ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

親鸞

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

「愛」が分かる話

イエス・キリストに、「一番重要な戒律は何か?」と尋ねたら、イエスは、「神を愛すること」と答えた。
『バガヴァッド・ギーター』の中でも、神クリシュナは、「我を愛せよ」と述べている。
ここで、時代を超え、国を超えた普遍的な命題「愛とは何か?」「愛するとはどういうことか?」が問題になる。

男なら美女や美少女を、女なら美男や勇者や金持ちの男を愛するというのは、分かるような気がするかもしれない。
しかし、それは本当の愛ではない。
では、愛とは何かというと、実に簡単なことで、名前を呼ぶことだ。
多く呼べば呼ぶほど愛しているのである。
ピンと来ないかもしれないが、そうなのである。

キリスト教やユダヤ教では、神の本来の名はヤハウェであるが、神の名はみだりに唱えてはならないと言われている。
ただ、それは、口に出すなという意味で、心で唱えるのは大いに良いのだと思う。
ところが、イエスは、神のことを「父」「アバ(父の幼児語。パパに近いと思う)」と呼んでいたが、これは分かると思う。
自分の父や母を愛するとしても、実際の名前で呼ぶよりは「お父さん」とか「お母さま」などと呼ぶと思う。
それも名前なのである。
(ただ、イエスは、信者達に、自分の名を呼ぶようにも言っている)
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、神のことを、「天照大神」と呼んだが、しばしば「親様」とも呼んでいる。
また、江戸末期から昭和初期の妙好人(在家の念仏者)、因幡の源左の父は亡くなる時に、源左に「これからは親様を頼れ」と言ったらしいが、この親様とは阿弥陀如来のことである。
念仏はまさに、阿弥陀如来の名を唱えることであるから、数多く唱える者は、それだけ阿弥陀如来を愛していると言うことが出来、法然は1日6万回も唱えたという。

インドでは、神の名を唱える行をナーマスマラナと言うが、クリシュナ神の「我を愛せ」の言葉通り、クリシュナの信者は、数多く「クリシュナ」の名を唱える。
ラマナ・マハルシの弟子だったブンジャジは、働きながら「クリシュナ」と1日4万回唱えたという。

ノーベル賞作家アルベール・カミュの代表作『異邦人』に、こんな印象深い場面がある。
若く美しい娘マリーが、主人公の青年ムルソーに、「結婚してくれる?」と尋ねると、ムルソーは「いいよ」と即答する。
喜ぶマリーは、ムルソーに「私を愛してる?」と尋ねるが、当然、マリーは、ムルソーの「そうである」を意味する答を期待したことだろう。
ところが、ムルソーは、「分からないけど、多分、愛してない」と答え、マリーをうろたえさせた。
そういえば、ムルソーは、亡くなったばかりの母親について、「ママのことは、多分、好きだった」と微妙な言い方をしていたものだ。
だが、マリーだって「愛する」という意味が、多分、分かっていない。
マリーを愛するとは、マリーの名を多く心で想うことなのだ。

アニメ『ツバサ・クロニクル』で、サクラがシャオランに尋ねる。
「シャオランは私のこと考えることある?私はシャオランのこと、ずっと考えてるよ」
すると、シャオランは、
「俺も、サクラ姫のことを考えているよ、いつも」
と答える。
2人とも気付いていないかもしれないが、これは、お互いが、いつも名を呼び合っているということなのである。

もう一度名前呼んで!
「初音ミク!」
~『39みゅーじっく!』(作詞・作曲・編曲:みきとP。唄:初音ミク)より~

Miku, Miku, you can call me Miku
(ミク ミク ミクと呼んでね)
~『Miku』(Anamanaguchi feat. Hatsune Miku)より~

14世紀のインドの聖者ナーマデーヴァ(ナームデーヴ)が、『聖なる名前の哲学』に、
「名前はケーシャヴァ(クリシュナ神)そのものである」
と書いた通り、名前と実体は等しい。
神の名は、神そのものなのである。
愛する人の名を、心で丁寧に数多く唱えれば、その人からも愛される。
神の名を、心で丁寧に数多く唱えれば、神に愛され、あらゆる恵を受け、救われる。
ユニティ教会のチャールズ・フィルモアが述べた通り、「神は与えたがってウズウズしている」からである。
親鸞も、念仏を唱えれば、利益に極みはないと述べている。








