、こんな問題がある。
特に、イスラム教徒がそうで、キリスト教徒やユダヤ教徒もだが、彼らは、神様に対して「天上にいる気難しくて怖い老人」というイメージを持っている。
彼ら(イスラム教徒など)にとって神様は、自分が悪いことをしたり、神が決めた掟を守らなかったり、神への供え物を怠ったら罰を与える恐ろしい存在だ。
しかし、どうしたって、人間は悪いことをするのだし、なかなか掟を守れないし、供え物をするのも面倒臭い。
それで、人間は、罪の意識を持ったり、自分は神に愛される資格がないなどと思ってしまうのである。
そういったところを権力者が利用して人民を支配することについてはよく分かっているが、そのことは今回は触れない。
本題はあくまで、どうすれば願いが叶うかだ。
上に述べたような気難しい神を信仰している者の願いは、あまり叶わない。
どうしても、そんな恐い神様が自分の願いを叶えてくれるとは思えないからだ。

ところが、仏教の仏は、本来、決して人間を罰しない。
特に、阿弥陀如来はそうで、どんな悪人でも慈悲をかけ、全面的な愛を注ぐのである。
だが、やはり多くの人々は、仏だって、悪い人は罰すると思い込んでびくびくしているのである。これは、親が子を、権力者が人民を支配するために、そう思い込ませたからだ。
だが親鸞は、「阿弥陀仏は、掟を守れず、善いことが出来ず、悪いことをしてしまう我々凡人を哀れんで救ってくれるのだから、我々駄目人間でも全然OKなんだ」と言ったのである。
それは非常に正しい。
なぜなら、理解は難しいのだが、実のところ、自分の心が仏で、それゆえ心は無限の力を持っているのだからだ。
自分の心が仏であるということが分かり難ければ、心の中の深いところに仏がいると思えば良い。
そして、阿弥陀仏に関して言えば、「南無阿弥陀仏」とか「阿弥陀仏」と唱えれば、即ち、念仏を唱えれば、心の中の阿弥陀仏が表に出てくるのである。
つまり、表面の心が悪くても、内なる仏は全く関係なく、無限の愛と力に満ちている。
これは、宗教というよりは、心の科学で、未来の科学であり、宇宙科学である。
現在は、精神科学や量子物理学が、ようやくその入り口に達した程度だが、いずれ明晰に分かるようになるだろう。

そして、どれだけ簡単に速く願いが叶うかは、祈る神仏が、どれほど大きな力を持っていると考えているかで決まる。
多くの人は、案外に神仏の力を見くびっているものだ。
イエスは「神に出来ないことはない」と何度も言い、『観無量寿経』では、阿弥陀仏や観世音菩薩が、想像を絶するという言葉では全然足りないほど凄い存在であることを壮大に語っている。
また、『観音経』(『法華経』25章)では、観世音菩薩の偉大さ、観世音菩薩が持つ力の大きさ凄さを、釈迦が大いに語ってくれている。
仏教の経典は、宇宙人が書いたと思われるほど(もちろん、人間のために、比喩的・象徴的に書かれているが)、思考の限界を叩き壊し、イメージが無限に広がるよう工夫されている。
それは、数ある経典の中でも、特に『法華経』や『浄土三部経』について言えるが、超能力というのは、世間的常識を壊せば(あるいは消せば)出てくるのだから、これらの経典を熱心に読めば超能力だって得られる。
中国の『荘子』は、『法華経』や『浄土三部経』ほどの破壊力(常識の破壊力)はないが、その分、分かり易い。とはいえ、『荘子』でも、なかなかついていける人は少ないのだが。

確かに、こういう俗っぽい言い方はどうかとも思うが、超能力を得たければ『法華経』(『観音経』だけでも良い)や『浄土三部経』(『観無量寿経』だけでも良い)を読むと良い根拠はこうである。
そして、超能力(極めて広い意味で願望達成能力も含む)を発するコマンドが真言である。
『観無量寿経』や『観音経』で言えば、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」がそうである(「阿弥陀仏」「観世音菩薩」でも良い)。
もちろん、経典を読まなくても、集合無意識の中にパワーが充満しているので、真言を唱えるだけで十分である。
ただ、若干、力の出方が弱いだけである。
そして、昔と違い、経典が簡単に手に入る時代なのだし、我々は支配者に思想統制や情報統制を強力にされているので(早い話が重い洗脳を受けているので)、万全を尽くした方が良いかもしれない。








