ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

藤平光一

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

人間の可能性は想像をはるかに超える

私が、全12話のアニメを軽く10回以上見た(今も見ている)『まちカドまぞく』の中で、優子とミカン(共に高1女子)と、優子のご先祖様のリリスが3人で映画を見ているシーンがある。
映画の中で、ヒーロー達2人は、銃弾が飛び交う中、突っ走る。
それを見て、優子はご先祖様のリリスに尋ねる。
「どうして、あのヒーローは弾が当たらないんですか?ずるい」
すると、リリスが言う。
「あきらめろシャミ子(優子のこと)、世界はそういう風にできているのだ」
(セリフは原作漫画から引用)
作品を読んでいると、著者の伊藤いづも氏はただ者とは思えない。沢山の深い知恵をさりげなくジョークにしてしまっているが、ジョークに出来るということは、かなり身についているのだろう。

テレビ時代劇だったと思うが、織田信長が、やはり銃弾飛び交う戦場を悠然と歩き、「わしには弾は当たらん」と言い放っていた。
信長には、自分は強運の持ち主であるという信念があったことを表現したのだろう。
マックス・ギュンターの『運とつきあう』で強調されているが、正直な成功者は、自分の成功が努力によるものではなく、「たまたま成功した」、つまり、運が良かっただけであることを認めているものだ。
ところで、合気道家の藤平光一氏は、第二次世界大戦で、23歳で隊長として部隊を率いた時、彼も砲弾飛び交う中を悠然と歩き、大物振りを見せて部下達を安心させたというが、氣が出ていれば弾は当たらないという説明ではなかったかと思う。
逆に、ドイツ人医師で「心身医学の父」と言われるゲオルグ・グロデックの論文で、戦争中、1人の兵士が自分の膝を指差し、「ここに弾が当たれば故郷に帰れるのに」と言うと、直後、流れ弾が飛んできて、まさに、その膝に命中した。グロデックは、これが、人間の体内に宿る「エス」の働きであると言う。

アニメ『MADLAX』で、17歳の少女マドラックスは、1人で軍隊の一部隊を2丁の拳銃で滅ぼした後、射撃の名手が何発も放った弾丸を優雅に交わして見せ、真の自分と一致した者には、こんなことは造作もないと言う。
上で述べた藤平光一氏の師で合気道の創始者である植芝盛平は、6人の射撃の名人が至近距離から一斉に放った拳銃の弾を交わし、その全員を投げ飛ばしたという話が伝わっているが、やはり植芝盛平の高名な弟子である塩田剛三氏は、それは事実だと言う(実際に目撃したと言っていたかもしれない)。

最初にリリスが言ったギャグとして捉えるべき言葉「世界はそういう風にできている」は、真面目に、「世界をそういう風にする」ことが出来る。
それには、やはり、ぼーっとすれば良いのである。
つまり、個人的な力というものを放棄して、大きな力に身をゆだねることだ。
(『まちカドまぞく』で)空中に飛び散ったタコさんウインナーの全てに爪楊枝を刺して皿に回収出来る桃(優子の宿敵の魔法少女)なら、銃弾を交わすことなど容易(たやす)いだろう。桃は、身体をエーテル体に置き換えているのが力の秘密と言うが、なに、エーテル体なら人間なら皆持っているので、似たようなことなら出来るだろう。
ともかく、人間が持っている可能性は、一般的な予想などとは、三輪車とロケットほどの差があるほど超えているのである。








