ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

観無量寿経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

絶大なる力

凄い美人や、凄く強い格闘家、凄く美しく踊る舞踊家、凄い豪華絢爛な宮廷・・・などを見て、物凄く感激したとする。しかし、それがどんなものであったかを言葉で伝えようとしても、ほとんど何も伝わらない。
また、たとえ世界一の画家が絵で示そうとしても、浦島太郎の歌のように「絵にも描けない美しさ」ということになってしまう。
聖書やコーランでは、神を褒め称えるが、「凄いんだぞ」「偉いんだぞ」と言うだけで、細かいことは言わない。言葉で言うことは出来ないからだ。
だから、いかな聖書画家でも、神様の姿を絵にする者はさすがにいない。
一方、ギリシャ神話の画家では、ゼウスやアテナなアポロンなどの神の姿を描き、それらの絵が称賛されることもあるが、本物の神の美や優雅さや気高さはけた違い・・・どころではないはずだ。
同じことが、仏教画の、仏や菩薩の絵についても言える。

西洋では、そういったことが、善や理性や、それらの進歩に対する、大きな障りになっている。
つまり、ちょっと美人の大スターを見たら興奮して称賛し、また、巨悪と呼ばれる存在が現れたら恐れてしまう。
あなた方が信仰、崇拝する神の美しさは、それどころではないし、巨悪といったところで、たかが人間のはずが、信仰深い人でも、そんな人間の悪(例えば、ディープ・ステート)に圧倒されてしまうのだ。
だから、民衆のマインドはその程度と知っている支配者は、容易く民衆を操ることが出来るのである。

ところが、仏教の『浄土三部経』の1つ、『観無量寿経』を読んで驚くのは、何と、阿弥陀如来の強大さや、阿弥陀如来の国である極楽浄土の美を、表現出来ていることである。
そのために、特殊な方法を使っているが、著者は凄まじく頭が良いのだろう。
ただ、このお経は、もしかしたら、浄土宗や浄土真宗の人は、お葬式や法要で聞いたことがあるかもしれないが、お坊様が読むような中国語の真似では、全く意味が分からない。
そこで、現代語訳を読めば良いのだが、最初は、あまりに気宇壮大な記述に呆れてしまうことだろう。
大乗仏教の仏典全般に、そんな傾向があり、たとえば、法華経にも、そんなところ(気宇壮大に感じるところ)が多い。

アメリカのスーパーヒーロー『スーパーマン』のアニメは、かなり素晴らしいものが1943年に作られ、映画は、現在も新作が作られ続けている。
特にアニメのスーパーマンは、お話を面白くする都合上、スーパーマンがピンチになることもあるが、それでも、強過ぎると感じるだろう。
しかし、人々は、いくらスーパーマンが強くても、神様と比べたら、象とアリの差どころですらないという発想を持てない。神様を絵や文章で描くことが出来ないので、全く見たことも聞いたこともないからだ。
『バガヴァッド・ギーター』では、神クリシュナは、アルジュナ王子の願いに応じて、アルジュナに姿を見せたが、アルジュナはクリシュナの姿のほんの少しを認識しただけで、恐怖で震え上がってしまった。
ほんの一部を見ただけとはいえ、アルジュナにとっては、今後は、この世のいかなる凄いものも、ちっぽけに見えるはずである。
だが、ほとんど全ての人は、ほんのわずかでも神様の姿を見ることが出来ないので、そうはならない。
しかし、『観無量寿経』を熱心に読めば、もしかしたら、アルジュナ以上の衝撃を感じることが出来るかもしれない。
保証の限りではないが。

