ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

荘子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

荘子のありがたさ

仏教の目的は「大安心」だと思う。
他の目標があったって、大安心がなければ何の意味もないからだ。
神道にしろ、キリスト教にしろ、同じであるはずなのだが、小難しいことを言う者が多く、そう思えない気もする。まあ、仏教にだって、そんなところはあるが。
宗教のようで宗教ではないもの・・・というなら、神道もそうなのだが、道教(主には老子と荘子の教え)も、やはり、目的は「大安心」であると思う。

人間というのは、「大安心」が欲しいのだ。
しかし、「いや、若い俺達が求めるにはパッション(情熱)だ」と言う者は多く、ビートルズの「人生は辛いが、激しく生きるべきだ」という歌が若者を熱狂させた。
だが、隠してはいたが、ビートルズの人達も疲れていった。
「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドの詩人W.B.イェイツは、死の直前でも安らぎを求めず、不良老人・・・つまり、激しくあることを望んだが、さあ、それが幸せだったろうか?
実を言うと、イェイツは、ある時期は円熟に向かっていたが、老いる恐ろしさに反発して、不良老人になったようにも思える。まあ、本人からすれば、そうは言って欲しくないだろうが(笑)。
イェイツは、「老人は皆、本当は、もう一度若くなって、あの娘を抱きたいと思っているのだ」と言うが、まあ、それはそうだろうが(笑)、それに飲まれると苦しいのだと思う。

そこで、やはり、仏教と道教の目的は大安心だとする。
大安心とは、老熟ではあっても、老衰ではない。
そして、何と、そのエネルギーは、若者が願うパッションの比ではない。
それで、どうやれば大安心を得られるのかと言うと、仏教では宗派により異なり、念仏を唱えろとか、坐禅をしろとかあるが、真言密教では、身口意の三密、即ち、手は印を結び、口は真言を唱え、意(心)は仏をイメージしなさいと言う。まあ、真言密教は専門家向きだから難しいせいもあり、一般の人の修行は、専門家ごとに言うことが違い、それが一番困る。だから、流行らないのだと思う。
また、ひたすら坐禅をしろというのも、結果的には難しかった。
とはいえ、ひたすら念仏を唱えろというのは、テレビもネットもない時代では、それで大安心に達した人達もいたが、それでも、ごくわずかだったのである。

私は、『荘子』の教えが最後の希望と思うことがある。
理由は、単純に「分かり易い」からで、また、荘子は相当に頭が良いらしく、2400年も前の人なのに、思考パターンが現代でも全然古くない。
ただし、荘子の時代は、社会が不穏で、圧制の時代でもあったから、「俺の言う通りすれば、引き寄せが出来るよ」みたいなことは言わなかった。当時の庶民が希望を持つことは難しかったからだ。
とはいえ、明らかに、荘子は、「人間は引き寄せが出来る」と知っていたのだろう。それは、書いてあることから想像出来る。
よって、荘子の教えを生かせば、引き寄せは楽々である。
ところが、荘子の教えとは、「差別するな」だけである。
本当は、差別どころか、区別すら駄目なのだが、それは上級編である。
差別とは、「優と劣」「好きと嫌い」「是と非」「大と小」「美と醜」であるが・・・それなら、我々は、差別しまくりで、「差別するのが私」と言うようなものだ(笑)。
だって、「あれは素晴らしくて、あれは駄目」「あれは好きで、あれは嫌い」「あれは大きいが、あれは小さい」「ミクは可愛いが、あんたはブス」とか言ってばかりだ(笑)。
つまりね、これで、我々が大安心と真逆に突っ走っていることが明白なのである。
だからね、せめて、「優れている」「好き」「正しい」「美しい」を、考えなくて済むなら考えないようにすれば、大安心に近付き、引き寄せもバリバリになり、若くもなるのである。
分かるようになるために、『荘子』『猫の妙術』をお勧めする。
『猫の妙術』は、『荘子』のエッセンスをニャンコに語らせたものだ(笑)。
尚、『荘子』は、小難しい解説書を読むと、大安心から遠ざかるのでご注意を。