感心なことは、こそこそやる

世界を思う通りに構築するには、信じきることが出来れば良いのだし、超能力を発揮するには、固定観念を捨てれば良い。
例えば、合気道家の藤平光一氏が23歳で隊長として参戦した太平洋戦争で、銃弾飛び交う戦場の中を「俺に弾は当たらない」と信じきって歩いたようにである。
真似して欲しくないが、私も、子供の時、交通量の多い車道で、「目をつぶって飛び込めば車は来ない」と思い込んで、実際に、ずっとそうやって、遠くの信号のある横断歩道まで行かずに道路を渡っていたものである。
超能力と言っても、霊的でないものでは、『トーチェ氏の心の法則』に書かれているが、ある場所では、脚が折れた人が元気に走り回っているが、それは彼らが、脚が折れたら走れないことを知らない・・・つまり、脚が折れたら走れないという固定観念を持たないためで、こんな例は無数に上げられる。

自在に強い信念を持てたり、固定観念を捨てることが出来れば、世界は思うがままになる。
例えば、自分は安い給料しかもらえないという信念、あるいは、固定観念を持ち、実際に、安月給でギリギリの生活をしている者が、自分は高給をもらえると信じきれば、やはり、そのようになる。
私はここでわざと、「信じきる」ことと「固定観念を捨てる」ことを統合してみせた。
意思の力で信じきることは難しいし、かえって、逆効果になる場合が多い。
しかし、固定観念を捨てれば、自在に信念を持てる。固定観念を捨てるには、難しく言えば「無になれば」良いが、簡単に言えば、思考を捨てる・・・つまり、考えることをやめれば良い。
思考を捨てるとは、心を澄みきらせることで、心を澄みきらせるとは、自己重要感、つまり、優越感、プライドを消さなければならない。
自分は偉い、頭が良いと冗談にでも言う者は、我の塊であり、見込みはない。そんな者に対しては、非難するつもりはなく、気の毒と思う。

コニカミノルタは、コニカとミノルタという大手光学機器メーカーが統合して出来た企業だが、ミノルタは「実る田」で、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」から来たものらしい。
歳を取れば、自然に我が弱くなるという意味であるが、それが本当なら、誰もが歳を取ると偉大になるはずだが、なかなかそうはいかない。

「自信に満ち溢れてる」者にも2種類あり、1つは単なる自惚れで、そんな者は、本当に強い者の前では卑屈になる。しかし、我を持たないことで森羅万象と通じて自信を持っている者は、いつも静かで偉ぶらず、自分が偉いとか頭が良いなどと、冗談にでも言わないし思わない。そんな者は、どれほど偉大な人物の前でも平静である。

では、どうすれば我を捨てられるかというと、おばあさんが幼い孫に教えられるほど簡単である。
ある人が、「私が死んで閻魔様の前に出たら、私は人生で大したことは何1つ出来なかったが、便所の下駄だけはきちんと揃えたと言いたい」と述べていたが、彼は、社会的にかなり重要なポストにある人だった。
このように、例えば、靴をきちんと揃えるとか、傘をきちんとたたむ、あるいは、毎朝仏壇や神棚に手を合わせるなど、何か1つ、欠かさずやれば良い。
まあ、「私ほど偉い者が、毎朝、社員達と掃除をしている」などと自己満足しているなら駄目であるが。
だから、イエスも言ったように、良いことはこっそりやるものなのである。








アインシュタインやテスラは普通に見れば自閉症

アインシュタインが言ったとされる言葉で覚えているものがある。
それは、
「私は優秀じゃない。1つのことを長く続けただけ」
というものだ。

プログラミングがマスター出来ないと言う人がいる。
どれだけの期間やったのかと聴くと、3ヶ月とか1ヶ月とか、ひどいのになると1週間とかもいる。
別に、何年も毎日3時間勉強しろなんて言う気はない。
アインシュタインやニコラ・テスラならやったかもしれなが、あいつらは変わっているのだ。
ここは、合気道家の藤平光一氏的にやればいいと思う。
彼は、算数嫌いの小学生に、1日1度でいいから、必ず、算数の教科書を開いて「算数が好きだ」と言えと指示したらしい。
すると、その子は、一番算数が出来る子になったらしい。
十分、納得出来る。
物理学者で合気道家でもある保江邦夫氏は、小学校時代、授業中、ぼーっとしていたが、先生に指名されたら、必ず正解を答えたらしい。
ぼーっとしてたから良かったのだと思う。
それで、宇宙の英知とテレパシーのようなもので通じたので、勉強しなくても分かるのだ。

