ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

親鸞

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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心配したら負け

大半の人が、心が晴れないように見える。
まあ、周囲を見渡してそうなのだが、少なくとも、日本では当たってるのではないかと思う。

なぜ、心が晴れないのかというと、不安があるからだし、恐怖を持っている人すら少なくない。
では、皆、イエスの教えに反している。
なぜなら、イエスの教えは「心配するな(汝、明日を思い煩うな)」で、つまり、「神様が面倒を見てくれるのだから、心配は無用」ということだ。
しかし、いたるところに、神様に面倒を見てもらえていない(ように思える)人々がいる。
病気になったり、事故に遭ったり、パワハラやセクハラを受けたり、失業したり、殺されたり・・・
だが、それは、イエスの教えを適用するなら、不安や恐怖を持っていたからだということになる。
とりあえず、その通りだとする。

だが、不安を持たない人間はいない。
しかし、そうだからこそ、分かることがある。
それに関して、ある印象的な出来事を私は覚えてる。
経営する会社の上場を果たしてから数年の社長に、経営コンサルタントが尋ねた。
「株価は気になりますか?」
すると、社長は、こう答えた。
「初めの頃は気になりましたが、今は全く気にしていません」
経営コンサルタントは、ちょっと顔をしかめた。つけ入るチャンスはないのだ。
その社長の会社は業績好調で、その後も好調が続いた。社長は、会社に不安を持っていなかった。
ところが、その社長は、自分の子供の行く末には不安を持っていて、良い大学に入り、良い就職が出来るよう、自ら関与した。
結局、彼の子供たちは駄目になった。
彼は、子供たちのことも、あまり心配せず、出来るだけ放っておけば良かったのだ。

一見、明るく、自信たっぷり、あるいは、脳天気で、不安など全くないように見えるが、どこか不自然な人っているだろう。
明るいが、明る過ぎたり、自信があるふうだが芝居がかっていたり。
つまり、そんな者たちの平穏な態度は見せかけで、心の中には不安がいっぱいなのだ。
そんな者たちには、悲惨な未来が待っている。

上に述べた社長から、私はよく、ぼーっとしろと言われたものだ。彼は、それが経営の、そして、あらゆることの成功の秘訣であることを知っていたのだろう。
下に著書を紹介する画家の足立幸子氏や、UFO研究家の矢追純一氏らは、その著書の中で、決意したらぼーっとすることを薦めておられる。
ぼーっとすれば不安は入り込まない。
それがイエスの説く、幸福の秘訣なのだと思える。
親鸞も「南無阿弥陀仏」は、お祈りではなく、既に救ってくれたことへの感謝なのだと述べた。そう思って安心すれば、親鸞が別のところで説いた通り「この世の利益に際限はない」のである。
「アジマリカン」を唱えれば絶対なのであるから、安心すべきである。











呪文はいつ効くか

アメリカの人気テレビ番組『Star Trek(邦題:宇宙大作戦)』の冒頭のナレーションが英語Wikipediaにある。

Space: the final frontier. These are the voyages of the starship Enterprise. Its five-year mission: to explore strange new worlds, to seek out new life and new civilizations, to boldly go where no man has gone before.
Star Trek: The Original Seriesより~

これは、宇宙船エンタープライズ号の使命は、
「新しい驚異の世界を探検し、新しい生命、新しい文明を見つけ出すため、誰も行ったことのない未知の世界に大胆に入っていく」
ことであるという意味だ。

何とも、血湧き肉躍ることではないか?
だがこれは、別に宇宙に旅立つまでもなく、人生そのもののことだ。

名前も知らない まだ見ぬ世界を旅するように
時が刻むメロディー 口ずさんで ほら
~『Birthday』(作詞・作曲・編曲:びにゅP。唄:初音ミク)より~

一寸法師だって、旅立つ前に、腕を磨き、学び、針の剣とお椀の舟を用意したように、冒険のためには準備が必要だ。
今は、つまらない学校や会社に行き、退屈な、あるいは、苦しい日々を送っているかもしれない。
ならば、新しい世界に旅立つしかない。
そのための準備を怠らないことだ。
まあ、そんな大したことしなくていいから(笑)、それでも、真面目に。

