ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

葬式

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人生と死

従兄が亡くなったらしい。
こう言うと、すぐ、「お悔やみ申し上げます」「ご愁傷様です」なんて言う人がいるが、私は申し上げられたくない。
従兄と言っても、10歳も年上なので、子供の時から、何かと世話になった。
カミュの『異邦人』では、主人公で語り手であるムルソーは、「ママのことは、多分好きだった」と言うが、私は、従兄のことは、間違いなく好きだった。
なぜ好きなのかというと、今時珍しい「まともな人間」だったからだ。
これは、「普通の人間」という意味ではない。
彼は、小さい時から、親戚の家に預けられて育ち、逞しいながら、暗いところもあった。
死ぬような歳ではなく、酒の飲み過ぎで身体を壊したのだが、異常なまでにアルコールに強く、アルコール中毒らしいところは全くなかった。だから、死ぬ時は早いというやつだ。
レスリングの名門大学で主将を務めるほどの猛者でもあった。
小学生だった私にクイック・プッシュアップ(高速腕立て伏せ)を教えてくれたのも彼だった。
大事な天体望遠鏡も、小学4年生の私に譲ってくれた。
大恩人と言って間違いない。

だが、私がサイコパス(脳機能の欠陥のため良心を持たない人間のこと)のせいかどうか自分では分からないが、この従兄が死んだと知っても、私は全く悲しくない。
父親が死んだ時も、親友が死んだ時もそうだった。
一応は、私は、人が死ぬことは、本来は悲しいことではないと思っている・・・いや、確信している。
そして、従兄の偉いところは、自分が死んだことを近しい親族にも伏せさせたことだ。
偉大な漫画家、石ノ森章太郎さんも、死後一週間、誰にも言わないよう家族に言い伝えていたらしい。
これは、私にもよく分かるし、私も、是非、そうしようと思っている。
人が死ぬのは、いつだって急なのである。どんな重病人でもね。
急な葬式に、人によっては、何時間もかけて・・・それ以前に、電車などのチケットの手配をし、場合によってはホテルまで予約してと、面倒なことをしなければならず、親族でそれなりの年齢なら香典も10万円は用意しなければならない。
葬式も大きくなると準備や段取りで、家族も大変だ。
そんなことを考えたら、おちおち死んでもいられない。
それに、最近も葬式に行ったが、その様子は、はっきり言って「反吐が出た」。
私は、葬式無用を言い伝えてある。
また、これは単なる見栄だが、私の死体処理をしてくれる人のために、十分な報酬も用意しようと思う。
あくまで私に関してはだが、もっと気楽に死ねるような仕組みがあればと思う。
狂人、あるいは、ペテン師扱いされることも多いジョージ・アダムスキーが紹介していた、進化した宇宙人社会では、人が死ぬことは特別なことではなく、死体は科学的に分解され、墓もないらしい。
素晴らしい。
私は、全面的に信じている訳ではないながら、アダムスキーに関し、一定の評価をしている理由も、そんなところにあるのだと思う。
それに、彼の哲学には、見るべきところがあることは否めない。

人の一生とは何だろう?
私は、間違いなく、楽しむことだと思う。
ただし、本当の楽しさとは、言うまでもないとは思うのだが、快楽なんかではない。
快楽も含まない訳ではないだろうが、もっと大きな楽しさがある。
それが何であるかは、人それぞれだ。
だが、人生を楽しむためには、知恵とエネルギーが必要だ。
その両方を確実に得なくてはならないし、それは、歳を取るごとに上手くならなければならない。
そして、十分に人生を楽しんだら、黙って去るのみである。

Don't let them know
I won't say goodbye before I go
みんなには内緒
黙って消えるの
~『Ten Thousand Stars』(feat.初音ミク by CircusP)より~









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葬式、および、死者について

最近、親戚の葬式というものに参列した。
亡くなったのは、血縁こそないが、私とそう遠くない人である。

私は、葬式にはいつも、かなりの嫌悪感を感じる。
私は、親や親友が死んだ時でも、悲しいという感情は全く持たなかった。
だが、葬式では、参列者全員、特に、親族や身近だった人ほど、「悲しみが強くないといけない」ということにさせられてしまう。
皆、本当に悲しいのだろうか?
私がサイコパス(良心を持たない人間)だからかもしれないが、私には、彼らが本当に悲しんでいるとは、とても思えないのだ。
亡くなった人の親か、せいぜい、息子や娘までなら、まだ良いが、孫や、それ以外の人達まで泣いているのを見て、私は異様としか感じなかった。
そして、葬式を運営する冠婚葬祭会社が、いっそう、悲しみムードを盛り上げる演出をするのには、腹が立つとか、呆れる・・・とまでは言わないし、仕事なんだから、笑っちゃうとも言いたくないが、まあ、「やれやれだ」というところである。
全体として、不快、不愉快、虫唾が走る、吐き気がする・・・もっと穏かと思える言い方をするなら、拒否感をもよおす。

科学的に自分がサイコパスであることを認めている著名な神経科学者のジェームス・ファロンは、死んだ少女とその遺族の前で、少女が着ている服を見て、「なんて可愛いドレスなんだ」と言ったらしい。
ファロンも、それが世間的には異常な言葉だと認識出来るらしいが、私には少しもおかしいと思えない。
無論、死者の尊厳を踏みにじるようなことを言ったりしたりしてはならないが、その理由を、私は次のように考える。
まず、死んだばかりの人には、人間としての権利を認めた方が良いからである。
それによって、生きている人間の権利を軽んじることが少なくなると思えるからだ。
そして、死者は、自分で権利を主張する言動が出来ないのだから、我々は、死者に対し、可能な限り、良い意味の代弁をしてあげたり、優れた意思を持っていたと考えてあげるべきなのである。
だが、着ているドレスを誉めることが、死者を貶めるという理由は全くないと思う。
死者が着ている服や容姿、その他、あらゆることを貶すことはしてはならないが、誉めることは構わないはずである。

