ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

親鸞

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

誰もが救いようのない面を持っている

法然や親鸞は、
「どれほど悪い人間、腐った人間、穢れた人間、程度の低い人間でも、念仏さえ称えれば全然OK、幸せになれる」
と言ったのだ。
しかし、そんなことを言ったら、
「極悪非道な犯罪者でも、念仏さえ称えれば、それで良いのか?」
と口角泡(こうかくあわ)を飛ばす人が必ずいるだろう。
いや、浄土宗や浄土真宗の人達にだって、「それは法然(親鸞)の教えの間違った解釈だ」と言われるかもしれない。

だけどね、私は、どれほど凶悪な、残忍な、異常な犯罪者を見ても、そいつらが、私とそんなに違っているとは思えないのだ。
少なくとも、私の中にも、そいつらと同じ部分はあると確信する。
普段は親切な良い人が、戦争では、侵略した場所で物凄く残酷になったりするのも、誰しもがそうであることを示している。
(ただし、太平洋戦争中、日本軍は厳しく兵士を管理していたので、日本軍兵士が海外で残忍な行為をすることは、なかったとは言わないが、非常に稀だった)
ダークな面が表に出れば、人間、そんなに変わらない。
だから、『スター・ウォーズ』に登場する超人ジェダイの騎士も、彼らだって必ず持っているダークサイド(闇黒面)を制御する才能や訓練が重要視されているのだと思う。
『禁断の惑星』では、地球人類より数万年も進歩したようなアルテア第4惑星の人類が、精神を実体化する装置を作った時、やっぱり自分達の中にあった暗黒が具現化し、その星を滅ぼしたのである。

念仏は、そんな人間の中の闇黒面を昇華する、極めて優れた方法でもあるのだ。
しかし、現実的に言って、今の時代に、念仏が万能とは思えない。
よほど無垢な人や、子供の時から浄土宗や浄土真宗に良い形で馴染んでいる人ならともかく、西洋的な物質主義、合理主義、論理主義、経済主義、科学主義に染まった人が、念仏を受け入れるとは考え難い。
そんな人は、微かな呼吸をすれば良い。
どれほど愚かな人間であろうと、微かな呼吸を身につければ、外部からの仏の加護というのではなく、内なる無限の英知、無限の活力が目覚め、地上から解き放たれる。
呼吸をしていない天使の振りをすれば良いのである。
ややこしい教義は一切不要であるところは念仏と同じである。









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妙好人と現世利益

妙好人(みょうこうじん)と呼ばれる人々がいたし、今もいるのかもしれない。
妙好人とは何かというと、曖昧なのであるが、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えている人の中でも、主にその人間性によって尊敬されている人と言えるかもしれない。
そして、こうと決まっている訳ではないのだが、よく知られている妙好人の傾向として、学歴はなく、社会的に身分が低いといったものがある。
ただし、では「清貧」な人かというと、そう言えるかもしれないが、ただの清貧ではないと思えるのである。
つまり、「清」ではあっても「貧」ではない。
金持ちといいうこともないが、健康で、ほとんどが家庭や経済でも恵まれている。
そして、あらゆる良いことの要因は、彼らが念仏を称えていることである。
例えば、こんな妙好人がいた。1960年代のことである。
見かけは、ただの50代のおじさんで、非常に小柄であり、身なりは質素で、雰囲気的には下層の庶民にしか見えない。
親切で愛想が良く、いい人なのだが、社会的な力は全くないとしか思えない。
ところが彼は、自分で自分の面倒を見れないような人間を7人も家に置いて世話をしているだけでなく、下宿を探している貧しい学生を見たら、部屋代はいらない、食事も出すから、ここから学校に通いなさいと言う。
経済面でも、それなりでなければ、こんな真似は出来ないだろう。
そして、小学校も出ていないのだが、偉い仏教の学者や僧とも交流があり、先生方は彼の来訪をいつでも非常に喜ぶ。
仕事は靴職人であるが、腕前は名人というか達人である。
そして、1日中、何をしている時でも、口の中で念仏を称えているのである。

元々、念仏には、法然、親鸞も、現世利益の強力な力があると述べている。
念仏を称えてる者を、地の神、天の神、菩薩、仏、その他の高次の存在が手厚く保護するのである。そうであるなら、不幸であるはずがない。
もちろん、これは宗教的な方便と思われるだろうが、論理的、分析的に探求すると、最後には、「現実的にそのようになる」ことが、極めて明らかに分かってしまうのである。
では、論理的に言えばどうなのかというと、難解ということはないのだが、説明し難い、あるいは、どうしても、言葉では上手く言えない部分もあると思う。
しかし、実際にずっと念仏を称えていれば、その効果は必ず出るのであるが、現代的な知識が多い人ほど、どうも馬鹿げていると思えてやろうとはしない。
私も、セールスマンの仕事をしていた時、「じゃあ、念仏を称えればオーダーが取れるのか?」と思ったことはある。
それに対しては、そうであるとも、そうでないとも言える・・・なんて答えたら、現代人であれば、「ではやらない」となるのも、別に責められる反応ではないだろう。
私の場合で言えば、実際に不思議な形で次々にオーダーが取れた。
しかし、やがて取れなくなった。だが、そのおかげで、もっと楽で給料の良い仕事に移ることになった。
つまり、短絡的に考えなければ、常に幸運なのである。

