ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

親鸞

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

夏休みの早朝

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが「幸い(幸福)って何だろう?」と、自分やカムパネルラに問う場面がある。
ジョバンニは、それは、他の人の幸い(幸福)のために生きることであると言い、カムパネルラもそれに同意したと思う。
ただし、それは、いきなり出てきた疑問と答ではなく、ジョバンニの最近の辛い現実と、銀河鉄道に乗ってから起きた、様々な経験から起こった疑問と答であったはずだ。

幸せというなら、子供の時の夏休みの朝に感じたことはないだろうか?
子供達に、惰眠を貪らせないという配慮からか、我が国では、夏休みに、子供達に早朝ラジオ体操への参加を義務付けることが多いが、確かに、これをしないと、遅くまで寝ている子が多くなるに違いない。
そして、早起きは、身体に良いとかより、確かにもっと素敵なことがある。
『アラビアのロレンス』で知られる、トーマス・エドワード・ロレンスが『知恵の七柱』の中で、砂漠の朝の神秘的な体験について語るところがあるらしい(私は『知恵の七柱』自体は読んでおらず、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』での引用で読んだ)。
その神秘体験こそ、幸福そのものであるが、なぜ、そんなことが起こるのかというと、脳が半分眠っているからである。
それは、夏休みに早起きした子供達にも、よくある状態のはずなのだ。
私もそうだったし、ロレンスの体験について見ると、私も同じだったと感じるのである。
それはどんな体験かというと、世界の意味をピュアに感じるとでもいうものではないかと思う。

だが、ロレンスは、早朝ならいつでも、そんな体験が出来ると言うのではなく、「稀に」と言っているが、子供達は、夏休みの朝、割合に頻繁に体験していると思う。
けれども、あまりよく覚えていないのだ。
では、ロレンスと夏休みの子供達では何が違うかというと、ロレンスに限らず、大人は、目覚めるとすぐに思考を働かせることだ。
実際、ロレンスは、それが起こるのは、「考え続けて疲れた朝」であることを挙げている。それによって、思考がなかなかやって来ないということだろう。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、人間にとって、最も貴い「存在の体験」は、やはり、目覚めて、思考がやってくるまでの間と述べていた。

だが、その幸せの体験は、いつでも出来る。
アイルランドの詩人W.B.イェイツは、「憎むのをやめた時に、それが起こり易い」と言った。
しかし、総じて言えば、絶対にこうなのだ。
それは、「心配をしない時」だ。
イエスが「汝、思い煩うことなかれ」と言った通りである。
疲れて、思考が起こらない朝は、心配していないのだ。
江戸時代末期の神道家、黒住宗忠は、長く病に伏せって、死を覚悟した時、その体験が起こり、病気が治ってしまった。
宗忠は、その体験を、早く皆に伝えたいと思ったが、それを言葉で表現することは難しかったと思う。
宗忠は、いろんな心配で病気になり、自分は死ぬんじゃないかと心配したが、生きることを諦めて心配することをやめた時に、幸せが起こったのだ。
ジョバンニも、銀河鉄道の中で、一切の心配が消えたのだ。

一切の心配を消す方法の1つが念仏である。
実際、末期の癌で、もうすぐ死ぬという人が、『歎異抄』を読みながら念仏を唱えていたら、一切の心配がなくなって、見事な往生を遂げたというような話は多い。
もっと早く念仏を唱え始めていたら、癌も治ったかもしれないが、それは本人にとって、さほどの問題ではないかもしれない。
なぜ、念仏で心配が消えるのかと言うと、念仏とは、阿弥陀如来に象徴される無限の知恵と力に一切をまかせて安心することだからである。
正直、宗教やお坊様が話される念仏では、ピンと来ない場合が多いような気がする。
また、法然の『選択本願念仏集』では少し難しいかもしれないが、親鸞の弟子、唯円が書いた『歎異抄』なら、これの変な解説を読まなければ、念仏の意味が分かるのではないかと思う。









