ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

荘子

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[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

目を覚ましている

老子、荘子の教えとは、「無為自然」である。
それは何かというと、全てをなりゆきにまかせ、一切の作為・・・つまり、人が意識的に行う行為をやめてしまうということだ。
言い換えれば、一切を天にまかせるということである。
それに対し、大物一般人として意義を唱えたのが、通称「二宮金治郎」として知られる二宮尊徳(にのみやたかのり)だった。
彼の主張はこうである。
「田畑は作為しなければ荒れてしまい、作物が穫れない」
「家は作為しなければあばら家になる」
よって、人が一生懸命作為することが必要で、老子は阿呆だ・・・というわけだ。

法然、親鸞の教えは、簡単に言えば、
「私は、修行も良い行いも出来ない煩悩にまみれた愚か者であり、唯一出来る良い行いである念仏を称えることで、仏様(阿弥陀如来)に救っていただく」
ということだ。
これは、死後、極楽浄土に生まれるということが強調されることが多いが、この2人を尊敬していた一休は、
「念仏を称えれば、今、ここが極楽浄土」
と言い直した・・・つまり、死ぬまでもなく、即座に効験があるとした。
だが、実は、法然、親鸞も、そういったことは十分に言っており、一休は、それにスポットライトを当てたのであると思う。
つまり、念仏は、現世利益をもたらすものだ。

法然、親鸞、一休に流れる、あまり表向きとは言えないかもしれない、念仏の現世利益を現実に生きたのが、ごく一般の農民でありながら、念仏の教えによって稀有な存在となった、因幡の源左(いなばのげんざ)で、二宮尊徳が54歳の時に生まれた人だ。
源左は、19歳の時、父親が亡くなったが、その父親が、「これからは親様(阿弥陀如来)を頼れ」と遺言し、源左は仏様に一切をまかせて幸福に生きたのだと思う。

ところで、尊徳と源左の間くらいに生まれたイギリスのサミュエル・スマイルズは『自助論』で、「天は自分を助ける者を助けてくれる」と言い、自助努力の大切さを説き、明治時代の日本人に受け入れられ、当時の日本の青年達に大いにやる気を出させ、それが現代の日本の繁栄に結び付いた面は確かにあると思う。

こういった流れを見てきた我々は、老子、荘子、法然、親鸞、一休、尊徳、スマイルズ、源左の教えを昇華すれば無敵である。
誰が正しく、誰が間違っている訳でもない。
仏様に任せると言っても、親鸞や源左が何もしなかった訳ではない。
では、どう考えれば良いのかというと、我々のやることは、自分のエゴではなく、天や仏様の意思で「やらされている」と思うことだ。
さらに積極的に、「やらされよう」と考えても良いかもしれない。
Googleの人達は、インターネットの意思を実現するために技術開発しているそうだし、BUMP OF CHIKENは曲の意思を実現するために音楽を作り、演奏し、歌うのだそうだ。
そして、老子も荘子も、法然も親鸞も一休も、尊徳もスマイルズも源左も、みんなそうしたはずなのだ。
具体的には、

頭の中からっぽにして
目の前だけ見つめるの
~『Satisfaction』(作詞・作曲・編曲:kz、歌:初音ミク)~

のようにすれば良いのだと思う。
【初音ミク】Satisfaction【Project DIVA X HD】 ~YouTube by KamJPCHさん~
まあ、そのためには、念仏を称えるのが一番であると私は思う。
念仏を称えても、目は開けておくように。
これは、視力の問題ではなく、「目を覚ましておれ」ということで、「しっかりせい」ということである。









