ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

葉隠

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

武士道で宇宙人に勝つとは

新渡戸稲造(1862~1933)が『武士道』を書いたきっかけは次のようだったと思う。
ある西洋人が、日本人は無宗教が普通だと知ると、新渡戸に、
「日本人は宗教なしに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」
と、驚きと非難を含む調子で言った。
それに対し、新渡戸が「宗教はないが、日本に武士道あり」ということで、武士道を西洋人に説明するために、英語で『武士道』を書いた。
だから、日本語の『武士道』は、実は翻訳である。

道徳を宗教で教える・・・西洋人には受け入れられている考え方である。
さらに、規律に関しては、宗教で間に合わない部分は軍隊式に厳しく躾ける。
これらが正しいかどうかと言うと、IQが低い者に関しては圧倒的に正しい。
IQが高ければ、道理を理解することで、道徳的に振る舞い、マナーを守る。
だが、IQが低い者には道理が理解出来ないので、宗教の分かり易い話を借りて善良な人間像を与えてそれに倣わせ、さらに、鞭を持って、マナーを身体に教えないといけない。
これは現実である。
そして、道徳哲学者のジェームズ・フリンが言うように、昔の人ほどIQが低いので、新渡戸の時代の、その西洋人の疑問は正しく、それどころか、今の時代でもかなり正しいかもしれない。

ところで、私は、武士道というか武士というものが好きではなかった。
武士階級は、農民が汗水たらして働いて作った米を、暴力的に奪い取り、農民が飢えていても、自分達は十分食べていたからだ。
理不尽もいいところだ。
農民が領主におさめる年貢は収穫の半分と言われ、今の非人道的な日本政府が国民に課す税金と同じ(笑)なのである。

だが、新渡戸が書いたのかどうか私にははっきりしないが、こんな話が記憶に残っている。
武士の平和で能天気な悩みである。
戦国時代であれば、建前上、国や農民を守るという大義名分が武士にあった(まあ、戦争は武士が起こすのだから、農民には迷惑なだけだが)。だから、一応は、年貢で納められた米を食うのも堂々とやれた。
だが、徳川の太平の世になると、戦争は起こらないので、武士はやることがなくなった。
それなのに、農民に年貢を納めさせることで食べている。
そこに武士は後ろめたさを感じていたのだ。
ただし、これは新渡戸も誰も言っていないが、そんなことを感じたのはIQが高い武士だけである。
ほとんどの武士は、当然のように飯を食っていた。
だが、後ろめたさを感じるIQが高い武士は、どうしたかというと、「せめて模範になれる立派な人間になろう」と思ったのだ。
いや、それなら働けよニート・・・と言いたいところだが(笑)、いずれにしろ、武士道はIQが高い人間によって集約された哲学であるから難しいが、西洋人の中のIQが高い人達に興味を持たれたのだった。
IQが低い西洋人にとっては、武士など、単なる主君に隷属する戦闘員であり、武士道は、野蛮な「ハラキリ」の掟を持つマフィア道である。

仮想現実の乙女
AIアート376
「仮想現実の乙女」
Kay


さっきも書いたが、私は、武士の「せめて立派な人間になろう」なんて、単に働くのが嫌だからそう言い訳する逃げの姿勢が大嫌いだったが、最近は、この考え方を見直すようになった。
武士だって、個人としては、無力なのである。
そこは、現代の我々も同じだ。
そんな時に「せめて立派な人間になろう」と思うのは良いことではないだろうか?
そして、結論から言えば、この「せめて立派な人間に」という指向性が、『エイリアン・インタビュー』に出てくる、「旧帝国」の宇宙人が地球に仕掛けたマインドコントロール装置の影響を免れる良い方法である。
ほとんどの人間は、良い人間でいようなどと思わないので、マインドコントロール装置の影響をモロに受け、魂は閉ざされ、能力を著しく制限されているのである。
この、「せめて良い人間になろう」は、些細なことで実践しても良いし、実際、些細なことでしか出来ない場合が多い。
例えば、「酒が大好きだが、1日2杯までにしよう」とか、「俺はロリコンだが、少女たちに邪なことをせず、むしろ大切に守ろう」とか(笑)だ。