幸運を呼ぶ最後の方法

人間が持つ力には、いろいろなものがある。
極めて大きな力に、権威というものがあるが、今の日本で権威を持つのは皇室だけだ。
で、それ以外となると、富、健康、友愛となる。
富や健康はともかく、友愛が力だというのはピンと来ないかもしれないが、これほど大きな力はあるまい。ただし、本物の友愛であればだが。

そして、富も健康も友愛も、努力して得られるかどうかは分からない。
それらが得られるかどうかは、運次第だ。
つまり、結局のところ、人間が持つ一番大きな力は運であることが分かる。
皆、大なり小なり、心の中では、それを分かっている。
それで、「運を得る方法」が書かれた本は人気があり、そこそこ良いことが書かれているものもあるが、劇的な効果はない。

江戸時代の高名な観相家(顔や身体の相で運命を鑑定する者)であった水野南北は、
「運の良し悪しは、食の量で完全に決まる、即ち、食多ければ衰運で、食少なければ幸運である。これに万に一つの外れもなかった」
と断言した。
(ただし、「食べられない」のではなく、自主的に「食べない」ことが必要である)
水野南北の主張は、ほぼ正しいと思う。
よって、極端に小食にする必要はないが、食を慎むことはお勧めする。
だが、それでも、因縁の力は強く、悪因縁(悪業)が強い場合は、断食が必要なことがあり、それで命を落とすこともある。
これに関しては、新約聖書の福音書に、こんな話がある。
ある、悪霊に憑りつかれた男がいて、イエスの弟子達が、その男から悪霊を追い出そうとしたが、出来なかった。
イエスは、後で、「このような場合には断食が必要だ」と言った。
つまり、この悪霊に憑りつかれた男の悪因縁(悪業)が強過ぎ、イエスの弟子達の力ではどうにもならず、本来なら、この男は厳しい断食をする必要があった。
それこそ、死ぬほどの断食が必要な、あるいは、それでも足りないほどの悪因縁(悪業)だったかもしれない。
だが、イエスは簡単に悪霊を祓ってしまった。
ではなぜ、イエスにそれが出来たのかというと「格の違いだ」と言えばその通りなのだが、私は、福音書は、重要な記述が取り去られ、貴重な方法が隠されたような気がするのである。

親鸞は、深い悪因縁(悪業)を祓うには念仏だと言ったのである。
つまり、神仏の名を唱えるナーマスマラナが、そのやり方なのである。念仏もナーマスマラナの1つである。
ただし、普通の人では、かなりの数が必要である。
イエスは、磔になる直前に、「私の名で求めよ」と言い、自分の名を唱えることを教えたが、やはり、福音書には、これが曖昧な雰囲気で書かれ、「イエスの名を唱えれば良い」と気付いた人は少ない。
つまり、神仏の名を呼べば、必ず幸運を呼べるのである。ただし、心の中で、丁寧に数多く唱えれば。
イエスでも、南無阿弥陀仏でも、阿弥陀仏でも、南無観世音菩薩でも、観世音菩薩でも、アマテラスオホミカミでも良い。
自分の好きな神仏の名を唱えれば良いだけである。








真言を気楽に唱えるコツ

真言を唱えれば、いかなる問題も解決し、救われる。
ただ、真言を唱えることがストレスになっては、どうしようもない。
尚、ここで言う真言とは、念仏、仏教のマントラ、神の名の称名、神道の祓詞や祝詞、言霊、音霊、あるいはその他も含む。

親鸞は、人間をよく知っていたのだと思う。
彼は、念仏は、一生で十度でもいい、いや、一度でいい、いやいやいや(笑)、一度も唱えなくていい。
ただ、唱えようと思いさえすれば良いと言ったのだ。
まあ、それで師の法然には怒られたらしい。
法然も、決して高貴な身分の者とだけ接していたわけではないが、おそらく、親鸞は、高貴でないどころか、かなりひどい外道の者とも沢山会っていたのである。
そんな者達に、念仏を1日百回唱えよと言い、もし納得してくれたとしても、下々の者達にとっては、それがストレスになってしまって、念仏を唱えることをやめてしまえば、もう二度と唱えないのだ。
しかし、「唱えなくていいよ。ただ、唱えようとだけ思って欲しい」と言えば、たとえ念仏をやめてしまっても、また思い出して唱えてくれるかもしれない。

