ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

親鸞

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

悪に情けを

親鸞聖人が、弟子の唯円に、「私の言うことを何でも聞くか?」と尋ね、唯円は「もちろんです」と答えた。
すると、親鸞は、「人を千人殺せ」と命じた。
だが、唯円は、「一人も殺せそうにありません」と言うしかなかった。
これは、唯円の著書とされる『歎異抄』に書かれていることだが、親鸞が、そんなことを命じた理由が素晴らしかった。
親鸞は、決して、「唯円よ、お前は善い人間だから、人殺しなんか出来ないのだ」などとは言わなかった。
そうではなく、親鸞は、
「唯円よ、お前に人殺しが出来ないのは、お前が善い人間だからではない。単に、人を殺す運命にないだけのことだ。殺す運命にあれば、私もお前も、人を殺してしまうのだ」
と言ったのだった。

我々も同じである。
いまどき、なかなか人殺しをやることはないが、そんな運命であれば、我々だって、殺人を犯すのかもしれない。
もう少し、深刻度が低いこんな話がある。
インドの聖者ラマナ・マハルシに、ある男が、
「隣の奥さんが魅力的でたまらない。間違いを犯しそうだ」
と相談すると、マハルシは何と、
「そうなっても悔やむな」
と言ったそうである。
どういうことかと言うと、彼が間違いを犯すか犯さないかは、彼の意思とは関係ない。
間違いを犯す運命であればそうなるし、そんな運命でなければ、間違いは起きない。
あるいは、マハルシは別の相談者に、
「働く運命にあれば、お前は働くことを避けられない。逆に、働く運命でなければ、いくら探しても仕事は見つからない」
と言ったらしい。

まあ、これらは、本当のことかどうかは分からないが、親鸞やマハルシが嘘を言うとも思えず、彼らはそう信じているのだろう。
そこで、こんなことを考える。
アメリカの、スーパー弁護士と言って良い凄い弁護士だが、リン・ウッド弁護士が、ツイッターに、
「バイデン、オバマ、クリントン(ビルとヒラリー)は、全員刑務所に入ることになる」
とツイートした。
これは凄いことだ。
こんなことを書いたら、名誉棄損で訴えられる危険があることは、ウッド弁護士は誰よりも知っている。彼は、特に人権弁護士として知られているのだ。
だが、これは、ウッド弁護士には、「訴えられるものなら訴えてみろ」という揺るぎない自信があることを示し、悪者に脅しをかけているのだ。
そうとしか考えられないではないか?
アメリカは正義の国であり、悪を許さず、断固として倒すことは、正しいことで良いことだ。
しかし、親鸞やマハルシからすれば、仮に、バイデンやオバマが、アメリカを滅ぼすような悪事を働いていても、ただ、彼らがそんな運命にあっただけで、彼らが悪人だからではない。
ウッドやトランプは、善い人間だからではなく、正義を行う運命であっただけだ。
無論、そうであっても、悪いことをすれば、確かに刑務所に入るしかない。
ならば、悪い運命を持ったことを同情する余地があるかもしれない。

確かに、そう思わないこともあるが、犯罪者のニュースを見れば、私は、「ああ、これ(犯人)は私だ」と思うことがある。
あるいは、犯罪でなくても、こんな話がある。
昔、ある剣豪がいて、ストイックに修行し無敵で、名声も高まっていた。
ところがある時、その剣豪と弟子達が宿泊している宿に、この剣豪の名を語り、高い講演料を取ったり、良家の娘をたぶらかす不埒ものが、たまたま泊まっていることが分かった。
剣豪の弟子達が、「行って懲らしめてきます」と言うと、剣豪は、「捨ておけ」と言う。
弟子達は困惑したが、剣豪は何も言わなかった。
剣豪は、こう考えたのだ。
「俺だって、あいつ(剣豪の偽物)のようなことをしたいのだ。あいつは、俺の代わりにやってくれている」
これは、あくまで時代劇ドラマであったが、なかなか感慨深かった。

