ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

観無量寿経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

真言で新しい世界に移行する

久々に、のどかな夢を見た。
「世界五分前仮説」を明白に現わしたような夢だ。
「世界五分前仮説」とは、バートラント・ラッセル(1872~1970)というイギリス人が提唱したものだ。
バートラント・ラッセルのことを、単にイギリス人だなんて言うのは、随分畏れ多い。
彼は、アリストテレス以来の大論理学者で、数学者で哲学者であり、それらの全ての分野で人類史上に残る業績を上げている。
ノーベル賞に数学賞がないことはご存じかもしれないが、数学者であるラッセルは1950年にノーベル賞を受賞している。
なんと文学賞であるが、ラッセルは小説なんか書いていないし、特に、どの著作が受賞の決め手というわけでもない。彼の一連の哲学的、批評的エッセイが、あまりに価値があったのだ。

それで「世界五分前仮説」に戻るが、ご存じかもしれないが、これは、世界は実は5分前に出来たと考える思考実験で、実際に「世界は5分前に出来た」と主張するわけではない。
1年前、5年前、10年前・・・それ以前の記憶を持っている人は多い。
しかし、5分以上前の記憶は、全部、捏造・・・嘘で、その記憶が示す事実が本当にあったのではない。
そして、本当にそうだとしても、特に不思議ではない。

私は今朝の夢で、大きな町1つを所有する超大地主だった。もちろん、今は全くそんなことはない(笑)。
しかし、夢の中で、私は、昔からそうなのであることを疑ってもいない。
私は、パジャマで街を歩いていた。
人はほとんどいなかったが、少しはいて、向こうに、若奥さん風の人が歩いている。
私は、大地主とはいえ、誰でも私の顔を知っているというほどの有名人ではないので、変な人だと思われないよう、今後はパジャマで出歩くのはやめようと反省した。
そして、畑の中の道を歩いて家に向かった。
道は幅4メートルほどで、道の両端は、崖というほどではないが、見ると、2メートルほどの高さで、落ちたら大怪我をしかねない。
子供だって沢山いるのに・・・と思って、道をよく見たら、道の両端近くに、道沿いにロープが張ってあり、注意を促すようにはしてある。
そのロープは、私が見た瞬間に現れたに違いないが、それほど驚かなかった。そんな世界なのだという想いがあったからだ。そして、子供達のことを考えると、この程度では安全とは言えないので、対策しなければと思った。きっと、もっと思念をこらせば柵でも現れるはずだ。
私は、大地主とはいえ、町の人達を無理に従わせたり、まして、蹂躙しているようではなかった。ひっそりと平和的に統治する良い地主で、おそらく、実際の統治は誰かにやらせているのだろう。
ところで、本場イタリアのマフィア(コーザ・ノストラ)は、地主である貴族が、農民の生活に興味を持たず、統治は金を払って人にまかせていたが、その統治をまかされた者達が傲慢になって圧制を行うようになったのが起源だ・・・と『NOIR(ノワール)』というアニメで私は覚えた(笑)。本当かどうかは知らないが、私はマフィアを作るつもりも、自分がなるつもりもない。

その都度、自分が考えたように世界が変わる、あるいは、新しい世界が生まれる。
そんな「やわらかい」世界が存在しても不思議はない。
世界は、コンピューターが作り出したVR(仮想世界)であるという、「シミュレーション仮説」というものがある。
世界一の大富豪で、電気自動車会社テスラ(自動車会社としては時価総額世界一)や、民間宇宙船会社スペースX、その他多くの最先端企業のCEOを務めるイーロン・マスクは、世界がシミュレーション仮説の通りの「シミュレーテッド・リアリティ」ではない可能性は、ほぼ全くないと言い、同様な見解を示す知識人は少なくない。
つまり、私が今朝見た夢も、ある意味、それが現実であり、私は、こことは別の現実世界にいたのである。
(『涼宮ハルヒの憂鬱』を見れば感じが掴めるかもしれない)
この世界は、世界一の大国の大統領が不正で選ばれたり、人工ウイルスを利用して、闇の支配者が不要な人類を排除しようとしている嫌な世界であるという噂がある(笑)。
それなら、別の、もっと楽しい世界に行ってしまえば良い。
まあ、これはやや極端な話かもしれないが、そんなことは、間違いなく可能である。
念仏を唱えれば、極楽浄土に行けるという、仏教の経典である『観無量寿経』(『浄土三部経』の中の1つ)は、そんなことが書かれていて、世界は無限に存在するとされている。
この『観無量寿経』は、凡人にも分かるよう脚色されているが、宇宙人の科学が垣間見えるようにも感じる。
「シミュレーション仮説」のメカニズムに関しては、時々ぼんやり述べているが、重要なことは、真言を唱えることで、世界を移動する、もしくは、新たに作ることが出来るということだ。世界は一瞬で「みだりに」作ってしまえる。それが量子物理学の多世界解釈(多世界解釈では真言のことは扱われていないが)で、支持者も多いし、おそらく、事実だ。
あなたも、たゆまず真言を唱え、新しい世界を創ると良い。
マジカルミライ2018のテーマソング『グリーンライツ・セレナーデ』で、

