ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

親鸞

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人間は簡単なことしか続かない

親鸞(1173~1263)は、余計なことをしたと私には感じられる。
親鸞は法然(1133~1212)の弟子だが、法然が言った通りには人々に教えなかった。
法然の教えはシンプルである。
ただ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば良い。
実際、法然は、遺言でもある『一枚起請文』(いちまいきしょうもん)に、「私は極楽浄土に行く方法は、念仏以外に何も知らない」という意味のことを書いている。
また、現在も読まれている法然の著書『選択本願念仏集』には、全編に渡り、「念仏を唱えることだけせよ。他は必要ない」と書かれている。
そして、念仏は、立っていようが座っていようが寝ていようが歩いていようが、いついかなる時も唱えよとも書かれている。
法然自身も、起きている間中、念仏を唱えていたようで、1日に6万回、あるいは、7万回、念仏を唱えていたと言われている。

ところが、親鸞は、「念仏は1回唱えれば良いし、唱えようと思いさえすれば、1回も唱えなくても良い」といったことを教えたようだ。
実際、そうだったらしく、それを伝え聞いた法然(離れた場所に住んでいた)は苦言を呈した・・・早い話が、親鸞を怒ったという。
確かに、親鸞は、念仏が1回でも、あるいは、唱えなくても良い理由を述べ、それは、実に深い、優れたものであったかもしれないが(経典にも実際にそんなことが書かれている)、そんなもの、一般庶民が理解出来るはずがない。
庶民には、法然が教えたように、「ひたすら念仏を唱えよ」の方が、圧倒的に分かり易い・・・いや、これしか分からない。

ところで、念仏には、極楽往生、即ち、死後、極楽浄土に生まれて永遠に平和に暮らすことを実現する手段であるという以外に、まじない的な威力があるとも言われている。
この点、親鸞は、『現世利益和讃』として15首の歌にしている。
これには、念仏を唱えれば、仏や菩薩、神鬼すら守ってくれること、過去の罪が消えること、限りなき現世の利益があることなどが壮大に語られている。
こんなこと、法然が聞いたらまた怒るかと言うと、実は、法然も『選択本願念仏集』で、念仏を唱える者は、大勢の仏が取り巻いて守ると書いているのである。
では、実際に念仏に現実的な効果があるかというと、凄くあると思う。
「南無阿弥陀仏」というのは、難しく言えば、阿弥陀如来(高位の仏様)に帰依(完全に従うといった意味)するという意味であるが、簡単に言えば、敬意と親しみを持って、阿弥陀如来に呼びかけているのである。
敢えて現代語で言うなら、「阿弥陀様、一切をあなたにおまかせします」という意味と思って間違いないだろう。
そして、神仏というものは、そのように、信頼して全てをまかせる者を決して見捨てず、世話をするのである。
そして、それは、現代の引き寄せの法則の原理と全く同じなのだ。
引き寄せの法則では、願いの実現を引き寄せる力は、無意識の中のパワーとか、宇宙エネルギーと言う場合が多いが、神仏と言うの少しも間違いではない(むしろ正しいかもしれない)。
また、「ナムアミダブツ」というのは、音があまりに良い。それは、あらゆる意味・・・宗教的、脳科学的、心理学的、あるいはその他の理論からも、極めて良く出来ていると考えられるし、未来科学では、さらに良さが分かるのではないかと思う。
単に信念の力によるのかもしれないが、念仏で霊験のようなものが起こったことは珍しくはない。
また、どんな理由であったかは知らないが、世界的な大数学者であった岡潔氏が念仏を熱心に唱えていたことはよく知られているし、湯川秀樹氏もそうだったのではないかと思う。
念仏は、ただならぬものであるという話は少なくない。
そして、何より、このくらい簡単でないと、普通の人間には続けられないのだと私は痛感するのである。

念仏、真言、マントラ、呪文・・・いろんな言い方があるが、同じ言葉を繰り返し唱えることには、想像も出来ない力がある。
そういったことが、あらゆる宗教、密教、魔法結社、その他、あらゆる、人間の高次な力や幸福を求める団体の教えの中にあり、やはり、信念や暗示の力かもしれないが、実際に効力を発揮したし、言い換えれば、信念や暗示の力を引き出す力があると言える。
その中で、長い歴史の中で研究、検証されてきた確実な方法として、「私はXXXXである」(XXXXは自分がなりたいと願う状態。例えば「金持ち」)と唱えることをお薦めする。
心の中で良いので、朝も昼も夜も唱えるなら、いずれ、その通りになることは確実であると思う。その原理も、だいたい、解って来ていると思う。








