ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

親鸞

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

本物の能力開発は商売になり得ない

息を吸ってしばらく呼吸を止めると記憶力が向上する・・・それも異常なほど向上することを、ヨーロッパで誰かが気付き、それが、スーパーラーニング、加速学習みたいなものになったと思うのだが、これらがさっぱり発展していかないのは、余計なことを付け加えたせいだと思う。
単に、息を吸って止めるだけで良いのであり、他には何もいらない。
だから、商売になどならない。
誰でも、無料で自由に活用すれば良いだけである。
中村天風という、とても偉い人は、肛門を締めよと教えたのは良かったが、やっぱり余計なことを言ったのだと思う。
天風が「肩の力を抜け」なんて言ったという話も聞くが、肩の力を抜くなんて難しいことをサラリと言うなんて、いかがなものかと思う。
肛門を締めるだけで良いのであり、やっぱり商売も教団もやれないのである。
藤平光一氏は、中村天風の一番弟子だったが、天風が偉人であったことは完全に認めながら、教えの全ては間違いだったとバラしてしまった。
その藤平氏の教えも、私には抽象的でさっぱり分からないか、矛盾を感じるかである。
中でも、藤平氏は、天風の言った「腹に力を込めよ」はいけないと言うし、確かに、意図的に腹に力を入れるべきでないとは思うが、肛門を締めれば、自然、腹や、さらには、臀部や脚(太腿や脹脛)にまで力は入るし、それは気持ちいいことなのだから、間違いではない。
やってみれば分かるが、上記を全てまとめ、肛門を締めながら息を吸い、肛門を締めたまま息を止めると、心が澄み、身体に力がみなぎる。

念仏と呪文は、原理は同じで、親鸞自身、念仏を誦文(じゅもん)と言ったこともあるが、誦文と呪文は同じである。
親鸞も、その師、法然も、念仏だけを薦めたが、人間には、言葉が向いている人もいれば、身体で行うことが向いている人もいる。
大抵の人は、それが適度に交じり合っているのであるが、強さの度合いは違うのである。
やはり原理は念仏と同じだが、現代人に合うものとして、万能呪文がある。
「絶対、大丈夫だ」
「全て順調だ」
「世界は意のままだ」
他にも、好きな言葉なら何でも良いが、たった1つの言葉を、感情を込めず、されど丁寧に、心の中で数多く繰り返せば、人間を滅ぼす、頭の中のつぶやきに打ち勝てる。
だが、身体を使うのが好きな人は、肛門を締めながら息を吸い、肛門を締めたまま息を止める方法が向いていることが分かった。
これを、1日20回ほどやれば、目覚しい効果があるが、数に制限はなく、多い方が良い。だが、数は徐々に増やしていくのが良い。
とはいえ、少なくとも、1日10回、志あるなら、20回以上やるべきである。
この肛門を締め、息を止めることは、続ければ超人になってしまう。
だから、謙虚さを要求されるところが、やや難しいところである。
傲慢な超人は必ず滅ぶからである。

だが、一番強い方法は、心からの願いがある場合だけだが、それを1日中でも祈ることである。
そんな願いがある者は幸いであるように見えるが、状況としては不幸である場合が多い。
どういうことかと言うと、「この辛い病気が治りますように」「いじめっ子と会わずにいられますように」といった、厳しいマイナスを解消する希望が、強い願いになるのだからだ。
普通に「彼女が欲しい」というのは、あまり強い願いにならないが、全ての女の子に厳しく見下される日々を過ごす者にとっては、強烈な願いになることがある。
逆境にある者専用の方法だが、実は、これが最強なのである。