イエスも言ったではないか。
「人を許せ。そうすれば、神もあなたを許してくれる」
自分の罪の大きさに自覚がないだけで、誰にも罪はある。
親鸞の教えでは、幸いにして、念仏さえ唱えれば、いかなる罪も許されるのだが、許されるとしても罪を犯すことは、実は、なかなか辛いことだ。
そして、人を許さなければ、自分もさらに罪を重ねることになるだろうと思う。








駄目なアンタを救う道

いかなる悪人も、「南無阿弥陀仏」の念仏さえ唱えれば、罪は消えると親鸞聖人は言ったようだ。
また、極楽浄土に行くためには、善いことをする必要は全くないとも言う。
なぜなら、念仏の力を妨げるほどの悪は存在しないし、念仏以上の善もないのだからということだ。

『方丈記』の著者として知られる鴨長明(かものちょうめい)が書いた『発心集』の中に、こんな話がある。
源大夫(げんだいふ)という名の極悪人がいた。
彼は、盗み、殺し、暴力、何でもやり、人々に恐れられていた。
その源大夫が、たまたま僧が、阿弥陀如来のことを話すのを聞き、
「俺が念仏を唱えても阿弥陀様は応えてくれるのか?」
と僧に問うと、僧は、その通りだと言う。
そこで、源大夫は、僧に頭を剃らせ、僧侶の服をもらうと(奪うと?)、西に向かって、大声で「南無阿弥陀仏」と唱えながら歩いた。
七日の後、源大夫は絶命し、その舌から蓮の花が咲いた。

この話を読んだ時、私はつくづく、法然も親鸞も、本音のところで源大夫と同じだったのだと思うのだ。
法然や親鸞は立派な僧だと思われているかもしれないが、彼らとて、所詮、自分は煩悩を捨てられない悪人であると知っていて、それに苦しんでいたのだろう。
実は、誰にも言わなかったが、法然はロリコンであったとか・・・って、信者に殺される(笑)。
そして、源大夫は、やりたい放題の大悪人だが、魂では、そんな自分が嫌で苦しんでいたのだと思う。
でなければ、念仏を唱えようなんて思うはずがない。
自覚はなかったかもしれないがね。

我々も同じで、人間の本性はおそらく善だと思うが、どうしても煩悩があって、悪いことをしたり考えたりする。
それは、魂にとっては苦しいことなのだ。
だが、(繰り返しになるが)念仏は、いかなる悪も十分以上に埋め合わせるので、念仏を唱えれば良い。
悪を埋め合わせるために、自分で善いことをする必要はない。
なぜなら、どんな善も、念仏の善に全く及ばないからだ。

とはいえ、今の時代、念仏でもあるまい。
ある程度の年齢であれば、それで納得出来るかもしれないが、この理屈が重視される時代に、念仏の力を信じることは、なかなか出来まい。
だが、ここで、とはいえ・・・ともう一回、ひっくり返す。
たとえ時代遅れで、理屈に合わなくても、念仏を唱え続けながら、善と反対の方向にずっと進める者などいないのだ。
これは、ひょっとしたら、法然や親鸞の教えに反するかもしれないがね(とはいえ、根本は合っていると思う)。
特に、『歎異抄』を1回でも読めばそうなのだ。
ちなみに・・・念仏を唱えれば、現世利益(つまるところ引き寄せ)も思いのままだ。
親鸞は『現世利益和讃』に、そう書いている。
また、法然も、『選択本願念仏集』に、それを示唆することを書いているのである。








秘法の書『歎異抄』

親鸞(1173-1263)の言葉を、親鸞の死語かなり経って、弟子の唯円が書き綴った『歎異抄(たんにしょう)』という書物は、仏教書の中でも並外れた人気があり、「無人島に住むとして、本を1冊持って行けるとしたら『歎異抄』」と言う人は多いらしい。
仏教学者のひろさちやさんの本で見たが、海外の、仏教以外の宗教を信仰する人々の中にも、『歎異抄』の愛読者は多いという。
歎異抄は、短く、平易な書物である。
もちろん、今の人が原文を読むのは簡単ではないが、現代語訳なら、すぐ読めると思う。