藤平氏は「好き」と言えば「氣」が出ると言ったが、氣かどうかはともかく、「好き」という言葉に力があるのは本当と思う。
「愛している」はもっと良い。
ベアード.T.スポーリングは、「愛」より「神」という言葉の方がずっと大きな威力があると言う。
そうかもしれないが、「愛する」という言葉と、それによって起こる意思の力は計り知れない。
実質、愛していることである「好き」を算数に向ければ、出来るようになって当たり前だ。
アインシュタインや、ニコラ・テスラは、別に苦労も努力もなく、毎日長時間、光や電気について考えたが、彼らはそれが好きだったのだ。
今朝も言ったが、愛するとは興味を持つことだ。
彼らは、光や電気に長く好奇心を持ち続けたのである。

1日中、スマートフォンを見ている人は多い。
しかし、彼らはスマートフォンそのものを見ていない。だから、スマートフォンの本当のことを何も知らない。
彼らは決して、「スマートフォンが好きだ」とか「スマートフォンを愛してる」とは言わない。
スマートフォンに、本当の意味で興味がある訳ではないのだ。
「スマートフォンが好きだ」言えば、スマートフォンは、あなたの能力をエンハンスト(拡張)する道具になってくれる。
それは、スマートフォンでなくても、辞書でも、プリズムでも、水晶球でも同じだ。

外国の人のことは知らないが、日本人は「お金が好きだ」と言い難い。
だが、ぼーっとして、1日1回、「お金が好きだ」と言えば、抵抗がなくなる。
嫌なら、「豊かさが好きだ」とか「富が好きだ」でも構わない。
要は、長く続けることだ。
お金に困らないくらいにはなるのではないかと思う。

私は、今年の6月23日から始めた四股は、毎日500回になり、休みの日は千回以上、昨日は1400回だった。
四股が大好きなのだ。
おかげで、身体がすっかり若返り、強くなった。

別に、実用的なものを愛することが大事な訳ではない。
ぼーっとして、空が好きとか、生きるのが好きとか、初音ミクさんが好きと言っていれば、運が良くなる。
「愛している」ならもっと良い
アインシュタインは、子供の時からぼーっとする天才だった。
ニコラ・テスラもそうだったらしい。空想の世界に親しい人が沢山いたと言うほどだから。
普通に考えれば、ただの自閉症だが、何かに興味を持ったのが幸いだったのだ。









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ヒーローなんか持つな

西洋のある映画で、幼い息子を持つ父親がこう言った。
「子供は、自分の父親が世界で一番偉いと思っているが、いずれ、そうじゃないと解る。だが、なるべく長くそう思わせてやりたいんだ」
今の日本では、世界一どころか、自分のお父ちゃんなんて、少しも偉くはなく、さらに、偉くないばかりか、下らない人間だと子供はすぐに解るようになる。
いや、父親だけではない。
母親のことも見下げ果てるようになるまでに、そんなに時間はかからない・・・いや、物心つけば、そう思ってしまうかもしれない。
本来、子供は、自分の親のことは買いかぶるものであるのに・・・である。