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呪文が足りないと

私は、食を節制し、毎日トレーニングを欠かさないので、シェイプされた強く美しい身体を持っている。
また、今月初めに、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2018」に行くまで、誓い通り、毎日欠かさず新約聖書の福音書を読んだ。
大したものだと言ってくれる人はいるが、呪文を十分に唱えていないので、望む高度な状態にない。
一番重要なことは呪文を唱えることであり、修行は趣味のようなものだ。
これは、法然や親鸞の念仏と同じだ。
仏教の戒律を守り、修行をし、寺を建て、僧を世話し、貧しい人に施しを与えることは素晴らしいことであるが、肝心なことは念仏を唱えることである。
それらの善行をいくらやっても、念仏を唱えなければ何にもならないのだ。
念仏も呪文も、原理は全く同じと思う。
つまり、念仏を唱えれば良いのだが、現代人には念仏に抵抗がある人も多いので、五井昌久さんという有名な宗教家は世界平和の祈りを作ったが、こういった宗教的なものに抵抗がある人も少なくないので、私が薦める万能呪文がある。
万能呪文とは、「絶対、大丈夫だ」「全て順調だ」「世界は意のままだ」といった、あらゆることに力を発揮する言葉を1つ選び、それを出来るだけ多く唱えることだ。
効果的な唱え方は、「感情を込めず」「心の中で」唱えることである。

万能呪文を十分に唱えていると、喩えて言えば、この世界は遊び場になる。
浜辺は子供にとって遊び場であるが、深い海の中はそうではない。
世の中は深い海の中のようで、全くままならない。
呪文は心の深いところにあなたを適合させてしまう。
それはちょうど、深い海の中に慣れてしまい、そこが浜辺と同じような遊び場になるようなものなのだ。
あなたは、世の中の人々が、何事もままならず苦労している中で、自由自在に楽しむことが出来るのである。

私も、いくらかは呪文を唱えているので、普通の人から見れば、かなり自由自在なのであるが、満足なレベルからほど遠い。
呪文が十分でないと、頭の中の、悪いヘビが発している勝手なおしゃべりに翻弄されてしまうのだ。

昨日、私の呪文が、まだ半人前であることを教えてくれることがあった。
1つなら偶然だが、2つならありえないという出来事である。
最初の1つは、電車の中で、隣に座っていた10代の美しい少女が、慌てて降りたので、包みを1つ忘れて行こうとしていた。
私は実に格好良く彼女を引き止めて、スマートに包みを渡した。いい気分だった。
その後、駅の広いベンチで、スマートフォンで初音ミクさんの歌に聴き惚れていたら、隣に、8歳くらいの実に可愛らしい少女が来たのだが、立ち去ってしばらくしたら、私は彼女が、ベンチに手提げを忘れていったのに気付いた。
しかし、私は声をかけ損ねた。
「これは本当に彼女のものだろうか?」という疑問は確かに持ったが、それでも声をかけるべきだったのに。
だが、彼女はかなり向こうまで行ってしまっていた。だが、追いかけるべきだった。
幸い、しばらくして彼女は気が付いて戻ってきた。
私は、声をかけなかったことを強く後悔し、ほとんど自己嫌悪を感じた。
呪文が十分でないので、頭の中のヘビの声、「これ、彼女のとは限らないぞ」「もう遅い」に負けてしまったのだ。
最初の易しいケースでは最上の対応が出来たのに、少し難しい状況ではやりのがした。
全く、私の世の中での状況と同じだ。
確かに呪文が少ない。
ただ、相変わらず可愛い女の子と縁があるのは、やはり呪文のおかげだろう。
本当に、いつでもどこでも、そうなのだ。

呪文が十分になれば、誰でも、世界は意のままになる。
そうしたければ、私のように、食を節制し、毎日トレーニングをすることも容易くなる。
格好いい子も可愛い子も君のものだ。
お金なんていくらでも出来る。
嫌いな人に会わないようになるかどうかは分からないが、そいつがあなたに何も出来なくなるのは確実だ。
嫌なやつに苦しめられるのは、まだ呪文が足りないのである。









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現代の念仏

法然や親鸞は、凡人に出来る修行は念仏だけであると認識した。
そして、この世に凡人でない人間など、1人もいない。
親鸞は「優れた御方は、どうぞ難しい方法で」と言いはしたが、その真意は「自分は優れていると自惚れている人間は救えない」である。
法然は、元々、いかなる優れた人間も、そして、神童と言われ、勢至菩薩の生まれ変わりと言われる名声ある自分も含め、念仏以外は出来ないと言い、自ら、もっぱら念仏に励んだ。
一休も良寛も、それに同意し、宗派が違うにも関わらず、最後は念仏を選んだ。

