ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

藤平光一

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

気の簡単な集め方

昨日も書いたが、科学的に証明されているとは言えないかもしれないが、気という生命エネルギーが存在し、それが、人間の生命力だけでなく、能力や影響力、さらには、運にも大きな影響を与えると言われることがある。
そして、こういった考え方は世界中にあり、気は、インドではプラーナ、西洋でもブリルという呼び方で、ほとんど同じものがあると考えられ、おそらく、他の名前で呼ばれている場合も沢山あるだろう。
電波工学の世界的権威だった関英男博士は、気やプラーナと同じものを、科学的仮説を立て、詳しい内容は省くが、これをGTPと呼んだが、この仮説は世間で認められているわけではない。
気の効果は心理的作用であると言う者もおり、また、気についての怪しい説を唱える者も確かにおり悩ましいところだが、気のような科学的には未知であるエネルギーは確かに、何らかの意味で存在すると思う。

私も、気功で言う気は、多くの場合は、気というより血流として説明する方が合理的と思っていて、気について何でもかでも認めるわけではない。
しかし、スピリチュアル界で言われる気の中にも、わずかに真理はあり、そのわずかは重要であると思う。
それによって、医療で治らない病気が治り(場合によっては簡単に)、能力を高め(これも、場合によっては飛躍的に)、幸運に恵まれる。

それこそ「気のせい」でも良いが、結果として、健康になり、能力が上がり、運が良くなれば良いのである。
合氣道家の藤平光一氏は、「気」ではなく「氣」という字を使うことにこだわり、その意味も分からないではないが、それが人々の混乱の元になるのなら良いこととは思わない。
しかし、藤平氏は、「氣」に関して、高度に実証した人でもある。
また、藤平氏の「氣」に関する説は素晴らしいものであり、実用的でもある。
ただ、分かり難い。
藤平氏は、師の植芝盛平が説く「気」が分かり難いと批判することもあったが、藤平氏のも十分かり難い(笑)。
難しいと言うより、抽象的で曖昧なのだ。
とはいえ、藤平氏の説には、分かり易い部分もあるので、そこを利用させていただけば良いのである。
以下は、藤平氏には悪いが「氣」ではなく「気」で統一する。

気を集めることは良いことで、我々はこれを集めるべきである。
そこで、気を集める分かり易い方法として、藤平(光一)式と関(英男)式について述べる。

藤平氏の良いところは、「気を集める」という考え方が、そもそも間違いだと言ったことだ。
つまり、気は集めようとするのではなく、「出せば勝手に入ってくる」のである。
これは、イエスの「与える者は与えられる」にも通じると感じる。
だから、「どうすれば気を集められるか」ではなく「どうすれば気を出せるか」を考えれば良い。
そのためには、単に、「気が出ている」と思うだけで良い。
その「気」が抽象的で曖昧と感じるのだが、案外、この方法はうまくいく。
つまり、気と言う、神秘的なエネルギーが自分から発せられている様子をイメージするのである。
もちろん、気でも、プラーナでも、ブリルでも、GTPでも、あるいは、『スターウォーズ』でいう「フォース(力)」でも良い。
次に、藤平氏は、真理と言うか、当たり前、自然な意味の言葉を口にしても気は出ると言う。
藤平氏が好んで使ったのが「重みは下にある」という、当たり前の言葉だった。
当たり前、当然、自然ということであれば、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」が最上であるとし、実際、「私は在る」が最高のマントラ(真言)であると述べている。
ただ、私は最高のマントラは「生きている」だと思う。
しかし、各自、自分の好きな言葉を使うと良い。
それこそ、「ミクさん、マジ天使」でも良いのだと思う。

関英男博士の場合は、何と言っても腕振り運動だ。
関博士は、体内のGTP(気、プラーナ)の保有量は、生まれた時が最大で、後は減る一方と言う。
これは『老子』にも通じることである。
だから、赤ん坊の時の生命力が最大なのだ。
しかし、腕振り運動をすることだけは、体内のGTP保有量を増やし、生命エネルギーを高め、若返る。
関博士自身、腕振り運動で胃癌を治し、90歳を過ぎても、世界中から論文を取り寄せ、世界中を駆け回って研究活動を続けていた。
関博士は、GTP論を唱える前は、「幽子」という概念を提唱していたが、この幽子も気やGTPと同じものである。
そして、幽子は、常に呼吸と共に入ってくるが、普通はそのまま出て行ってしまう。
しかし、呼吸で取り入れた幽子は、息をゆっくり吐くことで、出て行かずに体内に残ると言う。
長く吐く呼吸が心身に良い影響を与えることはよく知られているので、関博士の説は、その原理として説得力を感じるかもしれない。
また、後にも、関博士は、「呼吸数が少ないことが進化の指標」と言っていたが、根拠となる詳細な論はいちいち書けないが、少なくとも一面の真理と思う。だから、ゆっくり呼吸し、呼吸数を減らすことは良いことである。

