5年ほど前だったか、菅直人元首相が、四国霊場八十八カ所を巡るお遍路を達成したという話があった。
これは、何を意味していたのかというと、彼が戦場から退却したということだ。
つまり、解決すべきものごとに背を向けたということなのだ。
なぜなら、戦場で敵が攻めてきた時に、トップが十字架の前でお祈りしたり坐禅を組んだりしない。
そんなことをする者は、もう戦場を離れた者である。

問題は正面突破するものなのだ。
運転している自動車が崖から落ちそうになった時は、両手で目を覆うのではなく、ハンドルを切り、ブレーキをかけなければならないようにだ。
我々も、何か問題に遭遇したら、それに正面から向き合い、考え、行動し、多くの場合は協力し合って、とにかくがんばらないといけない。

小学校の運動会で、手をつないで仲良くゴールするというのは、崖から落ちそうな車を運転している時に、両手で目を覆わせるようなものだ。
精神系の書物や、変な宗教の(あるいは宗教のような)指導者がよく、「がんばらなくていいんだよ」などというのも、それと同じだ。
「ばかやろう!しっかり目を開いてハンドルを切れ」と言いたい。
つまり、「がんばらんか!ばかやろう!」だ。

たとえ医師に「余命三ヶ月です」と言われても、すぐに教会や神社に駆け込んではならない。
具体的な解決策をさげせば、何とかなるかもしれない。実際、そうやって、その後、何十年も生きた人もいる。

「いえ、もう問題の解決の糸口が見つからないのです。お手上げです。私には、もう何も出来ません」
と言うかもしれない。
ばかやろうである。
そんなはずがないではないか?
地球人より1万年進歩したような宇宙人が襲撃してきた時すら、最後の最後まで諦めてはならない。
映画『インデペンデンスデイ』では、大統領は最後までがんばったではないか?
一方、昔の『宇宙戦争』では、万策尽き、皆が教会でお祈りしていると、宇宙人は地球のウイルスにやられて死滅した。
これだって、万策は尽きたが、万策を尽くしたから、神は助けてくれたのだろう。
ヒーローは最後まで戦っていたしね。

念仏を唱えたり、「ありがたい」と想ったり言ったり、腕振り運動をしたり、聖書を読むと、無敵であり、何でも可能だ。
それは、そうやって高まった心身で問題に挑むからであって、最初から戦場逃亡するつもりで念仏を唱えても何にもならない。
むしろ、念仏を唱えると、問題は大きく激しくなる。
すると、突破口も開くのである。
行くべきところは、神仏が教えてくれる。そこはGOである。
確かに、闇雲に突進するのではなく、好機を待った方が良いこともある。
しかし、好機がきたら攻める気がなければならない。
ただ・・・
目の前の敵に立ち向かうのではなく、敵の本拠地を攻めるという高度な手もある。
それには、より大きな知恵と力と勇気が必要である(スーパージェッターの歌みたいだ。古いか・・・)。
だが、本拠の大敵の存在は、目の前の雑魚から知るのである。
「この雑魚らのボスに私は挑む」
その場合は、しっかり念仏し、聖書を読み、神仏の手を取りなさい。
ただし、最後には共に戦うのである。
菅直人氏は・・・分からないが、とっくに戦う気なんかなくなっているのだろう。
あんなふうになってはならない。









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