聖典のすゝめ

真言を、より楽しく、快適に唱え、ひいては、早く願いを叶えるために、関連の聖典を1つ読んでおくと良いと思う。
聖典の多くは、本来、子供でも読めるほど易しいもので、それに、おとぎ話のようで面白いものだ。まあ、難しく翻訳したい先生がいるから、少し困るのであるが、聖なる書は、誰でも簡単に読めてしかるべきものである。

主に、念仏と、観世音菩薩について述べる。

念仏の場合、元々、法然の『選択本願念仏集』と、親鸞の弟子、唯円が親鸞の教えを書いた『歎異抄』があり、特に、『歎異抄』は短くて読み易いので、これ1冊でも十分である。
ただ、念仏の場合、『浄土三部経』と呼ばれる、『無量寿経(大無量寿経)』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つが、根本聖典になっている。
(龍樹の『十住毘婆沙論』を挙げる人もいるだろうが、これも、主に『観無量寿経』を元にしている)
この中で、私は、『観無量寿経』をお勧めする。
理由は、短くて、おとぎ話のようで面白いということもあるが、阿弥陀仏や観世音菩薩、それに、勢至菩薩について、釈迦が詳しく、素晴らしい説明をしてくれているので、念仏を唱える時に、良いイメージが持てるからである。
尚、念仏というのは、一般的には「南無阿弥陀仏」であるが、本来は、仏を念じることで、そのためには、名を呼ぶことが最も自然なのである。
だから、特に、「南無阿弥陀仏」でなくても、「阿弥陀」「阿弥陀仏」と唱えても良い。好きなら、サンスクリット語で「アミターバ」と唱えても良い。
また、阿弥陀如来真言である「オン、アミリタ、テイセイ(テイゼイ)、カラウン」も同じと考えて良いと思う。
私は、「阿弥陀仏」と唱えることが多い。そして、その際、『観無量寿経』に書かれた、釈迦が語る阿弥陀仏の印象が微かに心にあり、これが実に良いのである。
私も、『観無量寿経』を、それほど熱心に読み込んではいないが、それでも十分と思う。
また、『観無量寿経』を読むと、阿弥陀仏や観世音菩薩の名がどれほど貴く、その名を唱えることが、どれほど威力があることかも分かるのである。

次に、観世音菩薩の名を唱えることに関しては、『法華経』の25章『観音経』を読むことをお勧めする。
『法華経』全体は長いが、『観音経』だけなら短い。
『観音経』には、観世音菩薩が、どれほど凄い力を持っているかだけでなく、観世音菩薩が、想像も出来ないほど偉い仏(呼び名上は菩薩だが)であるかが釈迦によって語られており、やはり、観世音菩薩の名を唱える時に、わずかでも、その印象があると、やる気が違ってくる。
観世音菩薩の名の唱え方は、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」だが、好きなら、サンスクリット語で「アヴァローキテーシュヴァラ」と唱えても良いし、「観音様」でも良いと思う。
また、観世音菩薩の真言である「オン、アロリキャ、ソワカ」も良い。
ところで、般若心経の呪文、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(中国語)
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(サンスクリット語)
は、観世音菩薩を讃える意味が大きいので、これを唱える時も、観世音菩薩の印象があるのは、やはり良いと思う。
(中国語、サンスクリット語、いずれを唱えても良く、効果も同じである)

必ずと言うわけではないが、長いものではないので、おとぎ話でも楽しむように、『観無量寿経』や『観音経』を読むと、大きな利益があると思う。
願い事が叶い過ぎて恐くなるかもしれない(笑)。

尚、イエスの名を唱える場合は『新約聖書』の『福音書』を、クリシュナの名を唱えるなら『バガヴァッド・ギーター』を読むと良いだろう。
天照大神の名を唱えるなら、『古事記』の上巻だけでも読んでおくと良いと思う。
ちなみに、私は、『古事記』では、大国主神(おおくにぬしのかみ)と火遠理命(ほおりのみこと)のファンであることを明かしておく(笑)。