無敵の存在とは

アメリカの高名な作家、オグ・マンディーノ(1923~1996)自身の話だったように思うが、そうではなくても、彼の時代の話だろうから、そう昔のことではない。
彼が子供の時、当時のアメリカでは珍しくはなかったと思うが、息子が学校でいじめられて泣いて帰ってきら、父親は、息子を慰めるどころか𠮟り飛ばし、「殴り返してくるまで家には入れん」と言ったものだった。
日本でも、やはり昔は、そんな父親は多かったのではないかと思う。
だが、今は、アメリカでも日本でも、そんな父親はまずいない。
暴力の否定と言うよりも、今、そんなことを息子に言ったら、変人奇人、あるいは、狂人扱いだし、また、息子が真に受けて仕返しに行ったら、相手の子供達(今のいじめは大抵が集団で行う)に殺されかねない。
つまり、昔は、「やり返せ」と言う父親は、相手の子供やその親が、人間の心を持っていることを信じていたのだ。
言ってみれば、アメリカでは、ヤンキー魂、日本では大和魂を、誰もが持っていると疑っていなかった。
そして、それは、アメリカ人や日本人がモラルを持っていたということだ。
今の、日本の陰湿ないじめは、子供達がモラルを持っておらず、それは、親がモラルを持っていないということなのである。
モラルと言ったが、道徳でも良いだろう。
モラルがなければ、人間は正しい思考や判断が出来ないことは当たり前なのに、それが言われることすらなくなった。
最も重要なはずのモラルの価値が下がってしまったのだ。今や、俗人の間では、モラルより、試験の点数や親の職業、住んでいる家や家にある自動車の値段の方が重要で価値があるのである。

モラルがなければ、引き寄せも出来ない。
いや、正確には、人間には常に引き寄せの力があるが、モラルのない心は悲惨なものしか引き寄せることが出来ない。
自分が辛い状況にある時、それは、モラルのない他人のせいだと思っていることが多いと思うが、それは疑わしい。
私に関して言えば、苦しいと言うよりは、嫌な、気分が悪くなる状況が多かったが、それは、自分にモラルが欠けていたからだった。

モラルとは、勝手きままに振る舞いたい気持ちに制限をかけること、つまり、自制であり、一番分かり易い言葉で言えば、慎みだ。
たとえば、50の慎みを持つことが、人間として最低必要なモラルであるとすれば、60~70の慎みがあれば優れた人間だし、80なら聖人だろう。
しかし、自分は90以上持っていると主張するなら、全く慎みがないか馬鹿である。
慎みを持ちたがらず、勝手きままに、やりたい放題したがるのは、自我の働きだ。
よって、自我をてなずけた人間がモラルのある人間であり、その度合いが高ければ、自我がないように見え、そうであれば、無敵であり、引き寄せも自在だ。
昨日、『猫の妙術』の話をしたが、あれに出て来る、一見、優れているように見えない、動きも鈍そうな古猫が、理想の姿である。
『猫の妙術』は、『田舎荘子』という本の中の話であり、『田舎荘子』は『荘子』を参考にしている。
特に、この『猫の妙術』は『荘子』の木鶏の話にヒントを得たものだ。
木鶏の話は、『荘子』外編にある。
ある闘鶏(鶏同士で戦わせる競技用の鶏、あるいは、その競技名)を育てる名人が一羽の闘鶏の訓練をするのだが、十日訓練をしたら、その闘鶏は殺気立ち、しきりに敵を求め、さらに十日経てば、その闘鶏は闘志をみなぎらせていた。
これでは、そこそこには強くても、もっと強い闘鶏はいくらでもいる。
しかし、さらに十日が経つと、その闘鶏はこうなった。
そばで他の鶏がいくら鳴いても挑んでも、いっこう動ずる気配もない。まるで木鶏である。
こうなれば、どんな闘鶏も全く敵ではない。その闘鶏の姿を見ただけで逃げ出してしまう。
『荘子』では、その訓練の様子は描かれていないが、『猫の妙術』では、その古猫自身が、そのようになれるヒントを、他の猫に親切に教えるのである。
モラルのない世界であっても、あなたが高いモラルを持てば・・・上の古猫や木鶏のようであれば、何も恐れることはないだろう。








