いかなる偉大な聖典であろうと、決定された運命というものを前提にしなければ、正しく理解することは全く不可能である。
逆に、全ては運命であることを受容すれば、初めてその英知に触れることが可能となるのである。
それは、聖典を基に正しい教えを説く聖者の教えも当然同じである。
今回は、浄土真宗の開祖、親鸞について見てみよう。
親鸞の師、法然は、ひたすら念仏を唱えることのみ教え、自分もまた、念仏以外は何もしなかったと明言した。彼の遺書と言える「一枚起請文」がまさに、「私には念仏以外何もない」と言うものなのである。念のために言うと、念仏とは、「南無阿弥陀仏」と唱えることであり、その意味は、「私は阿弥陀如来(阿弥陀仏)に帰依します(全てお任せします)」というものである。
法然は1日6万回も念仏を唱えたと言われ(晩年は7万回だったとも言われる)、対談中も、小さな声ではあったが、念仏を欠かさなかったという。
念仏を唱えることで、死後は極楽浄土(仏の国で、天国のようなもの)に行けるし、生きている間も、念仏を唱える者は仏に守られると教えた。
もちろん、法然の教えには、当時の無知な庶民に配慮したところがあるのだが、その実際の効果は言葉通りの意味をむしろ上回るのである。
尚、現代的に言うなら、阿弥陀如来というのは、もちろん、大仏のような姿をした形のある仏様ではなく、それは仮の姿であり、それは、阿弥陀如来の別名である無量寿光如来の名の通り、宇宙に偏在する光(英知)であり、根源的な宇宙エネルギーと言って良いだろう。
その仏に全て任せ、自我である私は全面降伏するというのが念仏であり、これは、黒住宗忠が、天照大神に全てお任せすると言うことや、クリシュナが「我のみ拝せよ」と言ったことと全く同じ意味である。イエスの場合は、「父なる神を愛せよ」であった。
ところが、法然の弟子である親鸞は、念仏を唱える貴さを教えはしたものの、もっと進んだことを言っているのである。
「念仏をしたら救われるのではない。念仏をした時は既に救われているのである」
つまり、念仏をすることが原因で、その結果が救われることであるという従来の公式が壊されているのである。
むしろ、救われることが原因で、念仏をするということが結果なのである。
少しも難しいことではない。
仮に仏と名付けた存在は、ある人の運命を救われる(幸福になる)運命と定めるとすれば、それと共に、念仏を唱えるという運命を授けるのである。
仏は、水が高いところから低いところへと流れるように、念仏を唱える者は救われると定めているのである。
だから、念仏を唱えたということは、救いは確定しているということなのだ。
そして、実際には念仏を唱える必要すらなく、念仏を唱えようと思うだけでも救われるようにされているのである。
もう少し現代的に言うなら、こういうことだ。
念仏とは、仏様に頼るという意志表示であることは誰にでも分かるはずだ。
自分の無力を受容し、より大きな力に任せるという態度が「南無阿弥陀仏」である。
自分にはものごとをコントロールする力があるという誤った認識を解くことが絶対的に必要なのだ。
そして、仮に阿弥陀如来という名と、ある特徴ある仏の姿に対してであっても、それに頼むことで自分の無力を少しでも認めることが、仏への道を歩み出したということなのである。
だが、法然の念仏も、つまるところは同じなのである。
どちらが優れているとも言えず、いずれの方式でいくかは、気質によるのではないかと思う。
ただ、2人とも、念仏の利益は、死後に極楽浄土へ行くことであると述べた。
少しは、現世利益も説いたが、あまり強調しなかった。それを説くと、人々に煩悩が起こり、それが妄想となるからである。
だから、現世利益を説く時も、財や病気の治癒といった具体的なことではなく、ただ、「仏様が守って下さる」と言ったのである。
それは決して方便というだけでなく、実に見事な教えなのであるが、長くなるので、このあたりにしておく。
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逆に、全ては運命であることを受容すれば、初めてその英知に触れることが可能となるのである。
それは、聖典を基に正しい教えを説く聖者の教えも当然同じである。
今回は、浄土真宗の開祖、親鸞について見てみよう。
親鸞の師、法然は、ひたすら念仏を唱えることのみ教え、自分もまた、念仏以外は何もしなかったと明言した。彼の遺書と言える「一枚起請文」がまさに、「私には念仏以外何もない」と言うものなのである。念のために言うと、念仏とは、「南無阿弥陀仏」と唱えることであり、その意味は、「私は阿弥陀如来(阿弥陀仏)に帰依します(全てお任せします)」というものである。
法然は1日6万回も念仏を唱えたと言われ(晩年は7万回だったとも言われる)、対談中も、小さな声ではあったが、念仏を欠かさなかったという。
念仏を唱えることで、死後は極楽浄土(仏の国で、天国のようなもの)に行けるし、生きている間も、念仏を唱える者は仏に守られると教えた。
もちろん、法然の教えには、当時の無知な庶民に配慮したところがあるのだが、その実際の効果は言葉通りの意味をむしろ上回るのである。
尚、現代的に言うなら、阿弥陀如来というのは、もちろん、大仏のような姿をした形のある仏様ではなく、それは仮の姿であり、それは、阿弥陀如来の別名である無量寿光如来の名の通り、宇宙に偏在する光(英知)であり、根源的な宇宙エネルギーと言って良いだろう。
その仏に全て任せ、自我である私は全面降伏するというのが念仏であり、これは、黒住宗忠が、天照大神に全てお任せすると言うことや、クリシュナが「我のみ拝せよ」と言ったことと全く同じ意味である。イエスの場合は、「父なる神を愛せよ」であった。
ところが、法然の弟子である親鸞は、念仏を唱える貴さを教えはしたものの、もっと進んだことを言っているのである。
「念仏をしたら救われるのではない。念仏をした時は既に救われているのである」
つまり、念仏をすることが原因で、その結果が救われることであるという従来の公式が壊されているのである。
むしろ、救われることが原因で、念仏をするということが結果なのである。
少しも難しいことではない。
仮に仏と名付けた存在は、ある人の運命を救われる(幸福になる)運命と定めるとすれば、それと共に、念仏を唱えるという運命を授けるのである。
仏は、水が高いところから低いところへと流れるように、念仏を唱える者は救われると定めているのである。
だから、念仏を唱えたということは、救いは確定しているということなのだ。
そして、実際には念仏を唱える必要すらなく、念仏を唱えようと思うだけでも救われるようにされているのである。
もう少し現代的に言うなら、こういうことだ。
念仏とは、仏様に頼るという意志表示であることは誰にでも分かるはずだ。
自分の無力を受容し、より大きな力に任せるという態度が「南無阿弥陀仏」である。
自分にはものごとをコントロールする力があるという誤った認識を解くことが絶対的に必要なのだ。
そして、仮に阿弥陀如来という名と、ある特徴ある仏の姿に対してであっても、それに頼むことで自分の無力を少しでも認めることが、仏への道を歩み出したということなのである。
だが、法然の念仏も、つまるところは同じなのである。
どちらが優れているとも言えず、いずれの方式でいくかは、気質によるのではないかと思う。
ただ、2人とも、念仏の利益は、死後に極楽浄土へ行くことであると述べた。
少しは、現世利益も説いたが、あまり強調しなかった。それを説くと、人々に煩悩が起こり、それが妄想となるからである。
だから、現世利益を説く時も、財や病気の治癒といった具体的なことではなく、ただ、「仏様が守って下さる」と言ったのである。
それは決して方便というだけでなく、実に見事な教えなのであるが、長くなるので、このあたりにしておく。
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