日蓮は、念仏を馬鹿にし、法然を非難したが、結局は自分も、「南無妙法蓮華経」という、念仏となんら変わらない唱え言葉を作った。
彼も、人間に出来る、そして、必要なものは、唱え続ける簡単な言葉であると理解したのだろうと私は思う。

そして、これは今も同じである。
もし、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」という言葉に本当に愛着が持てるなら、これらを・・・ただし、いずれかを選んで、常に唱えれば良い。
どちらが優れているということはない。
全く同じである。
そして、今の時代の人間は、これらの念仏に抵抗を感じる場合が多いはずである。
今の時代の念仏は、
「全てうまくいく」
「絶対大丈夫」
である。
この2つにも、違いはない。
好みでいずれか、あるいは別の自分の好きな言葉を選んでも良い。
とにかく1つの肯定的な言葉を、常に唱えるのである。

ところで、法然は、念仏を声に出して唱えよと言った。
一方、『ヒマラヤ聖者の生活探求』を書いたベアード.T.スポールディングは、「神」という言葉を最上としたが、有声、無声で効果に違いはないと言った。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、一応は呪文にしてはならないと言ったようだが、最強の言葉「私は誰か?」は心で唱えるよう教えている。
どちらが良いかというと、基本的には「好きなように」だが、心で唱えるのが良い。でないと続かない。

「全てうまくいく」「絶対大丈夫」のいずれかを念仏として、常に唱えることで、幸福は約束される。
他に適当な方法はない。
そして、これらも、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と同じなのであるから、念仏の入門書である、法然の『選択本願念仏集』や唯円が親鸞の教えを短くまとめた『歎異抄』が参考になる。
もちろん、現代は、法然がいた時のように、労働以外何もやることがなかった時代とは違うのだから、法然が言うように「まずは1日1万回」など現実的でないが、とにかく、思い出した時はいつでも唱えることだ。
特に、不安に陥った時や、心に嫌な思いが湧きあがってきたような時には、忘れずに唱えなければならない。
法然は、念仏の優れた効果の根拠については、仏典(浄土三部経)を拠り所としているが、正直、仏典は難しい解釈を必要とするし、しかも、百人が解説すれば、百通りの解説になる。早い話が、「これが正しい解釈」というものはなく、各自で好きなように読めば良い。
対して、「全てうまくいく」「絶対大丈夫」を唱えることの効果は、おそらくだが、脳科学や心理学、精神分析学、神経科学から説明出来ると思う。
今のこれらの科学で説明出来るし、未来の科学では、もっと説明出来るだろう。

『ヨハネ福音書』の初めに、「言葉は神である」と書かれている。
もちろん、これがどんな意味かは「誰にも分からない」。
神も仏も同じである。
だから、クリシュナとかアミターバ(阿弥陀仏)という神仏の名を唱えるのは良いことであるが、言葉が神なのであり、「全てうまくいく」「絶対大丈夫」という言葉も神である。これらの言葉を唱えれば、必ずや神の恵みがあり、現代人には抵抗がない。
そして、教わるまでもなく、うまくいく人間は、頭の中で「大丈夫」「オールライト」と常につぶやく習慣を持っているのである。
「7つの習慣」や「13の習慣」として知られているものは、誰にも満足に出来ない。
しかし、言葉を使うことは誰でも絶対に出来るのである。
独断であるが、7つとか13とか、あるいは、30の習慣を薦めている成功者も、本当は、常に1つの言葉を頭の中でつぶやいているだけなのである。