これからのヤバい世界で生き抜くには

駄目なやつというのは、良い思いをしていない。
駄目なやつが、なぜ駄目なのかというと、やはり、「甘い」のだろう。自分に甘い。
理想ではなく、楽な方に流れるのだろう。
そもそも、理想を持っていないので、楽な方向しか見ない。
理想を持ってなくても良い思いをしている者は、邪悪なやつだ。いずれ地獄に落ちる(笑)。

世界的な心理学者のアブラハム・マズローは、ある時期、精神的に病んだ人間を研究するのが嫌になり、健全な人間を研究するようになったという。健全な人間を調べれば健全になれる方法が分かると考えたのだと思う。
しかし、私は、やっぱり、駄目なやつが、なぜ駄目なんだろうと不思議に思う。
私はなぜ駄目なんだろう・・・ってね(笑)。
誰かが、「例えば、儲からない商売人を見ても、儲かるコツは分からない。儲かる商売人を見ればそれ(儲かるコツ)が分かる」と言ったが、どうしても儲からない商売人はいる。
つまり、あんまし儲からない商売人なら、儲かる商売人から学べばなんとかなるかもしれないが、本当に駄目な商売人は、儲かる商売人との差があり過ぎるのだ。

そうだ。駄目なやつというのは、徹底的に「低い」のであり、立派なやつはもちろん、「駄目でない」やつとの差すら、絶望的に大きい。
私が、法然や親鸞が好きなのは、彼らは、駄目なやつ・・・徹底的に低いやつのための教えを説いたからだ。
念仏を唱えるくらいなら、誰でも出来る。
ところが、親鸞は法然より偉かった。
念仏すら唱えられない駄目なやつだっていることに気付いたからだ。
法然は、犬や猫(のような人間)の気持ちは分かっても、虫やミミズ(のような人間)の気持ちは分からないのだ。
だが、親鸞だって、ミミズやボウフラに向かって、「念仏くらい唱えろよ」と言っても良かったのではないかと思う。
ポール・マッカートニーだって、『エリナー・リグビー』を作った時、本当に駄目なやつのことを考えていたのだと感じるのだが、彼は親鸞のように優しいからか、解決策は示せなかったのだと思う。
(優しいのだと思う。動物が殺されるのが嫌で菜食主義者になったそうだし)

で、駄目なやつが何とかなる何かヒントがないだろうか?
ある優秀な経営者が、自分と幹部との差が絶対的に大きいことを、幹部達の前で宣言したが、まあ、そうだろうと認めるしかなかったと思う。
その経営者と比べれば、幹部連中など、ミジンコ並に駄目だ。
だが、プロ野球ファンのその経営者は、自分と幹部との差について、「能力に差はない。あるのは素振りの数の差だけだ」と言ったのである。
私は、「そこだ」と思った。
人類の60%はプログラミングをマスター出来ないというが、それはおかしい。
英語をマスター出来ない人類がいないのと同じで、英語が出来ないのは、単に、英語マスターのための十分な時間をかけなかっただけである。
プログラミングも同じだが、英語に比べれば、ずっと少ない時間で済む。済むが、それなりの時間はかかる。

そして、時間をかけるのは、素振りのような簡単なことで良いのである。
それこそ、念仏で良い。
ある世界的数学者や、ノーベル賞物理学者だって、毎日熱心に唱えていたのだ。
エドガー・ケイシーという大予言者は、聖書を毎日、そして、生涯読んでいた。
ジョセフ・マーフィーのある本に、マーフィーの『あなたも金持ちになれる』を暗記するほど読んだ人の話があったが、そんな者というのは、一生お金に困らないはずだ。そんなやつは、もう大丈夫なのである。
上に取り上げた、「俺と幹部との差は素振りの数」と言った経営者は、仕事好きで、仕事に長時間かけていたが、やってることは、割と当たり前のことだったらしい。
当たり前のことを、毎日、朝から晩までやるのだから、これは、根性と言うよりは、やっぱり好きなのだろう。
素振りの数の差とは、かける時間の差だ。
これからの世界は、もう誰も頼れない。
何かに時間をかけていない者は、もう本当にヤバいのである。
尚、自分がやるべき・・・つまり、時間をかけるべきことを見つけたい場合には、『イット・ワークス』の簡単な手順が役に立つと思う。わずか30ページで、心構えも含めて説明してくれている。