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心配はしないが馬鹿ではない

ラルフ・ウォルドー・エマーソンが『自己信頼』の中で、経済的な心配をしたことがない少年を称賛していたことが印象的だ。
当時(1800年代)のアメリカでもそうだったようだが、現代の日本でも、大半の家庭の子供がそうだろう。
つまり、食べるもの、住むところ、着るものは、あって当たり前だと思っているし、それを得ることが困難であるとは夢にも思っていない。

上皇上皇后両陛下が、天皇陛下、秋篠宮様をお育てになる時、「食事が魔法で出てくると思わせない配慮をした」という話を聞いたことがあるが、それでも、皇室どころか、多少貧しい家の子供であっても、ある程度は、生活は魔法で成り立っていると思うものなのだと思う。
イエス・キリストは、「何を着るか、何を食べるかで思い煩うな」と言い、さらに、「鳥は働かないけれど、神は鳥を養われる。まして、あなた方は鳥よりずっと優れたものであるから、神が面倒を見ないはずがない」と、生活の心配をしてはいけないと教えていたのは、よく知られている。
そして、エマーソンは、生活の心配を一切しない少年の意識が、少年に現実の力を与えていることを、はっきり述べているのである。

サラリーマンだって、給料は魔法で出てくるのだという感覚でいる者が多く、そんな者は「意識低い系」であると思われているかもしれない。
そうではなく、「自分の給料はしっかり自分で稼ぐ」と思う社員が立派だと言われることが多い。
しかし、どうだろう?
一人の社員が、自分の力で出来ることは大したことではない。
むしろ、自分の個人的能力にこだわる社員は問題を起こしたり、会社にもあまり良い影響を与えないものである。

とはいえ、子供にしろ、サラリーマンにしろ、あまりにのほほんとし過ぎているのも問題だというのは言うまでもない。
かといって、自分の力にこだわると心が貧しくなる。
つまり、「心配してはいけない」「横柄、高慢であってはならない」を両立し、「心配はしないが、高慢でもない」でなくてはならないし、そうであれば、高次元の力が加護するのだと思う。
そして、その意識を持たせるのが、本来は宗教なのである。
つまり、宗教とは、支配のためのものでもなければ、道徳を教えるためのものでもない。
そんなふうに、宗教の扱いを間違っているから、宗教が胡散臭いものになってしまったのである。
イエスもだが、法然や親鸞の念仏も「心配はしないが高慢にもならない」ためのもので、念仏を唱えていれば間違いないというのは、少しも不思議なことではない。
高次元の力の加護を語っている『福音書』や法然の『選択本願念仏集』、あるいは、『法華経』の25品である『観音経』の内容は、現代の感覚に合わない部分があるのは、時代が違うのであるから当然である。だが、それを了解して読めば良いのであり、「全部良いか、全部駄目」しか受け付けないというように頭が固いようでは駄目である。
しかし、吉本隆明が、「宗教家ではなく思想家」と言った親鸞の教えが書かれた『歎異抄』は、案外に現代でも無理がないと思う。
吉本隆明が、親鸞を宗教家でないと言ったのは、「それまでの、そして、現代の多くの宗教家のようでない」ということなのだと思う。
「鵜呑みにしてはならない」「だが、疑ってばかりでもいけない」のである。
人生は、このバランスである。
このバランスを与えるのが、宗教、あるいは、量子物理学のような新しい科学であるのかもしれない。









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本当の謙虚さ

子供の時、徳川家康や宮本武蔵など、昔の人を描いた映画やテレビドラマを見ていて、
「こんな昔の人のことが、なんで、こんなに詳しく分かっているのだろう?」
と不思議に思ったことがある。
子供らしいと言えば子供らしいのだが、大人でも、そんな疑問を持った方が良いかもしれない。
改めて言えば、そんな映画やドラマは、想像と言うよりは、ほとんど空想なのであり、妄想と言っても悪くはないほどなのだ。

