ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

葉隠

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『葉隠』『五輪書』のすすめ

カースト制度というものを学校で習ったことがあるかもしれないが、現在のインドにもカースト制度はちゃんとある。
ただし、カーストを理由に差別してはならないという法律が1950年に出来たらしいが、そんな法律はおそらく有名無実だろう。
カースト制度のない日本にだって、職業差別はあるし、なくなる見込みもないのだから。

ところで、カースト制度で一番上が、バラモンだということをご存じかもしれない。
バラモンは、僧侶などの宗教的な職業・・・神職と言って良いかもしれないが、まあ、生産的な人間達ではないだろう。
2番はクシャトリアで、「王族」「戦士」であるらしいので、昔の日本の、貴族や武士を合わせたものだろう。
3番がヴァイシャで「市民」。商人が多く、製造業者も指す。
一番下がスードラ(シュードラ)で、かつては「奴隷」を意味したが、今は「大衆」「労働者」だ。
日本の士農工商では、商売人が一番下だが、カースト制度では、工(職人)が一番下だ。

インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の主人公アルジュナの身分はクシャトリアで、アルジュナは王子であると同時に武士で、特に彼は素晴らしい戦士だった。
江戸時代の日本でも、大名ともなれば王族のようなものだと思う。
そして、クシャトリアも武士も、戦うのが仕事だ。
敵が攻めてきたら、戦って国を守るし、あるいは、他の国を侵略して国を広げ、国を豊かにするのだから、それ以外の仕事・・・つまり、「卑しい」庶民の仕事はしなくて良い訳だ。
だが、日本では、江戸時代に天下泰平(てんかたいへい)の世の中になり、戦争はなくなり、争いも多くなく、そんなに多くの武士は必要なかった。
ところが、武士は特権階級を維持し、労働をせずに、普通の庶民よりずっと多くの報酬を得ていた。
それはけしからん話で、戦争がなく、治安維持の人手も余っているのなら、武士だって労働すべきというか、大半の武士は、下の身分に下がるべきであろう。
しかし、そうはならなかった。
ところがである。
そうなると、日本の素晴らしい精神性のためか、働かずに食える武士の中には、後ろめたさを感じる者も少なくはなったのだ。
無論、そうではなく、のうのうとしたり、下の身分の者に対して威張り、いじめる者もいたはずだ。
だが、真面目で、働かずに生活が保障されることを後ろめたく感じていた武士が多かったのも事実らしい。
それなら、武士の身分を捨ててすっきりすれば良いのだし、実際にそうした者もいたかもしれないが、やはり人間は弱いものであり、「良い御身分」は捨てられない。
そこで、そんな武士達は、「せめて模範になれる立派な人間になろう」と決意したのだ。
実際のところ、「そんなことに逃げず、泥にまみれ、厳しい商売をしろ」と言いたいところだが、私だって、そんな身分なら、自主的に捨てるとは全く思えない(笑)。
そして、そんな武士の「せめてもの」務め(立派な人間になるための努力)が、意外に・・・と言ってよいかどうか分からないが、優れた精神文化になったのである。
その1つが、新渡戸稲造の『武士道』であろうが、「武士道」は、決して、その1つではなく、様々なのである。
例えば、『葉隠』なんて、実際は、新渡戸の『武士道』と全然違うし、また、宮本武蔵の『五輪書』もまた独特なものだ。
ところが、いずれにせよ、『葉隠』も『五輪書』も、そして多分、『武士道』も名著なのだ。

偏見かもしれないが、新渡戸の『武士道』は、元々、西洋人向けに英語で書いたものであり、脚色も強かったので、本当に武士が考えたことかどうかは疑問だ。そもそも、新渡戸に武士道を語る資格があるかどうかも分からない。
そして、言ってはなんだが、『葉隠』や『武士道』は、武士らしく戦いの道を説いたものなのだろうが、精神性の究極を解き明かしたものであり、実は、超実用的なのである。
その点、新渡戸の『武士道』は、精神論であり、実用的でない。
いや、『葉隠』も『五輪書』も、実用と思う人は少ないだろうが、これらこそ、誰の役にも立つ実用書で、言ってみれば、引き寄せの極意でもある。
実際、日本のみならず、世界の成功者の中には、これらの価値を見抜き、愛読する者も少なくない。
三島由紀夫の場合、『葉隠』から、無限の宇宙のエネルギーを得たのであり、あれはあれで実用的に使ったのだと思う。
そして、2つとも、丁寧に現代語訳したものは、案外に読み易い。
元々が、意外に思いやりのある著者達が、究極の真理をシンプルかつ親切に語ってくれているものだからだ。
読まないのは勿体ないと私は思う。