観音経の奇跡を起こす

『法華経』の25章である『観音経』を読むと、観世音菩薩の名を唱えると奇跡が起こるということが書かれている。
その奇跡が、あまりに荒唐無稽なので、信仰深い人でも、「あれは、あくまでたとえ話ですよ」と言ったり、私も大好きな漫画家の桑田二郎(桑田次郎)さんは神秘家であるはずが、「あれは霊界での話。現実にあんなことが起こるわけがない」と著書に書かれていた。
しかし、敢えて言えば、『観音経』に書かれている通りに受け取って良い。
例えば、『観音経』では、手かせ足かせをはめられ、刀で切りつけられようとも、観世音菩薩の名を唱えれば、手かせ足かせは壊れ、刀は折れて被害はないと書かれているが、そのようなことは、現実によく起こっている。
ジョセフ・マーフィーの本を見ても、ある刑事は、独特な祈りをすることで、至近距離で撃たれるなどのピンチを何度も無傷で切り抜けている話があるが、観世音菩薩を信仰する者にも、そのようなことは、やはりよく起こっているのである。
いろいろ理由があって、あまり一般的に知られていないが、『観音経』だけでなく、念仏の行者や、あるいは、密教の行者の中には、神通力とか法力とか呼ばれる、まあ、言ってみれば超能力なのだが、そんな力の持ち主は、かなりいたのである。
神通力の使い手として、特に有名で凄かったのが役小角(えんのおづぬ)という修験者であるが、かなりの神通力を使う修験者は他にもかなりいた。
役小角は、多くの真言を使っていたが、ほとんどの修験者が使う真言は、般若心経、あるいは、般若心経の呪文であった。

私の知り合いにも、神通力の使い手はいたし、地味なものであれば、私も子供の時から度々使っている。
突拍子もないような面白い奇跡話なら、私が大嫌いな保江邦夫氏の本でも読めば沢山出てくる。例えば、名刀で皇室の邪気払いをしていた剣の達人の神通力で、皇居を爆破に来たB29(第二次世界大戦の時のアメリカの戦闘機)を消し去ったとかである。アホらしいと思うかもしれないが、それをやった人のことを書いた本があるので、下に、一冊目に紹介しておく。

そこで、私は地味目な実例を挙げておくが、政木和三さんのものが良いかもしれない。
もちろん、私が直接見たものである。
私が、岡山の林原生物化学研究所にあった、政木さんの研究所に初めて行った時のことだ。
政木さんの研究所は、林原生物化学研究所の門の近くにあり、その門を出ると、近くにアークホテルがあって、政木さんと、そこに昼食に行った。
ホテル内のレストランに入り、席に着いたが、なぜか注文を取りに来ない。
そこで政木さんが説明する。
「私は初めから、注文をしたことは一度もありません。来たら、いつも良い席が空ていて、そこに座れば、お店の方で適当にみつくろって持って来てくれます」
実は、その時も、私を含め、来客は3人だったが、政木さんと4人、ゆったり出来る場所が空いていて、楽しく会話しながら食事をしたのだった。
政木さんに関わる奇跡話は他にも沢山あるが、何度か書いたと思うし、今回はこれだけにする。
とにかく、力が大きくなれば、ものごとは勝手にうまく回り、自分は何もしなくて良くなるのである。言い換えれば、やるべきこと、やりたいことだけをやれば良くなるのである。

江戸末期の神道家、黒住宗忠や、やはり江戸末期の浄土宗の僧、山崎弁栄、あるいは、明治・大正の啓蒙家、岡田虎二郎らは、特に強調されないが、キリスト級の奇跡は日常的に起こしていたらしい。さすがに、私は伝聞でしか知らないが、特に不思議とは思わない。
彼らの教えを簡単に言えば、黒住宗忠は、天照大神に全てまかせることで、山崎弁栄は、難しい話もしたらしいが、根本的には念仏の行者であり、法然の教えと基本的に同じで、一心に念仏を唱えることを勧めた。
岡田虎二郎は、岡田式静坐法を教えたが、静坐は1日中やるものであり、具体的には、常に腹に力を込めよと言った。
尚、岡田虎二郎は、何も静坐だけが方法とは言っておらず、念仏も良いと認めていたのである。