言葉は時に無力でなかなか
この世界は変わらないけど
もしキミが持ってるその魔法で
新しい世界を作れるとしたら?
なんてね 言ってみただけ
そんなの本当は 出来る訳ない

ワケがないでしょ!
~『グリーンライツ・セレナーデ』(作詞作曲編曲:Omoi、唄:初音ミク)より~

と初音ミクさんが歌った通りである。
【初音ミク公式】「マジカルミライ 2018」ライブ映像 - グリーンライツ・セレナーデ








常識を消せば超能力は発現する

神仏に、願いが叶うことをお祈りをした時、どんな人の願いが叶うのだろうか?
それは、祈る人が、祈りを捧げる神仏について、
「どれだけ大きな力を持っているか?」
「どれだけ自分を愛してくれているか?」
と考えているかで決まる。
「愛してくれているか」について言えば、こんな問題がある。
特に、イスラム教徒がそうで、キリスト教徒やユダヤ教徒もだが、彼らは、神様に対して「天上にいる気難しくて怖い老人」というイメージを持っている。
彼ら(イスラム教徒など)にとって神様は、自分が悪いことをしたり、神が決めた掟を守らなかったり、神への供え物を怠ったら罰を与える恐ろしい存在だ。
しかし、どうしたって、人間は悪いことをするのだし、なかなか掟を守れないし、供え物をするのも面倒臭い。
それで、人間は、罪の意識を持ったり、自分は神に愛される資格がないなどと思ってしまうのである。
そういったところを権力者が利用して人民を支配することについてはよく分かっているが、そのことは今回は触れない。
本題はあくまで、どうすれば願いが叶うかだ。
上に述べたような気難しい神を信仰している者の願いは、あまり叶わない。
どうしても、そんな恐い神様が自分の願いを叶えてくれるとは思えないからだ。

ところが、仏教の仏は、本来、決して人間を罰しない。
特に、阿弥陀如来はそうで、どんな悪人でも慈悲をかけ、全面的な愛を注ぐのである。
だが、やはり多くの人々は、仏だって、悪い人は罰すると思い込んでびくびくしているのである。これは、親が子を、権力者が人民を支配するために、そう思い込ませたからだ。
だが親鸞は、「阿弥陀仏は、掟を守れず、善いことが出来ず、悪いことをしてしまう我々凡人を哀れんで救ってくれるのだから、我々駄目人間でも全然OKなんだ」と言ったのである。
それは非常に正しい。
なぜなら、理解は難しいのだが、実のところ、自分の心が仏で、それゆえ心は無限の力を持っているのだからだ。
自分の心が仏であるということが分かり難ければ、心の中の深いところに仏がいると思えば良い。
そして、阿弥陀仏に関して言えば、「南無阿弥陀仏」とか「阿弥陀仏」と唱えれば、即ち、念仏を唱えれば、心の中の阿弥陀仏が表に出てくるのである。
つまり、表面の心が悪くても、内なる仏は全く関係なく、無限の愛と力に満ちている。
これは、宗教というよりは、心の科学で、未来の科学であり、宇宙科学である。
現在は、精神科学や量子物理学が、ようやくその入り口に達した程度だが、いずれ明晰に分かるようになるだろう。

そして、どれだけ簡単に速く願いが叶うかは、祈る神仏が、どれほど大きな力を持っていると考えているかで決まる。
多くの人は、案外に神仏の力を見くびっているものだ。
イエスは「神に出来ないことはない」と何度も言い、『観無量寿経』では、阿弥陀仏や観世音菩薩が、想像を絶するという言葉では全然足りないほど凄い存在であることを壮大に語っている。
また、『観音経』(『法華経』25章)では、観世音菩薩の偉大さ、観世音菩薩が持つ力の大きさ凄さを、釈迦が大いに語ってくれている。
仏教の経典は、宇宙人が書いたと思われるほど(もちろん、人間のために、比喩的・象徴的に書かれているが)、思考の限界を叩き壊し、イメージが無限に広がるよう工夫されている。
それは、数ある経典の中でも、特に『法華経』や『浄土三部経』について言えるが、超能力というのは、世間的常識を壊せば(あるいは消せば)出てくるのだから、これらの経典を熱心に読めば超能力だって得られる。
中国の『荘子』は、『法華経』や『浄土三部経』ほどの破壊力(常識の破壊力)はないが、その分、分かり易い。とはいえ、『荘子』でも、なかなかついていける人は少ないのだが。