『歎異抄』の最も有名な文章は、現代語で書けば、
「善人でさえ極楽浄土に行けるのだから、悪人が極楽浄土に行けるのは当然だ」
というものだろう。(極楽浄土は、天国と同じと思って良い)
いや、文章の間違いではない。
だが、この文章を難しく解説する「センセー」が多い。まあ、それはそれで良いが。
実際は簡単な話なのだ。
世の中の常識で言えば、極楽浄土に行くには、善いことをすれば良く、悪いことをすれば地獄に落ちる・・・だろう。
しかし、極楽浄土に行けるほど善い人などいないのだ。
だが、いかなる人間でも、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、極楽浄土に行ける。
それなら、最初から、
「俺のような悪いやつが極楽浄土に行くのは無理だと思っていたが、念仏さえ唱えれば行けるらしい。では、念仏を唱えて極楽浄土に連れていってもらおう」
と思う悪人の方が、極楽浄土に行きやすいのである。
一方、自分が善人であるとか、善人になろうと思っている者は、そういう割り切りが出来ないので、厄介なのである。

ところで、私が、『歎異抄』の中で、もっと重要だと思うのは次のものだ。
「善いことはしなくて良い」
「悪いことはして良い」
いや、そんなこと言ったら、社会秩序が乱れ、ロクでもない世の中になる・・・と思うのが普通だろう。
だが、世の中は、建前は、
「善いことをしろ」
「悪いことをするな」
であるが、実際のところ、世の中を見れば、社会秩序は乱れ、ロクでもないことになっているではないか。

では、親鸞が、
「善いことはしなくて良い」
「悪いことはして良い」
と言った根拠を付け足して書くと、こうだ。
「善いことはしなくていい。念仏以上に善い行いはないからだ」
「悪いことはして良い。念仏の力を妨げるほどの悪い行いなどないからだ」
つまり、念仏さえ唱えれば、OKなのである。

ただ、今の時代に、「南無阿弥陀仏」もないだろう。
いや、「南無阿弥陀仏」が、「阿弥陀様に完全におまかせする」という意味で、それが納得出来れば良い。
しかし、いまどき、阿弥陀仏という、あくまで偶像である存在を信じ切る人は、実際にはいない。
阿弥陀仏というのは、全知全能である宇宙の力の象徴であるのだが、やはり、「そこから一気に分からない!」って人が多いだろう。
分かるに越したことはないが、分からなくても良い。
ただ、良い気分(GOOD FEELING)でいることが、宇宙の力にまかせるということなのだ。
実際のこととして、「良い気分でいれば、良い気分になることが起こり、悪い気分でいれば、悪い気分になることが起こる」。
だから、自分や他人、あるいは、世の中について、それを確認して納得するしかない。
あるいは、そんな検証、いちいちしなくても、直観でそれが正しいと分かれば、いつも良い気分でいれば良いのである。

つまり、『歎異抄』というのは、阿弥陀仏や念仏を方便として、良い気分になるように書かれているのである。
いや、親鸞の教えが、人々を良い気分にするよう工夫されたものだったのだ。
だから、親鸞は偉大なのだと思う。
実際、『歎異抄』の中に、親鸞自身が、「阿弥陀仏というのは、仏典に書かれているようなものではないよ。あれは、あくまで、人間がイメージし易くするための喩え」と言ったということも書かれているのである。
だから、我々のやるべきことは、気持ちを切り替えて、良い気分になることだけである。
尚、極楽浄土に行くというのも象徴的なもので、一休が、「極楽浄土は、遠いところにあるものではなく、いま、ここに作るもの」と言ったように、早い話が、「極楽浄土に行く」とは「幸福になること」であると言って良い。
良い気分でいれば、良い気分にさせられる状況が作られ、それが即ち、幸せである。
良い気分になる効果的な方法は、笑顔になることと、ガッツポーズであると思う。少なくとも、これらを自主的にやって悪い気分になることはあるまい。








呪文の選び方、使い方

たまには呪文の話をしようと思う。
本来は正しくないのだろうが、口や心の中で繰り返す言葉・・・念仏、真言(マントラ)、祈り、アファーメーション、唱え言葉なども、全て呪文とする。