先日、私が大嫌いな物理学者の保江邦夫氏(ここまで言うからには、よっぽど好きなのだという説もある)がYouTube動画で、こんなことを言っていたのを書いた。
奈良時代に天然痘の大パンデミックが起こり、日本が深刻な状況に陥ったが、時の聖武天皇(しょうむてんのう)は、今日で5千億円に相当すると言われる巨費をかけ、奈良の大仏を作った。
すると、その完成した大仏を見て、人々は大感動し、それでストレスがぱーっと消え去った。そうしたら、パンデミックも収まった。
今のコロナも、人々のストレスが消えれば、静まってしまうに違いない。
まあ、今、5千億円で大仏作ると菅総理が言ったら、あっという間に彼は失脚だし、かといって、オリンピックみたいな利権まみれ欲望だらけのイベントで人々が本当に感動したりはせず、人々のストレスが消えることはない。
しかし、真言を唱えた人は完全に守られる。
とはいえ、その真言自体がストレスになっては意味がないのである。

ストレスは人間最大の敵だ。
ストレスがなければ、人間は全く歳を取らず、二百年でも三百年でも生きられる。
嫌いついでに、もう1つ、保江邦夫氏の話をするが、彼はだらしない男なので(笑)、血糖値が高く、ある時、病院で検査したら、血糖値が470という、とんでもない数値(生きてるのが不思議レベルとか)だったらしい。
それで、食事の節制をし、頼みの気功師の治療も受けたが、少し下がった程度らしい。
ところが、こんなことがあったという。
保江氏の大学時代の仲間が田舎に帰るので送別会を行い、神戸ビーフのレストランに行ったが、保江氏は、翌々日、病院の検査があるので、大好きな赤ワインは飲まないことにした。
しかし、周りの者達が飲んでいるのを見て、保江氏は我慢が出来ず、とうとう、赤ワインを注文し、ジャンジャン飲んだそうだ。
それで満足し、よく眠れたが、病院に検査に行くと、血糖値がぐーんと下がっていたという。
つまり、我慢してストレスを抱えるのが最も悪く、楽しくやることが大切なのだろう。

私にも、こんな経験がある。
私は、朝食と昼食は食べないが、甘いものが好きなので、昼にキャラメルコーンを一袋の半分ずつちまちま食べていたら、不満足なため、ストレスが溜まり、体重が増えた。しかし、一袋食べて満足するようになったら、体重が減ったのである。
もちろん、度を超してはいけないが、人生は楽しくやるべきなのである。

まあ、面倒なことは考えなくても、真言を唱えさえすれば、全部片付き、楽しいこと、嬉しいこと、面白いことばかりである。
だが、その真言を「唱えねば」と真面目にやろうとしてストレスになっては、どうしようもない。
多少の根気まで必要ないとは言わないが、気楽にやることである。
そして、真言をなかなか唱えられなくても、「常に唱えよう」という気持ちだけ持っていれば、やがて、自然に唱えられるようになるし、案外、自分も知らないうちに唱えているかもしれない(そんな真言こそ理想かもしれない)。
真言は、本来、唱えて楽しいものである。
何と言っても、真言とは、この上ない慈愛に満ち、そして、想像を超える超強大な力を持った存在に甘えることなのだが、それらの存在は、甘えれば、いくらでも甘やかしてくれるのだから。
阿弥陀如来といい、観世音菩薩といい、天照大神といい、みんな、そうなのだ。
真言を、気楽に、ただし、丁寧に、楽しく唱えていれば、他に何もする必要はないのである。
たとえ今は、十分に唱えられなくても、「いつも真言を唱えよう」と思いさえすれば良い・・・これが真言を続けるコツである。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か』(ラマナ・マハルシ著)より~

ちなみに、私は、保江邦夫氏は、やはり大嫌いである(笑)。








一生浮かばれない運命なら

私が以前勤めていた職場に、私が「まるで駄目男」と呼んでいた、とにかく、駄目な30歳過ぎの男がいた。
こう言ったら、
「いるよね!駄目なやつ!」
みたいなことを言う人もいると思うが、そんなレベルの駄目ではない。非現実的に駄目なのだ。
ところが、やはり、こう言っても、
「いますよね。本当に徹底的に駄目なやつ」
と言う人がいると思うが、普通に想像出来る駄目とは全然違うのだ。
いや、実を言うと、私にも想像出来ない。
最も当を得た言い方をするなら、「まるで駄目男は人間ではない」とでも言うしかない。
こう言うと、
「えー!それはオーバーじゃないですか?」
と言いたい人もいるかもしれないが、少しもオーバーではないのだ。
人間が持っているはずの重要なものを持っていない。あるいは、それが壊れてしまっているのだ。
あまり言うと、差別主義者だと思われかねないが、まるで駄目男は本物の異常者で、ある意味、超珍品である。
ところが、一見すると、まともなのだ。
頭が悪いわけではない。むしろ、まるで駄目男は、頭は良い方だったと思う。
ところが、まるで駄目男は、理屈は理解出来るのに、彼の言動は全く理屈に合っていない。