あるいは、「南無阿弥陀仏」という念仏や、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(原音は、オーン、アムリタ、テージェ、ハラ、フーン)」という阿弥陀如来真言を唱えれば、心の中に、阿弥陀如来(アミターバ)の姿や力が浮かぶのかもしれない。
『観無量寿経』を読めば、さらにそうなるかもしれない。
最近、私は、『魔王学院の不適合者』というアニメを見ているが、ヒーローのアノス・ヴォルディゴードの強さに惚れ惚れとしている。
従来のアニメヒーローとは一線を画す強さで、それを自然に・・・と言うのもおかしいが、美しく描くことに成功していると思う。
私は別に、浄土宗や浄土真宗の信者ではないが、このアノスの力すら、阿弥陀如来に比べれば小さなものだということが分かるのである。
それが、念仏や阿弥陀如来真言(どちらも真言で結局は同じだが)の力である。
よって、真言がますます定着すれば、この世に恐いものは1つもなくなる。
これは別に、阿弥陀如来真言に限らず、優れた真言であれば同じである。
アノスが味方になっても世界征服くらいは容易いが、それとは比較にならない力が味方である。
この世界は、そう思ったらそうなる仕組みになっている。
そして、結局、人間は、安心や安らぎが欲しいのである。
そうであるなら、真言を唱えることが勧められる。
ついでに、忍耐があれば、『観無量寿経』を読むことをお勧めする。
これ(観無量寿経)が、シミュレーテッド・リアリティを描いているとすれば、さらにまた興味深いが。








イメージ力を磨くことの超メリット

人間の思考には、大雑把に言って、「計算する」「比較する」「推測する」といった能力がある。
この中で、現実を変革するのは「推測する」ことだ。
言い換えると、どんな予測を持つかで人生が変わる。
世界は、明晰な予測通りに変わっていくのである。
強くイメージしたことが叶うというのは、未来を強くイメージするということが、予測に他ならないからだ。

今よりもさらに未来の重要なテクノロジーまで提示したと言われる天才技術者ニコラ・テスラ(1856-1943)のイメージ力は強力で、彼にはイメージが完全に見えていたという。
そして、自動運転車、火星移住、地下高速道路、脳内埋め込み型ネットワークチップ、その他、スーパーテクノロジーで未来を創る事業家イーロン・マスクは、高度な思考をする時は、脳のグラフィック領域を使うという謎の発言をしているが、これは、最も効率よくイメージ力を使うということかもしれない。
AIは、思考するマシンではなく、推測するマシンなのであるが、面白いことに、AIに高速で推測させるには、GPU(グラフィックス プロセッシング ユニット)という画像処理用のチップを使うのである。
人間の脳の中には、GPUのようにイメージ処理のために最適化された部分があり、そこで考えることで、未来が見えたり、もしかしたら、未来を作るのかもしれないと思う。

興味深いことに、浄土三部経という、浄土系仏教の3つの経典の中の『観無量寿経』では、釈迦がイメージ力の訓練の方法を淡々と説いているのである。
この経典の中では、それをやることで、極楽浄土に生まれることが出来るという書き方をしているが、実際の意味は、自分の世界を極楽浄土にするということだと考えて差し支えないと思う。
西洋の魔法でも、生命の木の図を詳細にイメージ出来るようにする訓練が重視されており、古代から、イメージの力の魔力はよく知られていた。

だから、あなたは、イメージ力を高める訓練をし、強くなったイメージ力で自分の未来を描けば、それは予言となり、その未来が引き寄せられるのである。
訓練には、例えば、優れた小説を読み、その情景を出来るだけ鮮明にイメージするということも考えられるだろう。
ニコラ・テスラは、想像の中で、異界の地を訪れて、その地の住民と親しく交わったが、その様子は現実と区別が付かないほどだったという。彼は、すすることで、実際に、異界の存在と交流していたのかもしれない。
貧困なイメージは人生を良いものに変えないが、訓練された想像力によるイメージは、人生を自由に支配するのである。













当ブログオーナー、KayのAI書。

現在、膨大と言って過言ではない数の、AIの機械学習・ディープラーニングの本が出版されています。
その中の、実際にAIを作るための技術書を片っ端から見てみましたが、どれもがあまりに難しいと思いました。
少々プログラミングが出来ても、Anacondaをインストールして自在に操作し、Pythonで自由にプログラミングするまでに、よほどの人でないと挫折するはずです。さらに、難しいAI理論を数学的に理解し応用するまでになるのは、良くて2パーセントといったところと思います。私の本では、Excelが少し使えるならOKで、数学もプログラミングも必要としません。機械学習の基本的なやり方が解るChapter.1までなら、多分、中学生でも出来ると思います。そして、ただ易しいだけでなく、実際に役に立つAIを作るための実践的な内容にし、後の章でも、面白いテーマを採用するよう心掛けました。