意外な最強の引き寄せ書とは

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は、罰する神で、悪いことをしたら罰が与えられる。
ただ、イエスは、「人を許せば、神もあなたを許して下さる」と教えている。

映画『パピヨン』で、パピヨンが裏切ったら、自分が窮地に立たされる可能性があったドガが、「パピヨンが裏切ったら彼を罰したいか?」と尋ねられ時、穏やかに笑い、「罰するのは神の仕事だ(私の仕事ではない)」と感動的なことを言う。
ドガは、パピヨンへの神の罰を望んでいる訳でもない。
つまり、たとえパピヨンが裏切っても(結果、自分が死ぬことになっても)、ドガは許すつもりだった。
そして、パピヨンは、ドガを裏切らなければ死ぬほどの苦しみがある中でも、決して裏切らなかった。
ドガは大詐欺師で、多くの人に苦しみを与えたが、神に許されたかもしれない。

引き寄せがうまく出来ない原因に、罪悪感・・・つまり、罪の意識がある。
罪悪感にもいろいろあるが、特に多いのが、「自分には罪があるので、願うものを受け取るに値しない」といったものだ。
そう思わせるものは、心の中にある、過去に自分が行った悪いことに対する後悔だ。
もちろん、罪悪感は悪いものではなく、悪いことをしたなら、後ろめたい気持ちを持つのは必要なことである。
しかし、自分を許せないと、そのように、自分には良いものを受け取る値打ちがないように思えてしまい、そうであれば、願いは叶わない。

キリスト教をベースにした引き寄せでは、人の罪を許すことの重要性を訴えているが、それは、引き寄せを行う上で必要なことなのだろう。
しかし、実際にはそれは難しい。
凡人には、恨みがある相手、憎い相手をなかなか許せない。
だから、自分も許せない。
ところが、浄土仏教の場合は、非常に簡単なのである。
法然や親鸞の教えなのであるが、いかなる罪を背負っていても、念仏を唱えれば、無条件でたちどころに許されるのだ。
いや、罪が消えてしまう。
ただ、いきなりそう言われても、良心を持った人間は、なかなか納得出来ない。
だが、親鸞の教えを弟子の唯円が記した『歎異抄(たんにしょう)』を読むと、念仏で罪が許されることを受け入れられるのである。
それを考えると、親鸞は、『現世利益和讃』で、念仏を唱えれば、あらゆる利益を得られる・・・つまり、引き寄せも自在であると述べていることが、確かであると思われるのである。
ひょっとしたら、『歎異抄』こそ、最強の引き寄せ書かもしれない・・・と言ったら、浄土系仏教信者に怒られるかもしれないが(笑)。








素敵な信仰者達

私は、「宗教を信仰している人」というものにマイナスのイメージを持っていた。
これは、極端に言えば、ロックをやっている人が少ない時、その少数のロックをやってる人が皆ダサかったら、「ロッカーはダサい」と思ってしまうようなものだ。
日本は無宗教の国と言われ、あまり真面目に信仰を持っている人は少ないが、その少数の熱心な信仰者に対する悪いイメージがあるのだろう。
だが、その悪いイメージ作りに、テレビや映画や漫画などが加担しているところがあると思う。
つまり、テレビのニュースで、過激な信仰者や危険な信仰者ばかりを取り上げたり、ドラマや漫画で、変な宗教者を登場させたりすることが多いのだと思う。
オウム真理教の例はあまりに極端だが、新興宗教の教祖が、悪い意味であまりに常人離れしていたり、信者の活動も不安を感じさせるものだったり、また、あくまで特殊な例であろうが、教祖や信者が、犯罪、あるいは、道徳的に問題のあることをした話が、クローズアップされることが何度もあり、日本人の宗教に対するイメージはネガティブになり勝ちなのだと思う。