いや、考えていたら、私がおかしくなってきた。
妖怪人間なら、まだ、妖怪が出たら退治出来るが(まあ、出ないだろうが)、まるで駄目男は何の役にも立たない。
どうやれば、ここまで異常なまでの駄目な人間が出来るのか・・・興味と言うより、恐怖を感じる。

ところが・・・
そんなまるで駄目男のことを、そこまで気にし、さらに、見ていてイライラするということは、何のことはない。
私がまるで駄目男なのである。
そして、最近気付いたが、あの時の職場にいた連中は、皆、まるで駄目男であった。
類は友を呼ぶ・・・もちろん、誰も、まるで駄目男を友とは思っていないだろうし、何より、自分がまるで駄目男と同じと思っていないだろうが、結局、皆、「おなじ穴のムジナ」だった。
ただ、まるで駄目男以外は、何か出来るように見えるだけである。
本当は、何も・・・とは言わないが、大したことは出来ない連中だった。

そろそろ本題に入らないとヤバい(笑)。
私は、まるで駄目男を、なんとかしてやろうと思った。
さっきも言ったが、彼は、頭は良いのだから、少々足りない部分があっても、特技があればカバー出来ると思ったのだ。
しかし、特技は決して身に付かないことが分かった。
まるで駄目男は、職業訓練校みたいなところで、ワードやエクセルは習得し、そういったものはちゃんと使えた。
けれども、出来るのは、ソフトを立ち上げ、「これを入力しろ」と言われて渡された紙の内容を、そのまま打ち込むことまでだった。
まあ、子供が書くような日記とか、簡単な調べものをして書くくらいは出来るだろうが、仕事というレベルのことは一切出来ない。

最終的に私は悟った。
これは絶対に本当なのだが、まるで駄目男は、一生、まるで駄目男で、生涯、何も出来ないし、どうやろうが、出来るようにならない。
いかに理不尽で、いかに不思議であろうが、それが事実だ。

さて、そんな人間を、あなたは救えるだろうか?
普通には、絶対に無理だ。
だが、今なら、まるで駄目男を救うことが出来ると分かる。
真言を唱えれば良いのである。
逆に言えば、真言を唱えることでしか救われない。
なぜ、そんなことが言えるのかというと、今では私は理屈で説明出来るが、書けば長いし、そんな理屈に関しては何度も書いたので、ここでは書かない。
そんな理屈より、真言を唱えると救われると言える最大の理由が、私がそうであったからだ。
私とまるで駄目男の違いは、私は真言を唱えるまるで駄目男で、彼は、真言を唱えないまるで駄目男だということだけだ。

私と彼以外に、世の中に、どれだけまるで駄目男がいるのかは分からない。
結構いるような気もするし、ひょっとしたら、全員がそうかもしれない。
そうでないように見える者というのは、単に、そうでないように見えるだけかもしれない。
しかし、それはどうでも良い。
重要なのは、まるで駄目男を救う唯一の方法が真言であるということだ。

まるで駄目男は、普通の道では一生浮かばれない。
これは、普通の人間として生きていくなら、何も良いことはないということだ。
それなら、超能力者、仙人、天狗になるしかない。
これを「諦め」と言うのかというとおかしい気もするが、とにかく、人間としての自分に見切りを付けるしかない。いや、元々人間でなかったと思うべきかもしれない。
つまり、真言を唱えて、超能力者、仙人、天狗・・・といった言い方に抵抗があれば、異次元生命体とでも言えば良いが、とにかく、普通の人間ではない何かになるしかない。
人間を諦めろ・・・この言い方が悪いなら、とにかく、当たり前の人間を諦めないといけない。