どんな言葉を唱えるか、そもそも、呪文を唱えるか唱えないか?
それをどうやって決めるかというと、唱えて気分が良い言葉を選べば良いし、呪文を唱えて気分が良くならないなら、唱えなければ良い。
呪文は義務でも責任でもない。

法然という人は、1日中、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えていたらしいが、これは、修行なんかではなく、法然は念仏を唱えれば気分が良かったのだと思う。
ところが、弟子の親鸞は、念仏を肯定し、人にも薦めながらも、実のところ、自分は念仏を唱えても、そんなに気分は良くなかったのだと思う。
だから、親鸞は、「一度唱えれば良い」とか「唱えようという気があれば、唱えなくても良い」と言って、法然に怒られているらしい。
結局、親鸞というのは、「人間は元々救われている。それに気付けばOKだ」と言ったのだと思う。
これは、実に現代的で科学的だ。実際、その通りなのだからだ。
だから、念仏というのは、救われていることへの感謝であり、それは、必ずしも念仏でなくて良い。
つまり、「無限の力に守られ救われている。ありがたいなあ」と思えば良いのである。

YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の『LOTUS LOVE』には、「呪文」が出てくる。
それは、“I LOVE YOU”だ。
実際、この歌を聴いていると、“I LOVE YOU”が気分の良い呪文になるかもしれず、そう思ったら、どんどん唱えると良い。
ちなみに、『LOTUS LOVE』の初音ミクさんが歌うHMO(初音ミク・オーケストラ)バージョンが実に素晴らしく(YMO公認だそうだ)、これを聴くと、もっと、“I LOVE YOU”が気分の良い呪文になるかもしれない。

ベアード.T.スポールディングの『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、築5千年というある寺院は、昨日建てられたかのように完全なのだが、どこか壊れても勝手に直ってしまうという。
その秘密は、その寺院の中では「生命、愛、平和」という言葉しか使われないからだそうで、その言葉の波動に満ちると、そのようになるのだと思う。
よって、「生命、愛、平和」、あるいは、その中の1つでも良いが、気分が良ければ呪文にすれば良いと思う。
とこで、『波動の法則』(1995)の著者の足立育朗さんの2014年の著書『波動の法則 実践体験報告』によれば、「愛」より「調和」の方がずっとレベルが高いそうだ。
ただ、日本には、「和」という言葉があり、この一文字で「調和」「平和」の意味を持つし、これこそが「愛」であり「生命」であると言えるかもしれない。
「和」は「輪」(あるいは「環」)に通じ、円を意味するが、円は完全の象徴である。
だから、日本には「和を重んじる」「和をもって貴しとする」という言葉があり、「和」というものが、いかに重要であるかが解る。
松下幸之助も、「日本は和の国。和を忘れたら会社は倒産する」と言ったようだ。
そして、「和」一文字で日本を意味するが、日本という国自体が、元々「和」という名前であったらしい。
「和」だけで優れた呪文である。

アメリカの啓蒙家のクレメンストーンは「我々は豊かだ、我々は健康だ、我々は素晴らしい」という言葉をアファーメーションにしていたという話を、自己啓発ビジネスをしている社長から聞いたことがある。
アメリカの会社の中には、この言葉を皆で唱えているところがあり、多くは、なかなか盛り上がるのだそうだ。
それで気分が良くなるなら、大いに唱えれば良いと思うし、気分が良くないなら、遠慮なく、場を離れれば良い。
「豊かだ」「幸せだ」という言葉を呪文にしている人もいる。
アラン・パーカーの『小さな恋のメロディ』(これを原作とする映画が有名)の主人公ダニーは、「天国」という言葉が大好きなようだ。このように、人それぞれである。
唱えなくても、気分が良くなるなら、何かの時に思い出せば良い。
呪文とは、そんなものである。
「アジマリカン」と唱えて気分が良ければ唱えれば良いのであり、「これを唱えれば良いことがあるぞよ」と強要するようなものではない。








