親鸞(1173~1263)は、余計なことをしたと私には感じられる。
親鸞は法然(1133~1212)の弟子だが、法然が言った通りには人々に教えなかった。
法然の教えはシンプルである。
ただ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば良い。
実際、法然は、遺言でもある『一枚起請文』(いちまいきしょうもん)に、「私は極楽浄土に行く方法は、念仏以外に何も知らない」という意味のことを書いている。
また、現在も読まれている法然の著書『選択本願念仏集』には、全編に渡り、「念仏を唱えることだけせよ。他は必要ない」と書かれている。
そして、念仏は、立っていようが座っていようが寝ていようが歩いていようが、いついかなる時も唱えよとも書かれている。
法然自身も、起きている間中、念仏を唱えていたようで、1日に6万回、あるいは、7万回、念仏を唱えていたと言われている。
ところが、親鸞は、「念仏は1回唱えれば良いし、唱えようと思いさえすれば、1回も唱えなくても良い」といったことを教えたようだ。
実際、そうだったらしく、それを伝え聞いた法然(離れた場所に住んでいた)は苦言を呈した・・・早い話が、親鸞を怒ったという。
確かに、親鸞は、念仏が1回でも、あるいは、唱えなくても良い理由を述べ、それは、実に深い、優れたものであったかもしれないが(経典にも実際にそんなことが書かれている)、そんなもの、一般庶民が理解出来るはずがない。
庶民には、法然が教えたように、「ひたすら念仏を唱えよ」の方が、圧倒的に分かり易い・・・いや、これしか分からない。
ところで、念仏には、極楽往生、即ち、死後、極楽浄土に生まれて永遠に平和に暮らすことを実現する手段であるという以外に、まじない的な威力があるとも言われている。
この点、親鸞は、『現世利益和讃』として15首の歌にしている。
これには、念仏を唱えれば、仏や菩薩、神鬼すら守ってくれること、過去の罪が消えること、限りなき現世の利益があることなどが壮大に語られている。
こんなこと、法然が聞いたらまた怒るかと言うと、実は、法然も『選択本願念仏集』で、念仏を唱える者は、大勢の仏が取り巻いて守ると書いているのである。
では、実際に念仏に現実的な効果があるかというと、凄くあると思う。
「南無阿弥陀仏」というのは、難しく言えば、阿弥陀如来(高位の仏様)に帰依(完全に従うといった意味)するという意味であるが、簡単に言えば、敬意と親しみを持って、阿弥陀如来に呼びかけているのである。
敢えて現代語で言うなら、「阿弥陀様、一切をあなたにおまかせします」という意味と思って間違いないだろう。
そして、神仏というものは、そのように、信頼して全てをまかせる者を決して見捨てず、世話をするのである。
そして、それは、現代の引き寄せの法則の原理と全く同じなのだ。
引き寄せの法則では、願いの実現を引き寄せる力は、無意識の中のパワーとか、宇宙エネルギーと言う場合が多いが、神仏と言うの少しも間違いではない(むしろ正しいかもしれない)。
また、「ナムアミダブツ」というのは、音があまりに良い。それは、あらゆる意味・・・宗教的、脳科学的、心理学的、あるいはその他の理論からも、極めて良く出来ていると考えられるし、未来科学では、さらに良さが分かるのではないかと思う。
単に信念の力によるのかもしれないが、念仏で霊験のようなものが起こったことは珍しくはない。
また、どんな理由であったかは知らないが、世界的な大数学者であった岡潔氏が念仏を熱心に唱えていたことはよく知られているし、湯川秀樹氏もそうだったのではないかと思う。
念仏は、ただならぬものであるという話は少なくない。
そして、何より、このくらい簡単でないと、普通の人間には続けられないのだと私は痛感するのである。
念仏、真言、マントラ、呪文・・・いろんな言い方があるが、同じ言葉を繰り返し唱えることには、想像も出来ない力がある。
そういったことが、あらゆる宗教、密教、魔法結社、その他、あらゆる、人間の高次な力や幸福を求める団体の教えの中にあり、やはり、信念や暗示の力かもしれないが、実際に効力を発揮したし、言い換えれば、信念や暗示の力を引き出す力があると言える。
その中で、長い歴史の中で研究、検証されてきた確実な方法として、「私はXXXXである」(XXXXは自分がなりたいと願う状態。例えば「金持ち」)と唱えることをお薦めする。
心の中で良いので、朝も昼も夜も唱えるなら、いずれ、その通りになることは確実であると思う。その原理も、だいたい、解って来ていると思う。
