ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

観世音菩薩

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

意思を使えば状況はたちまち変わる

なかなか願いが叶わず、明るい兆しも見えずに、あせりや苛立ちが募ることもある。
努力しているのに報われず、がんばっているのに成果が出ず、不遇な状況や不本意な立場に甘んじている人も多いだろう。
だが、生きている限り、失敗はしていない。
諦めない限りは。
20代も前半で大成功する人もあれば、そんな人を羨みながら、ひょっとしたら、かなりの年齢まで・・・それこそ、50歳とか60歳まで、あるいは、それ以上辛い人生が続くかもしれないが、そこから逆転することだってあるし、その方が人生の満足度は高くなる。
希望を捨てず、自分を信じることだ。
そして、自分とは信じるに値するものだ。
観世音菩薩として象徴される清らかな精神は、間違いなくあなたを信じている。
これは、人間の知性で捉えることが出来ないので、こんなふうに宗教的に言うしかなくなるが、そのような高貴な精神が自分の中にあることが分かれば、即座に状況は変わる。
だが、神や仏にすがるだけでは駄目である。
人間は、自分の意志を使うことで、人生を支配するように出来ているのだと思う。
今の辛い状況、惨めな環境は、ごく若い間なら宿命なのかもしれないが、ある程度の年齢になれば、全て自分の責任だ。
自分の意志を使わなかった責任である。
自分の意志を使えば、ビル・ゲイツにはなかかなれなくても、まず人に負けることはない。
見も知らぬ人や、自分より弱い人に親切にするって良いことでね。
なぜなら、それは自分の意志を使わないと出来ないことだからだ。
つまり、下心なく親切にするってうのは、自分の意志を使うってことで、それが自然に、成功のための訓練にもなる。
嫌な相手に頭を下げ、自分が優れていてもあえて謙虚になり、放埓(勝手気まま)に振舞いたい気持ちを抑え、あえて自分に制約をかけるのは、意思の力だ。
自分の意志を自由自在に使えるようになれば、もはや何でも出来る。
『法華経』の第25章の『観音経』は、おそらく、そんなことを比喩的に描いているのだが、真意が分かれば、もう書いてあるそのままなのである。
流されるままなのが、自分の意志を使わない普通の人だ。
だが、あえて、少し斜めに泳いだり、時には、流れに逆らって泳ぐのは、自分の意志があってこそである。
毎日、スクワットを100回すると決めたら、少々疲れていても、気分が落ち込んでいてもやるのが自分の意志で、それが続かないのは、自分の意志がないからだ。
「断固やる」というのが自分の意志である。
そして、面白いことに、「断固やる」と思うのも自分の意志である。意思を使えない者は、そんなこと思わないものだからね。
「断固やる」を覚えていれば、状況はたちまち変わるはずである。
さて、私は「断固やる」と決めた。









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一番醜い人とは

『法華経の新しい解釈』という本には、法華経の第25章(法華経では25品と言うが)の『観音経』について、こんなことが書かれている。
「この品ほど誤って受け取られているものはない」
「観世音菩薩の名を唱えれば、たちどころに現実の難儀から救われるのだというふうに、非常に浅く解釈され、安易な拝み信仰の対象にされてしまっている」
そして、観音経の本当は意味はこうだと、解説しているのだが、それは立派な解説であると思うと同時に、とにかく抽象的で難しい。

それで言えば、斎藤一人さんの「ツイてる」と言えばツキが来るから、「ツイてる、ツイてる」と言えというのも、安易な拝み信仰である。
しかし、安易な拝み信仰で良いと思う。
ただ、『法華経の新しい解釈』の言うことも分かる。
著者の庭野日敬氏も、「のほほんとした安易な拝み信仰者」に愛想をつかしたのだろうと思う。

「念仏、毎日唱えてまーす!」
「腕振り運動、千回しましたー!」
で、後は何にもせず、する気もなく、のほほんとしたがる者は確かにいるだろう。
そんな人が言うのだ。
「念仏さえすればいいんですね?」
いいけど、のほほんとしてはならない。