これにより、マインドコントロール装置の影響を抑え、IQが上がり、魂の力を引き出して全知全能に近づき、引き寄せの力も強くなる。
呼吸法を熱心にやっても、心があまりに汚れていたら、魂の力が解放されない。
いや、実を言うと、心が汚れていたら、深呼吸すらうまく出来ないのである。
尚、新渡戸の『武士道』は、おそらく、『葉隠』を参考にしたはずだが、『葉隠』は名著であり、読むとIQが高まると思う。








人間の目的は本当はこれだった

アニメ『ルパン三世 血の刻印 〜永遠のMermaid〜』の中で、ルパンが次元に尋ねる。
「次元、お前は何のために泥棒をしている?」
それに対し、次元は澄まして、
「美味い酒を飲むためさ」
と即答する。
フィクション、ノンフィクションを問わず、これほど単純に人生の目的を言った例はない。
まあ、どこかの空手家の「地上最強を目指す」みたいな目的は、さすがに信じられないし、実際、調べたら嘘だった。
ラマナ・マハルシは人生唯一の目的は「真我の実現」と言うが、マハルシはある時期に実現したことになっており、その後は、何の目的もなかったことになる。

ただ、もう1つ、分かり易いと思うのが、ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』の主人公の中年男ハンバート・ハンバートで、彼の人生目的は、自分好みの可愛い少女を性的に享楽することであることは、まあ、間違いあるまい。

ただ、こうやって書いていたら、いろいろ重要なことが浮かんでくる。
イギリスの作家コリン・ウィルソンの人生の目的は、簡単に言えば、「人を元気にする」ことだったのだと思う。
他にも願いはあったのだろうが、彼は、本当に、人生を通じて、これを目指していた。
この目的は首尾よくいったとは言い難いが、彼はこれに関してだけは大真面目で誠実であったのだと思う。

さらに思い出す。
ラマナ・マハルシは、事実上、こう言ったのかもしれない。
「人間の本当の願いはぐっすりと眠ることだ」
そして、ぐっすりと眠ることとの類似点から、『葉隠』の、「武士道とは死ぬことと見つけたり」に至る。
武士に限らない。
人生の目的は死ぬことで、しかも、その死が「良い死」となることだ。
三島由紀夫が『葉隠』を絶賛していたのはなぜか全く知らないが、絶賛すべきものであるのだろう。
まあ、三島由紀夫が「良い死」を得たかどうかは甚だ疑わしいが。

宗教者の、人々を救うといった目的は、言っては悪いが、全部嘘と思って間違いない。
だが、まずいことに、自分ではそれが自分の目的だと思い込んでいる宗教者が多いのだと思う。
なぜ嘘だと断言するのかというと、そんな目的を本当に持っていたら、自覚は出来ないはずだからだ。
本当にそんな目的を持っている者であれば、次元のように、簡単に「美味い酒を飲むことさ」と言うはずだ。
つまり、次元は、自覚の出来ない人生の本当の目的を持っており、それが何かは自分では分からないが、それがあることを知っているのである。
そして、ルパンも同じであることを示唆した。
なかなかの脚本である。

知らない子
AIアート266
「知らない子」
Kay


さて、一部の人々は、『エイリアン・インタビュー』によって目的を得ることが出来る。
このローレンス・スペンサーの著作が事実かどうかに関わりなく、それが正しい目的になる。
その目的とは、古代に、悪の宇宙人が地球に仕掛けたマインド・コントロール装置の支配から逃れることである。
成功したのは、『エイリアン・インタビュー』によれば、固有の人物としては、釈迦、老子、ゾロアスターである。
繰り返すが、『エイリアン・インタビュー』は、そこで語られているお話が事実であるかどうかは分からない。
しかし、事実は人間に理解出来ないほど高度で複雑なので、人間に分かるようなたとえ話にしたと考えても良いと思う。
このお話から導き出される人生の目的が価値あるもので本物であることは保証出来ると思う。








武士道が大切になってきた

私は、武士道というものが好きではなかった。
武士道と言えば、新渡戸稲造(1862~1933)の『武士道』(原文は英語)と、江戸中期の書物『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」が有名と思う。
新渡戸が『武士道』をニューヨークで出版したきっかけは、アメリカに留学していた時、アメリカ人の女性に、「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」と問われて困り、それなら、日本には宗教の代わりに武士道があるとして、この武士道を紹介するために英語で書いたのだったと思う。
しかし、そこに書かれているのは、日本人も知らない、高邁・難解な哲学や思想だった。