確かに、こういう俗っぽい言い方はどうかとも思うが、超能力を得たければ『法華経』(『観音経』だけでも良い)や『浄土三部経』(『観無量寿経』だけでも良い)を読むと良い根拠はこうである。
そして、超能力(極めて広い意味で願望達成能力も含む)を発するコマンドが真言である。
『観無量寿経』や『観音経』で言えば、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」がそうである(「阿弥陀仏」「観世音菩薩」でも良い)。
もちろん、経典を読まなくても、集合無意識の中にパワーが充満しているので、真言を唱えるだけで十分である。
ただ、若干、力の出方が弱いだけである。
そして、昔と違い、経典が簡単に手に入る時代なのだし、我々は支配者に思想統制や情報統制を強力にされているので(早い話が重い洗脳を受けているので)、万全を尽くした方が良いかもしれない。








聖典のすゝめ

真言を、より楽しく、快適に唱え、ひいては、早く願いを叶えるために、関連の聖典を1つ読んでおくと良いと思う。
聖典の多くは、本来、子供でも読めるほど易しいもので、それに、おとぎ話のようで面白いものだ。まあ、難しく翻訳したい先生がいるから、少し困るのであるが、聖なる書は、誰でも簡単に読めてしかるべきものである。

主に、念仏と、観世音菩薩について述べる。

念仏の場合、元々、法然の『選択本願念仏集』と、親鸞の弟子、唯円が親鸞の教えを書いた『歎異抄』があり、特に、『歎異抄』は短くて読み易いので、これ1冊でも十分である。
ただ、念仏の場合、『浄土三部経』と呼ばれる、『無量寿経(大無量寿経)』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つが、根本聖典になっている。
(龍樹の『十住毘婆沙論』を挙げる人もいるだろうが、これも、主に『観無量寿経』を元にしている)
この中で、私は、『観無量寿経』をお勧めする。
理由は、短くて、おとぎ話のようで面白いということもあるが、阿弥陀仏や観世音菩薩、それに、勢至菩薩について、釈迦が詳しく、素晴らしい説明をしてくれているので、念仏を唱える時に、良いイメージが持てるからである。
尚、念仏というのは、一般的には「南無阿弥陀仏」であるが、本来は、仏を念じることで、そのためには、名を呼ぶことが最も自然なのである。
だから、特に、「南無阿弥陀仏」でなくても、「阿弥陀」「阿弥陀仏」と唱えても良い。好きなら、サンスクリット語で「アミターバ」と唱えても良い。
また、阿弥陀如来真言である「オン、アミリタ、テイセイ(テイゼイ)、カラウン」も同じと考えて良いと思う。
私は、「阿弥陀仏」と唱えることが多い。そして、その際、『観無量寿経』に書かれた、釈迦が語る阿弥陀仏の印象が微かに心にあり、これが実に良いのである。
私も、『観無量寿経』を、それほど熱心に読み込んではいないが、それでも十分と思う。
また、『観無量寿経』を読むと、阿弥陀仏や観世音菩薩の名がどれほど貴く、その名を唱えることが、どれほど威力があることかも分かるのである。

次に、観世音菩薩の名を唱えることに関しては、『法華経』の25章『観音経』を読むことをお勧めする。
『法華経』全体は長いが、『観音経』だけなら短い。
『観音経』には、観世音菩薩が、どれほど凄い力を持っているかだけでなく、観世音菩薩が、想像も出来ないほど偉い仏(呼び名上は菩薩だが)であるかが釈迦によって語られており、やはり、観世音菩薩の名を唱える時に、わずかでも、その印象があると、やる気が違ってくる。
観世音菩薩の名の唱え方は、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」だが、好きなら、サンスクリット語で「アヴァローキテーシュヴァラ」と唱えても良いし、「観音様」でも良いと思う。
また、観世音菩薩の真言である「オン、アロリキャ、ソワカ」も良い。
ところで、般若心経の呪文、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(中国語)
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(サンスクリット語)
は、観世音菩薩を讃える意味が大きいので、これを唱える時も、観世音菩薩の印象があるのは、やはり良いと思う。
(中国語、サンスクリット語、いずれを唱えても良く、効果も同じである)

