ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

荘子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

私は中国の魔法使いを真似ていた

古代インド哲学には、この世界は夢のような幻想であるとするものがある。
そして、現代のスウェーデンの哲学者ニック・ボストロム(哲学博士。数学、人工知能の学士、物理学の修士くらいは持っているらしい)は、この世界は、コンピューターが作り出した仮想世界である可能性が高いと述べ、今年、アメリカ合衆国に、個人で1兆円以上の税金を納めるというイーロン・マスクは、この世界が作り物の仮想世界(専門的にはシミュレーテッド・リアリティと言う)であることは、ほぼ間違いないと言っているらしい。
ただ、我々にとって重要なことは、この世界が夢のようなものであろうと、コンピューターが作り出した仮想世界であろうと、世界を創造する側になれるか・・・つまり、好きなように世界を変えられるかだが、ロバート・シュラーが「思い通りになるのが人生だ」と言ったように、ニューソート(新思想)の立場では、全くその通りとしている。とはいえ、それをうまくやっているという庶民の話はほぼない。
しかし、私は、主に子供の時だが、絶対に偶然とは言えない奇跡的な出来事を何度も起こしており、この世界が夢か仮想世界であるかは分からないが、何等かの方法とタイミングで、好きなように作ることが出来ることは分かっている。
では、1憶円の札束を目の前に出せるかとか、『涼宮ハルヒの憂鬱』で、キョンが古泉一樹に言ったように、冷めたコーヒーをもう一度熱くするというようなことは、出来ないというより、やる気にならないし、多分、どんなに脅されたって本気でやらない。

『叫び』で有名なノルウェーの画家ムンクが、若い頃に書いた『病める子』は、まさに、夢を描いたような幻想的な絵で、ムンクがどんなふうに言ったのかは知らないが、薄目で見た雰囲気で描いたもののようだ。ベッドに座る、余命いくらもない少女(実際に肺癌で15歳で死去)の隣で、母親がうな垂れているが、少女の、特に横顔が高貴な輝きに満ちていると言われている。
これは、この世のものならざる神秘的な絵だ。
これに関連して、こんなことを思い出す。
何かの映画で見たのだと思うが、薄目をすることが中国人の真似になるらしい。しかし、あまり中国人が薄目をするという印象がなく、道教の高僧の表情なのではないかと思う。
道教全般では分からないが、道教の代表的な思想家である荘子の著書『荘子』の『胡蝶の夢』にあるように、この世界は蝶が見ている夢のようなものかもしれないという考察がある。

どうせ妄言 この世界なんて蝶の見る夢で
だけどその羽ばたきで 全てが塗り替わってく
~『ブレス・ユア・ブレス』(作詞作曲編曲:和田たけあき。歌唱:初音ミク)~

も、『荘子』とカオス理論の『バタフライ効果』を混ぜ合わせたものだろう。

で、これは秘密だが(笑)、私も、魔法を使う時は薄目になるのである。
それは、この世界が夢のようなものであることを心に印象付けるためなのかもしれない。
よって、皆さんも、何かを願う時は、薄目で願うと良い。
松下幸之助が、セミナーで、受講生に「社内留保を持つにはどうすれば良いか?」と質問された時、「社内留保が欲しいと願うこと」と答えたらしいが、薄目になって、夢の中で実現するような気になれば叶い易いかもしれない。
また、普段から、薄目をすると良いと思う。
道教の高僧を真似るようにね。








存在証明と物質支配の法則

主義、信念がはっきりしていて変わらない人は「アイデンティティーを持った人」と呼ばれる。
だが、その主義、信念が偏ったものであると、その人は「厄介な人」だ。
そして、何が正しく何が間違っているのかは難しい問題だ。

2400年ほど前の実在の人物と言われる荘子(荘周とも言う)は、おそらくだが、「アイデンティティーなんて持つな」と言ったのだと思う。
つまり、主義、信念を持つなということだ。
もっと簡単に言えば、「私は何者でもない」という態度を持てということであるが、我々は、幼い時から、自分が何者であるかを、ほとんどの場合、押し付けられる。私は〇〇家の次男であるとか、私は△△小学校の生徒であるなどとね。

ある人間が、総理大臣であったり、俳優であったり、ホームレスであったり、プログラマーであるのは、「万物が移り変わる中で現れた1つの様相」に過ぎない。
「全ては変化する」というのが、唯一の変化しない真理であるわけだ。

デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」というのは、面白い言葉だ。
われが存在することに関し、アイデンティティー、つまり、主義や信念は何の影響も及ぼさない。
アイデンティティーが「存在証明」と訳されることもあるが、自分の存在証明は、ただ「思う」ことだけであるというわけだ。
ところが、目の前に、ペンやハサミがあったとして、おそらく、それらは思ってはいないだろうが、存在しないとは言えない。
だが、デカルトは、あくまで人間本位で考える。
目の前にペンやハサミがあると言っても、ただそう見えるだけであり、本当にそうなのか(ペンやハサミがあるのか)は分からない。
確かなことは、「目の前にペンがある」と思っているわれが存在することだけだ。

だが、デカルトの論では、無意識状態の人間は存在していないことになる。
ここがちょっと面白いところなのだ。
筒井康隆さんの短編小説『悪夢の真相』(『時をかける少女』と一緒に収録されていることが多い)で、般若の面が怖くて仕方がない中学生の少女が登場する。
彼女は覚えていないが、彼女は過去、無意識状態になった時に、般若の面を見たのである。それで般若の面が怖くなったのだ。
つまり、彼女は「思っていない」時、つまり、彼女が「存在していなかった」時に見たものが、思っている、つまり、普段の彼女に影響を与えている。
これはつまり、「思っていない」時の彼女も存在していると考えないとおかしくなる。
意識には、意識と無意識があり、「意識がある」と言われる意識は、意識全体のほんの一部で、意識全体のほとんどは無意識だ。
よって、無意識が存在しないことはないが、無意識は「思わない」。
ここで、「われが思おうが思うまいが、われは存在する」ことが分かってしまった。
そして、ただ、「われは意識である」ということが分かる。この「意識」は、意識と無意識を区別しない。

そして、ここから一気に分からないかもしれないが、生死に関わりなく意識は存在し、よって、われは死なないのである。
人間は、自分が意識であることに気付きさえすれば、完全に癒され、完全に安心出来る。
そのために、ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と問えと言ったが、これは、実際には難しい。
それよりも、「私は在る」と思う方が面白い。
なぜ面白いかというと、いつも「私は在る」と思っていると、思っていない(つまり思考していない)時にも、無意識の中に「私は在る」があり、それは否定し難い真実なので、ちょっと面白いことが起こるのだ。
その時、正確に何が起こるのかは分からないが、無意識の中の「私は在る」以外は力を失い、「私は在る」として、意識と無意識が統合され、意識に無意識が見えるようになる。
そうなれば、キリストやブッダに近付いたと言えるのであり、物質界を支配出来る。








究極のコスパの良い生き方

ゲーテの代表作は『ファウスト』だと言っても良いと思う。
小説というものは、目的は2種類で、1つは、読者を喜ばせるもので、もう1つは、人間はいかに生きるべきかを教えるものだ。
実際は、どの小説も、それらが混ざり合っている。
「人間、いかに生きるべきか」のみだと、それは小説ではなく、哲学書や思想書、あるいは、宗教書で、まとめて「エッセイ」と呼び、小説とは別なものになる。

『ファウスト』は、小説(形式は戯曲)でありながら、「人間、いかに生きるべきか」を強く教えるものだ。
『論語』やエマーソンの『自己信頼』は、「人間、いかに生きるべきか」のみを書いたエッセイだ。
シェイクスピアの『リア王』や『ハムレット』などは、『ファウスト』同様、「人間、いかに生きるべきか」を教える小説(これらも形式的には戯曲)である。

『ファウスト』や『リア王』が、なぜ、小説の形で「人間、いかに生きるべきか」を書いたのかというと、その方が、「多くの人に読んでもらえるから」と、「分かり易いから」という理由がある。
だが、『ファウスト』や『リア王』ですらそうだが、結局のところ、作者にも、「人間、いかに生きるべきか」を確信出来てないのだという理由で小説にし、「人間、いかに生きるべきか」を曖昧にしたり、(全体、あるいは、部分部分を)読者に考えさせ、決めさせたり、自分も書きながら考えたりしたのだろう。
『ファウスト』も『リア王』も、決して断定的なことは書いていないのだ。

『リア王』と言えば、口先で騙されるリア王のような愚かな真似をしてはならないというのが、この作品の主張であると思われていると思う。
しかし、全くそうではない。
根本的には、自分への愛情で自分の子供達を差別しようとしたことが愚かだっただけである。
また、リア王の末娘も、正直なだけでは駄目で、ある程度の演出や機嫌取りもしないと、自分だけでなく、リア王も不幸にしてしまうのだ。
悪いのは、リア王や、リア王の末娘の傲慢さであると考える方が正しいかもしれない。
そもそも、人間は、それほど大したものではない。
リア王やリア王の末娘も、性悪と思われる娘たちともうまくやってこそ立派な人間なのである。
あの程度の不誠実な人間は、どこにでもおり、そんな人間と無関係ではいられないのだからだ。
末娘以外の娘たちも、本来は、案外、良い人間であるに違いないのである。