親鸞は法然(1133~1212)の弟子だが、法然が言った通りには人々に教えなかった。
法然の教えはシンプルである。
ただ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば良い。
実際、法然は、遺言でもある『一枚起請文』(いちまいきしょうもん)に、「私は極楽浄土に行く方法は、念仏以外に何も知らない」という意味のことを書いている。
また、現在も読まれている法然の著書『選択本願念仏集』には、全編に渡り、「念仏を唱えることだけせよ。他は必要ない」と書かれている。
そして、念仏は、立っていようが座っていようが寝ていようが歩いていようが、いついかなる時も唱えよとも書かれている。
法然自身も、起きている間中、念仏を唱えていたようで、1日に6万回、あるいは、7万回、念仏を唱えていたと言われている。
ところが、親鸞は、「念仏は1回唱えれば良いし、唱えようと思いさえすれば、1回も唱えなくても良い」といったことを教えたようだ。
実際、そうだったらしく、それを伝え聞いた法然(離れた場所に住んでいた)は苦言を呈した・・・早い話が、親鸞を怒ったという。
確かに、親鸞は、念仏が1回でも、あるいは、唱えなくても良い理由を述べ、それは、実に深い、優れたものであったかもしれないが(経典にも実際にそんなことが書かれている)、そんなもの、一般庶民が理解出来るはずがない。
庶民には、法然が教えたように、「ひたすら念仏を唱えよ」の方が、圧倒的に分かり易い・・・いや、これしか分からない。
ところで、念仏には、極楽往生、即ち、死後、極楽浄土に生まれて永遠に平和に暮らすことを実現する手段であるという以外に、まじない的な威力があるとも言われている。
この点、親鸞は、『現世利益和讃』として15首の歌にしている。
これには、念仏を唱えれば、仏や菩薩、神鬼すら守ってくれること、過去の罪が消えること、限りなき現世の利益があることなどが壮大に語られている。
こんなこと、法然が聞いたらまた怒るかと言うと、実は、法然も『選択本願念仏集』で、念仏を唱える者は、大勢の仏が取り巻いて守ると書いているのである。
では、実際に念仏に現実的な効果があるかというと、凄くあると思う。
「南無阿弥陀仏」というのは、難しく言えば、阿弥陀如来(高位の仏様)に帰依(完全に従うといった意味)するという意味であるが、簡単に言えば、敬意と親しみを持って、阿弥陀如来に呼びかけているのである。
敢えて現代語で言うなら、「阿弥陀様、一切をあなたにおまかせします」という意味と思って間違いないだろう。
そして、神仏というものは、そのように、信頼して全てをまかせる者を決して見捨てず、世話をするのである。
そして、それは、現代の引き寄せの法則の原理と全く同じなのだ。
引き寄せの法則では、願いの実現を引き寄せる力は、無意識の中のパワーとか、宇宙エネルギーと言う場合が多いが、神仏と言うの少しも間違いではない(むしろ正しいかもしれない)。
また、「ナムアミダブツ」というのは、音があまりに良い。それは、あらゆる意味・・・宗教的、脳科学的、心理学的、あるいはその他の理論からも、極めて良く出来ていると考えられるし、未来科学では、さらに良さが分かるのではないかと思う。
単に信念の力によるのかもしれないが、念仏で霊験のようなものが起こったことは珍しくはない。
また、どんな理由であったかは知らないが、世界的な大数学者であった岡潔氏が念仏を熱心に唱えていたことはよく知られているし、湯川秀樹氏もそうだったのではないかと思う。
念仏は、ただならぬものであるという話は少なくない。
そして、何より、このくらい簡単でないと、普通の人間には続けられないのだと私は痛感するのである。
念仏、真言、マントラ、呪文・・・いろんな言い方があるが、同じ言葉を繰り返し唱えることには、想像も出来ない力がある。
そういったことが、あらゆる宗教、密教、魔法結社、その他、あらゆる、人間の高次な力や幸福を求める団体の教えの中にあり、やはり、信念や暗示の力かもしれないが、実際に効力を発揮したし、言い換えれば、信念や暗示の力を引き出す力があると言える。
その中で、長い歴史の中で研究、検証されてきた確実な方法として、「私はXXXXである」(XXXXは自分がなりたいと願う状態。例えば「金持ち」)と唱えることをお薦めする。
心の中で良いので、朝も昼も夜も唱えるなら、いずれ、その通りになることは確実であると思う。その原理も、だいたい、解って来ていると思う。