こうして彼らは無になった~幼い少女から騎士・武士まで~

我々は超人にならなければならない。
ただし、我欲を叶えるためではない。
自分のためでないなら、イエスが起こした奇跡のいくらかは出来たっていいと思う。
イエス自身は、自分のやったことは誰でも出来るし、あなたはもっと大きなことだってやれると言ったのだ。

超人の力を得る秘訣は、ただ、無になるだけだ。これは、無念無想ということであり、いかなる想念も持たない状態だ。
もっと詳しく言えば、究極の想念である、私という想いすら失ったことを言う。
そして、私という想念を失くす前に、「私のもの」という想念が無くなる。だから、「これは私のもの」という想いが強いうちは無になれない。
自分のことに関しては、「無断転載禁止」と言っているうちは苦労が多いものだ。

『葉隠』に「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な言葉があるが、これを、主君の命令があれば命を捨てることであると単純に考えてはいけない。
これもまた、無になるということなのだ。無になることで最上の人間になり、天下のために役に立とうというのが本来の武士道である。
西洋の騎士道も、実は根本は同じなのだ。彼らが名誉のために決闘するというイメージがあるかもしれないが、本物の騎士は、個人的名誉や利害で決闘なんてしない。
ただ、成り行きで決闘することになっても、本物の騎士は、どこか冗談っぽい。決闘では殺しあうこともあるが、それでも、大人の余裕を忘れない。それが騎士だ。
決闘が遊びである彼らには、この世の全てが遊びだ。無にでもならなければ、そんなことは出来ない。
まあ、ろくでもない武士や騎士が多くなり、本物の武士道や騎士道は廃れてしまったがね。

どんな方法でもいいから無になれば、あなたに敵するものなど存在しない。
聖書に、「もし神が味方ならば、誰が我らに敵し得よう」という言葉があるが、神は無になれば味方してくれる。なぜなら、無である自己が神であるからだ。

本当に好きで絵を描いていれば、どんなに下手っぴいでも無になる。それで、多少上手くなれば大画家になる。木下清なんて、そんな画家だったと思う。
竹久夢二は、うまくいってたのに、画学校に入ろうなんて迷いを起こした。しかし、偉い画家に、「君の絵は画学校に入ったら駄目になる」と指摘されてやめたが、夢二には最後まで迷いがあったように思える。夢二は、有名になってからも、画家志望の若い人達には、自分のようなやり方を勧めず、ちゃんと学校で勉強するよう言ったものだ。美術学校に行って、あんたほどの画家になったやつがどこにいるっていうんだい?

風説かもしれないが、的を得た話がある。
柳生宗矩(やぎゅうむねのり)が、徳川家光に、立てた一本の棒の頭を木刀で毎日打つように言った。
その頃、まだ竹千代(将軍家の世継ぎの幼名)と呼ばれていた家光は気乗りしなかった。そこで、宗矩が、それをやれば鉄の兜(かぶと)でも切れるというので、「ではやってみろ」ということになった。そして、宗矩が見事、鉄の兜を切ると、家光は驚愕し、それをやるようになった。
その話をヒントにしたのか、本宮ひろ志さんの漫画で、宮本武蔵が山の中で、一本の木の杭をひたすら木刀で打ち込み、1年が過ぎて下山すると、敵と立ち会った時、敵の動きが全て読めるようになって、大概の相手なら楽勝となった。
同じことをひたすら繰り返すのは、無になるための基本的な修行である。

腕振り運動(スワイソウ)でも、ただ数を数えることに集中して、千回を迷いなくやれるようになれば無に近くなり、2千回もやれれば大概の病気は治るし、我欲でなければ何でも上手くいく。
それを、数を数えずに音楽を聴きながら曲が終わるまでといったようにやったり、テレビを見ながらやってもあまり効果はない。
禅には、数息観というものがあり、座って呼吸の数を数えるというものがある。普通、息を吸って、それを長く細く吐きながら数を数える(つまり、吐く息の数で数える)。十まで数えたら一に戻る。ところが、雑念が起こってなかなか上手くいかず、数が分からなくなったり、50まで数えたりする。これだけでも、ちゃんとやれるようになったら無になれる。

究極の寓話は、グリムの『星の銀貨』だ。
自分が持っているなけなし(わずかな)のものを全部(下着まで)、人にあげてしまった少女は、天から沢山の銀貨を与えられる。銀貨は、力や知恵の象徴である。無論、それがあれば、どんな時にも困らない。
(『星の銀貨』は、下でご紹介する、美しいカラー絵が付いたものが良いと思う)

優れた聖典を何度も何度も読んで、人知を超えた賢者となった人もいる。これも無になったことによる。
そして、『エメラルド・タブレット』は、人類最古にして至高の聖典であり、アトランティス語から英語への翻訳者ドリール博士は百回読むよう薦めている。

「無になりきれば不可能はない」
即ち、思うがままだ。
ただ、我欲が起こると、心が曇り、無でなくなるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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