『ファウスト』となると、部分部分でゲーテの言いたいことは分かるが、つまるところ大事なことは何かは、ゲーテにだって分かっていない。それで壮大な作品になってしまった。
だから、あの作品から人生を学ぼうなんて、あまり思わない方が良い。書いた本人だって、まるで分かっちゃいないのだから。
ただ、部分的には役に立つかもしれない。
『ファウスト』に似た作品に、『ツァラトゥストラはかく語りき』がある。
部分的には良いが、作者のニーチェにも、「人間、いかにいきるべきか」の確信が持てなかったのだ。
だが、頭が良過ぎる彼は、それを大真面目に考え、発狂してしまった。いかに天才とはいえ、人間には大き過ぎる問題だ。

文明が進歩し、権力者の欲望もあろうが、庶民を統制しないといけない部分が大きくなってしまった。
そんな中で、出来るだけ気分よく支配されつつ、効率的に(つまり、無駄を排しつつ)生きることを教えるネットのインフルエンサーの人気が高くなっている。
彼らの言っていることを一言でまとめると「コスパ(コストパフォーマンス)を上げろ」であるが、そんなことを言われたり、彼らのコスパの上げ方を教えてもらっても、真似出来ることではない。
インフルエンサー達だって、我々が思うほどうまくはいっていないし、うまくいっている部分も「たまたま」でしかない。

で、結局、何が究極の「人間、いかに生きるべきか」であるが、それは、仏教の「自己を忘れる」なのである。
だって、もし、見栄っ張りでない人間がいれば、自然に、最もコスパの良いことをしているし、どんな時代でも、能力の範囲で最高のコスパを発揮するはずだ。
リア王だって、自己を忘れたら、「誰が私を一番愛しているか」なんて馬鹿なことを考えず、末娘も、自分の主義を貫かず、リア王の御世辞を言って、丸く収まったのだ。
ハムレットも、自己を忘れたら、オフィーリアが素晴らしいことを認めつつ、さほど執着せず、面倒を起こさなかったのである。
『荘子』や『老子』も、自己を忘れるということに関しては、仏教と同じである。
エマーソンの『自己信頼』は、自己を忘れることと真逆と思われるかもしれないが、忘れるべき自己とは「小さな自己」であり、実は正しいのである。
仏教の目的は自己を忘れることと明言したのは道元であるから、道元の『正法眼蔵』の分かり易い本を読むと良いだろう。『現成公案』だけでも良い。








何もしないほどうまくいく

誰もが、いろいろなことに取り組み、努力をして頑張ることもあるが、結局は全て、神の意思の通りになる。
それなら、最初から神の意思にまかせ切り、足掻かない方が良いのかもしれない。
そのように生きることを勧めた賢者は、江戸末期の神道家、黒住宗忠や、2400年前の中国の道教思想家の荘子らがいるが、つまるところ、本物の賢者は、ほとんどがそんなことを言ったのだと思う。
アダムスキー型UFOにその名を残す宇宙人とのコンタクティ(会見者)であるジョージ・アダムスキーは、「神は心より上位にある。だから、心を最優先してはならない」と言っていたことから、私は、アダムスキーを、少なくとも哲学者として一目置いている。彼が本物のコンタクティであったかどうかは、そもそも、知り様がないので、信じてはいないが、疑ってもいない。
言うなれば、自分の心が、どう思っているかではなく、はるか上位の神がどう思っているかの方が重要なのである。
別に、自分の心を否定しなければならないわけではない。だが、正しいかどうかは、神ならぬ身としては分からないのだ。
だが、自分の心を最優先する者が多くなってきた。
つまり、価値や優劣を全て自分が決めたがる愚か者が多過ぎるのである。
荘子は、賢い人は、優劣を付けないし、もっと賢い人は区別すらしないのだと言ったのだ。

私は、実は、好き好んでプログラマーやシステムエンジニアになったのではなく、あり得ない偶然が重なって、ほとんど強制的にプログラマーになったのだった。
それは、神の意思に従ったというより、逆らわなかったと言った方が正しい。
それほど積極的ではなかったが、かといって、嫌がったわけでもないという感じだ。
何かスキルを身に付けたいと思っていたわけでもない。
私がなりたいのは魔法使いくらいだし(笑)。
こういうのを、「なりゆきにまかせる」と言うのだが、確かに、昔から私が愛読していた『荘子』で、荘子(荘周)は、「なりゆきにまかせる」ことを何度も勧めているのである。
いや、荘子が教えたのは、なりゆきにまかせることだけかもしれない。
誰でも、神に逆らわず、神の意思のまま…つまり、なりゆきにまかせていれば、そう悪いことにはならないと思う。