これで聖典はあなたの味方になる

『古事記』について、「古事記の真意はこうなのじゃ」といった本がよくある。
ところが、『古事記』を漫画で描いた石森章太郎(石ノ森章太郎)氏は、「古事記は漫画だ」と断じてしまった。
そうだ。石森さんが正しい。
まあ、漫画と言うよりは、古事記は3次元アニメ、ホログラフィック・アニメ・・・さらに正確に言えば、頭の中のVR(バーチャル・リアリティ=仮想世界)である、シミュレーテッド・リアリティを記述したものだ。
ギリシャ神話も、旧約聖書も、多くの仏典・・・特に『浄土三部経』の中でも『観無量寿経』がまさにそう(超コンピューターで作った仮想世界)だ。
『観無量寿経』に描かれた、西方極楽浄土の宝の池で、望めば水が満たされ、もういいと思えば水が引くというオートマチックな便利な池・・・あれが3次元アニメでなくて何だろう。
一休は、「西方極楽浄土は西にあるのではない。南にある」、つまり、南(みなみ)とは皆身であり、全ての人の中にあるということだが、その意味は、西方極楽浄土のように、この世界を自由自在に動かせるようになれば、それが極楽浄土であるということであり、人間にはそれが可能だ。
そんなことを、ビートルズは『Nowhereman(ひとりぼっちのあいつ)』の中で、「The world is at your command(世界は君の意のままなのさ)」と言ったのだ。

では、どうすれば世界は意のままになるかというと、これはイエスが、
「山に向かって、立ち上がって海に入れと言い、その通りになると信じて疑わないならそうなる」
と教えている。
あるいはイエスは、
「願いは既に叶ったと思え。そうすれば叶う」
とも言った。
要は「信念」の問題だが、人間は思う通りに信念を持てない。
だがイエスは、
「人は、入るもの(食べ物)で穢れたりはしない。出るもの(言葉)で値打ちが決まる」
と言った。
そして、『ヨハネ福音書』では、「言葉は神である」と宣言する。

そうだ。
全ては、あなたが使う言葉にかかっている。
そして、イエスが言う通り、言葉は心から出るものであり、核心を言えば、心の中の言葉が重要である。
だから、心の中で常に優れた言葉を使えば良いが、何にも規律を定めないと、普通の人間では、その言葉はどうしてもマイナスの言葉になり、あなたは駄目になる。
そこで、万能呪文、
「絶対、大丈夫だ」
「全て順調だ」
と唱えていれば、言葉が出てくる元の心が光に満ち、この仮想現実の世界は極楽浄土になる。
心を輝かせる言葉であれば何でも良いが、万能呪文が最も合理的で効果的である。
特定の願いを表現した言葉「私は金持ちだ」「可愛いあの子は僕のものだ」といったものは、欲望のために心がくすむので、「全て良くなる」と、「全て」と言うのが良い。
いかなる願いも「全て」に入るからだ。
そして「全て良くなる」ではなく「全て良し」と現在形で言うのが良い。
深い心である潜在意識の中に時間はなく、常に今だからだ。
呪文は、感情を込めず、淡々と、心で唱えるべきである。
感情を込めると、心の浅い部分のみが刺激され、深い心に届かないからだ。

これで、聖典はあなたの味方になるだろう。









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この仮想世界で何をするか

この世が、超高性能なコンピューターで作った仮想世界だということは間違いないだろう。
だが、それがどんな構造であるとか、それが何の目的で作られたかというと、私は、そんなことは知らない。
忘れてしまったのだから。
それについて、いろんなことを言う人や本に書く人が、物理学者や哲学者、宗教家などにいるようだが、それらしく思えても、全部、間違いだ。
ただ1つ、必要・・・かどうかは知らないが、知っておけば良いのは、この世が作り物だということだ。
そして、それは、注意深くありさえすれば分かるだろう。