それでも、外の世界に目をやると、先輩やチームのリーダー、先生、上司、社長といった立場の人達の中に素晴らしい人物を見つけ、「彼こそ(彼女こそ)一番」と思うこともあるだろう。
だが、いずれ、その憧れの人物も、それほどではないと解るようになる。
合氣道家の藤平光一氏は、中村天風や植芝盛平といった、多くの人達に神のように崇められる人達の高弟であったが、藤平氏はこれらの師達を遠慮なく貶し、ある意味、「彼らを信用するな」と述べているのだと思う。
実際は、どれほどの人物であろうが、致命的な欠点は必ずあり、弟子としてはそれは黙っておくものであるが、どんな人間も神でないことは、やはり理解しなければならないのだ。だから、藤平氏のやり方は正しく、立派なことであると思う。その藤平氏だって、酷いところはやはりあって当然だ。
ラメッシ・バルセカールも、世界中の多くの人達が聖者と仰ぐ彼の師、ニサルガダッタ・マハラジが、実際は欠点だらけの人間であったことを明かしているが、貶してはいないと思う。しかし、藤平氏は、特に植芝盛平に関しては、植芝盛平を崇拝する者達を幻滅させるようなことも本に書き、藤平氏は植芝を嫌いなんだろうなとすら感じさせる。
良いではないか。
植芝盛平の身近にも、彼を好きな人も嫌いな人もいたはずだ。

アニメとなると、ヒーローやヒロインはパーフェクトであることが多い。
だが、セーラームーンこと、月野うさぎが憧れる、天王はるかや海王みちるは完璧・・・かというと、実はそうではないのだが、アニメのヒーロー・ヒロインの欠点は格好良過ぎる。実際の人間の欠点は、もっと汚く、ドロドロしているのは、言うまでもない。

そして、人類のヒーロー、イエス・キリストや釈迦だって、完璧な人間などではなかったはずだ。
だが、彼らの信者は、そうは思っていない場合が圧倒的だろう。
イエスに関しては、ニーチェやサルトルやイェイツ、あるいは、ワイルドなどが、相当こき下ろしてくれており、しかも、かなり納得出来るようにやってくれている。
釈迦に関しては、伝聞が少ないこともあるが、豚肉にあたって腹を壊したとかいう話はあるが、あまり悪い話は聞かない。
また、ソクラテスが美少年好きだったとか言う人もいて、そうかもしれないが、それほどはっきりしている訳ではない。まあ、別に美少年好きでも、自制出来ていれば問題ないが、まあ、あまりに昔過ぎて、本当のことは判らない。
そして、偉人、聖人達に、仮に致命的欠点があったとしても、どうでも良いことだ。
個人を全面的に崇拝することは愚かなことであるからだ。
ある個人を徹底的に崇める者というのは、普通の人間を軽蔑しているものである。自分こそ軽蔑すべき者であるのにね。

それに、憧れられる人間というのは辛いものである。
実際の自分は、少しも大したことはないことは、少なくとも本心では分かっているからだ。
人々は、ヒーローやヒロインを求める。
まかり間違って自分がそんなヒーローやヒロインになった者は大変だ。
そうだ、実際に、それは間違いであり、彼らや彼女らは、ちっともヒーローでもヒロインでもないのだ。
そして、時に、ヒーローやヒロインと思われている者が崇拝者を裏切ると、生ゴミやゲジゲジ以上に嫌悪される位置に落とされてしまう。
両極端は愚かさでしかない。
本来は、中村天風や藤平光一の言うことなど聞かず、自分の父ちゃんの言うことを聞けばいいはずなのだ。
言ってることは、良いことも悪いことも全く変わらないのだからだ。
「悪いことをすれば悪いことが返って来る」
イエスが言おうが、あなたのじいちゃんが言おうが、法則に違いはない。









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永遠(ときわ)のツインテール

日本人なら、擬態語(ぎたいご)という言葉は知らなくても、漫画で、「キラキラ」「ぴかぴか」「じーん」といった、本当は音を発してない状況や感情を音で表した言葉はご存知だろう。
擬態語は日本語に特有のもので、ほとんどの国では理解が出来ないようだ。
特に、音のない静寂の状態を「しーん」という音で表現するなどは、外国の人にとっては驚愕ものだろう。
ところが、日本人にとっては、「心の声」と思えば、むしろ自然なことであり、日本語自体が、擬態語から発達したものだという考え方もある。