映画やドラマよりはマシなような気もするのが書籍である。
評伝なら、それなりに客観性を持たせているような気がするが、それすら、著者の個人的想像の部分が非常に大きく、その人物のことを描いていると言うより、著者の個人的な思想の中に、「歴史的事実かもしれないことが、ちょっぴり書かれている」くらいに思えば良いのだと思う。
しかし、それが悪いかと言うと、評伝著者が優れている場合は、あくまで、その著者の思想が素晴らしいだけなのだが、そう悪いものではない。
逆に言えば、著者の思想が下らないと、歴史上のどんな偉人も貶められてしまうのである。

吉本隆明は優れた人であると私は思う。
まあ、彼の『共同幻想論』は読めたものではなかったが、それは、読んだ当時、『古事記』や『遠野物語』、あるいは、フロイト心理学の知識がなかったせいもあり、そろそろ読んでも良いかと思う。
そして、彼の、親鸞について書いた『今に生きる親鸞』はとても良かったと思う。
彼の親鸞伝について、著書の中で痛烈な批判をしていた人がいたが、私には、その本(吉本隆明の親鸞伝を批判した本)の方が、いかにも個人的主張だらけで、ずっと下らなく感じた。まあ、それも私の主観ではあるのだが。

吉本隆明と私の親鸞の捉え方は異なっていた。
吉本は、親鸞は「善いことはしてはいけない」と教えたとしているが、私の解釈では、親鸞は、「善いことをする必要はない」と教えたのだと思っている。
法然に関しても、やや違ってて、吉本は、法然は「善いことをするのは、悪くはない」と言ったとしいているが、私は、法然に関しては「善いことはしようと思わない方が善い」と言ったのだと思っている。

ただ、親鸞に関し、「悪いことをしようと思わなくて良い」は共通の見解と思う。
親鸞の時代、馬鹿な男が、積極的に悪いことをするのが良いと誤解して、実際、悪いことをしていたのだが、親鸞は、
「悪いことをするのは構わないが、薬があるからといって毒を飲む必要はない」と、それが愚かしい考えであることを、やや遠回しに述べている。
だが、親鸞が「善いことをしてはいけない」とまで言ったというのは、私は違和感を感じた。

しかし、吉本が正しいのだと思うようになった。
親鸞は「善いことをしてはいけない」と教えたに違いない。
おそらく、「善いことをしようと思ってはならない」と言った方が正確なのかもしれないが、「善いことをしてはならない」と言いきった方が、親鸞の教えを鋭く感じ取れる。
つまり、善いことをしようなんて思ううちはまだ、自分というもの・・・自分の愚かさが解っていないのだ。
お前(私のこと)ごときに善いことが出来るなどと、片腹痛いのである。
つまり、謙虚さが全く足りないということだ。
もちろん、「私に善いことは出来ない」と自覚しても、それで謙虚な訳ではないが、救いようのない傲慢さからは、少しは離れることが出来ているのだろう。

では、人に親切にしたり、思いやったりはしてはならないかと言うと、そうではない。
そうではないが、そういう行いは、自分の心が善いからするのではなく、あくまで縁とか因縁で、させられるだけである。
私も善いことはする方だが(笑)、それが純粋に相手のためを思ってやっていることは・・・まずない。
自己満足や、評判の獲得等の自分の利益のためであり、客観的に見れば、なんともあざとい(あくどい)もので、我ながら顔をしかめたくもなる。
まあ、その中には稀に、「妙に善い行い」もあるが、それは、初音ミクさんや天使がそうさせてくれたのだろう。それは悪い気分ではない。

善いことはしない。
ただ、コスパが高いからという計算が働いて、せいぜい善行も行う。
それで心が痛むなら、念仏を唱えれば救いもあるだろう。

本日正午から、初音ミクさんのライブ「マジカルミライ2019」の「チケットぴあ プレイガイド最速先行」(チケット抽選)が始まる。
どの席でも良いから、ミクさんのお誕生日(8月31日)の土曜夜のチケットが欲しい。
皆さんも、自分が行きたい日で忘れずに応募するように。