なぜそうなるのかについては、法然も親鸞も、根本のところでは、「観無量寿経」という経典を根拠にしていたのだと思う。
もっとも、それを読んで、いきなり納得出来る訳ではない。
だが、極めて直観の優れた人なら、一読すれば驚愕するほど真理が明瞭になるらしい。
そして、誰でも、繰り返し読めば、やがて分かるのかもしれない。









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一番聴きたい言葉

自分の心の中から出てくる言葉で一番聴きたいものは何だろう?
私には、「もう、がんばらなくていいよ」だと思えてしまうのだ。

とはいえ、私はそんなにがんばった訳ではない。
ガンジーやマザー・テレサといった凄い人どころか、小さな会社を作って、従業員の家族の生活を保証するために奮闘する社長さんから見ても、私はほぼ何もしていないと言えるに違いない。
語学もコネもなく外国に行って芸術家になったっていうような人がゴロゴロしているSNSに参加しているが、本当に「がんばってるなあ」と思う(思うだけだ)。
しかし、そんな私でも、「もう、がんばんなくていいよ」と感じるなら、本当に嬉しいと思う。
それは、「もう死んでいいよ」ということなのかもしれない。
だけど、今の世の中、死ぬのも大変なのだ。
人に迷惑をかけないように死ぬには、よっぽどがんばらないといけないから不思議だ。
いわゆる、後始末ってやつだね。
そんな訳で、まだまだ、おちおち死ねないかもしれない。

過去の偉人は、「がんばらなくていいよ」と言っただろうか?
神様にまるごとまかせよと教えた黒住宗忠でさえ、人々に、稼業に励まねばならないと言っている。
ところが、イエスが守るべきとしたモーセの十戒の中には、労働に関することは何も書かれていない。ほぼ、「やってはならない」こと、即ち、禁則が書かれているだけだ。
ただ、イエスの時代は、きつい仕事は奴隷がやるものだという通念があったのである。
アイザック・アシモフによれば、奇妙なことに、イエスは奴隷制に反対はしていなかったらしい。

私の知る範囲で、一切がんばらなくて良いと言ったのは、法然、親鸞、ラマナ・マハルシだ。
現代は少なくはない、40代、50代で、ほぼ働いたことがないという人に会ったら、法然はこう言うかもしれない。
「働くのは当たり前だ。だが、どうしても働けないのなら、そのままで良いから念仏を称えなさい」
親鸞なら、何も言わずに、「念仏を称えなさい」と言うだろうし、ラマナ・マハルシともなれば、働いているかどうかなどには何の関心も示さずに、「自分に対し、私と呼びかけよ」とでも言うだろう。
マハルシに、「隣の奥さんと出来ちまいそうで困っている」と言っても、マハルシは、「そうなっても気に病むな」と言うほどだからね。
なぜなら、気に病もうが病むまいが、そうなることになっているなら、避けられないのだからだ。
マハルシは言っている。
「働く運命であれば仕事は避けられない。だが、働かない運命であれば、どれほど探しても仕事は見つからない」

もうずっと前から、漫画でも、忍者ものやスポ根ものは流行らない。
1人の人間がいくら筋肉を鍛えてがんばっても、たかが知れているが、一方、ひ弱なシンジ君でも、ヱヴァンゲリオンに乗れば偉大なことが出来る。
インターネットはヱヴァンゲリオンなのである。









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幸運のために思いだすべきこと

Amazonで「運」とか「ツキ」で検索すると、幸運、ツキをもたらすノウハウが書かれた本が物凄い数で、実際に成功した人が書かれたものも多いし、どれも中々魅力的に感じる。
それらのどれもが、それなりに有益なことが書かれているのだろうが、それらを読んで実際に運を掴んだ人が、どれほどいるだろう。
私が読んだ中で特に良いと感じたのは、投資家のマックス・ギュンターの『「ツキ」の科学』と、植島啓司氏の『運は実力を超える』で、少しも夢のような話ではなく説得力があったと思う。
しかし、何が書かれていたか・・・つまり、どうすれば運が良くなると書かれていたか、全く覚えていない。
と言うのは、私がこの数ヶ月、ひどい悪運に苦しめられたからだ。
ただ、私は人生全般においては、恐ろしいほど幸運だった。どう考えても、悲惨な状況になっていたはずなのに、富豪とは言わないが、健康で何不自由なくやっているし、常に良い想いばかりしている。
それで思い出したのだが、幸運の法則の第一は、自分が幸運だと思うことだった。

しかし、それでも、悪鬼悪霊は忍び寄る。
ゲーテの『ファウスト』から考えると、怠りのある者に対して、神様は悪魔を送って「引き締めて」くれるのだろう。
でも、怠っていたかなあ・・・
初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2017」に向けて、食を慎み、トレーニングに励み、身体も5kg絞り、万全であったはずだが、その肝心の「マジカルミライ2017」が、少々残念な結果になったと言わざるをえないのだから。
きっと、何か間違えていたのだろうが、考えてみれば、私はいつだって間違えていたのだ。