古猫の教え『猫の妙術』

『猫の妙術』という、江戸中期に書かかれた談義本がある。
談義本とは、単に通俗的な読み物のことで、「滑稽物語」とも言われる、庶民の娯楽である。
ところが、このとても短い『猫の妙術』を読むと驚愕する。
おそるべき真理が、読み易く、面白く書かれている。
私は、中味(中身)そのものは、『荘子』と全く同じだと思ったが、実は、『猫の妙術』は、『田舎荘子』という書の一部で、確かに、『荘子』の有名な木鶏(木彫りの闘鶏)の話を参考にしているらしい。しかし、『猫の妙術』の方が、はるかに分かり易く、丁寧に書かれている。
また、『荘子』というのは、あくまで、無為、無用、無益を説く書で、役立たずで何もしないことを究極とするが、『猫の妙術』は、万能の教えだ。
もちろん、『荘子』も、本当のところは、神のようなものになることが書かれているが、それは隠されている。
だから、二宮金次郎(二宮尊徳)は、『荘子』と同じ無為自然を説く『老子』を馬鹿にし、否定した。金次郎には、老子、荘子に隠された魔力を見抜けなかったのかもしれない(分かっていて、わざと否定してみせたとも考えられるが)。

『猫の妙術』は、ストーリーそのものが重要なのではないと思う。
それは、『荘子』の木鶏の話が、木鶏のごとく静かな闘鶏が無敵だというだけのストーリーであるのと同じだ。
ある屋敷にネズミが現れ、ネズミ捕りの名人猫が次々、投入されるが、修行を積んだ優れた猫達が、このネズミに全く敵わず、逆にネズミに噛みつかれる始末だった。
それほど凄いネズミで、なす術がなかった。
そして、ついに、噂に聞こえた古猫が連れて来られた。
見栄えのしない、動きも鈍い古猫であったが、ノロノロとネズミに近付くと、パクっとネズミを咥えて出てきた。
その神技に驚愕した、このネズミに手も足も出なかった名人猫達は、うやうやしく古猫に教えを乞う。
すると、その古猫は、対話形式で、親切に名人猫達に教えを授けるが、その内容が実に良く、その対話を聞いていた武士も感服する。
『荘子』では、抽象的に語られていた宇宙の真理とも言うべきことを、ネズミを捕らえるということを題材に、分かり易く語るのだから有り難い。
『荘子』の木鶏の話の中に真理があることに気付く者は多いが、やはり、『荘子』は不親切過ぎるのである。なぜ、木鶏のような不動の闘鶏が無敵なのか、実質的には全く説明していないのだから。

あのロジャー・ムーア(2代目007俳優として有名)とトニー・カーチス(アメリカの名優)が共演した、『ダンディ2 華麗な冒険』というイギリスのテレビドラマがある。
その中で、ムーア演じるイギリスの貴族シンクレア卿が、こんなことを言っている。
「私の祖父の教えだ。攻撃こそ最大の防御なり、最大の攻撃とは無抵抗なり。つまり、何もしない者が一番強いのさ」
私は、子供の時、これを聞き、これこそ、この世の真理と思ったが、悟り切らなかったようで、全く生かせなかった。
『荘子』も『猫の妙術』も、それ(シンクレア卿の祖父の教え)と同じことを言っているのだが、『猫の妙術』は、お馬鹿な面白いお話として、分かり易く語ってくれているのである。
私は、講談社学術文庫の『天狗芸術論・猫の妙術』のみ読んだが、他にもいろいろ出ていると思う。