昔、駆け出し俳優だったバート・レイノルズが、既にハリウッドの大俳優だったクリント・イーストウッドに尋ねたらしい。
「成功するまで何をしていましたか?」
イーストウッドは、
「準備をしていた」
と答え、それを聞いてレイノルズは成功の階段を駆け上った。
何をするかは人それぞれだ。
外国語を学ぶ人もいれば、プログラミングを学ぶ人もいるし、一撃必殺のキックを磨く人もいる。
それで言えば、私は、囚人が刑務所内でいじめられないために筋トレをするというのはあまり好きではない。
それなら、外に出た時のために筋トレをするのだと思えば良い。
ところで、法然や親鸞は、死んだ時に備えて念仏を唱えるよう教えたように言われるが、本当は、よりよく生きるために念仏を唱えるよう教えていた。
念仏や高度な呪文は、一寸先の未来に備えて唱えるものだ。
呪文を唱えれば、数秒後の世界は変わっている。
数秒後は少ししか変わらなくても、連続して唱え、ずっと変え続ければ、全く新しい世界になる。
それを忘れなければ、いかなる不安もないだろう。







霊力を普通に使うには

日本人は、特に仏教徒という訳ではないが、家単位で仏教の檀家(寺に所属すること)というものになってる場合が多い。
だから、「私の家は浄土宗だ」「私の家は臨済宗だ」などと言う。
なぜそんなことになっているのかというと、江戸時代にキリスト教を排除するために、民衆全部を無理矢理仏教徒にするための政策がいまだ残っているからのようだ。

私の家もそうなのだが、浄土真宗が最も多く、次が浄土宗なのだと思う。
この2つの宗派の教えは、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、死後、極楽浄土に行けるというシンプルで解り易く、それは、現在の仏教の主な出番であるお葬式に実にマッチするので都合が良い。

それで、少し真面目に浄土宗や浄土真宗について学ぶ者も、「極楽浄土は死後に行く安楽な世界で、そこに行くためには生きている間に念仏を唱えれば良い」と理解しているのだと思う。
実際、浄土宗や浄土真宗の経典である『無量寿経(大無量寿経)』や『観無量寿経』を見ると、表向きはそう書いてある。表向きはと言ったのは、経典というのは、それほど単純に書かれておらず、解釈が難しいからである。
それでも、「極楽浄土は死後に行く、キリスト教で言う天国のようなもの」「念仏を唱えることで極楽浄土に行ける」というのが、浄土宗や浄土真宗の正統な教えとなっているのだと思う。
これについては、法然や親鸞、あるいは、一遍らの時代、民衆は、生きている間の希望がほとんどなく、せめて死後の世界で幸福になれると説くしかなかったという事情があったのだと学校で教わったものだ。

だが、親鸞より後の(室町時代の)臨済宗の僧侶、一休が、法然や親鸞を大変に誉め、自らも念仏を唱えていたが、彼が、念仏と極楽浄土の正しい教えを説いていることは、本来、もっと理解しておくと良いと思う。
一休は、「極楽浄土は西の遠い彼方にあると言われるが、実際には南、即ち、皆身・・・我々の中にある」と言ったが、これも、民衆に解り易い喩えであり、正確には、極楽浄土は、今、ここにあり、どこにでもあると言ったのである。
スターウォーズで、ルークがヨーダに「フォース(霊的な力)なんてどこにあるんです?」と問うと、ヨーダは「どこにでもある。ここにも、ほら、そこにも」と言うが、ルークには理解出来なかった。
しかし、理解するしないに関係なく、フォースも極楽浄土も同じで、どこにでもあるのである。
だが、それが解るためには、極楽浄土が、この世と重なり合うように存在する異次元の世界であると理解しなければならないが、正確には、重なり合っているという訳でもないだろう。しかし、人間の感覚的には、せいぜい、重なり合うと言うしかないのである。