特に、新渡戸のというのではなく、『葉隠』も合わせ、武士道とは何だろう?
私は、最近まで、武士道とは、「武士の言い訳」程度に考えていた。
どういうことかというと、こういうことだ。
武士は特権階級で、働かなくても食べていける。
だが、戦争になった時には、領民を護るために命をかけて戦うのであるから、それも当然と言えた。
しかし、徳川の世になり、戦争など起こらなくなった。
だが、それでも、武士は働かず、のうのうと特権を謳歌している。
武士にも頭が付いている者がいたらしく、生まれながらの特権で遊んで暮らせることに後ろめたさを感じる者もいたようだ。
そこで、「せめて立派な、お手本になる人間になろう」と思って、「立派な人間とはこうである」という暇なことを考える人がいたが、その中にはなかなか頭の良い人もいて、そんな武士により、それなりに立派な武士道というものが出来上がったのだろう。その代表的なものが『葉隠』で、これは、佐賀藩士の山本常朝(やまもとつねとも)が口述したものである。

私は、「遊んで暮らせることが後ろめたいなら働けよ」と思い、あくまで特権を手放さない言い訳として考えられた武士道に批判的だった。
ところが、現代人には、武士のように、働かない者が増えてきた。
サラリーマンの多くは、毎日出勤していながら、大して働いていないし、中には、実質、ほとんど働いていない者もいる。
その代表が私だった。
確かに、良い会社とは、社員が働かなくても儲かる仕組みが出来た会社である。
しかし、その仕組みとは、賃金の安い工場労働者など、福沢諭吉の言う簡単な仕事とされる「力役(りきえき。肉体労働者)」に負っている。
さらに、ほとんど意識されないが、途上国の、子供を含めた貧しい人々の厳しい労働に、大いに依存しているのである。
我々が食べる美味しいチョコレートのために、貧しい国では、子供達が買われて親から離され、過酷な労働を強いられ、危険な仕事も多く、それで指を切断してしまっても、医者に診てもらえないなど普通である。
そういったことから考えると、特に、大手企業のサラリーマンや公務員等は、たまたま豊かな家に生まれたおかげで、良い大学を出て、楽に高い給料をもらっているのだから、武士と変わらない。
けれども、かつての武士のように、後ろめたさなどは持たず、もっと金や地位が欲しいという欲望だけで生きている。
だから、「立派な人間になろう」なんて考えは全くなく、そんなことを言ったら、「それ、何の役に立つの?」「コスパ、悪くね?」と言われることになるだろう。
たとえ、後ろめたさを感じても、自ら肉体労働者になることも出来ないのだから、せめて立派な人間になろうという、かつての一部の武士の心意気は良かったなあと思うのである。

自己啓発本を読むのは、かつての武士に匹敵するような身分の人が多いのだと思う。
ただし、立派な人になろうと思って自己啓発本を読むのではなく、引き寄せの法則などで、自分が豊かで幸せになるために読んでいる場合がほとんどと思う。
ところが、個人的な欲望のために自己啓発本を読んでも、成果が出ず、引き寄せも起こらない。
そして、気付くのである。
自己啓発本自体は、立派なものが多いが、それを読んで成果を出せるのは、「立派な人間」だけなのである。
それは事実である。
程度の低い人間が、いくら立派な自己啓発本や引き寄せの方法が書かれた本を読んでも、全く何も得られない。
もちろん、聖人君子になれと言うのではなく、どんな人間にも欠点はある。
しかし、自分に恥じないだけの立派な人間になろうと思わない限り、天や神や宇宙や潜在意識は味方をしてくれないことは確実である。
これには反発したい向きもあろうが、短期的にはともかく、その者の長期に渡る状況が示してくれているはずである。








『葉隠』『五輪書』のすすめ

カースト制度というものを学校で習ったことがあるかもしれないが、現在のインドにもカースト制度はちゃんとある。
ただし、カーストを理由に差別してはならないという法律が1950年に出来たらしいが、そんな法律はおそらく有名無実だろう。
カースト制度のない日本にだって、職業差別はあるし、なくなる見込みもないのだから。

ところで、カースト制度で一番上が、バラモンだということをご存じかもしれない。
バラモンは、僧侶などの宗教的な職業・・・神職と言って良いかもしれないが、まあ、生産的な人間達ではないだろう。
2番はクシャトリアで、「王族」「戦士」であるらしいので、昔の日本の、貴族や武士を合わせたものだろう。
3番がヴァイシャで「市民」。商人が多く、製造業者も指す。
一番下がスードラ(シュードラ)で、かつては「奴隷」を意味したが、今は「大衆」「労働者」だ。
日本の士農工商では、商売人が一番下だが、カースト制度では、工(職人)が一番下だ。

インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の主人公アルジュナの身分はクシャトリアで、アルジュナは王子であると同時に武士で、特に彼は素晴らしい戦士だった。
江戸時代の日本でも、大名ともなれば王族のようなものだと思う。
そして、クシャトリアも武士も、戦うのが仕事だ。
敵が攻めてきたら、戦って国を守るし、あるいは、他の国を侵略して国を広げ、国を豊かにするのだから、それ以外の仕事・・・つまり、「卑しい」庶民の仕事はしなくて良い訳だ。
だが、日本では、江戸時代に天下泰平(てんかたいへい)の世の中になり、戦争はなくなり、争いも多くなく、そんなに多くの武士は必要なかった。
ところが、武士は特権階級を維持し、労働をせずに、普通の庶民よりずっと多くの報酬を得ていた。
それはけしからん話で、戦争がなく、治安維持の人手も余っているのなら、武士だって労働すべきというか、大半の武士は、下の身分に下がるべきであろう。
しかし、そうはならなかった。
ところがである。
そうなると、日本の素晴らしい精神性のためか、働かずに食える武士の中には、後ろめたさを感じる者も少なくはなったのだ。
無論、そうではなく、のうのうとしたり、下の身分の者に対して威張り、いじめる者もいたはずだ。
だが、真面目で、働かずに生活が保障されることを後ろめたく感じていた武士が多かったのも事実らしい。
それなら、武士の身分を捨ててすっきりすれば良いのだし、実際にそうした者もいたかもしれないが、やはり人間は弱いものであり、「良い御身分」は捨てられない。
そこで、そんな武士達は、「せめて模範になれる立派な人間になろう」と決意したのだ。
実際のところ、「そんなことに逃げず、泥にまみれ、厳しい商売をしろ」と言いたいところだが、私だって、そんな身分なら、自主的に捨てるとは全く思えない(笑)。
そして、そんな武士の「せめてもの」務め(立派な人間になるための努力)が、意外に・・・と言ってよいかどうか分からないが、優れた精神文化になったのである。
その1つが、新渡戸稲造の『武士道』であろうが、「武士道」は、決して、その1つではなく、様々なのである。
例えば、『葉隠』なんて、実際は、新渡戸の『武士道』と全然違うし、また、宮本武蔵の『五輪書』もまた独特なものだ。
ところが、いずれにせよ、『葉隠』も『五輪書』も、そして多分、『武士道』も名著なのだ。

偏見かもしれないが、新渡戸の『武士道』は、元々、西洋人向けに英語で書いたものであり、脚色も強かったので、本当に武士が考えたことかどうかは疑問だ。そもそも、新渡戸に武士道を語る資格があるかどうかも分からない。
そして、言ってはなんだが、『葉隠』や『武士道』は、武士らしく戦いの道を説いたものなのだろうが、精神性の究極を解き明かしたものであり、実は、超実用的なのである。
その点、新渡戸の『武士道』は、精神論であり、実用的でない。
いや、『葉隠』も『五輪書』も、実用と思う人は少ないだろうが、これらこそ、誰の役にも立つ実用書で、言ってみれば、引き寄せの極意でもある。
実際、日本のみならず、世界の成功者の中には、これらの価値を見抜き、愛読する者も少なくない。
三島由紀夫の場合、『葉隠』から、無限の宇宙のエネルギーを得たのであり、あれはあれで実用的に使ったのだと思う。
そして、2つとも、丁寧に現代語訳したものは、案外に読み易い。
元々が、意外に思いやりのある著者達が、究極の真理をシンプルかつ親切に語ってくれているものだからだ。
読まないのは勿体ないと私は思う。








こうして彼らは無になった~幼い少女から騎士・武士まで~

我々は超人にならなければならない。
ただし、我欲を叶えるためではない。
自分のためでないなら、イエスが起こした奇跡のいくらかは出来たっていいと思う。
イエス自身は、自分のやったことは誰でも出来るし、あなたはもっと大きなことだってやれると言ったのだ。