だが、あのまるで駄目男は、勧めても、おそらく真言を唱えまい。
そういったところは、妙に常識があるのだ。
「真言を唱えれば超人になる?そんなアホな!」
という、「まともさ」は持っているのである。
だが、それが彼の悲劇であろう。
「オン、アロリキャ、ソワカ」と唱えよと言っても、それを馬鹿にしてくる「世間的賢明さ」はあるのだ。
だが、私は、常識のない蒙昧無知であったから救われた。
しかし、それで言えば、法然や親鸞は、常識のない蒙昧無知であった。
特に親鸞は、「念仏以外には一切何もしなくて良い(これは法然も同じ)」「善いことをしなくて良い、むしろ、善いことをしてはならない」「いくら悪いことをしても構わない」と教えたのである。
なぜ『歎異抄(親鸞の教えを弟子の唯円が思い出して綴った書)』を読むとほっとするのかと言うと、「これなら出来る」、いや、「これしか出来ない」と、心の底では分かっているのだろう。
とにかく、私に関して言えば、真言を唱えて、超能力者、仙人、天狗、あるいは、異次元生命体を目指すしか道はないように思う。








全てを得るキーワード

全てに通じる汎用的な極意というものがあるとすれば、それは「自主性」だ。

学校では、暗記というものをさせられる。
この暗記が良いか悪いかという議論は絶えない。
学生時代からずっと超秀才で、東大、東大大学院と進み、28歳で学術学博士になった東浩紀さんという評論家・思想家がいる。
彼が、日本の受験制度を批判する脳科学者の茂木健一郎さん(彼も東大、東大大学院卒)に、暗記は必要と言ったという話をWebで見たことがある。
そして、昨日だが、上級の税理士である母親が中3の娘に暗記の重要性を力説するツイートを見た。
一方、アインシュタインは「私は光速(が秒速何mか)など知らない。調べればすぐ分かることを覚えたりしない」と言った話がある。実際、彼は暗記が苦手で、大学受験に失敗している(制度を利用して無試験で入学した)。

暗記が良いか悪いか?
答は決まっている。
「自主的な暗記なら良い。強制的な暗記なら悪い」
である。
「学校で暗記させられて覚えました」と言う者は愚か者である。
自主的に、繰り返し読み、その結果覚えた暗記なら良いのである。
「知識だけの人は駄目」とか言うが、それは、強制的に覚えさせられた(暗記させられた)人は駄目ということである。
自主的に覚えた物知りが「知識だけの人」であるはずがない。

暗記に限らない。
ある政治犯が、逮捕されて刑務所に入れられ、3年の間、発言が許されなかった。
この政治犯は釈放された時、
「私は3年のマウナ(沈黙の行)を成し遂げた」
と言った。
しかし、インドの聖者ラマナ・マハルシは、
「強制された沈黙はマウナ(沈黙の行)ではない」
と否定した。
マハルシ自身、17歳くらいの時に、3年ほどの沈黙の行を行っていた。
もちろん、誰にも指図されず自主的に。

メジャーリーグの4割打者テッド・ウィリアムズやイチローは、誰よりも多く素振りをしたが、彼らは、自主的に素振りをしたから超人的バッターになれたのである。
「素振りをしろ」と強制的に素振りをやらされた選手が良い選手になるはずがない。

松下幸之助は、経営セミナーで、今後はダム経営(社内に「社内留保」に該当する現金を保有すること)が必要であると言った時、受講者が、
「どうすれば社会留保が得られますか?」
と質問した。
それに対し、松下は、
「社内留保を持ちたいと願うこと」
と答え、皆が笑ったが、若き日の稲森和夫は笑わず、それを真面目に受け入れた。
社内留保が必要だと追い立てられて持つのではなく、経営者が自主的にそれを持とうと願うことが必要なのである。

『パーマン』という漫画・アニメでは、パーマンのマントをつけると、時速91kmで飛べる。
ある時、パーマンからマントを奪って、そのマントをつけた男が、パーマンに「どうやったら飛べるんだ?」と尋ねた時、パーマンが「飛びたいなあって思うんだ」と言ったことが、非常に印象的だった。
強制的に飛ばされるのではない。
自主的に飛ぼうと思わなければならない。
パーマンのマントは、宇宙テクノロジーであるらしいが、漫画ながら、実に納得出来るのである。

『歎異抄』の中に、親鸞が語った念仏の極意があった。
これは誤解されることがあるが、親鸞は、
「念仏を唱えなくても良い。唱えようと思えば良い」
と言った。
これもまた、「唱えさせられる」念仏は駄目で、「自主的に唱える」念仏が良く、むしろ、強制的に唱えさせられるより、唱えなくても唱えようと思う自主性が大事だと言っているのに違いない。

空海は「真言は不思議だ」と、その威力を語ったが、自主的に唱える真言が不思議なのである。
念仏も真言の1つだが、例えば子供に、強制的に真言を唱えさせても駄目なのである。
だが、自主的に真言を唱えれば唱えるほど力を得、無敵になっていくのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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