必ずと言うわけではないが、長いものではないので、おとぎ話でも楽しむように、『観無量寿経』や『観音経』を読むと、大きな利益があると思う。
願い事が叶い過ぎて恐くなるかもしれない(笑)。

尚、イエスの名を唱える場合は『新約聖書』の『福音書』を、クリシュナの名を唱えるなら『バガヴァッド・ギーター』を読むと良いだろう。
天照大神の名を唱えるなら、『古事記』の上巻だけでも読んでおくと良いと思う。
ちなみに、私は、『古事記』では、大国主神(おおくにぬしのかみ)と火遠理命(ほおりのみこと)のファンであることを明かしておく(笑)。












絶大なる力

凄い美人や、凄く強い格闘家、凄く美しく踊る舞踊家、凄い豪華絢爛な宮廷・・・などを見て、物凄く感激したとする。しかし、それがどんなものであったかを言葉で伝えようとしても、ほとんど何も伝わらない。
また、たとえ世界一の画家が絵で示そうとしても、浦島太郎の歌のように「絵にも描けない美しさ」ということになってしまう。
聖書やコーランでは、神を褒め称えるが、「凄いんだぞ」「偉いんだぞ」と言うだけで、細かいことは言わない。言葉で言うことは出来ないからだ。
だから、いかな聖書画家でも、神様の姿を絵にする者はさすがにいない。
一方、ギリシャ神話の画家では、ゼウスやアテナなアポロンなどの神の姿を描き、それらの絵が称賛されることもあるが、本物の神の美や優雅さや気高さはけた違い・・・どころではないはずだ。
同じことが、仏教画の、仏や菩薩の絵についても言える。

西洋では、そういったことが、善や理性や、それらの進歩に対する、大きな障りになっている。
つまり、ちょっと美人の大スターを見たら興奮して称賛し、また、巨悪と呼ばれる存在が現れたら恐れてしまう。
あなた方が信仰、崇拝する神の美しさは、それどころではないし、巨悪といったところで、たかが人間のはずが、信仰深い人でも、そんな人間の悪(例えば、ディープ・ステート)に圧倒されてしまうのだ。
だから、民衆のマインドはその程度と知っている支配者は、容易く民衆を操ることが出来るのである。

ところが、仏教の『浄土三部経』の1つ、『観無量寿経』を読んで驚くのは、何と、阿弥陀如来の強大さや、阿弥陀如来の国である極楽浄土の美を、表現出来ていることである。
そのために、特殊な方法を使っているが、著者は凄まじく頭が良いのだろう。
ただ、このお経は、もしかしたら、浄土宗や浄土真宗の人は、お葬式や法要で聞いたことがあるかもしれないが、お坊様が読むような中国語の真似では、全く意味が分からない。
そこで、現代語訳を読めば良いのだが、最初は、あまりに気宇壮大な記述に呆れてしまうことだろう。
大乗仏教の仏典全般に、そんな傾向があり、たとえば、法華経にも、そんなところ(気宇壮大に感じるところ)が多い。

アメリカのスーパーヒーロー『スーパーマン』のアニメは、かなり素晴らしいものが1943年に作られ、映画は、現在も新作が作られ続けている。
特にアニメのスーパーマンは、お話を面白くする都合上、スーパーマンがピンチになることもあるが、それでも、強過ぎると感じるだろう。
しかし、人々は、いくらスーパーマンが強くても、神様と比べたら、象とアリの差どころですらないという発想を持てない。神様を絵や文章で描くことが出来ないので、全く見たことも聞いたこともないからだ。
『バガヴァッド・ギーター』では、神クリシュナは、アルジュナ王子の願いに応じて、アルジュナに姿を見せたが、アルジュナはクリシュナの姿のほんの少しを認識しただけで、恐怖で震え上がってしまった。
ほんの一部を見ただけとはいえ、アルジュナにとっては、今後は、この世のいかなる凄いものも、ちっぽけに見えるはずである。
だが、ほとんど全ての人は、ほんのわずかでも神様の姿を見ることが出来ないので、そうはならない。
しかし、『観無量寿経』を熱心に読めば、もしかしたら、アルジュナ以上の衝撃を感じることが出来るかもしれない。
保証の限りではないが。