この世界は作り物だから、何をしても良いのかというと、その通りではあるが、思う通りのことはなかなか出来ない。
不道徳なことをすれば、たちまち自由を奪われたり、痛い目に遭う・・・そんなアーキテクチャ(仕組みと構造)になっていることくらい分かると思う。
熱湯に触ればヤケドをするのと同じことだ。

で、皆が興味があるのは、では、この作り物の世界を、好きなように作り変えることが出来るかどうかだろう。
一定レベルであれば、万能呪文で叶うし、いわゆる幸福な人生には、それで十分だ。
それすら得られない者は多いのだから、まずは、万能呪文を唱えることだ。

さらに大きく世界を動かす、即ち、自在(Freely)を得るには?
まあ、意図的には何も出来ないが、とにかく、この世界が実体のない作り物であること、そして、作者が自分であることを覚えておくことだ。

これについて、良く出来たお経がある。
『浄土三部経』の中の『観無量寿経』だ。
あの超凄い極楽浄土、誰が作ったんだい・・・と思う。
あれも仮想世界なのだ。
何も考えずに読んでいたら分かる。
後のことはお好きにどうぞである。









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ほとんどの人は、頭の中の無意識のつぶやきに潰されている

人生で沢山の罪を犯したどころか、まともな思考力と記憶力のある人なら、この1年、この1月の中でさえ、自分が明白な罪を数多く犯していることが分かるはずだ。
あらゆることが因縁になるのなら、なるほど、今悪いことがいっぱいあるのも当然な訳だ。
え?俺は罪なんか犯してないって?
イエスは、女性を邪まな目で見ても罪だと言ったのだが、「え!?いい女って、邪まな目で見るのが基本じゃないっスか?」と思っている者は多いと思う(私のことは置いておく)。
人間は、1分間に頭の中で、300から1000回もつぶやくらしいが、それの大半は罪あるつぶやきかもしれない。
もしそうなら、悪因縁も、毎分毎秒で作っているのに違いない。

しかし、何かに強く集中している時には、頭の中で何もつぶやかず、よって、悪い因縁を作らない。
実際、集中力を強く、長く発揮した後で、いきなり不運に襲われることはなく、逆に、良いことが起こるものだ。
強く集中している時というのは、何か感心なことをしているのだから、むしろ、良い因縁を作っているのかもしれない。
クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長は、若い時、デジタル音楽の機材を長期ローンで買って、四畳半の部屋に詰め込み、その機材の上でご飯を食べていたというが、それなら、音楽活動の方は、さぞ集中していたことだろう。
だから、悪因縁を作らず、良い因縁を作って、後に初音ミクさんを生み出したのだろう。
なるほどだ。

江戸末期の神道家、黒住宗忠が、現代医学ですら不治と言われる病にかかった武士に、「ありがたい」という言葉を1日1万回言わせたら、一週間で完治したというが、宗忠は、「心を込めて」唱えることを指示した。
それなら、集中して、悪因縁を作らず、「ありがたい」という言葉で良い因縁が出来るのだから、そりゃ、どんな病気も治る。

人間は、放っておいても、頭の中で毎分300から1000回つぶやくということを覚えておくと良い。
それならば、自分の考えや心のつぶやきに気をつけるようになる。
そして、意識的に良い言葉を想うようになるし、なりたい。
「やるぞ」で十分である。
「大丈夫」は、超人的粘りを見せる人の心のつぶやきの代表的なものだ。
阿弥陀如来や観音菩薩に尊敬の念があるなら、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」は非常に良い。
尊敬の念を持ちたいなら、『観無量寿経』や『法華経』の25章(品)『観音経』を読むと良い。
私は最近『観音経』を何度も読んでいる。『法華経』全体は長いが、『観音経』は短い。

何より、人間、ぼーっとしていると、ロクなことを考えない。
だから、忙しく仕事をしたり、夢中で勉強したり、修行に打ち込むのは良いことだ。
それでも暇なら、心を込めて、頭の中で良い言葉をつぶやくことだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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