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念仏の15の効能

法然、親鸞は、「こんなことをしてはならない」「こんなことをせよ」などとは一切言わず、ただ、念仏を唱えさえすれば良いと説いた。
それで万事OKであると。
親鸞は、念仏の効果を、具体的に、こう説いた。
01.健康と長生き
02.災難の消滅
03.過去世や今生で犯した罪が許される
04.悪因縁は消えて良いことしか起こらない
05.最高神が守ってくれる
06.仏教の守護神が守ってくれる
07.天の神、地の神が守ってくれる
08.力ある精霊(龍等)が守ってくれる
09.閻魔大王の命令で、その配下の存在が守ってくれる
10.大魔王が守ってくれる
11.善い神が守ってくれる
12.悪い神(鬼神)は恐れて近寄らない
13.観世音菩薩、勢至菩薩が夜も昼も常に守ってくれる
14.阿弥陀仏の無数の分身が守ってくれる
15.無数の仏が百重千重に囲んで喜んで守ってくれる

偉い宗教家は、「言葉通りに受け取ってはならんぞよ」などと言うが、親鸞は言葉にひねりを持たせるような「ひねた」人ではなかった。
だから、言葉通りに取れば良いのである。

だが、これは仕方がないことかもしれないが、今の時代では、念仏を素直に受け取れない人も多いだろうし、素直に受け取れないことが悪いことではない。
しかし、言葉というものは、どんな言葉であろうが、力があるのである。
それを「言霊」と呼ぶかどうかは自由である。
良い言葉は良い影響を、悪い言葉は悪い影響を及ぼす。ただ、それだけのことだ。
ただ1つの、好きな言葉を選び、それを念仏同様、常に想ったり唱えたりすれば、それに応じた成果が得られる。
それがなぜ大事かと言うと、人間には、世界も心も支配することは出来ないからだ。
そうだ、自分の心すら全然自由にならない。
心を自由に支配出来るなら、イエスが言うように、山を動かすことも出来る。
だが、心はあなたに従ってくれないことは、よくご存知と思う。
けれども、言葉は支配出来る。それさえやれば全てを得られるのに、ほとんど誰もやらない。
世界を支配した者は、単に言葉を支配したのである。
そして、法然や親鸞は、その一番簡単なやり方を教えたが、彼ら自身も、その一番簡単なやり方しか出来ないと言ったのである。

だが、我々は科学を学び、理屈で考えることに慣れてしまった。
だから、特定の神や仏に力があると考えることに抵抗がある。
しかし、宇宙の隅々に、あるいは、心の奥に、不思議な強大な力があることは直観で分かるはずである。
それを発動させる言葉をたった1つ選べば良い。
ただ、そう言うと、言葉を選ぶことを難しいと思ってしまう。
学校で「正解は1つ」と教えられたからだ。先生が決めた答以外は不正解と教えられてきた。
だが、実際は、先生の答が間違いである場合が何と多いことか。
特別な言葉は、とりあえずで決めれば良く、どれにも、さほどの差はない。
やがて、もっと気に入る言葉が見つかれば、それに変えて良いのである。
「神の他に何もない」
「神にできないことは何1つない」
「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでも出来る」
「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るであろう」
「予想しないことが起こり、道は開ける」
「神は道なきところに道を作る」
「奇跡は起こる」
「私と神は1つである」
「神が私のパートナーである」
「世界はただ私のためにある」
「命、愛、調和」
「成功、富、歓喜」
「私は健康だ。私は幸せだ。私は素晴らしい」
いずれも選りすぐりの光線銃だが、御代はいらない。
ただ、2つ選ぶと、大抵は続かない。
光線銃という鉄の斧1つを使えば、金の斧、銀の斧などなくても全てを得られるのである。









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皆がサイコパスの世の中で

一種のサイコパス(脳機能の欠陥により良心を持たない人間)テストである。自分がサイコパスか試せる。
相手が、友達でも、兄弟姉妹でも、親でも、あるいは、娘・息子でも良いが、辛辣で明らかに深く傷付ける言葉を言ってしまい、その相手が自殺するかもしれないと思って、ひどく悔やんだとする。
ところが、普通の人とサイコパスでは、悔やむ理由が全く違う。
普通の人なら、罪の意識に苦しんで悔やむ。
しかし、サイコパスは、相手が自殺したり、それが元で死んだり、病気になったら、葬式に行ったり、面倒に巻き込まれるのが面倒だから、あるいは、後で仕返しされるのが恐いから悔やむ。