ジョセフ・マーフィーは、潜在意識のことを、フロイトが言うものとはやや異なる、あらゆる力の源のようなものと言い、ヨーダのフォースに近いと言えなくもないが、『あなたも幸せになれる(原題:THE COSMIC ENERGIZER)』で、潜在意識を「宇宙の活力(THE COSMIC ENERGIZER)」と呼び、それは万能の力であり、宇宙に偏在する、即ち、あらゆるところにあると説いている。

極楽浄土、フォース、潜在意識、宇宙の活力は、全て同じで、最近、物理学者の保江邦夫さんが「素領域理論」で物理学で説明しているのが、解り易いとは言えないながら、一応、それらを統一した考え方になっていると思う。
これらは全て、実用的と言っては下品なのかもしれないが、実際の力になるものであるのだから、そのように習得するべきと思う。








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夏休みの早朝

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが「幸い(幸福)って何だろう?」と、自分やカムパネルラに問う場面がある。
ジョバンニは、それは、他の人の幸い(幸福)のために生きることであると言い、カムパネルラもそれに同意したと思う。
ただし、それは、いきなり出てきた疑問と答ではなく、ジョバンニの最近の辛い現実と、銀河鉄道に乗ってから起きた、様々な経験から起こった疑問と答であったはずだ。

幸せというなら、子供の時の夏休みの朝に感じたことはないだろうか?
子供達に、惰眠を貪らせないという配慮からか、我が国では、夏休みに、子供達に早朝ラジオ体操への参加を義務付けることが多いが、確かに、これをしないと、遅くまで寝ている子が多くなるに違いない。
そして、早起きは、身体に良いとかより、確かにもっと素敵なことがある。
『アラビアのロレンス』で知られる、トーマス・エドワード・ロレンスが『知恵の七柱』の中で、砂漠の朝の神秘的な体験について語るところがあるらしい(私は『知恵の七柱』自体は読んでおらず、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』での引用で読んだ)。
その神秘体験こそ、幸福そのものであるが、なぜ、そんなことが起こるのかというと、脳が半分眠っているからである。
それは、夏休みに早起きした子供達にも、よくある状態のはずなのだ。
私もそうだったし、ロレンスの体験について見ると、私も同じだったと感じるのである。
それはどんな体験かというと、世界の意味をピュアに感じるとでもいうものではないかと思う。

だが、ロレンスは、早朝ならいつでも、そんな体験が出来ると言うのではなく、「稀に」と言っているが、子供達は、夏休みの朝、割合に頻繁に体験していると思う。
けれども、あまりよく覚えていないのだ。
では、ロレンスと夏休みの子供達では何が違うかというと、ロレンスに限らず、大人は、目覚めるとすぐに思考を働かせることだ。
実際、ロレンスは、それが起こるのは、「考え続けて疲れた朝」であることを挙げている。それによって、思考がなかなかやって来ないということだろう。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、人間にとって、最も貴い「存在の体験」は、やはり、目覚めて、思考がやってくるまでの間と述べていた。

だが、その幸せの体験は、いつでも出来る。
アイルランドの詩人W.B.イェイツは、「憎むのをやめた時に、それが起こり易い」と言った。
しかし、総じて言えば、絶対にこうなのだ。
それは、「心配をしない時」だ。
イエスが「汝、思い煩うことなかれ」と言った通りである。
疲れて、思考が起こらない朝は、心配していないのだ。
江戸時代末期の神道家、黒住宗忠は、長く病に伏せって、死を覚悟した時、その体験が起こり、病気が治ってしまった。
宗忠は、その体験を、早く皆に伝えたいと思ったが、それを言葉で表現することは難しかったと思う。
宗忠は、いろんな心配で病気になり、自分は死ぬんじゃないかと心配したが、生きることを諦めて心配することをやめた時に、幸せが起こったのだ。
ジョバンニも、銀河鉄道の中で、一切の心配が消えたのだ。