で、神に逆らわず、なりゆきにまかせる場合、不安を持たないことが大切だ。
私は最初、社会の最底辺のような場所にいたが、全くとは言わないまでも、あまり不安は感じていなかった。
若い時に勤めていた会社の社長は、単身、外国で営業をすることで事業を発展させたが、私が、「不安はなかったか?」と尋ねたら、「不思議となかった」と言われたのが印象的だった。
彼もまた、なりゆきにまかせていたのだろう。

確かに、『荘子』には、なりゆきにまかせた結果、悲惨な最後になった者も登場する。
しかし、本人は、いたって幸福そうだった。
まあ、荘子の時代は、今では考えられないくらい、庶民に希望がなかったので、「なりゆきにまかせれば成功する」という言い方が、どうしても奇妙に感じたのだと思う。
一方、『荘子』には、何もしなければしないほど良い御身分になる話が多い。
昔から思っているが、『荘子』は、まさに、実用的な魔法書、超能力開発書だ。
重箱の底をつつくような解説をしているものではなく、下にご紹介したような、分かり易い『荘子』を読むと良い。








これで超能力者、魔法使いになれる

私が社会人になってから、最も魔法力というか、現実改変力を発揮出来たのは、『荘子』を熱心に読んでいる時だったと思う。
当時、私はよく、「『荘子』は超能力を覚醒させる本だ」と人に言っていたが、そう言ったからといって、私に何のメリットもない。単に、本当にそうだと感じていたのだし、おそらく、正しい感覚だ。
ではなぜ、『荘子』を読むと、超能力とか魔法を使えるのかというと、こんな理屈だ。
まず、魔法や超能力を発揮出来ない原因は、固定観念だ。
普通の人は、「自分には超能力や魔法力がない」という固定観念があるから、その通りになっているのだ。
もちろん、それは別に、超能力や魔法に限らないが、超能力や魔法も同じなのだ。
魔法とも思いかねないような、こんな話がある。
『トーチェ氏の心の法則』という、世界的に有名な自己啓発書にあるものだ。
ある未開の地域では、脚が折れた人が元気に走り回っている。
なぜ、そんなことが出来るのかというと、彼らには、「脚が折れたら走れない」という固定観念がないからだ。
これは、非常に示唆に富む話だ。
たとえば、あなたが男性で、美人にモテないとしたら、その原因は、「自分は美人にモテない」という固定観念があるからで、その固定観念が消えれば、美女にモテまくるのである。
なぜあなたが、一流の画家のように絵を描けないかというと、自分には、そんな能力がないという固定観念があるからだ。実際、旧ソ連で、絵などほとんど描いたことがない労働者に、催眠術で「自分は優れた画家だ」という観念を植え付けたら、短期間で、見事な絵を描くようになり、その絵がクレムリン宮殿内に飾られているという話がある。
そういえば、私がプログラミングの勉強を勧めても、プログラミングがマスター出来なかった人には、「自分にはプログラミングが出来るようにはなれない」という固定観念があったと思うのだ。
私の場合、私レベルの頭脳(正直言うと、私より劣ると思っていた)の持ち主がプログラマーになっていたので、「私でも全然大丈夫じゃね?」と思えたから、簡単にプログラミングをマスター出来たのだ。

『荘子』というのは、人間の根本的な固定観念を見事に壊してくれる書なのである。
そんな、人間の根本的な固定観念というのは、荘子の時代である2400年前も今も、おそらく、国家社会が出来てから、さほど変わっていないのだ。
そもそも、国家というのは、国民に、ある種の固定観念を植え付けることで成り立つのである。
そのことを、吉本隆明氏は『共同幻想論』で、国家というのは、国民の幻想に過ぎないと、見事に語ってくれたのである。
ただ、『共同幻想論』は読み難いし、実用書ではなく思想書なので、思想に興味がないなら、あまり読むことをお勧めしない。
また、『列子』は、『荘子』と似ていて、『荘子』より良いと思う人もいると思う。
そして、『荘子』にも『列子』が引用されている。
※尚、徳間文庫の『荘子』『老子・列子』のKindle版は、文章が画像で、読み難いかもしれない。紙の本の方は読み易いが、古書しかない。

今回の話の重要性が分かるだろうか?
あなたに、ある夢があったとして、それが実現しないのは、「自分には、この夢を実現させることは出来ない」という固定観念があるからなのだ。
是非、『荘子』、『列子』、『トーチェ氏の心の法則』を読み、固定観念を壊し、超人になろうではないか?
私も、本日から始めることにする。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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