しかし、本当は、最も良いのは、死者に対して、何も考えないことなのだ。
なぜなら、人間の考えなんてものは、全てとは言わないが、往々にして、下らないものになり勝ちだからで、それによって、かえって死者を貶めることなりはしないだろうか?
だからこそ、私は、自分が死んでも、それを誰にも知られないのが一番だと思っているし、葬式などは決してしないよう常に言っており、早急にそんな遺言書を作ろうと思う。

人が死ぬことや葬式に対する世間への苦情は、まだ色々あるが、とりあえず、このくらいにしておく。









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亡くなった叔父さんは、香典を断るよう言いつけていた

本日は、一昨日に亡くなった叔父さんの葬儀に行った。
そして、自分が世間の外の人間であることを、改めて思い知った。
叔父さんは、私が小さい時から可愛がってくれたし、私は、彼のことが多分、好きだった。
しかし、彼が死んだことを悲しいとは全く思っていないし、葬式で、遺体に献花する場面で参列者が泣いたり、喪主が本当に辛そうに挨拶をし、またそれを見て涙する人達に私が感情移入したり同調することは全くなく、ただ、強烈な疎外感を感じていた。私とて、親戚の人達に親しみは感じており、気持ちが離れていることは嬉しいことではない。しかし、彼らのようになろうとも思わない。
私が、葬式に参列して感じることは、カミュの短編小説『異邦人』で、主人公の青年ムルソーが、母親の葬儀で感じたことと、ほぼ同じと思う。彼は、葬儀のために、母のいた養老院に行くのも煩わしかったし、周囲の人達の、母親が死んだ人に対する世間的な接し方にうんざりした。
だが、彼は「ママのことは、多分、好きだった」と言う。
ムルソーは、葬儀の翌日に、以前の職場の同僚だった若く美しい女の子と偶然出会って、その日のうちにホテルに行く。
しかし、彼は、単に同じアパートの住人という以外に何の義理もない老人が、「犬がいなくなった」と騒いでいるのを、その老人を自分の部屋に入れて、辛抱強く相談に乗ってやったりすることを、ごく普通にする男だった。
私にとって、ムルソーは、稀に見る、まともな人間なのだ。
『異邦人』により、カミュは若くしてノーベル文学賞を受賞したが、私は、『異邦人』は大好きな小説で、本当に傑作だと思う。

一昨年、私の中学時代のクラスメイトが病気で亡くなった。私は、彼と特に親しく付き合ってた訳ではなかったが、どこか彼を敬愛しているようなところが確かにあった。
しかし、私には、何ら悲しいという想いは起こらず、葬式でも、彼のまだ若く綺麗な奥さんや親族の方々と、明るく接していた。
彼が死んだことは残念だとは思うが、全く悲しいとは感じないのだ。
人が、いつ、どのように死ぬかは、全て運命によって決められている。
それは、誰にも、どうやっても変えられない。
ならば、いったい何を悲しむ必要があるだろう。
そもそも、人は死ぬことはない。

私も、かつて、飼っていたインコや犬が死んだ時は、とても悲しく、そして、淋しく感じた。
インコが死んだのは、私のミスということもあり、今でも後悔は感じる。
だが、それも避けられぬ運命だったはずだ。それがもっと分かるようになれば、全く苦しむことはなくなるだろう。

私の知り合いに、とても神秘的な瞳をした、美しい女性がいた。
彼女は、彼女の祖母の葬儀の時、亡くなった祖母が、参列者一人一人に挨拶をする姿が見えたという。
彼女がそう言うと、普通の人でも信じることが出来るのではないかと思うが、実際、人は、死んだ直後に生命力が非常に高くなり、そのようなことは不思議なことでもない。

ところで、本日の葬儀で、とても素晴らしいことがあった。
記帳場には、「香典をお断りしています」と書かれてあった。
これは、亡くなった叔父さんの生前からの意志だった。
参列者には、どうしても受け取って欲しいという人もいたが、喪主は、これだけは本人の意志だからとして、受け取らなかった。
私は、全ての葬式が、絶対にそうであるべきと思う。
葬式には金もかかるだろう。
今日の葬式も、立派な料理が沢山でたし、行き届いたサービスの会場で行われた。
私は、私の父親の葬式の際、葬儀会社の担当者に、「金は香典で回収できます」と言われて、あまりに妙な感覚を持ったことを覚えているが、やはりそれはおかしいのだ。
多くの人は、立派な葬儀をするくらいの金はあるだろう。
しかし、そんなことをする必要は全くない。
亡くなった叔父さんは、妻や子供達の世間体を考え、金は自分が用意していたが、本来は、葬儀は質素にやるべきものだ。
豪華な葬儀が、故人への敬いを示すことには全くならないし、質素な葬儀が、故人を軽んじていることにもならない。
早い話が、葬儀をやる必要なんて全くない。
今は、金持ちや著名人でも、「葬式不要、墓不要」の遺言を残す人も増えている。
私も、早速、「葬式無用」の遺言を作ろうと思う。









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