超人の力を得る秘訣は、ただ、無になるだけだ。これは、無念無想ということであり、いかなる想念も持たない状態だ。
もっと詳しく言えば、究極の想念である、私という想いすら失ったことを言う。
そして、私という想念を失くす前に、「私のもの」という想念が無くなる。だから、「これは私のもの」という想いが強いうちは無になれない。
自分のことに関しては、「無断転載禁止」と言っているうちは苦労が多いものだ。

『葉隠』に「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な言葉があるが、これを、主君の命令があれば命を捨てることであると単純に考えてはいけない。
これもまた、無になるということなのだ。無になることで最上の人間になり、天下のために役に立とうというのが本来の武士道である。
西洋の騎士道も、実は根本は同じなのだ。彼らが名誉のために決闘するというイメージがあるかもしれないが、本物の騎士は、個人的名誉や利害で決闘なんてしない。
ただ、成り行きで決闘することになっても、本物の騎士は、どこか冗談っぽい。決闘では殺しあうこともあるが、それでも、大人の余裕を忘れない。それが騎士だ。
決闘が遊びである彼らには、この世の全てが遊びだ。無にでもならなければ、そんなことは出来ない。
まあ、ろくでもない武士や騎士が多くなり、本物の武士道や騎士道は廃れてしまったがね。

どんな方法でもいいから無になれば、あなたに敵するものなど存在しない。
聖書に、「もし神が味方ならば、誰が我らに敵し得よう」という言葉があるが、神は無になれば味方してくれる。なぜなら、無である自己が神であるからだ。

本当に好きで絵を描いていれば、どんなに下手っぴいでも無になる。それで、多少上手くなれば大画家になる。木下清なんて、そんな画家だったと思う。
竹久夢二は、うまくいってたのに、画学校に入ろうなんて迷いを起こした。しかし、偉い画家に、「君の絵は画学校に入ったら駄目になる」と指摘されてやめたが、夢二には最後まで迷いがあったように思える。夢二は、有名になってからも、画家志望の若い人達には、自分のようなやり方を勧めず、ちゃんと学校で勉強するよう言ったものだ。美術学校に行って、あんたほどの画家になったやつがどこにいるっていうんだい?

風説かもしれないが、的を得た話がある。
柳生宗矩(やぎゅうむねのり)が、徳川家光に、立てた一本の棒の頭を木刀で毎日打つように言った。
その頃、まだ竹千代(将軍家の世継ぎの幼名)と呼ばれていた家光は気乗りしなかった。そこで、宗矩が、それをやれば鉄の兜(かぶと)でも切れるというので、「ではやってみろ」ということになった。そして、宗矩が見事、鉄の兜を切ると、家光は驚愕し、それをやるようになった。
その話をヒントにしたのか、本宮ひろ志さんの漫画で、宮本武蔵が山の中で、一本の木の杭をひたすら木刀で打ち込み、1年が過ぎて下山すると、敵と立ち会った時、敵の動きが全て読めるようになって、大概の相手なら楽勝となった。
同じことをひたすら繰り返すのは、無になるための基本的な修行である。

腕振り運動(スワイソウ)でも、ただ数を数えることに集中して、千回を迷いなくやれるようになれば無に近くなり、2千回もやれれば大概の病気は治るし、我欲でなければ何でも上手くいく。
それを、数を数えずに音楽を聴きながら曲が終わるまでといったようにやったり、テレビを見ながらやってもあまり効果はない。
禅には、数息観というものがあり、座って呼吸の数を数えるというものがある。普通、息を吸って、それを長く細く吐きながら数を数える(つまり、吐く息の数で数える)。十まで数えたら一に戻る。ところが、雑念が起こってなかなか上手くいかず、数が分からなくなったり、50まで数えたりする。これだけでも、ちゃんとやれるようになったら無になれる。

究極の寓話は、グリムの『星の銀貨』だ。
自分が持っているなけなし(わずかな)のものを全部(下着まで)、人にあげてしまった少女は、天から沢山の銀貨を与えられる。銀貨は、力や知恵の象徴である。無論、それがあれば、どんな時にも困らない。
(『星の銀貨』は、下でご紹介する、美しいカラー絵が付いたものが良いと思う)

優れた聖典を何度も何度も読んで、人知を超えた賢者となった人もいる。これも無になったことによる。
そして、『エメラルド・タブレット』は、人類最古にして至高の聖典であり、アトランティス語から英語への翻訳者ドリール博士は百回読むよう薦めている。

「無になりきれば不可能はない」
即ち、思うがままだ。
ただ、我欲が起こると、心が曇り、無でなくなるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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