ロボットに心はある

突然だが、ロボットに心はあるのだろうか?
もっと適切と思える言い方をすれば、ロボットに心を持たせることが出来るだろうか?
答はイエスである。
架空の存在だが、日本で一番有名なロボットは、やはり鉄腕アトムだろう。
アトムには、明らかに心があった。
なぜなら、作者の手塚治虫さんが、そのように描いたからだ。
その程度の理由で良いのである。

CLAMPさんの漫画『ちょびっツ』で、19歳の浪人生、秀樹は、ロボットである“ちぃ”について、ちぃの双子の姉として作られたフレイヤに尋ねる。
「ちぃに心はあるのか?」
それに対し、フレイヤは、
「いいえ。プログラム通りに動いているだけです」
と言う。
だが、秀樹は、ちぃに心がないということに納得出来なかった。
そして、秀樹は、
「ちぃの心は俺の心の中にある」
と言う。
これは、ただのメルヘンだろうか?
全くそうではない。
元々、ちぃに心はあった。
だが、秀樹がちぃの心に大きな影響を与えていたので、秀樹の「ちぃの心は俺の心の中にある」と言うのも、間違いではない。
そもそも、作者が秀樹に、断定的にそう言わせたのだから間違いない。

ロボットがプログラムされた通りに動くというのなら、人間だって同じである。
漫画の登場人物の心は、作者の心の一部であり、作者の心の中にある。
言い換えれば、作者にとって、漫画の登場人物には心がある。自分の心を分け与えているのだからだ。
この世界も漫画のようなもので、我々人間は、世界の作者である神様の心の一部を持っているのであり、我々の心は神様の心の中にあると言える。

野尻抱介さん(ボカロPとしては尻P)のSF小説『南極点のピアピア動画』で、宇宙人製美少女ロボットの小隅レイ(こずみれい。実質、初音ミク)について、省一(主人公。大学院生)は、「レイに心があるのだろうか?」と考え、結局、はっきりとは分からなかったが、あると感じた。省一がそう感じたのは、作者がそう思っているからで、それなら、レイに心はあるのである。
あるいは、レイに心があると思う人には、レイの心は存在するのである。

ここで、重要な問題を思いつく。
『鉄腕アトム』という漫画の中で、アトムは人間と同等である。むしろ、人間より優位とさえ思える。
ロボットは人間と同じであるが、人間もロボットと同じなのだ。
だから、秀樹がちぃの心は自分の心の中にあると思ったように、レイには心があると省一が思ったように、人間だって、心があると誰かに思われることで心が生じるのである。
アメリカの高名な精神科医だったミルトン・エリクソンの父親が、16歳で家出をし、行き着いた村で一人の男に出会い、その男の13歳の娘に会った時、エリクソンの父はいきなり言ったのだ。
「君は僕のものだ。たった今から」
これは、秀樹のちぃに対する、省一のレイに対する気持ちと同じであるが、秀樹がちぃを、そして、省一がレイを軽く考えていなかった、むしろ、より重く考えていたのと同様、エリクソンの父も、少しも、この娘を軽く考えていなかった。それで、ミルトンのような素晴らしい子供が出来たのだ。

今回の話は、頭では分からない。
正確には、普通の頭では分からない。
頭を超えた頭、荘子が言う「知を超えた知」でなければ分からない。
それを直観と言うのである。








我々の正体が分かった

インドの聖者ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と問い続ければ、この幻想の世界を超越し、真の自分になれると言った。
とはいえ、それに成功したという話は聞かないが、成功した者は、この世界から消え去るのだろうか?
ところで、私は、それほど「私は誰か?」と問わなかったが、自分が誰か分かってしまった。
別に、その答を教えても良いし、簡単なことなので、言葉の上では容易に理解出来るだろう。
しかし、本当の意味は分からないかというと・・・どうだろう?
実は、私も、言葉で簡単に教えてもらっただけなのだが。