これら、分かり易く、実践し易い方法で気を多く得、健康、能力、運という「力」を得てはどうかと思う。








不運も困難も避けて通る世界

伝承ではあるが、織田信長は、鉄砲の弾が飛び交う戦場を「わしに弾は当たらん」と言って悠々と歩いて見せたという。
これにより、配下の武将達は、信長が神に護られた特別な存在と感じ、信長への崇拝や勝利への確信を持つことになったのだろう。
では、この話が作り話かというと、配下の武将によって書かれた記録もあるが、それよりも、第二次世界大戦で同じことをやったと言う者の著書がある。
それは、合氣道家の藤平光一の『氣の威力』だ。
藤平は第二次世界時、中国に士官見習いとはいえ上官の立場で送られ、自分より年長の兵隊達を率いていたのだと思う。
その中で、兵隊達と銃弾が飛び交うような危ない場所に行く時、
「心配せずに俺についてこい。あんなひょろひょろ弾が俺達に当たるか」
と言って出かけたという。
すると、実際に弾は当たらなかったという。
で、藤平は、どうやってそうなったかというと、
「天地に任せきって、全身の力を抜いた時にいちばん氣が充実し、そんな時には弾丸さえも避けて通る」
と確信したと書かれている。
全く、偉い人は難しいことを言うが、まあいい。後で修正する。
さらに付け加え、藤平は、
「これは戦地に限ったことではなく、人生のいかなる荒波に対しても、全身の力を抜いて氣力を充実させていれば、ゆうゆうとこれに対処出来、不運や困難は向こうから避けていく」
と述べている。
つまり、「天地に任せきって、全身の力を抜く」ということだろう。
周囲からチヤホヤされる偉い人は、悪気はないのだが、気取ったことを言いたがるので、それに惑わされてはならない。
もっと簡単に言えば、リラックスして、天地でも、神様でも、宇宙でもいいが、引き寄せに興味がある人にとっては、潜在意識に任せきると言った方が良いだろう。
しかし、我々はもっと進んでいるはずだ。
いつまでも、古い人の教えを全面的に有難がっていてはいけない。

そこで、こう考えてはどうか。
気楽になって、自分は、安全で幸運な世界にいると決め、潜在意識に任せきるのだと。
信長や藤平光一の事例で言えば、ここは自分に弾は当たらない世界だと決めつけるのだ。
「当たらない世界なんだから、当たるはずがないじゃないか」
とでも言えば良い。
もちろん、本当に戦場にでも送られたら、緊張して、なかなかそうは思えないかもしれないが、それほどの状況でないなら、まして、もっと多くの収入や恋人が欲しいという程度であれば、呼吸を整えたり、微笑むことでリラックスし、「ここは、どんどんお金が入ってくる世界だ。なぜかは分からないが、入ってくるのだから仕方がない」と思えば良い。
だが、藤平光一の本も参考になるとは思うので、読むことは無駄ではない。
ところで、藤平は、師匠の中村天風や植芝盛平をややディスる(軽蔑する)傾向があるが、そんな弟子というものは、欠点も含め、案外に師匠に似ているものであり、藤平の考え方にも、中村天風や植芝盛平の影響が大きく、一緒に読むと分かることも多くなると思う。
また、藤平自身が、中村天風や植芝盛平を語る書は、そのディスる様子が、案外に駄目息子の言い分のようで可愛いのである。
藤平光一も中村天風も植芝盛平も、どこか少年なのであると思う。








究極の力ある言葉

私は、合氣道家の藤平光一氏の著書『氣の威力』で知ったが、「真理の言葉」を唱えると、何らかの原理で心身の力が拡張され、ちょっとした奇跡のようなことも起こる。
藤平氏の著書には、極めて単純な真理の言葉「重みは下にある」によって、藤平氏流には「氣が出て」、精神や肉体の力が高まるが、それだけでなく、不思議なことも起こる。
そのような状態では、引き寄せの力も強まるはずであり、藤平氏も、引き寄せとは言わないながら、それを示唆するようなことも書かれていたと思う。
それで私は、昔から、では、最上の真理の言葉は何であろうかと考えてきた。
その言葉が真理であればあるほど、また、高度な真理であるほど、発揮する力は大きいと思われる。

しかし、「愛は世界を救う」なんて、CMでよく見るような言葉はどうかというと、愛の定義にもよるのだろうが、こんな言葉が使われる場面での雰囲気を見ていると、あまり真理の言葉とは思えないのである。特に、庶民が「愛」という場合、あるものを愛すると同時に別のものを憎むということを平気でやる。確か、愛とは、分け隔てをしないものであったはずだが・・・
「愛の反対は憎しみではなく無関心」とか言う人もいるが、これだって、何かを愛するがゆえに、愛することが出来ないもの、価値がないと思うものを無視するだけのことである。
いずれにせよ、普通の人が言う「愛」自体が真理でないのだから、「愛は永遠」だの「愛こそは全て」だのは、いかがわしかったり、ハリボテだったりする。

デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」を究極の真理としたが、これの本来の言葉である「疑っているわれは確かに存在する」なら、かなり良いが、思おうが思うまいが「われ」は存在するという簡単な指摘に対しても、なかなか反論出来ない。
面白いのは、ルドルフ・シュタイナーが「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」と言ったことで、私は「ああ、これは真理だ」と思ったが、一般的には禅問答のような言葉だろう。

そして、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」こそ、最高の真理であり、即、これが最高のマントラだと言った。
本当にそうなら、この言葉を唱えれば、超人、マスター、大師になり、引き寄せも自在になるはずだ。
しかし、そうはならない。
この言葉の問題は、「私は在る」の「私」が、自我か真我(魂)かはっきりしないことだ。
どちらかというと、自我を指していると思われるが、自我はあったりなかったりするし、仏教の立場では、自我は本来、存在していないし、自我が消えることが目標である。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻で語られているが、イギリスの偉大な技術者で思想家と言えるF.L.ローソンは、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
という言葉を真理とし、この言葉によって奇跡を起こした。
「神の他に何もない」は、「全ては神である」を言い換えた言葉と言えるが、確かに真理である。
しかし、自我にとって、これほどピンと来ない言葉もないし、自我が最も反発する言葉でもある。
その自我が黙るまで、粘り強く唱えれば、引き寄せ自在の超人になるのかもしれないが、いったい、どれだけの時間がかかるか分からない。

そこで、私なら、次の言葉を推したい。
「私は世界で唯一の考える主体である」
これは、ジョセフ・マーフィーの何かの本に載っていたのだと思う。
これに似た言葉と思ったのは、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの『History(歴史)』というエッセイの中の、
「私はスフィア(天球)の所有者( I am owner of the sphere)」
だ。入江勇起男氏は、これを「私は世界の所有者」と訳しておられ、意味としてはその通りであると思う。
この「私」は、自我と言えば自我だが、エマーソンは自我と魂の融合をよく説いていたので、この「私」は、自我であり魂であると言え、自我も良い意味で満足するのであり、とても調和のとれた言葉だ。
それも含めた深い意味で、この言葉は「私は世界で唯一の考える主体である」と似ていると思う。
ただ、「私は世界の所有者」と言うのは、エマーソンのように精神が発達した者でないと、やはり抵抗がある。

そこで、私は、最高の真理の言葉は、やはり、
「私は世界で唯一の考える主体である」
と思う。
この言葉に馴染めば、あらゆる引き寄せを行う力になる。
他の引き寄せ法や鍛錬と共に、1日数度でも唱えれば、大きな力になると思う。
もちろん、この言葉だけ唱えるのも、非常に良いことと思う。








究極の言葉

藤平光一さんの『氣の威力』に書かれている重要なこととして、「当たり前の真理を言えば氣が出る」というものがあった。
氣が出れば、心や身体の力が拡張される。
そして、藤平さんが取り上げた、1つの「当たり前の真理の言葉」は、「重みは下にある」で、これは、地球上にいる限り真理である。
氣が出るかどうかは分からないが、この言葉を言えば、身体の力が強化されることは実験で確認出来るし、そのやり方も書かれている。
では、最高の真理の言葉とは何であるかに興味が出るかもしれない。
高いレベルの真理であるほど、発揮される力が大きいからだ。

デカルトが辿り着いた究極の真理の言葉は、有名な「われ思う、ゆえにわれあり」だった。
ところが、この言葉に対して、イギリスの作家コリン・ウィルソンが「思おうが思うまいが、われはある」と指摘したが、これには反論不可能だ。
ところが、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、絶対的な真理は「私は在る」で、「私は在る」が最高のマントラ(真言)だと言った。
つまり、「われ思う、ゆえにわれあり」の「われ思う」「ゆえに」は不要というわけだ。
一切の理由なく「私は在る(われはある)」のである。
だが、これらの議論が、どこかふにゃふにゃしているように感じるのは、「私(われ)」の定義が曖昧だからだ。
よって、唱えても、それほど力は出ない。
デカルトやウィルソンの場合は、明らかに、「私」とは「自我」だ。
しかし、マハラジの言う「私」は、彼の他の発言と合わせて考えても、自我のことなのか真我(魂のようなもの)なのか曖昧なのだ。
そして、おそらく、マハラジの言う「私」は、真我のことだが、それなら、「私は在る」と言葉で言うのは不適切だ。
なぜなら、言葉で「私」と言えば、自我しか指せないからだ。
もし、「真我は存在する」と言っても、それは、人間には確信出来ない。「真我」は概念ではないので、言葉で表現することは出来ないからだ。
概念でしかないことを言葉にする虚しさは、「愛」という言葉で、我々は痛感しているはずなのだ。
ところが、マハラジは「あなたが確信出来る唯一のことは、私が在るということだけだ」と言っており、これなら「私」は「自我」を指しているように思われる。しかし、やっぱり曖昧なのだ。

