私の愛読書の1つ、盛鶴延さんの『気功革命』に、2種類の甩手(せいしゅ。腕振り運動)について書かれているが、その中で「甩手1」としている、前に振る(前に振る時に力を入れる)腕振り運動で、私には気になることがある。
それは、手を前に振った時に、指の先から邪気を出すというところだ。
3日前の17日に、大東流合気柔術式四股の動画でご紹介した、盛鶴延さんの系統の気功の先生でもある喜多原歓喜地さんも、甩手を教える動画である、
【気功】好転反応と甩手(セイシュ)
で、盛んに、邪気を手のひらや指先から出すことを強調しておられる。
私が気になることとは、出した邪気がどこに行くかということだ。
私から出た邪気が、そこらをさ迷って、誰かに迷惑をかけないか、ひょっとしたら、病気にしたり、悪いことを起こしはしないかと思うのである。
確かに、盛鶴延さんの本では、邪気について、「なるべく遠くに、できれば宇宙の彼方に飛んでいくようなイメージ」と述べておられ、それなら、地球上の人などには迷惑はかけないかもしれないが、いかに遠くても、そこで邪気が悪い作用を起こしはしないかと思う。
私は、これが気にし過ぎとは思わない。
そして、これに関し、神道家で春日大社の宮司であった葉室頼明さんが著書で、私の疑念を解消することを書かれていた。
昔読んだので、はっきりとは覚えていないが、だいたいのところで言うと、
「神道では、邪気を外に捨てるという考えはなく、浄化する」
と書かれていたと思う。
よって、私は、光り輝く波長の高い気が、身体の中の、悪いものを浄化するというイメージを持とうと思う。
気功の流派によっては、外部から気を吸収するという考え方があるようだ。
それで、大地の気とか、朝日の気とかを吸収するのなら、まだ良いと思うが、木や動物や、他の人から気を奪うようなことを言ったり、本に書く気功家もいる。
これに関しては、有名な合氣道家だった藤平光一さんが、そんなこと(他の人から気を奪う等)はとんでもないことだと批判し、
「氣(藤平さんは「気」は間違いで「氣」が正しいと言う)は出せば入って来るものである。だから、ただ出せば良い」
と著書に書いておられたが、私もこれに賛成である。
氣は、出ていると思えば出るのであり、そして、出せば、取り込もうなどと思わなくても勝手に入って来るのである。
それは、手を前に振った時に、指の先から邪気を出すというところだ。
3日前の17日に、大東流合気柔術式四股の動画でご紹介した、盛鶴延さんの系統の気功の先生でもある喜多原歓喜地さんも、甩手を教える動画である、
【気功】好転反応と甩手(セイシュ)
で、盛んに、邪気を手のひらや指先から出すことを強調しておられる。
私が気になることとは、出した邪気がどこに行くかということだ。
私から出た邪気が、そこらをさ迷って、誰かに迷惑をかけないか、ひょっとしたら、病気にしたり、悪いことを起こしはしないかと思うのである。
確かに、盛鶴延さんの本では、邪気について、「なるべく遠くに、できれば宇宙の彼方に飛んでいくようなイメージ」と述べておられ、それなら、地球上の人などには迷惑はかけないかもしれないが、いかに遠くても、そこで邪気が悪い作用を起こしはしないかと思う。
私は、これが気にし過ぎとは思わない。
そして、これに関し、神道家で春日大社の宮司であった葉室頼明さんが著書で、私の疑念を解消することを書かれていた。
昔読んだので、はっきりとは覚えていないが、だいたいのところで言うと、
「神道では、邪気を外に捨てるという考えはなく、浄化する」
と書かれていたと思う。
よって、私は、光り輝く波長の高い気が、身体の中の、悪いものを浄化するというイメージを持とうと思う。
気功の流派によっては、外部から気を吸収するという考え方があるようだ。
それで、大地の気とか、朝日の気とかを吸収するのなら、まだ良いと思うが、木や動物や、他の人から気を奪うようなことを言ったり、本に書く気功家もいる。
これに関しては、有名な合氣道家だった藤平光一さんが、そんなこと(他の人から気を奪う等)はとんでもないことだと批判し、
「氣(藤平さんは「気」は間違いで「氣」が正しいと言う)は出せば入って来るものである。だから、ただ出せば良い」
と著書に書いておられたが、私もこれに賛成である。
氣は、出ていると思えば出るのであり、そして、出せば、取り込もうなどと思わなくても勝手に入って来るのである。