そして、観音経の教えは、ただ、観世音菩薩の名を唱えることであると言って良いと思う。
呼び方は、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」「観音様」「オン、アロリキャ、ソワカ」などが考えられるが、どれでも良いと思う。
これは、真言である。
この真言を、常に唱えるよう心がけることが大切である。
私は、真言は、心の中で丁寧に唱えれば良いと考えている。
観世音菩薩にしろ、阿弥陀如来や大日如来、普賢菩薩、勢至菩薩、不動明王等は、皆、大きな力があり、その名や、それらの仏の真言を唱えれば確実に恵が得られる(名自体が真言と言えると思う)。数多く唱えるほど良いのである。

真言を唱え続ければ、全ての問題が解決し、救われ、たゆまず続ければ、神通力のようなものも出てくるかもしれない。
また、望まずとも幸運に恵まれ、楽になっていくと思う。
そのようになれる方法は、真言以外にも沢山あるとは思うが、我々凡人に出来る・・・というか、続けられるのは、おそらく、真言だけであると思う。
この点は、釈迦も、念仏だけが残ると予言したという話があるが、その通りであると思う。








真言で願いが叶う愉快なカラクリ

例外はあるが、願った以上のものを得ることは、ほとんどない。
しかし、願えば、何かは得られるものである。人間の心の力を軽く見てはならない。
だが、願ったより少ししか得られないので、得た気にならないだけなのだ。

簡単に言えば、例えば、3憶円願って、うまくいって8千万円得られる。
だが、たった8百万円ということもあり、それだと、何も得た気にならない。
しかし、3憶円願ったから8百万円が手に入ったのである。もっと少ししか願わなければ、あるいは、何も願っていなければ、8百万円失ったかもしれない。
なら、最初から百億円ほど願っておけば良かったのだ。
二十歳のお嫁さんを願ったが、なんとか30歳直前のギリギリ20代のお嫁さんがもらえた・・・そんなものである(笑)。
なら、15歳の天使のようなお嫁さんを願っていれば、結果、「二十歳か…ちょい歳だが、まあ、負けとこ」ということになる(笑)。
ところで、実際に、「愛があれば、彼氏の年収は一千万円程度でいいワ」と言う、慎み深い(笑)二十歳の女性がいたが、出来た彼氏は自分では「年収400万円」と言ったが、実は200万円位だった。まあ、それでも、働いている彼氏が出来たのだから、そう嫌でもなかったようだが。
ところが、「やっぱり年収1憶円くらいは…」とマジ顔で言う、やはり二十歳くらいの女性は、数年後、ベンツの新車を乗り回していた。年収1憶円とは言わないまでも、かなり高収入の旦那を得たようである。

だが、決して、欲張れと言うのではない。
この世界での成功の秘訣は、やっぱり「欲張らない」ことなのだ。
上の、金持ちの男と結婚した若い女性は、欲望をギラギラとさせ、血走った目で「1憶円よ!旦那は絶対年収1憶円の男!」と思っていたわけではない。
「あんまり欲張らず、年収は1憶円くらいで良いから、優しくて面白い人がいいの」と、本気で思っていたのであり、本人は本当に、自分は慎み深い方だと思っているのだ。

このようなことを、私は政木和三さんに教わった。
政木さんは、「私はお金なんてちっとも欲しくないんです。でも毎年1憶円入って来るものは仕方がない」と思っていて、あれほどの人だから、本当に1憶円入ってきたのだが、彼は、本当は、4千億円入るはずだったと思っているのである。
また、これは政木さんに小声で教わった(近くに奥さんがいた)のだが、「私に身をまかせる女が百人いると思っているから」女性に不自由はしていない様子で、こちらは、本当に百人とはいかないだろうし、政木さんも、もう80歳くらいだったから、5、6人かな・・・知らんけど(笑)。
このように、「大きな目標でも慎み深く」求めなければならない。