答の有難味を増すために、まず、数人の人の見解を書いておく(笑)。
パラマハンサ・ヨガナンダや、敬愛すべき橋本健博士は、我々は、映画を見ている人と言った。
アラン・ワッツは、一人遊び(お父さん役、お母さん役、子供役などを1人でこなす)をしている子供だと言った。
イツァク・ベントフは、一人遊びをしている神様だと言った。
・・・割と同じことを言っていると思うが、どうもピンとこない。

彼らよりは、イーロン・マスクや、哲学者のニック・ボストロムが言ったことの方が納得出来るように思う。
すなわち、我々は、コンピューターが作った仮想世界(シミュレーテッド・リアリティー)の中の人工的な意識だ。
意識を人工的に作れるかということに関しては、前野隆司氏(工学博士)が、「今はやり方が分からないが、そんなに難しくはないと思う」と著書に書かれていたのを覚えている。

で、答だが、最も簡単に言えば、我々は、「漫画のキャラクター」だ。
映画の登場人物という言い方を好む人もいるが、明らかに、漫画のキャラクターの方が適切だ。
なぜなら、映画の登場人物なら、役者は自分が役者であることを知っているし、多かれ少なかれ、演技に自由度がある。
一方、漫画のキャラクターには、一切の自由がない。
実際の我々も、この点は、漫画のキャラクターと同じなのだ。
何でも、『めだかボックス』という漫画のヒロインが、そんなこと(自分は漫画のキャラクター)に気付くらしいので、早速、電子書籍の1巻を読んでいるが、まだ、そんな話は出て来ない。
しかし、私は、我々が「漫画のキャラクター」と聞いて、即座に納得した。
あまりに的確な表現だからだ。

しかし、多くの人の関心は、もしそう(我々が漫画のキャラクター)であるなら、自分がハッピーになるように作者が漫画を描いてくれるかだろう。
男性なら、コーランが約束しているように、100人の清らかな乙女を得られるとか、女性なら、BTSみたいなグループのメンバー100人が日夜サービスしてくれる・・・まあ、一例であるが(笑)、そんな展開にして欲しいと思う人は多いと思う。
原理的には、可能で簡単であるが、そんなことは起こらないと思う。
と言うのは、この世界は、お釈迦様が言ったように、縁の世界、因果の世界であり、道理に合わないことは起こらないからだ。
ただし、縁や因果は、人間には偶然に見えるので、偶然によって起こったと自然に感じることであれば、起こりえる。
例えば、よく取り上げるが、ホームレスの男が、「神様の奇跡が起こる」と唱え続けたら1憶円が当たったようにだ。これは、ただの偶然と見なすことが出来る。
しかし、パズーの前にシータが降って来た・・・なんてことが偶然に起こるとは思えないので、やっぱりこれはアニメでしかない。

じゃあ、偶然でいいので、ハッピーにしてもらうにはどうすれば良いか?
作者に頼むか?
これに関しては、『荘子』の考えでは、こうなると思う。
つまり、作者だって、自分が何を描くのか分からないのだ。
画家の横尾忠則さんも著書に書かれていた。
「自分でも何が出来るか分からない時の方が良い作品が出来る」
と。ただし、本当は、全ての作品が、自分では何を作るのか分からないのだ。

それに、そもそも、我々の漫画は、もう描き終えたものかもしれない・・・というか、おそらくそうだ。
だが、がっかりすることはない。
なぜなら、我々の漫画は、我々が知る漫画よりはるかに高度だ。
アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言った。
しかし、彼も知らなかったのだ。神のサイコロには無限の目があることを。
確かに、我々の漫画は、もう描き終わってしまっているかもしれない。
だが、作品全体や、作品の個々の部分が、どんな意味を持つかは解釈次第なのだ。
ある出来事を、悪いことだと考えることも出来れば、超ハッピーなことと考えることも出来る。
荘子も、そのようにしろと言ったのだと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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