ところで、ラマナ・マハルシがこう述べている。
「夢のない深い眠りの中でも、『私』は存在する」
「夢のない深い眠りの中で、世界は存在しない」
つまり、こうだ。
夢のない深い眠りの中で存在するのは「真我」だ。
夢のない深い眠りの中で存在しないのは「自我」と「世界」だ。
ただ、普通の人は、夢のない深い眠りにあっても、世界は存在すると思っている。マハルシは、それは事実と反する幻想だと言う。
どういうことかというと、世界は心が創り出す幻想だということだ。
マハルシの言うことは真理だ。
ただし、証明は出来ないのだ。
なぜなら、証明とは自我(心)が行うことであり、自我を超えて存在する真我を証明の中に含めることは出来ないからである。

さて、証明は出来ないが、究極の真理は何であるか、一応、言っておくと、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
だ。
言い換えれば「一切は神」で、こちらでも良い。
だから、この言葉を「神の他に何もない。ただ神だけがある」とする人もいる。
だが、この言葉は、証明出来ないのだから、「信じろ」とは言えない。
よって、現代人の多く、あるいは、現代人のほとんど、あるいは、現代人のほぼ全員が信じない。
残念なことである。この言葉を唱えれば、不可能はないからだ。
なぜなら、藤平光一流に言えば、最高の真理の言葉は最大の氣を出させるからだ。
普段、「神実現の呼吸法」を行っている者が、この言葉を唱えると、すっと自我が消えて神化する。
神化のような事例が『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻にある。
ロンドンで、石を積んだ馬車が転倒し、多量の大きな石が人の上に落下した。
だが、L.H.ローソンが「神の他に何もない」と唱えると、その人は平気で立ち上がった。
L.H.ローソンは翻訳書は出ていないと思うが、自分で本も書いていて、ジョセフ・マーフィーも彼の本を引用している。








超能力者になる言葉

当たり前の言葉を言えば、超能力者になる。
その言葉が当たり前であればあるほど、超能力は強くなる。
この「超能力者」は分かり易く言っただけで、「引き寄せマスター」程度のつもりで使った。
もっと、癖のある言い方をする者もいる。
例えば、合氣道家の藤平光一さんは、「当たり前のことを言えば氣が出る」と言った。
「氣が出る」とは、潜在能力が発揮されるという意味で、まあ、超能力者になることと言って良い。
ちなみに、藤平さんが勧める当たり前の言葉は「重みは下にある」だったと思う。

当たり前ということは、自然という意味で、真理であるということだ。
デカルトは、言葉というのではないが、最高の真理を探究し、そして、彼が辿り着いた答が、
「われ思う、ゆえにわれあり」
だった。
彼は、「宇宙は広い」とか「火は熱い」というのは疑ったが、「われ思う、ゆえにわれあり」は信じたのだ。
だが、私は、ルドルフ・シュタイナーが言った、
「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」
の方が好きだ。
ただ、デカルトとシュタイナーは反対のことを言っているようで、それは単に「われ」の定義の問題であり、実際は、そんなに違わないと思う。

別に、どの言葉が良く、どの言葉が悪いということはない。
大切なことは、自分が納得する言葉ではなく、魂が納得する言葉を使うことだ。

ニサルガダッタ・マハラジが至高の真理と言った言葉は、
「私は在る(私は存在する)」
だ。
これで良いと思えば使うと良い。
私も、この言葉には散々、お世話になり、良い想いをした。

『福音書』にはイエスの、『法句経(ダンマパダ)』や『感興のことば(ウダーナヴァルガ)』には釈迦の、『老子』には老子の、『荘子』には荘子の、『論語』には孔子の言葉が沢山書かれているので、それらを読み、その中から選んでも良い。
あまり迷わず、とりあえず何か使うと良い。
真理度が多少低かろうが、言わないよりは、はるかにマシだからだ。
藤平氏の「重みは下にある」も、マハラジの「私は在る」も十分と思う。

「私は生きている」も、「私はいつか死ぬ」も、なかなか確からしい。
「ありがたい」こそ真理と思えるなら幸いだ・・・いや、確かに、魂はそれを納得するだろう。
「俺に不可能はない」は、魂的には正しいが、心の葛藤を生む可能性があるので、お勧めしない。
同じく、「私は神である」もだ。
だが、使いたければ使うと良い。












プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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