福音書の1つの教えが超実用的だった

こう言うのは不遜だと私も思うのだが、聖書という書物は、この世界の攻略本だ。
ただ、私は、旧約聖書の方は読み通したことがないので、新約聖書・・・それも、福音書(イエス・キリストの物語)に関してしか知らないのだから、私に解る範囲で言えば、「福音書は、この世界の攻略本」である。
さらに親切に言うなら、イエスの教えは、この世界で、楽・・・と言ったら、また不遜に感じるが、まあ、幸福になる秘訣であるということだ。

ただ、どうも、イエスの教えは、神父さんや牧師さんら専門家が言うと、ちょっと余計なものが入るのではないか・・・というのもまたまた不遜かもしれないが、そんな傾向が無きにしも非ず(ないとは言えない)だ。

例えば、イエスの有名な教えに「与えたものが与えられる」というものがあるが、これ1つで100万ドル(超大雑把に一億円)以上の値打ちがある。
詐欺はもちろん、「こんなの皆やってる」と思って不公平な(相手が損な)取引をして、その時は儲かって喜んでも、それと同等、あるいは、はるかに多くが奪われる・・・というのは、道徳の問題ではなく、法則だ。
自分が強い立場にあると、心が弱い人間はパワハラやセクハラをやるが、その時は自分は安全であっても、やった分は、後で容赦なく奪われる。それが分かっている者は、怖くて、パワハラやセクハラなど、絶対に出来ないものだ。
そして、それは、「天、あるいは、神が罰する」と言っても良いのだが、「そういうふうに厳密にプログラミングされている」というのが事実かもしれない。
この世界は、超高性能なコンピューターが作り出す巧妙なVR(仮想現実)世界であるというのは、ほぼ、間違いない。
ただ、我々が知るVRとは全くレベルが違うので、なかなか信じられないのである。
だが、「全能の神が一切を作り、一切を動かす」と言っても、結局、同じことであり、知恵ある宗教者と未来の超高度な科学者は似ている部分がある。

改めて言うと、この世界では「与えたものが与えられる」。
いわゆる、「因果応報」である。
他人に親切にすることは、露骨なまでに得であり、他人を害することは、あまりに損である。
道徳や倫理の問題ではないが、我々は長く、この法則を道徳や倫理として理解していたので、偏っていない限り、道徳や倫理は正しい。ただ、権威者の都合で道徳や倫理が歪められることが多く、その点は注意が必要でややこしいのだが・・・

因果応報を高度に理解し、その法則を教えたのが親鸞で、その教えは『歎異抄』という短い書物に書かれている。
「『歎異抄』こそ究極の書」と言う人が一定数いるのだが、それは、本質においては、この因果の法則の教えゆえだと思う。
一説によれば、親鸞は若い時、修行のやり過ぎで幻覚を見たり、夢のお告げで運命を知ったことがあるが、そのせいで、直観的に、この世界が作り物っぽいことや、この世界を動かす法則に感付いたのかもしれない。

だが、「正直者は馬鹿を見る」という話もあり、それが本当に思えることもある。だから、そんな言葉が知られているのだろう。
しかし、それが誤解であるケースが半分と、もう半分は、貧しい偏見のせいだ。誤解というんは、視野が狭いことが原因で、短か過ぎる時間や、狭過ぎる事象で判断しているのである。
ただ、確かに、「自分は良い思いをするに値しない」といったように、自分を低く評価しているなら、損な役回りをすることもある。
このVR世界は、心の奥の思いが投影されたホログラム映画なのだからだ。
けれども、自己評価が低い者は、心が鍛えられていなくて弱いという面があるのだ。
おそらく、親や教師、あるいは、その他の権力者に押さえつけられてきた経緯があるのだろうが、所詮、自分で顔を上げてしゃんとするしかないのである。













当ブログ著者、KayのAI書。
AIを、自分の能力を拡張してくれる、頼りになるが気楽なパートナーにしましょうというのが、本書の究極の趣旨です。
そのために、数学もプログラミングも、難しいAI理論も不要です。
ただ、今のデジタル時代に何にでも役に立つExcelが使えるスキルがあれば良いのです。
普通の概念を使って学べますし、AIと一緒に挑むための、とても面白いテーマも用意しました。
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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
[AI&教育blog] メディアの風


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