『美少女戦士セーラームーン』は、昔、インターネットもない時代に世界的に人気があり、何十もの国で漫画が出版され、アニメが放送された。いったいどうやって、外国に伝播したのか不思議に思う。
昔、ドイツに住む人から、ドイツでのセーラームーンの放送の話を聞いた時、今は分からないが、ドイツでは定刻通りに放送が始まらないことも珍しくないと言われ、面白いなあと思った記憶がある。まあ、そもそも、日本のように、電車が定刻きっちりに来る国の方が珍しいという話も聞いたが。
今は、日本のツインテールの歌姫、初音ミクさんが世界的に人気があるが(Facebookのフォロアーは、タイガー・ウッズとマイケル・ジョーダンを足したより多いらしい)、セーラームーンこそ元祖ツインテールのヒロインである。
昨年の、東京150年祭で、浜離宮恩賜庭園の潮入の池で、初音ミクさんが、明治、大正、昭和、平成の歌を、その時代のファッションで歌ったが、その中で、初音ミクさんが、セーラームーン式のおだんご付ツインテールにして、セーラー服で、『美少女戦士セーラームーン』のオープニング曲『ムーンライト伝説』を歌ってくれたのは感動的だった。
昨年の、日本フランス友好160年を記念して、パリで開催されたジャポニスム2018では、『美少女戦士セーラームーン』は『【2.5次元ミュージカル】”Pretty Guardian Sailor Moon” The Super Live』として、パレ・デ・コングレ・ド・パリ大劇場で公園され、初音ミクさんは『HATSUNE MIKU EXPO 2018 EUROPE』として、セーヌ川セガン島のラ・セーヌ・ミュージカルでライブを行った。
セーラームーンと初音ミクさんが、世界を平和にする日本のスーパーヒロインであることが実証されたように思う。

ところで、『美少女戦士セーラームーン』は、普通に考えると、世界どころか、日本で爆発的に人気が出たことも、不思議と言えば不思議な面もあると思う。
当時23歳の武内直子さんが、薬剤師の仕事をしながら描いた、この漫画は、出版社も武内さん自身も、それほど売れるとは期待していなかったのだと聞いた覚えがある。
しかし、武内さんは、この1作品だけで大成功し、お金持ちにもなった。
セーラームーンの人気の秘密については、いろんな人達がいろんなことを言っていて、それぞれ面白い論ではあるが、せいぜいが「まあ、それも1つの要因かもしれない」程度と思う。
そこで、最初に述べた「擬態語」に戻る。
漫画の『美少女戦士セーラームーン』で、セーラー戦士達が登場する時の「ぱああああっっっ」という擬態語が実に印象的だ。
セーラー戦士達が光り輝いていることを表す擬態語である。
「ぱあああ」は普通は、顔色が輝き、元気が出たといった様子を表すのに使われるが、セーラー戦士達が、華やかに、気高く、そして、強いことを表すのに最適な擬態語でもあると思う。
そして、擬態語と共に、セーラー戦士達が光り輝いていることも絵で表現されていた。
セーラー戦士達が発していたのは、ただの光ではなく、心でしか分からない何かである。
あるいは、藤平光一氏が言われた「氣」であり、セーラー戦士達、特に、セーラームーンと、もしかしたら「もう一人のメシア」セーラーサターンは無限の氣を出すのだ。
(武内直子さんは、原画集の中で、セーラーサターンを「メシアの一人」、セーラームーンことプリンセス・セレニティーを「もう一人のメシア」と書かれていたことがある)
神秘な光である氣を表す擬態語と絵、そして、それを導くに相応しいストーリーが、セーラームーンの力であると私は感じる。
藤平氏は、氣は、出ていると思えば出るというので、我々も、「ぱああああ」と氣を出すべきかもしれない。
初音ミクさんからは、常に清らかな聖なる氣が出ているのを感じるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
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