ゲーテの『ファウスト』で、神様も言ったではないか?
人間はすぐに怠けたがる。
そんな人間には、悪魔を遣わして刺激を与えると。
そんな刺激、いらないよね?
どんな刺激かというと、仮想通貨で大金をスるとか、難病になるとか・・・そんな感じと思う。

『バガヴァッド・ギーター』では、「戦争いやだ。戦いたくない」というアルジュナを、神クリシュナが「義務を果たせ」とたしなめる。
斎藤一人さんだって、「学生は一生懸命勉強し、戦争になったら一生懸命戦うのが良い」と書かれていたくらいだ。
あるいは、学校の勉強に背を向け、もっと偉大な努力をしたり、単に「戦争反対」なんて言うだけの楽な反戦運動をするのではなく、戦争を止めたいなら止めたいで、自分に出来る最善を尽くすことだ。
それによって、自分がいかに卑小な存在であるかも自覚出来る。

「南無観世音菩薩」と唱え、想えば、全てうまくいく。
だからといって、のほほんとしてはならない。
観世音菩薩に助けてもらったら、観世音菩薩の心に応える生き方をすることだ。
自分の本心が観世音菩薩なのであるからね。
ところで、私は、のほほんとした人間ほど醜いものはないと、子供の時から思っている。
醜くはなりたくないものだ。









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逃げ道を行く

自分の部下や子供や後輩といった、自分より立場が低く弱い者が、悪いこと、間違い、失敗をした時、愚かな人間は、初めから終わりまで、怒り続け、責め続ける。
だが、賢い人は、逃げ道を作ってやることを忘れない。
「そりゃ、お前だけが悪い訳ではないけどな」
「これはひどい失敗だが、あの件ではよくやったのにね」
「運も悪かったのは確かだが」
ただし、逃げ道は1つ、多くても2つにしておくことだ。
でないと、相手は甘えてしまう。

そもそも、怒る・・・相手を非難するようなことは、あまり言わない方が良い。
相手の方が優れていたら、相手は、あなたの言うことなど、端から聞かない。
相手の方が劣っていたら、相手は、あなたの言うことが理解出来ない。
相手とあなたが同等であるなら、相手はあなたに反発するだけだ。
よって、怒らず、非難せず、相手が間違っていることだけをはっきりさせれば良い。
もし、それが出来ないなら、実は、相手は間違っていなかったのだ。

『観無量寿経』という、浄土仏教の経典を見れば、人間には9種類あるらしい。
並べて書くと、

上品上生、上品中生、上品下生
中品上生、中品中生、中品下生
下品上生、下品中生、下品下生

であり、(言うまでもないだろうが)上ほど上位グループであり、グループ内では左ほど優れている。
私は、迷うことなく、一番下で一番右の「下品下生」である。
なぜなら、その条件は以下の十個だからだ。
(1)殺し
(2)盗み
(3)邪淫
(4)嘘つき
(5)二枚舌
(6)悪口
(7)きれい言
(8)貪欲
(9)怒り
(10)愚痴
まさに全て私の代名詞である。
吾こそは「ミスター邪淫」「ミスター二枚舌」である。なんたってサイコパスだ。
殺しはどうかって?
人間はまだだが、その他のものは数限りなく。人間も、心の中ではいっぱい殺したし、そのうち・・・いや、何でもない。

初音ミクさんの『ゴーストルール』では、そんな人が自分のことを歌っている。見事なまでにね。是非、聴くように。
DECO*27 - Ghost Rule feat. Hatsune Miku / ゴーストルール feat. 初音ミク ~YouTube 公式~

で、この経典によれば、下品下生でも、「心を込めて十回念仏すれば救われる」とある。
しかし、それは無理だ。
「心を込めて」なんてのは、私には出来ない。
邪淫な心、貪欲な心しかないのだから。
しかし、最後の最後で、釈迦は言うのだ。
「無量寿仏の名を覚えていなさい」
それでオールオーケーなのである。
無量寿仏とは阿弥陀仏のことであり、「南無阿弥陀仏」と称えていれば、いつも忘れない訳である。
法然も、大体そう言ったと思う。