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運命はほとんど決まっているが

運命が初めから決まっているかどうかについて、私は以前は、100パーセント、完全に決まっているという思想に同意していた。
何時何分何秒に、髪の毛1本がどんな動きをするかまで、生まれた時、あるいは、宇宙が出来た時に全部決まっているというものだ。
これは、インドのラメッシ・バルセカールや、日本のMRTの内海康満さんの本で見ることが出来る。
荘子も、運命は決まっていると何度か述べているが、どの程度まで決まっているのかまでは分からない。
親鸞は、動物の毛の先ほどの小さな罪ですら、過去や前世の行いによるものと言いはしたが、どんな運命も全て決定済みと言った訳ではないと思う。
また、ラメッシ・バルセカールは、運命は完全に決まっていると言いつつ、自分のアドバイスに従わなかった人が自殺することになったといった因果関係も述べている。そして、そのようなことは、内海康満さんの本の中でもあったと思う。

もちろん、本当のことが私に分かる訳ではないが、いろいろな人の考え方を見たり、自分で理屈で考えたり、経験を省みながら勘を働かせたりすると、運命は、凡(おおよ)そ決まっているが、いくらか未確定の部分もあるのだと思う。
どのくらい決まっているかというと、まあ、80~90パーセントといったところだと思う。
プロ野球選手になりたいと思っても、素質の問題も含め、そうなる運命でなければ、まずなれない。
作家、歌手、画家、社長、ダンサー、あるいは、コンピュータープログラマーだってそうだ。
「夢を諦める」とか言うのではなく、なれないものはあるのだということは、早く理解しておいた方が良い。
世の中には、傍目には「絶対無理」と分かっているのに、「アイドルになる」「女優になる」といつまでも言っている人もいる。
あるいは、二十歳もとおに過ぎて、平凡な社会人チームからすらお呼びでないのに、「プロサッカー選手になる」と、無駄な努力をしている人もいる。
そんな人達は、ごく若いうちなら、夢を追いかける楽しさもあるのかもしれないが、いい年になってきたら、面白いはずがなく、本心は、辛い、苦しい、虚しい・・・だろう。

十代 ドヤ顔で悟った人
二十代 恥に気づいた人
三十代 身の丈知った人
そのどれもが全部 同じ人
~『すろぉもぉしょん』(作詞・作曲・編曲:ピノキオP、歌;初音ミク)より~

だが、正しい方向に行けば、人生は楽しくなるのである。
このことを、中国の作家チン・ニンチュウは、「運命には負けないといけない」と表現し、ジョージ・ワシントンは、運命に逆らっていた時は、恥が多く、他人に迷惑をかけ、自分も辛い人生だったが、運命に負けて従った時に輝き始めたのだと言う。
ジョセフ・マーフィーの本でも、自分は女優になるのだと言う若い女性に、マーフィーは「幼い夢はもう卒業しなさい」と諭し、彼女はそれを受け入れ、真面目に事務員として働いていたら、勤務している会社の若社長と結婚することになった。
まあ、「私は年収一千万円以上の人とでないと結婚なんかしない」という、「幼い夢」から醒めない女性も多いようであるがね。

運命に従うには、まず、過去や現状を肯定することだ。
多くの人にとって、既に起こったことや今の状況を受容するのは、辛く惨めかもしれない。
しかし、そうすれば、本当の運命が開ける。
それを楽に、すみやかにやるには、パワーポーズ(ガッツポーズ)と、念仏や真言を称えることである。

哭(な)いていた 唯 哭いていた
他人眼(ひとめ)につかない世界で
其(そ)して恥を知り 惨めになれば
全てが廻りだした
~『心臓デモクラシー』(作詞・作曲・編曲:みきとP、歌:初音ミク)より~








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不動心になるのは難しくない

大昔から、人が求め続けてきたのは不動心だ。
荘子に出てくる木鶏(もっけい。木彫りの鶏)のようになれば無敵である。

では、どうすれば不動心になれるのかというと、無になれば良いということは分かっている。
無とは、忘我、没我、無念無想とか言われる、心が澄み切って、小波1つない状態である。
しかし、無になることは途方もなく難しいと言われている。
だが、本当は、それほど難しくはない。
念仏や真言、あるいは、自分より高い存在を前提とした呪文を、たゆまず唱え続ければ、確実に無になれる。
そして、密教では「無になりきれば不可能はなくなる」、つまり、全てが思うがままになると言われているが、その通りだ。