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高次元を見る(高度な直観を発揮する)方法

「南無阿弥陀仏」という念仏に関し、法然は、主に、「死後、極楽浄土に生まれることが出来る」ことを説いたが、同時に、「仏(如来)は、念仏を唱える者を万全に守る」とも教えていた。ただ、その根拠は、「経典に書かれているから」であった。
親鸞は、法然の教えを継承しつつ、念仏には、最高度の現世利益の効果があると説いたが、それも、経典以外にエビデンス(根拠)はない。
また、親鸞の教えを記したものとして最も有名な『歎異抄』では、現世利益については、ほとんど書かれていない。ただ、「念仏を唱える者を神々すら敬い、鬼神(きしん。強い力を持つ神のこと)も道を譲るとの記述はある。ただ、やはり、科学的根拠はない。

このように、法然、親鸞の教えには、経典に書かれているとか、高僧の教えであるという以外の根拠はないのだが、当時はそれを、信じるしかなかった。
だが、現代のスティーブ・ジョブズだって、強調したことは、「今やっていることが、未来の何かの点とつながることを信じるしかない」だったのだ。
そして、科学的根拠を持って、人間の心は、宇宙全体とつながってるのであり、現実世界を創造するのであるから、信じるしかないと共に、信じるべきなのである。

よって、法然、親鸞の教えは科学的に正しいが、彼らはもちろん、科学的に念仏を捉えていたのではない。とはいえ、単に、「経典に書かれているから正しい」と考えた訳でも決してない。
彼らは、高度な直観で持って、それが正しいと確信したのであり、優れた直観は、科学的にも、真理を示す根拠と言えると思う。

「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀様に全て任せる」という意味で、阿弥陀様とは、宇宙全体あるいは、その力の象徴なのであるから、実際は、特に何と呼んでも構わない。
例えば、「神に全てを任せた」と言っても同じであり、経験的に、この宣言(呪文と言っても良いが)は最高の効果がある。
ただ、「苦しい時の神頼み」ではないが、これが効果を発揮するのは、自分の力が卑小であることを思い知った時である。
即ち、極めて苦しい状況でありながら、自分にはどうすることも出来ないことを痛感した時に、念仏のようなものが、強い効果を及ぼす。
それは、必ずしも、自分の望むような状況を引き寄せるとは限らないが、絶対的に正しい方向に動くのである。

ところで、京都大学名誉教授で、まるで、フォン・ノイマンのような広い分野(数学、経済、文化、教育、その他)で業績を上げた岸根卓郎氏が、高次元世界を見る方法として、ステレオグラムを見ることを薦めていることが面白かった。
ステレオグラムとは、何が描かれているか分からない平面の模様だが、見方によって、鮮やかな立体映像が見るというものだ。
左脳で論理的に見ている限り、平面にしか見えないが、右脳で直感的に見れば立体に見える。
高次元の世界というのも、理屈で考えては解らないし見えないが、法然や親鸞のように、直観で視れば見えるのである。
直観は右脳の領域であり、ステレオグラムを見るのも右脳であるから、高次元の世界を見る練習には丁度良いのである。









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人間は放っておくと楽な方に流される

人間は、放っておくと堕落する。
私は初めて社会人になった時、職場の先輩達は皆、尊敬すべき立派な人達だと感じていた。
しかし、半年も経った頃、それは、彼らが上辺の体裁を整えていただけで、本当は呆れるほど腐っていることを発見し、愕然とした。
そんな中、誰かが言った言葉が胸に刺さった。
「人間は放っておいたら楽な方に流される」
全くその通りなのだろう。
そして、それはきっと、子供でも同じなのだ。
ただ、子供の場合、理由はいろいろだが、自分を律する気持ちを持っている場合が多く、理性的に考え、振舞う子が多いのではないかと思う。
だが、そうでない子も多く、そんな子は、楽な方に流されるままになっていて、やはり腐ってしまっている。
楽な方とは、快楽をひたすら求めることで、親がそれを止めてやらなかった子供、むしろ、親がそう、そそのかしてきたような子供は最悪だ。
それは、親自体が快楽主義者だからだろう。
中学とか高校で、性的にすっかり乱れてしまっているような者も沢山いるが、それも、楽な方に流されたなれの果てである。

結局のところ、人間の運命は、自分で自分を律することが出来るかどうかで決まる。
ただ、自分を律している場合でも、2つのケースには気をつけないといけない。
1つは、親に理想主義を押し付けられた子供で、高い理想は持っているが柔軟性がなく、結果、他人には物凄く厳しいが自分には甘く、身の程知らずに他人を見下す。
実は私がそうなのだ・・・と、自覚出来たのは最近だ。
もう1つは、得なことだけ自分を律する者で、それも親のしつけでそうなったのだと思うが、そんな教えには、子供も同調し易い。例えば、試験で良い点を取ることは頑張るが、得にならないことはどうでも良いと思っていて、冷淡だったり、無慈悲だったりする。それも、得と思えること以外は楽な方に流されていることであり、いずれ、最も得な部分以外では乱れていき、早い場合は、小学生の時は優等生で秀才だが、中学ではさっぱりになったり、早くから性的に奔放になったり、肥満したりで、結局は堕落した醜い人間になる。

イエスが人々に、モーセの律法(十戒のこと)を守るよう厳しく言ったのは、何か自分を律する掟を持たないと、人間は楽な方に流されて堕落してしまうことをよく知っていたからだろう。そのために、人々に馴染みがあり、多少でも尊重する気持ちがあるモーセの律法を持ち出したのである。
いかに他力(神仏の力に頼ること)を説いた者でも、何か戒めを人々に与えているものである。
例えば、全て神(天照大神)にまかせよと教えた黒住宗忠も「稼業に励め」など、いくつかの訓戒を教えているし、念仏さえ唱えれば良いと教えた法然も、念仏だけは規則正しく忍耐強く唱えることを厳しく教えている。
親鸞は法然に比べて随分ゆるいが、それは、親鸞が、自分が堅苦しい理想論者であったことを自覚し、それを脱却したかったことから来ているように思えるのだ。
だから、親鸞の教えには一貫性がなく、解り難いところは確かにあるのではないかと思う。
しかし、心の中に、凝り固まった理想主義を持っていて、それに苦しんでいるような人には、親鸞は救いのように感じるのだ。

あまりにありきたりに感じるかもしれないが、やはり人間は、最低限の理想を自分に課し、それだけは死んでも守らないといけない。
ジェームズ・アレンのように、徹底的に高貴な人であれという教えは、多くの場合有害ではないかと私は思う。
私は、「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」という、エマニュエル・スウェーデンボルグの教えが良いと思う。
あるいは、昔の話だが、世良公則さんが、未成年女子には手を出さないと言ってたのも、非常に良い掟だと思うのだ。
ロリコンなら特に、少女には決して手を出さないことを誓うと、幸運に恵まれると思うが、それが出来ないと堕落の勢いは凄いことになるのは、まあ、間違いない。

何をやっても駄目で、皆に蔑まれる惨めな、まるで駄目男を知っているが、彼は、結局のところ、自分を律することが全くなく、ひたすら楽な方に流された哀れな男であるというだけのことだ。
彼とは逆に、あまりに厳しい掟を自分に課し、それを守らないと自分には何の価値もないと恐れるあまり、いびつな人間になっている者も、いくらかはいる。
そんな者が楽に生きられるようになるのは、かなり難しい。
彼も、人間はバランスが大切だと、頭では解っている場合があるが、どうして良いか分からないのだ。
彼には『歎異抄』がお薦め出来るかもしれない。
とはいえ、自分に甘い普通の人は、自分を律してExcel VBAを習得し、給料を上げて余裕を持って善い人間になろうと思えば良いと思う。









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名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
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