昨夜、優れた本は音読すべきであることを書いたが、『バガヴァッド・ギーター』を音読すると、予期せぬことがあった。
私が音読したのは、田中嫺玉さん翻訳の、『神の詩 バガヴァッド・ギーター』(タオラボブックス)である。
まず、大変なことをしたと思ったのだ。
なんと、私の口が、至高神クリシュナの言葉を語るのである!
あまりの畏れ多さに自我はひれ伏すのであるが、しかし同時に、我が内にクリシュナは宿るのであるから、それは極めて自然でもあるのだ。
そして、クリシュナを愛さずにはおられないのである。
インドの詩聖タゴールの詩を読むと、タゴール自身が神に恋する乙女のようになってしまっているのであるが、初めてその理由が分かるように思うのである。
ラマナ・マハルシの弟子プンジャジもクリシュナに恋焦がれ、1日4万回クリシュナの名を唱えたというが、無理もないことであると思う。
クリシュナは果てしない慈悲に溢れ、優しい。
そして、クリシュナとアルジュナ王子の会話の仕方が素晴らしい。
クリシュナが神であることを知らなかった時でさえ、アルジュナは、クリシュナを親友として、誰よりも親しみ愛すると共に、師としては、この上なく尊敬し、完全に信頼していたたのであるが、それが会話の中にはっきり現れている。
また、宇宙最高の神であるクリシュナが、決してアルジュナを、言葉のただ1つの欠片においても見下すことはなく、それどころか、いつも、最上の誉め言葉でもって会話を始めるのである。
クリシュナは、アルジュが、並ぶことなき勇者であること、王家の血に相応しい高貴さを備えていること、そして、さらには、人類最高の人間であると褒め称える。
お互いを敬う対話の崇高さ、清々しさ、美しさはどうであろう!
こんな素晴らしい書の音読はおろか、読書すら薦めたことのない我が国の教育機関は、仮に悪の巣窟でないとすれば、限りなく愚かなのであり、それは国家の責任である。
だが、憂う必要はない。
『バガヴァッド・ギーター』の優れた翻訳はいくつか出ており、容易に入手できるのであるから。
ならば、それができるようにした我が祖国や、また、積極的に『バガヴァッド・ギーター』を否定するのではない我が国の学校だって、捨てたものではない。
様々な幸運により、我々は神の言葉を話すチャンスを得るが、それは、内なる神に語っていただく光栄を得ることなのである。
老子の『老子』(道徳経)は、やはり、神のごとき仙人である老子が、最高の人物である尹喜(いんき)に語った五千語の教えである。
こちらは、対話の形ではなく、尹喜が老子から聞いたことを憶えておいて、その後で筆写したものであり、我々は尹喜のおかげでこれを読めるのである。
『老子』は難解と言われるが、高名な宗教家の五井昌久氏によれば、やはり、ただ音読すれば分かるのだそうである。
我が国にある神の言葉は、春日大社の宮司も務めた神道家である葉室頼昭氏(はむろよりあき。医学博士。故人)によれば、『大祓詞』(おおはらえのことば)であるらしい。
ただ、これはあくまで神の言葉であるのだから、人間的な意味があるのではなく、葉室氏は、これをひらがなで書き直して、ただ音読したのだそうで、人々にも、そうすることを勧めている。
クリシュナのように神の言葉を語ったものといえば、やはり新約聖書の福音書の中のイエスの言葉であろう。
また、イエスの先祖で、聖霊に満たされたダビデ王が書いたとされる聖書の詩篇も、神の言葉であると言えると思う。
特に・・・というのではないが、詩篇23篇と91篇は、常に唱えれば、神の強大な保護と恵みを得られると言われ、ジョセフ・マーフィーもたびたび著書の中でそのことを強調している。
ただ、いかなる神の言葉も、それによって個人的な利益や名誉を得ようとするなら、それは穢れた魔道であり、それがあまりに強いと、悲惨な結果となる恐れがある。
クリシュナ自身、それを論理的に指摘し、説いているのである。
尚、田中嫺玉さん翻訳の『バガヴァッド・ギーター』はAmazonで在庫切れのことがあっても、すぐに補充されると思う。
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私が音読したのは、田中嫺玉さん翻訳の、『神の詩 バガヴァッド・ギーター』(タオラボブックス)である。
まず、大変なことをしたと思ったのだ。
なんと、私の口が、至高神クリシュナの言葉を語るのである!