『法華経』の第25章『観音経』で、釈迦は、観世音菩薩の名を唱え続ければ、全ての望みが叶うと説いている。
日本語の法華経では、観世音菩薩の名を呼ぶことを「南無観世音菩薩」と唱えることであると書かれている場合が多いかもしれない。
もちろん、それは間違いではないだろう。
観世音菩薩は、原語では、アヴァローキテーシュヴァラーと言うらしいから、この名を唱えても良いだろう。
また、観世音菩薩の真言は、「オン、アロリキャ、ソワカ」なので、これを唱えても良い。

ところで、聖書でも仏典でも、あるいは、ギリシャ神話でも古事記でも、それらは、個人の心の中で起こることを象徴的に描いているのである。
観世音菩薩の名を唱え続ければ、『観音経』に説かれているように、心の中で起こる障害が、ことごとに打ち壊され、心は無になる。
そうなれば、心は、思うがままの世界を創造する。
なぜなら、純粋な心が仏そのものであるからだ。
上記のことは、私は、宗教的にではなく、科学的、心理学的に解釈している。
優れた音階で作られた真言、呪文、念仏は、頭の中の独り言を消す。
それだけで、IQはかなりの向上を示す。
そして、それらの言葉は皆、人より上位の存在に意識を向けさせ、自然に自我は退く。
そうなれば、心は透明になり、魂が輝きながら現れると、心は万能の創造力を持つ。
簡単なことなのであるが、誰もやらないだけである。
言われても、よほど素直な人でないと、やる気にならないだろう。
やっても損はしないが、馬鹿馬鹿しく感じたり、自尊心が拒否するからだ。
だが、真言や念仏を唱えることを、ある程度やっただけでも、社会で安楽に生きるくらいのことは出来ると思う。
私が、その最たる例である。









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現実より夢の方が本物

人生は夢、あるいは、夢のようなものだという話がある。
インドの聖者ラマナ・マハルシや、ニサルガダッタ・マハラジらは、そう言っていたようだ。
また、中国の荘子(2400年程前の賢者)も、そうであった。
江戸川乱歩となると、夢の方が本物で、現実の方が幻であると、常に、色紙に書いていたようだ。
宇宙人バシャールも、夢の方がむしろリアルなのだと言っているようである。

うろ覚えだが、中国映画『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』の最初のあたりに流れる歌には、「人生は夢、夢を旅すれば、そよ風もため息のよう」と美しく表現されていた。
大河ドラマ最大のヒットであった『独眼流政宗』で、政宗は最後、「人生は夢だ」と言って往生する。

真にリアルな・・・神的世界とか霊的世界というものがあり、その下に夢の世界があって、そのさらに下が、我々が現実と呼んでいる世界だとしよう。
なぜ、夢の方が真世界に近いのかというと、真世界は、制約はなく自由自在だと思われるが、夢には制約はありながらも、それは、現実よりはずっと「ゆるい」からだ。
仏教の『無量寿経』には、仏の世界である極楽浄土には、時空の制約がないことが描かれているが、それが真のリアル世界である。
ただし、極楽浄土は、全てが想いのままで安楽過ぎ、本当にそんなところに行ったら、退屈で死んでしまうような気がする。

うつし(現)世はゆめ よるの夢こそまこと」
「昼〔ひる〕は夢 夜〔よ〕ぞ現〔うつつ〕」
~江戸川乱歩(Wikipediaより引用)~

でも良いし、ラマナ・マハルシが言うように、「夢は短く、目覚めは長い。それ以外に、両者に何の違いもない」でも良い。
だが、夢でも現実でも、元気でなければならない。
昔、インドの聖者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギが、信者の女性に煩悩を示した(どんな内容か分からないが)と言って、マハリシを崇拝していたビートルズの4人は失望して離れていったというが、聖者だって、男であるなら女好きで当たり前であり、それどころか、猛烈にそうでなくてはならない。
まあ、ビートルズも後に和解したというが、彼らも大人になって、我が身を省みることが出来るようになったのだろう。
女好き、大いに結構。
しかし、凡人は、大切な精力を無駄に浪費し尽すので、本当に楽しいことが出来ないのだ。
日々、何か短調な鍛錬や行を欠かさずやり、精力を光のエネルギーに昇華することで、人生は、楽しい満足な暇つぶしになるのだと思う。









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支配者が嫌がることをすれば天才になる

頭を良くするためには、頭を悪くする原因を取り除けば良い。
人間の脳は、元々、超優秀なのだから、何かを付け加える必要はなく、不要なものを取り除けば良い。
そして、頭を悪くしている原因は、頭の中の嘘の情報である。
だが、我々の頭の中は、嘘の情報だらけだ。
毎日、テレビやネットから、嘘の情報がどんどん入ってくる。
だから、「テレビは絶対に見てはいけない」と言う人はいるが、それなら、ネットも同じことだし、新聞、雑誌などのあらゆるメディアもそうだ。
広告宣伝とは、どうやったって、嘘にしかならない。
「カイロと言えば白金カイロ」という宣伝文句も、ひどい嘘だ。カイロは他にもいろいろある。
自動車だって、カタログの中で語られているほど良いものじゃあない。
だが、あらゆるメディア、あらゆる広告を全く見ないというのも非現実的だ。

クリシュナムルティーは、「私は何も信じない」と言い、デカルトは、「疑い様がないほど明らかなものだけを真とし、それ以外は全て偽とする」と言ったが、それらは浮世離れし過ぎであろう。
人間は、何かを信じないと生きていけないし、疑い様がないほど明らかなものなど無い。
アインシュタインは、自分が持っている偏見・・・つまり、頭の中の嘘に悩んでいたが、それは仕方がないことだ。

荘子は、「一切を区別するな。それが無理でも、せめて、優劣をつけるな」と言った。
確かにそれが、頭の中の一切の嘘を除く確実な方法だ。
だが、そんなこと出来るものか。
もっと現実を見ろよ、荘子さん・・・だ。

「私は身体ではない。私は感覚器官ではない。私は心でもない」と、インドの聖者ラマナ・マハルシは言った。
もう勝手にやってろ・・・である。
こちとら、稼がないと生きていけず、稼ぐためには世間常識も必要なのである。

それで、昔から「現実的な」賢い人達は、一番重要な何かを持ち、その他のことは、それに比べれば、さして重要でないと思うことにしたのだ。
頭の中に、嘘の情報は沢山ある。それは仕方がない。
しかし、一番重要なものをダイヤモンドとし、それ以外は石ころにしてしまえば、石ころに惑わされることはない。
その一番重要なものが、神々の王ゼウスであり、天の父であり、阿弥陀如来であり、天照大神だった。
だが、それは何でも良いのだ。
よく例に出すが、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、最下層の26人の男達は、16歳の可愛いが平凡な娘ターニャを崇め、ガリの『自由の大地』では、堕落したフランス兵達は、空想の少女を崇めた。
『二十六人の男と一人の少女』のターニャだって、男達を一生騙せれば、立派なダイヤモンドだった。
だが、人間というものは、いかに歴史的、人類的な英雄であろうと、人間である限りは、大したことはないのだ。
ガンジーやマザー・テレサにしたところで、身近にいたら、そんなに崇拝すべきほどの人達でないことは、本人達が少し謙虚であれば、確実に認めることだろう。
彼らが聖人だというのもまた、多くの人々の頭の中にある嘘なのだ。

自分だけの価値を持つことだ。
それは、支配者達が、絶対に大衆に薦めしないことだ。
ならば、それをやらずにどうする?
イチローが野球に対して、どんな想いを持っているかは、決して語らないだろうし、語っても、誰にも分からない。
また、分かる必要もない。
我々も、自分にだけ分かることがあれな良い。
そして、それが結局は、自分以外の天才達と共感することになるのである。









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