新約聖書の福音書で、イエスは、「『私は戒律を守っている。収入の1割を献金している』と言う者ではなく、『主よ、罪人である私を憐れんで下さい』と祈る者が救われる」と言った。
普通の人はそれを聴くと、自分の罪深さを自覚し、イエスに教わった通りに祈る。
しかし、サイコパスは、「そう祈れば苦しい目に遭わないなら自分もそう祈る」とか、「そう祈りさえすれば、戒律を破ったり、献金をしなくて良い」と思う。

ジャーナリストのジョン・ロンスンは、TED講演「サイコパステストへの奇妙なこたえ」の最後に、「みんなどこかサイコパスなんだ」と言ったと思うが、本当にその通りかもしれない。
サイコパスは、脳の共感能力が欠損しているか、弱い。
その欠損具合、あるいは、弱さが、サイコパス度を決めるとしたら、今は、サイコパス度の高い人間が増えている。
つまり、悪いことをしているのに、本人には悪意がないのである。
こういう輩は、本当に始末に追えない。

『みなしごハッチ』という、『みつばちマーヤ』を元にしたようなアニメで、ハッチは、蜘蛛の母親とその息子を命懸けで救う。
蜘蛛の息子の少年とも仲良くなったように思えた。
ところが最後、蜘蛛の息子が、「母さん、こいつ食べようよ」と言ってハッチに襲い掛かろうとしてハッチを驚かせる。
ハッチが「どうしてそんなことをするんだ?」と尋ねると、蜘蛛の息子は「お腹が空いたからだ」と当たり前のように言う。
蜘蛛の母親は、「これが私達の浅ましい本性なんです」とハッチに済まなそうに言う。
この蜘蛛の息子は、「主よ、浅ましい私を憐れんで下さ」とは祈らないだろう。
いや、「主よ、浅ましい私を哀れみ、(ハッチのような)美味しい獲物をいつも下さい」となら祈るかもしれない。

普通の男が痴漢をしないのは、主には道徳心のためだが、サイコパスの場合は、「捕まったら大変だから」である。
つまり、頭が悪くて、捕まらないと思い込んでいるから本当に痴漢をする。
いくら好みの女性がいても、まともな思考力を持った人間なら、たとえサイコパスでも痴漢はしない。
痴漢をするのは、頭の悪いサイコパスである。
女生徒に手を出す教師というのも、サイコパスで、オツムの方はあまり良くない。
いくら計画的にやったからといって、どこかで拙いことになる可能性があるくらいのことは、ちょっと思考力があれば分かるはずだが、受験勉強だけやった者は思考力がほとんどない。
しかし、いずれにしても、そいつはサイコパスだ。

親鸞の教えによれば、どんな人も念仏を唱えれば救われる。
なぜなら、念仏の力を妨げるほどの悪は無いからだ。
しかし、さすがの親鸞も、ここまで人間のサイコパス度が上がるとは予想していなかったのだろう。
ところが、サイコパスが念仏を唱えたという話はある。
殺し、盗み、姦淫など、やりたい放題で、罪の意識はゼロであった。
だが、何日も念仏を唱えまくって絶命する。
それが本当なら、サイコパスにだって、心の奥に、何か良いものがあるのかもしれない。
現代人はみんな、どこかサイコパスである。
しかし、きっと、心のどこかに、神や仏はいるのだろう。
では、どうすれば良いかというと、「言葉」しかないのである。
人間には、心も運命もコントロール出来ない。
しかし、言葉だけはコントロール出来る。
ならば、内なる神と通じる言葉を、嘘でもいいから唱えることだ。
たった1つの言葉を、死ぬまで何度でも。
何もなければ「神」とだけ言っても良いし、「神は偉大なり」といったような「神」が付く肯定的な言葉を言えば良い。
それで、自分と世界は救われるだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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