だが、重要なことが1つある。
それは、「1憶円でいいわ」なんて精神状態になれる人は、器が大きな人で、普通はなかなかそうはいかないということだ。
そんな器を持てる最上にして、ほぼ唯一の方法が真言なのである。
他の方法だってあるかもしれないが、まず続かない。
しかし、真言なら、短く、リズムがある、尊い言葉を唱えるだけであるから、唱える数が多い少ないの違いはあっても、ほんの少しの希望と根気があれば続けられるのである。
その希望を見い出すためには、親鸞の『三帖和讃』の中の『浄土和讃』の中の、『現世利益和讃』15首を読むと良いかもしれない。
ここでの真言は、「南無阿弥陀仏」の念仏であるが、他の優れた真言でも同じと考えて良いと思う。
特に、念仏や、阿弥陀如来真言を唱える人は、そのまま受け取ると良いだろう。
他にも、『法華経』の第25章『観音経』には、観世音菩薩の名を真言として唱えれば、大きな利益があると記されている。
観世音菩薩の名とは、文字通り、名(観世音菩薩、あるいは、アヴァローキテーシュヴァラー)でも、その真言、「南無観世音菩薩」「オン、アロリキャ、ソワカ」「オーン、アーロリク、スヴァーハー」の、どれでも良いのである。
また、他の真言を唱える人も、十分な数を唱えるなら、やはり、心の器が広がり、常識人には大き過ぎるものも、慎み深くさらっと求めるようになれる。
そうすれば、かなりの願いが叶うのである。








信念を持てる方法

イエス・キリストの有名な言葉に、こんなものがある。
「山に向かって、歩いて海に入れと命じ、必ずそうなると信じて疑わないなら、そうなる」
だが、イエスは、「だから信じろ」と言ったわけではなく、可能性を示しただけだ。
そんなことを容易く信じられる者がいたら、その者が心配である(笑)。

ところが、アメリカの牧師ロバート・シュラーは、これについて、良いことを指摘している。
シュラーは、晩節を汚した感もないではないが、少なくとも、ある時期までは賢者であった。
シュラーは、こう言ったのだ。
「イエスは、どのくらい時間がかかるかは言っていない」
つまり、山に「海に入れ」と言い、そうなると信じたとしても、実現には時間がかかるかもしれないのだ。
確かに、億年単位の時間が経過すれば、地殻変動で、その山が海の中にあるかもしれない(笑)。
ところで、私が最近ハマっている『魔王学院の不適合者』に、こんなお話があった。
これと類似の話は沢山あり、やはり、大切なことを示していると思う。
レイという名の剣の達人の、子供の時の話だ。
母親に料理を教えてもらおうとしたレイが、不意に、包丁で鉄の鍋を切ると言い出した。
この母親の偉いところは(実際、偉大な女性であった)、レイに好きなようにやらせたことだ。
無論、何でも許すわけではないだろうが、直観的に止めてはいけないと思ったのだろう。
しかし、レイが、何度包丁で鍋を叩いても、切れるはずがない。
だが、レイは諦めずに続け、母親も黙って見ていた。
そうしたら、とうとう、レイは包丁で鍋を切ってしまったのだ。
これが、すぐに出来なくても、諦めなければ、いつかは出来るということであり、言い換えれば、「出来るまでやる」姿勢が最も大切なのだ。

さて、『ポケット 心の旅 法華経 入門 』という本に、法華経の25章『観音経』に書かれているように、真言が本当に奇跡を起こしたエピソードが沢山取り上げられている。
『観音経』では、観世音菩薩の名を呼ぶことで、あらゆる奇跡が起こることが書かれている。
呼び方は「南無観世音菩薩」(これも真言と考えて良い)でも良いし、また、この本では、「オン、アロリキャ、ソワカ」などの観世音菩薩の真言も紹介されている。
『観音経』の奇跡の話は、あくまでたとえ話で、本当のことではないと言う人は多いし、漫画家で宗教家の桑田二郎氏のように、「これは現実世界の話ではなく霊の世界の話なのだ」として解説する人もいる。
しかし、この本では、実例を挙げ、真実の話であるとしている。
だが、残念なことに、この本では「毛ほども疑ったら、観音様はそっぽを向く」と書いているのだ。
「毛ほども疑わない」なんて、洗脳でもされていない限り無理だろ(笑)。
だが、上の剣聖レイのように、出来るまでやろうとすることで、信念が高まるのである。
言い換えれば、信念とは無理に持つものではなく、出来るまでやる、効果が出るまでやるという心構えによって得られるのである。

いつも言うが、『観音経』に書かれている通り、真言を唱えれば無敵である。
しかし、そのためには、常に真言を唱える心構えが必要である。
あのレイのように、出来るまでやるかどうかが運命の分かれ目である。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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