あるいは、「南無阿弥陀仏」という念仏や、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(原音は、オーン、アムリタ、テージェ、ハラ、フーン)」という阿弥陀如来真言を唱えれば、心の中に、阿弥陀如来(アミターバ)の姿や力が浮かぶのかもしれない。
『観無量寿経』を読めば、さらにそうなるかもしれない。
最近、私は、『魔王学院の不適合者』というアニメを見ているが、ヒーローのアノス・ヴォルディゴードの強さに惚れ惚れとしている。
従来のアニメヒーローとは一線を画す強さで、それを自然に・・・と言うのもおかしいが、美しく描くことに成功していると思う。
私は別に、浄土宗や浄土真宗の信者ではないが、このアノスの力すら、阿弥陀如来に比べれば小さなものだということが分かるのである。
それが、念仏や阿弥陀如来真言(どちらも真言で結局は同じだが)の力である。
よって、真言がますます定着すれば、この世に恐いものは1つもなくなる。
これは別に、阿弥陀如来真言に限らず、優れた真言であれば同じである。
アノスが味方になっても世界征服くらいは容易いが、それとは比較にならない力が味方である。
この世界は、そう思ったらそうなる仕組みになっている。
そして、結局、人間は、安心や安らぎが欲しいのである。
そうであるなら、真言を唱えることが勧められる。
ついでに、忍耐があれば、『観無量寿経』を読むことをお勧めする。
これ(観無量寿経)が、シミュレーテッド・リアリティを描いているとすれば、さらにまた興味深いが。








イメージ力を磨くことの超メリット

人間の思考には、大雑把に言って、「計算する」「比較する」「推測する」といった能力がある。
この中で、現実を変革するのは「推測する」ことだ。
言い換えると、どんな予測を持つかで人生が変わる。
世界は、明晰な予測通りに変わっていくのである。
強くイメージしたことが叶うというのは、未来を強くイメージするということが、予測に他ならないからだ。

今よりもさらに未来の重要なテクノロジーまで提示したと言われる天才技術者ニコラ・テスラ(1856-1943)のイメージ力は強力で、彼にはイメージが完全に見えていたという。
そして、自動運転車、火星移住、地下高速道路、脳内埋め込み型ネットワークチップ、その他、スーパーテクノロジーで未来を創る事業家イーロン・マスクは、高度な思考をする時は、脳のグラフィック領域を使うという謎の発言をしているが、これは、最も効率よくイメージ力を使うということかもしれない。
AIは、思考するマシンではなく、推測するマシンなのであるが、面白いことに、AIに高速で推測させるには、GPU(グラフィックス プロセッシング ユニット)という画像処理用のチップを使うのである。
人間の脳の中には、GPUのようにイメージ処理のために最適化された部分があり、そこで考えることで、未来が見えたり、もしかしたら、未来を作るのかもしれないと思う。

興味深いことに、浄土三部経という、浄土系仏教の3つの経典の中の『観無量寿経』では、釈迦がイメージ力の訓練の方法を淡々と説いているのである。
この経典の中では、それをやることで、極楽浄土に生まれることが出来るという書き方をしているが、実際の意味は、自分の世界を極楽浄土にするということだと考えて差し支えないと思う。
西洋の魔法でも、生命の木の図を詳細にイメージ出来るようにする訓練が重視されており、古代から、イメージの力の魔力はよく知られていた。

だから、あなたは、イメージ力を高める訓練をし、強くなったイメージ力で自分の未来を描けば、それは予言となり、その未来が引き寄せられるのである。
訓練には、例えば、優れた小説を読み、その情景を出来るだけ鮮明にイメージするということも考えられるだろう。
ニコラ・テスラは、想像の中で、異界の地を訪れて、その地の住民と親しく交わったが、その様子は現実と区別が付かないほどだったという。彼は、すすることで、実際に、異界の存在と交流していたのかもしれない。
貧困なイメージは人生を良いものに変えないが、訓練された想像力によるイメージは、人生を自由に支配するのである。













当ブログオーナー、KayのAI書。

現在、膨大と言って過言ではない数の、AIの機械学習・ディープラーニングの本が出版されています。
その中の、実際にAIを作るための技術書を片っ端から見てみましたが、どれもがあまりに難しいと思いました。
少々プログラミングが出来ても、Anacondaをインストールして自在に操作し、Pythonで自由にプログラミングするまでに、よほどの人でないと挫折するはずです。さらに、難しいAI理論を数学的に理解し応用するまでになるのは、良くて2パーセントといったところと思います。私の本では、Excelが少し使えるならOKで、数学もプログラミングも必要としません。機械学習の基本的なやり方が解るChapter.1までなら、多分、中学生でも出来ると思います。そして、ただ易しいだけでなく、実際に役に立つAIを作るための実践的な内容にし、後の章でも、面白いテーマを採用するよう心掛けました。
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード