幸福でありたい・・・それ以前に、生き延びたい人が行うべき、魔法力を獲得するための訓練がある。
拍子抜けするほど簡単であるが、重要である。
やり方はいろいろだが、自然にうまくやっていたのが、「われ思う、ゆえにわれあり」で知られるフランスの哲学者、数学者のルネ・デカルト(1596~1650)だ。
まあ、単に、朝、目が覚めても、いつまでも起きて来ず、ベッドの中でぼーっとしていたのであり、これを、良い言い方では「思索していた」と言うのだが。
実際、少なくとも、しばらくの間は、間違いなく、ぼーっとしていたはずである。
目覚めてから、しばらくは、思考がやって来ない。
その「しばらく」こそ、「トワイライト(夕暮れ)ゾーン」に対する「ドーン(夜明け)ゾーン」とも言える、神秘に包まれる時だ。
それを、『アラビアのロレンス』として知られるT.E.ロレンスが、事情伝『知恵の七柱』に書いている。
『知恵の七柱』はちょっと読めたものではないので、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』から引用する。
世界の物音、香り、彩(いろどり)が、思考の篩(ふるい)を通過せず、思考によって類型化されることなく、まさにそのもの自体として人間を直撃する。あたかもそれ自体で満ち足り、自足して存在しているかのように思われるのだ……
~『右脳の冒険』(コリン・ウィルソン著、中村保男訳。平河出版社)19頁~
こう言われて私が思い出すのは、中学校の夏休みに、ラジオ体操に出かける時だった。
まだ完全に目が覚めておらず、頭がぼーっとしているような時、目にするもの全てが光を放っていた。
そんな時、家々の屋根の上に、天使か魔法少女が座って微笑みかけてくれているのが見えるようだった。
これが、「存在の感覚」である。
朝、目覚めた時だけでなく、いつでも、「私は在る」のみを感じれば、ただちに同じ感覚を得られる。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、全ての人に、常に、その感覚にしがみつくことを求めた。
そして、アメリカの事業家にして神秘家ネヴィル・ゴダードは、「私は在る」の感覚が神であると明かした。
その状態であれば、あらゆることが可能で、願いは即座に叶えられる。
最初のうちは、「私は在る」という言葉を使っても良い。口ではなく、心で唱えるのだ。
マハラジも、これこそが最上の真言であると言った。
だが、ゴダードは、言葉ではなく「感じる」ことを求めている。
自分が存在することを感じるのである。
何も考えず、「私は在る」と感じれば、自然に呼吸は微かになり、身体が軽くなり、世界は一変する。
その時、あなたは人間ではなく、神であり、実際、姿が見えない状態にまで達することもある。
心で、「私は在る」と、静かに唱え、その意味について黙想しても良い。
心の中で、出来るだけ微かな声で「私は在る」と唱えると、うまくいくかもしれない。
「私は在る」の感覚を掴む訓練こそが、人類にとって最重要なことであり、あらゆる災害から逃れる鍵であると思う。
ヨガ研究家の藤本憲幸氏の『秘法ヨガ入門』(彼の数百冊の著書の中の最初の本)の最終章に、ほんの少し前まで内気な引きこもりだった二十歳の青年が、威風堂々とした人物となって藤本氏の前に現れて、藤本氏を驚かせることから始まるお話がある。
藤本氏と、この青年の長い対話が興味深い。
その中で、「10kg痩せるにはどうすれば良いか?」という話題があった。
青年は、運動や食事の制限は一切不要で、自分はいま、スラリとやせて美しい身体なのだ、との実感を味わうことで簡単に出来ると言う。
対話の内容から見て、この青年は、存在の自覚に生きている。
当時の藤本氏には、そのことが分からなかったかもしれないが、あえて、この話を最後に持ってきたのは、藤本氏も、その重大さに気付いていたからであると思う。
拍子抜けするほど簡単であるが、重要である。
やり方はいろいろだが、自然にうまくやっていたのが、「われ思う、ゆえにわれあり」で知られるフランスの哲学者、数学者のルネ・デカルト(1596~1650)だ。
まあ、単に、朝、目が覚めても、いつまでも起きて来ず、ベッドの中でぼーっとしていたのであり、これを、良い言い方では「思索していた」と言うのだが。
実際、少なくとも、しばらくの間は、間違いなく、ぼーっとしていたはずである。
目覚めてから、しばらくは、思考がやって来ない。
その「しばらく」こそ、「トワイライト(夕暮れ)ゾーン」に対する「ドーン(夜明け)ゾーン」とも言える、神秘に包まれる時だ。
それを、『アラビアのロレンス』として知られるT.E.ロレンスが、事情伝『知恵の七柱』に書いている。
『知恵の七柱』はちょっと読めたものではないので、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』から引用する。
世界の物音、香り、彩(いろどり)が、思考の篩(ふるい)を通過せず、思考によって類型化されることなく、まさにそのもの自体として人間を直撃する。あたかもそれ自体で満ち足り、自足して存在しているかのように思われるのだ……
~『右脳の冒険』(コリン・ウィルソン著、中村保男訳。平河出版社)19頁~
こう言われて私が思い出すのは、中学校の夏休みに、ラジオ体操に出かける時だった。
まだ完全に目が覚めておらず、頭がぼーっとしているような時、目にするもの全てが光を放っていた。
そんな時、家々の屋根の上に、天使か魔法少女が座って微笑みかけてくれているのが見えるようだった。
これが、「存在の感覚」である。
朝、目覚めた時だけでなく、いつでも、「私は在る」のみを感じれば、ただちに同じ感覚を得られる。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、全ての人に、常に、その感覚にしがみつくことを求めた。
そして、アメリカの事業家にして神秘家ネヴィル・ゴダードは、「私は在る」の感覚が神であると明かした。
その状態であれば、あらゆることが可能で、願いは即座に叶えられる。
最初のうちは、「私は在る」という言葉を使っても良い。口ではなく、心で唱えるのだ。
マハラジも、これこそが最上の真言であると言った。
だが、ゴダードは、言葉ではなく「感じる」ことを求めている。
自分が存在することを感じるのである。
何も考えず、「私は在る」と感じれば、自然に呼吸は微かになり、身体が軽くなり、世界は一変する。
その時、あなたは人間ではなく、神であり、実際、姿が見えない状態にまで達することもある。
心で、「私は在る」と、静かに唱え、その意味について黙想しても良い。
心の中で、出来るだけ微かな声で「私は在る」と唱えると、うまくいくかもしれない。
「私は在る」の感覚を掴む訓練こそが、人類にとって最重要なことであり、あらゆる災害から逃れる鍵であると思う。
ヨガ研究家の藤本憲幸氏の『秘法ヨガ入門』(彼の数百冊の著書の中の最初の本)の最終章に、ほんの少し前まで内気な引きこもりだった二十歳の青年が、威風堂々とした人物となって藤本氏の前に現れて、藤本氏を驚かせることから始まるお話がある。
藤本氏と、この青年の長い対話が興味深い。
その中で、「10kg痩せるにはどうすれば良いか?」という話題があった。
青年は、運動や食事の制限は一切不要で、自分はいま、スラリとやせて美しい身体なのだ、との実感を味わうことで簡単に出来ると言う。
対話の内容から見て、この青年は、存在の自覚に生きている。
当時の藤本氏には、そのことが分からなかったかもしれないが、あえて、この話を最後に持ってきたのは、藤本氏も、その重大さに気付いていたからであると思う。