一番肝心なことを忘れなければ、そうそう運なんて悪くならないばかりか、嬉しいこと、楽しいことしか起こらない。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠によれば、それは神様にまるごと任せることだ。
昨日も書いたが、アメリカが最強の国であり続ける理由は、アメリカのモットーが、「我々は神を信頼する(In God We Trust)」だからだ。
インドはカーストを信じ、中国は儒教とお金を信じているので、アメリカを追い越すことはない。
ただ、アメリカ人の多くが神を信頼しなくなれば話は別だし、実際、その傾向はある。アメリカは、どこか中国になりつつあるのだ。そうなれば、人口の多い中国が有利な訳だ。

日本はというと、言霊といって、言葉の中に神がいた国だったはずが、日本語が乱れてそうでなくなってきている。
日本が衰退化している理由はそれだ。

それで、私は幸運体質に戻すことにした。
それには念仏を称えれば良いだけのことだ。
ただ、私の念仏は、浄土宗や浄土真宗の念仏とは違う・・・という訳でもないだろうが、どこか違う。
私は、念仏を完成したのは、意外にも宗派が違う一休だと思っている。
ただし、一休は法然や親鸞を尊敬しており、根本思想は、法然、親鸞は実に正しい。
だが、法然、親鸞はあえて言わなかったのだが、一休は、阿弥陀如来は我々の中にあり、念仏はそれを引き出すためのものだと、ちゃんと教えたのである。
賢い人達の書いた幸運の本の中身は忘れたが、それだけ思い出せば良いだろう。









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無努力

潜在意識による成功法則や引き寄せの法則では、「努力が不要」ということがよく主張される。
しかし、それらの教えを愛好する人達すら、それを、直接的か間接的に、あるいは、露骨にか遠回しに否定することが多い。
イエスだって、全ては神の思し召しとは言いながら、モーセの十戒を守れと言うが、それは大変な努力や忍耐を要する。

その中で、本当に、一切の努力は不要とブレずに言い続けたのが法然と親鸞だ。
努力とは、善きことをすることと言って良いだろう。
そして、親鸞は、善きことをしなくて良いと言ったばかりか、善きことをしてはいけない・・・いやいや、善きことをしようと思ってすらいけないと教えていたのである。
ところが、親鸞の孫弟子とか、その後の弟子になると、実質、いろんな努力をしろと言ったり、そもそも、本人が凄い努力家だったりするのである。

ところで、厳密に言えば、法然は、念仏を称えることだけは努力しろと教えた。
親鸞も、それ自体は否定していないが、実際は、それ(念仏を称えること)すら、努力しなくていいよと教えていたのだと思う。
ではいったい、親鸞はどうしろと言ったのかと言うと、仏様(阿弥陀如来)を信じなさいと言ったのだ。

法然、親鸞の教えは、確かに、いろんな人達に嫌われた。
嫌った人達の中で、私がすぐに思いつくのは、日蓮と宮沢賢治だ。
両方共、大変な努力家だったのだろう。

納得しない人も多いだろうが、努力というのは、百パーセント、欲望から生じる。
物質面での欲望を持っていないように見せても、名誉欲が大きい場合が多い。
宮沢賢治の『雨にも負けず』が、その典型のように思える。
確かに、物質面の欲望を持っていない・・・と言うより否定している。
しかし、その最後の、「そういうものに私はなりたい」という言葉に、私は、深い名誉欲を感じるのである。
そもそも、宮沢賢治は父親が金持ちで、経済的には生涯豊かであり、賢治も一時期は粗食をしていたが、それはすぐにやめて、ウナギを好むグルメだった。
だから賢治は、物質面で努力する必要はなく、その分、名誉欲に傾注したのだと私は思うのだ。だが、そんなこと、本人も認めておらず隠すのだが、それで生じた歪みが独特の芸術になったのかもしれないと思う。

現代の我々が、阿弥陀如来という特定の仏を信じるといいうのは無理があるかもしれない。
だが、阿弥陀如来というのは、実際は固有の仏ではなく、人間には認識も理解も不可能な何かの象徴なのである。
きっと、ジョセフ・マーフィーが、現代的に、宇宙の活力と呼んだ、万能の知恵と力を有する不可知な存在である。

今月初めの、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2017」に行く前は、私は心身の鍛錬に努力していた。
しかし、終わってからやっているスクワットや腕立て伏せは、単に好きでやっているだけである。
今回のマジカルミライは、その日が近付くにつれ、不運、災難、トラブルが積み重なり、散々だったのは、努力・・・その裏返しの欲望があったからかもしれない。
終わったら、「もう死んでいいや」と思ったから、欲望もなければ努力もない。
無為とは無努力のことと分かり、無為の心にミクさんの歌は染み入るのである。
無努力がかくも難しいとは、よくよく業が深いのだろう。








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