あまりの畏れ多さに自我はひれ伏すのであるが、しかし同時に、我が内にクリシュナは宿るのであるから、それは極めて自然でもあるのだ。
そして、クリシュナを愛さずにはおられないのである。
インドの詩聖タゴールの詩を読むと、タゴール自身が神に恋する乙女のようになってしまっているのであるが、初めてその理由が分かるように思うのである。
ラマナ・マハルシの弟子プンジャジもクリシュナに恋焦がれ、1日4万回クリシュナの名を唱えたというが、無理もないことであると思う。
クリシュナは果てしない慈悲に溢れ、優しい。
そして、クリシュナとアルジュナ王子の会話の仕方が素晴らしい。
クリシュナが神であることを知らなかった時でさえ、アルジュナは、クリシュナを親友として、誰よりも親しみ愛すると共に、師としては、この上なく尊敬し、完全に信頼していたたのであるが、それが会話の中にはっきり現れている。
また、宇宙最高の神であるクリシュナが、決してアルジュナを、言葉のただ1つの欠片においても見下すことはなく、それどころか、いつも、最上の誉め言葉でもって会話を始めるのである。
クリシュナは、アルジュが、並ぶことなき勇者であること、王家の血に相応しい高貴さを備えていること、そして、さらには、人類最高の人間であると褒め称える。
お互いを敬う対話の崇高さ、清々しさ、美しさはどうであろう!
こんな素晴らしい書の音読はおろか、読書すら薦めたことのない我が国の教育機関は、仮に悪の巣窟でないとすれば、限りなく愚かなのであり、それは国家の責任である。
だが、憂う必要はない。
『バガヴァッド・ギーター』の優れた翻訳はいくつか出ており、容易に入手できるのであるから。
ならば、それができるようにした我が祖国や、また、積極的に『バガヴァッド・ギーター』を否定するのではない我が国の学校だって、捨てたものではない。
様々な幸運により、我々は神の言葉を話すチャンスを得るが、それは、内なる神に語っていただく光栄を得ることなのである。
老子の『老子』(道徳経)は、やはり、神のごとき仙人である老子が、最高の人物である尹喜(いんき)に語った五千語の教えである。
こちらは、対話の形ではなく、尹喜が老子から聞いたことを憶えておいて、その後で筆写したものであり、我々は尹喜のおかげでこれを読めるのである。
『老子』は難解と言われるが、高名な宗教家の五井昌久氏によれば、やはり、ただ音読すれば分かるのだそうである。
我が国にある神の言葉は、春日大社の宮司も務めた神道家である葉室頼昭氏(はむろよりあき。医学博士。故人)によれば、『大祓詞』(おおはらえのことば)であるらしい。
ただ、これはあくまで神の言葉であるのだから、人間的な意味があるのではなく、葉室氏は、これをひらがなで書き直して、ただ音読したのだそうで、人々にも、そうすることを勧めている。
クリシュナのように神の言葉を語ったものといえば、やはり新約聖書の福音書の中のイエスの言葉であろう。
また、イエスの先祖で、聖霊に満たされたダビデ王が書いたとされる聖書の詩篇も、神の言葉であると言えると思う。
特に・・・というのではないが、詩篇23篇と91篇は、常に唱えれば、神の強大な保護と恵みを得られると言われ、ジョセフ・マーフィーもたびたび著書の中でそのことを強調している。
ただ、いかなる神の言葉も、それによって個人的な利益や名誉を得ようとするなら、それは穢れた魔道であり、それがあまりに強いと、悲惨な結果となる恐れがある。
クリシュナ自身、それを論理的に指摘し、説いているのである。
尚、田中嫺玉さん翻訳の『バガヴァッド・ギーター』はAmazonで在庫切れのことがあっても、すぐに補充されると思う。
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