ところで、この経典では、観世音菩薩から恵みを得る方法も書かれている。
しかし、どう見ても、それは私には(いや、誰にも)絶対に出来ない。
ところが、こう書いてある。
「観世音菩薩の名を聞くだけで、計り知れない功徳(恵み)がある」
それなら、自分で言えば聞けるのであり、思うだけで心で聞けるのだから、私は、その「聞くだけで」の功徳で十分である。
それでも「計り知れない」のだ。
だから、「南無観世音菩薩」と称えれば良い。
それできっと、裕福になり、きれいな女の子もいっぱい来て身を任せるはずだ・・・すでにそうだと思うが。
仏典は、逃げ道だらけで慈悲深いものである。

覚えていてね わたしの声を
あなたがくれた この身すべてを
言の葉と初の音が交わる
この息と音とヒビカセ
~『ヒビカセ』(作詞:れをる、作曲・編曲:ギガP。歌:初音ミク)より~
【初音ミク】 ヒビカセ 【オリジナル】 ~YouTube 公式~

ミクさんの歌は現代の至高の経典、聖典である。
上記2曲は、『マジカルミライ2016』の、2曲目、3曲目で歌われている。ミクさんの歌、ダンスは絶品であったと思う。









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「南無阿弥陀仏」と「南無観世音菩薩」の違い

朝、起きたらすぐ(仕事の都合で夜起きる人もいるだろうが)、遅くとも30分以内に一度はガッツポーズをすることだ。
両手を高く上げ、胸を張り、顔を上げて微笑み、拳を握りしめて、心の中で、「やった!」とか「いいぞ!」とか「イエイ!」と叫ぶのである。
ガッツポーズで、下を向いたり、身体を縮こまらせる人がいるが、それは良くない。
サッカー選手やサッカーの監督でも、超一流を続ける人は、両手を高く上げ胸を張ってガッツポーズをするのである。
それで1日、ずっとうまくいく。
そして、なるべく多く真言を称えれば、存在感は増し、良いものを引き寄せる強力な磁石になり、宇宙が味方する。
真言は何でも良いが、「南無阿弥陀仏」と「南無観世音菩薩」の2つについてお話する。

称名念仏と言えば、浄土仏教のもののように思うかもしれないが、法華経だって、それを重要視している。
そもそも、我々に出来るのは、それ(念仏)くらいなのだし、それが出来れば十分である。
仏教そのものが科学であるが、念仏も十分な科学的裏づけがある。

ところで、「南無阿弥陀仏」と「南無観世音菩薩」はどう違うのだろうか?
前者は、阿弥陀如来に呼びかけ、後者は観世音菩薩に呼びかける。
阿弥陀如来は、宇宙そのもの、大自然そのもの、生命そのものである。
一方、観世音菩薩は、物質と心における、「力」を司る。
それは、簡単に言えば、こうである。
「南無観世音菩薩」と称えれば、宇宙の魂が自分の魂の中に流れ込んでくる。
「南無阿弥陀仏」と称えれば、自分の魂が宇宙の魂の中に流れ込んで広がる。
つまりこうだ。
「南無観世音菩薩」と称えれば、心と身体が宇宙の力に満ち、力が(自律的に)働いてくれるので無敵である。
「南無阿弥陀仏」と称えれば、自分が宇宙になる。

だが、同じと言っても良く、好きな方を称えれば良い。
あえて言えばだが、「南無阿弥陀仏」は時間をかけて大きな願いを叶えるが、「南無観世音菩薩」は目の前の問題を即座に解決する。
とはいえ、馴染んでくれば、そのどちらも、同じくらい出来るようになる。
いずれかを称えても良いし、両方称えたって構わない。