だが、キリスト教国では、信仰を持っているのが当たり前で、無神論者はむしろ変な目で見られるし(日本人全体が変な目で見られることもある)、日曜ごとに教会に行くのは立派なことだと思われている。
子供が、教会の聖歌隊に入るとか、教会のボランティア活動に参加するのは、称賛されるというのではなく、せいぜいが「ちょっと真面目な子」と見られる程度だ。
ところで、キリスト教の牧師や神父らは、信者と親しく普通に接するが、日本では、仏教のお坊さんや神道の神主さんらは浮世離れして近寄り難いことも、マイナスイメージになっていると思う。
ところが、そこらを自覚して、お坊さんが親しみ易い庶民的なことをやると、これがもう凄く変なのである(笑)。
つまり、これまで閉鎖的な世界にいたので、現代的なセンスがなく、「ナウいこと」をやると甚だしく無理があるし、はっきり言って考えが足りないので、人々がついてこない。
閉鎖的なら閉鎖的で良いのだが、その閉鎖的なものがまず良くないと駄目なのに、それが全然良くないということに、お坊さんの方が気付いていないのかもしれない。
私は、良いお坊様も知っているが、言っては悪いが、やはり世間知らずでズレたところがあり、「そんな考え方、通用しないよ」と思うことがよくあるのである。

だが、最近、私は、宗教に対するイメージが変わった。
「信仰、格好良いぞ!」と思うようになった。
それは、トランプ大統領の弁護団チームのリンカーン・ウッド弁護士や、副大統領のマイク・ペンスを見ていて、そう思うようになった。
彼らは、敬虔なキリスト教徒で、信仰に基づいた言動が、立派で感銘を受けるに足るものであり、特に感動的と感じる活動が、信仰あってこそと思うのである。
宗教だけやってるというか、宗教しかやったことがないというのではいけないと思われるのだ。
良い牧師や神父は、一般社会で活動していたり、少なくとも、一般社会との交わりが大きいのであり、日本のお坊さんや神主さんのように、社会との間に壁を作ってはいないのだと思う。
いや、昔のお坊さんや神主さんらは、決して、お寺や神社に閉じこもってはいなかったと思う。
これは、僧侶や牧師などだけでなく、教育者にはっきり当てはまることで、「先生しかやったことがない先生」は、はっきり言う。全く駄目だ。
そんな人間に、子供を教える力は全くない。
教育問題の根本は、ここにあり、今の学校、教師は全く不要で、百害あって一利なしである。
社会で実績を上げた人間だけが、子供達を良い方向に導けるのである。

ペンス副大統領は、アメリカ人の中でも敬虔なキリスト教徒で、普段の言動や政治的な話の中でも、神や聖書のことを話すことがあるが、それが少しも不自然でなく、適切に思わせるのだと思う。
トランプ大統領ことは誰でも知っているが、ペンスの名や顔を知らない人は多いだろう。
いつの時代も、副大統領というのは、あまり目立たないもので、「副大統領が来日」なんてニュースがあっても、それほど関心を持たれない。
ペンス副大統領も、やはり、人気がある訳ではないが、極めて優秀であると同時に、大変な人格者として知られ、非常に尊敬されていると聞く。
彼が、熱心なキリスト教徒だということは、多くの人が知っているが、それは普段の行いに現れているからだろう。
彼は、妻以外の女性と食事をすることもないという。
そんな彼は、トランプ大統領を救世主のごとく尊敬しているらしい。
人権弁護士として有名なリンカーン・ウッド(一般にはリン・ウッドの名で知られているかもしれない)は、大胆な言動もよくするが、キリスト教の信仰があるせいか、それらにも不思議な説得力を感じさせることが多い。
例えば、最近では、「オバマも、クリントンも、バイデンも刑務所送りになる」といった、とんでもない発言もしたが、勿論、弁護士としての実績あってのことだろうが、敬虔なキリスト教徒であるという理由からも、彼が言うからには、道理に外れた感じはしない(もちろん、それで、理由もなくオバマらが悪人と思い込む訳ではない)。