一切の心配を消す方法の1つが念仏である。
実際、末期の癌で、もうすぐ死ぬという人が、『歎異抄』を読みながら念仏を唱えていたら、一切の心配がなくなって、見事な往生を遂げたというような話は多い。
もっと早く念仏を唱え始めていたら、癌も治ったかもしれないが、それは本人にとって、さほどの問題ではないかもしれない。
なぜ、念仏で心配が消えるのかと言うと、念仏とは、阿弥陀如来に象徴される無限の知恵と力に一切をまかせて安心することだからである。
正直、宗教やお坊様が話される念仏では、ピンと来ない場合が多いような気がする。
また、法然の『選択本願念仏集』では少し難しいかもしれないが、親鸞の弟子、唯円が書いた『歎異抄』なら、これの変な解説を読まなければ、念仏の意味が分かるのではないかと思う。









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心配はしないが馬鹿ではない

ラルフ・ウォルドー・エマーソンが『自己信頼』の中で、経済的な心配をしたことがない少年を称賛していたことが印象的だ。
当時(1800年代)のアメリカでもそうだったようだが、現代の日本でも、大半の家庭の子供がそうだろう。
つまり、食べるもの、住むところ、着るものは、あって当たり前だと思っているし、それを得ることが困難であるとは夢にも思っていない。

上皇上皇后両陛下が、天皇陛下、秋篠宮様をお育てになる時、「食事が魔法で出てくると思わせない配慮をした」という話を聞いたことがあるが、それでも、皇室どころか、多少貧しい家の子供であっても、ある程度は、生活は魔法で成り立っていると思うものなのだと思う。
イエス・キリストは、「何を着るか、何を食べるかで思い煩うな」と言い、さらに、「鳥は働かないけれど、神は鳥を養われる。まして、あなた方は鳥よりずっと優れたものであるから、神が面倒を見ないはずがない」と、生活の心配をしてはいけないと教えていたのは、よく知られている。
そして、エマーソンは、生活の心配を一切しない少年の意識が、少年に現実の力を与えていることを、はっきり述べているのである。

サラリーマンだって、給料は魔法で出てくるのだという感覚でいる者が多く、そんな者は「意識低い系」であると思われているかもしれない。
そうではなく、「自分の給料はしっかり自分で稼ぐ」と思う社員が立派だと言われることが多い。
しかし、どうだろう?
一人の社員が、自分の力で出来ることは大したことではない。
むしろ、自分の個人的能力にこだわる社員は問題を起こしたり、会社にもあまり良い影響を与えないものである。

とはいえ、子供にしろ、サラリーマンにしろ、あまりにのほほんとし過ぎているのも問題だというのは言うまでもない。
かといって、自分の力にこだわると心が貧しくなる。
つまり、「心配してはいけない」「横柄、高慢であってはならない」を両立し、「心配はしないが、高慢でもない」でなくてはならないし、そうであれば、高次元の力が加護するのだと思う。
そして、その意識を持たせるのが、本来は宗教なのである。
つまり、宗教とは、支配のためのものでもなければ、道徳を教えるためのものでもない。
そんなふうに、宗教の扱いを間違っているから、宗教が胡散臭いものになってしまったのである。
イエスもだが、法然や親鸞の念仏も「心配はしないが高慢にもならない」ためのもので、念仏を唱えていれば間違いないというのは、少しも不思議なことではない。
高次元の力の加護を語っている『福音書』や法然の『選択本願念仏集』、あるいは、『法華経』の25品である『観音経』の内容は、現代の感覚に合わない部分があるのは、時代が違うのであるから当然である。だが、それを了解して読めば良いのであり、「全部良いか、全部駄目」しか受け付けないというように頭が固いようでは駄目である。
しかし、吉本隆明が、「宗教家ではなく思想家」と言った親鸞の教えが書かれた『歎異抄』は、案外に現代でも無理がないと思う。
吉本隆明が、親鸞を宗教家でないと言ったのは、「それまでの、そして、現代の多くの宗教家のようでない」ということなのだと思う。
「鵜呑みにしてはならない」「だが、疑ってばかりでもいけない」のである。
人生は、このバランスである。
このバランスを与えるのが、宗教、あるいは、量子物理学のような新しい科学であるのかもしれない。









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