一応、私は、研究、実験、体験の結果、このように考えている。









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素直に簡単に現世利益を得る

阿弥陀如来と観世音菩薩の関係は、キリスト教の父なる神とイエス・キリストの関係かなあと思った。
イエスは、「父なる神に願い事があれば、それは既に叶ったと思え。そうすれば叶えられる」と言った。
しかし、イエスだって神の力を持ち、病気を治したり、仕事を成功させたり(さっぱりの漁を大漁にした)、モノを与えたり(数個のパンと数匹の魚を数千人分に増やした)し、悪魔を追い払ったり、天気を良くしたり、他にも何でも出来るのだから、イエスに頼んだ方が、手っ取り早く確実である。

親鸞は、阿弥陀如来は無限の現世利益をくれると言っているが、親鸞や、その師の法然、あるいは、経典を見ると、阿弥陀如来自身がやって来て何かしてくれるというよりは、阿弥陀如来は、他の如来(仏)、あるいは、菩薩を派遣したり、あるいは、阿弥陀如来の威光により、神々が代わって面倒を見てくれるようである。
一方、観世音菩薩(観音様)は、本当は偉い如来なのだが、人々を救うために現世に下りてきて菩薩をやっているのであり、全く、イエスのようである。

復活後のイエスはいまもこの世にあるのかもしれないが、観世音菩薩も、変わらず、現世におられるのだろう。
イエスも慈悲深いが、観世音菩薩の慈悲深さは桁外れである。
そもそも、観世音菩薩と関係が深い阿弥陀如来が、いかなる悪人も差別せずに助けるのだから、そのポリシーは観音様も同じであり、「俺なんか助けてくれないのじゃないかな」なんて心配することはない。

『観無量寿経』を見ると、観世音菩薩や勢至菩薩は、阿弥陀如来とほとんど変わらないくらい立派であり、パワーも凄まじいが、阿弥陀如来の名を呼ぶ者の所に自ら出かけて行って世話を焼いてくれるらしい。
それで、我々は、根本的には阿弥陀如来を拝み、個々の願い事については、観世音菩薩に頼むのが確実である。
観世音菩薩の面倒見の良さについては、『法華経』の25章である『観音経』に詳しいが、とにかく大変なものである。

もちろん、阿弥陀如来や観世音菩薩というのは、高次の世界のことを人間に分かり易いように象徴的に表したものであろうが、せっかく解り易くしてくれているのだから、そのまま素直に受け取れば良いのである。
そこで、普段、たゆみなく「南無阿弥陀仏」と称え、現世的な願い事については、観音様に頼めば良い。
その方法は、やはり、「南無観世音菩薩」と称えたり、単に、「観音様」と言ったり、あるいは、観音様の真言である「オン、アロリキャ、ソワカ」を称えれば良い。
こう言うと宗教的で抵抗を感じる人もいるだろうが、要は、人間より高い存在に意識を向け、余計なことを考えずに安心すれば良いのである。
また、「欲深であってはならん。清らかな心でないと救われん」なんて言う人は多いだろうが、少なくとも私は欲深で清らかでないことは仕方がなく、一生治るとは思えないし、そんな者を救ってくれるのが阿弥陀如来や観世音菩薩なのであるから、むしろ、聖人ぶらない方が良いと思う。

尚、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」で良いのであるが、実際の経典には、ただ、名を呼べと書いているのであるから、「阿弥陀如来」「阿弥陀様」とか、そのインドの原語である「アミターバ」と呼んでも良いだろうし、観世音菩薩も、「観世音菩薩」「観音様」「アヴァローキテーシュヴァラー」と呼ぶのも良いだろう。
また、『観音経』では、「観世音菩薩の力を想えば良い」ともあるので、その方が好みであれば、そうすると良いだろう。

宗教は権威的でややこしいが、上のように単純にやれば全てうまくいくだろう。
尚、仏様も菩薩様も、ポーズを決めておられるが、我々も、パワーポーズ(ガッツポーズ)を忘れてはならない。









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