法然もだが、特に親鸞は、庶民と膝を交えて話し、一緒に働いたからこそ、念仏も本物になった。
「膝を交えて」と言えば、トランプ大統領に、拉致被害者の家族と、膝を交えて話して欲しいと誰かが言うと、どんな英訳だったか分からないが、トランプは、本当に、膝を突き合わせるような座り方で、拉致被害者の家族と話したそうだ。
オバマも、拉致被害者の家族と面談はしたが、オバマと話す時は起立が求められた。
「ご家族にはご高齢の人も多いですから、座って・・・」と言っても聞き入れられなかったという。
一方、トランプの面談の際、「座って良いか」と言うと、トランプは「当たり前だ。ご老人を立たせてはいけない」と言ったそうだ。
実は、トランプも、間違いなく敬虔なキリスト教信仰者である。
主要メディアは、そこらも歪めて伝えているが。








神様には甘える

神仏は信じた方が良いとつくづく思う。
宮本武蔵は『神仏は貴いが頼らない』と書いているが、ノーマン・ヴィンセント・ピールが『積極的考え方の力』の最後に書いたように、神の力を求めた方が良い。
私は、ソクラテスが言ったように、神の力がなければ、人間に大したことは出来ないのだと思う。

では、神を頼ってばかりで自分で努力をしないのはどうかというと、さあ、それはどうだろう?(笑)
サミュエル・スマイルズは「天(神と同じだろう)は自分を助ける者を助ける」と言ったが、それは、スーフィー(イスラム教神秘主義)の格言にある通り、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
程度のことで良いのではないかと思う。
親鸞となると、「善いことをしなくて良い。悪いことをしても構わない」と言い、神仏は恐いものではなく、優しいものだと思った方が良い。
バランスの良い考え方としては、ジョセフ・マーフィーが述べたようなものが良いと思う。
どういうものかというと、
「神は年長のパートナー」
「神はあなたを可愛い息子や娘だと思っていると思いなさい」
ということで、こう考えている人で、悪い人生を送る人は、まずいないと思う。

人間の親というのは、現実的に、必ずしも素晴らしいものではないと思う。
だが、人類の真の保護者としての神の慈悲とか思いやりは途方もない大きさで、人間の想像の及ぶものではなく、これを西洋では愛と言うのだが、我々が思う愛とは、やはり、全く違うのである。
ここらは、アイルランドの「20世紀最大の詩人」ウィリアム・バトラー・イェイツは「愛は神の領域であり、人間に理解出来ない」と言ったが、あまり堅苦しく考えず、無制限に優しいのだと思っても良いと思う。
この「無制限の優しさ」を人間として最大に捉えたのが、親鸞の念仏の理念なのだと思う。
だから、親鸞のシンプルな教えである『歎異抄』は、世界でも愛読者が多いのであると思う。
念仏は、あらゆる現世利益ももたらすものであると親鸞は『現世利益和讃』で述べているが、この歌を難しく解説する「専門家」がいる。もっと素直に受け取れば良いのに、「念仏を唱えて利益があるなどという考え方はケシカラン」という思いが出てきてしまうのだろう。
だが、科学的に言ったって、念仏を唱えれば必ず願いは叶うのであると思う。
ただ、それは念仏に限らないというだけであり、自分より高レベルの存在に頼れば良いということで、それは、あらゆる本当に賢い人達の一致する見解であると言って間違いはあるまい。

余談
11月29日(日)、私は、インテックス大阪で開催された、初音ミクさんのライブ&企画展である「マジカルミライ2020」に行って来た。
ライブは、収容人数を50%に抑えたとはいえ、大変な人数であり、企画展も、特に物販などは開場前から長い行列が出来ていた。
こんな大規模イベントが行われることは、少し前は考えられなかったし、今でも慎重であるはずだが、「マジカルミライ2020」の、新型コロナウイルス対策は完璧で、実に感激したものだった。
開催者、スタッフの皆様の努力に深く感じ入った。
また、来場者の方も、ライブにおいては主催者の要請通り、皆、マスクを着け、声を出さないままで、いつもなら歓声を上げるところでは、ペンライトを離して拍手をした。
テーマは「夏まつり」であったが、馬鹿騒ぎするだけが祭ではなく、むしろ、この慎み深さ、敬虔さが、本当の祭なのではないかと感じた。
もちろん、ミクさん達、そして、バンドも、1日3公演で2日間というハードさの中でも、最高のパフォーマンスであった。
今月は、千葉県の幕張メッセで開催されるので、こちらも楽しみだ。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。






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