ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

荘子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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世界は二人のためにあるのか(ある)

『荘子』の中の『斉物論』には、「最も小さなものが最も大きなものであり、最も少ないものが最も多いものである。一頭の馬も万物であり、一本の指も天下である」といったことが書かれている。
荘子の時代には、まだ仏教は中国に伝わっていないが、これは仏教の『華厳経』の教えと同じで、『華厳経』の解説ではよく「1つは全てであり、全ては1つである」などと言う。
ただ、この意味を解説したものを見ると、大抵がっかりする。
早い話、解説などしない方が良い。
だが、解説しないと、上の『斉物論』や『華厳経』は、普通の人には、「何でそうなるんだ」ということになるだろう。
「一頭の馬も万物?なるほどまさにその通り」などと言う人は、まあ、滅多にいまい。

1967年の佐良直美さんの大ヒット曲(120万枚と言われる)『世界は二人のために』では、「二人のため世界はあるの」と何度も繰り返す。
これだって、「何で世界は二人のためにあるんだ、馬鹿馬鹿しい」と言いたい人もいるだろうが、むしろそんな文句を言う方が、頭が固い嫌な人になってしまう場合が多いだろう。
つまり、理屈には合わないが、情緒的に納得することもあるわけだ。
上の『斉物論』や『華厳経』だって、理屈には合わないように思えても、なんとなく納得する人もいるはずだ。そして、そんな人はおそらく、相当頭が良い。

さて、引き寄せでは、「願った瞬間に、実際に願いは叶っている」と言うことがある。
これを聞いて、納得はしないながら、否定はしない、さらに、何か美しいものを感じる人もいるはずだ。
これを聞き、「そんなわけないだろ、ばーか」といった反応をする人はIQが低く、私ならあまり相手になりたくない。
108さんの『ザ・チケット』という伝説の電子書籍(でじたる書房で販売)には、
「あなたは既に全ての願望を叶え、幸せの絶頂にある」
と書かれていて、言い方に困るが、まあ、その通りなのである。
どうしても納得出来ないだけでなく、これがデタラメだと主張するなら、私の知ったことではないので、サヨナラである。
だが、何かを感じたら、判断せず、放っておくと良い。
ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたは至高の実在(まあ、神のことだろう)である」と言われ、納得したわけではないだろうが、それを忘れなかっただけで、修行は何もしなかったが悟りを開けたという。
あなたも、「あなたは既に全ての願いを叶え、幸せの絶頂にある」を、判断せず放っておけば、実際にそうなると思う。

ピンクのチューリップ
AIアート687
「ピンクのチューリップ」
Kay


電子掲示板「2ちゃんねる(今は5ちゃんねるか)」のコピーと思うが、YouTubeで、この「既に願いが叶っている」の下手な解説をする動画が沢山あり、ちょっとがっかりする。
80巻とも言われる『華厳経』を読めとは言わないが『荘子』を読むと良い。
頭で納得しようとせず、情緒を頼る方が良い。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)春宵十話(岡潔)天才数学者が情緒の重要性を説く
(2)荘子(そうじ) 1 (中公クラシックス)※この1だけでも良いと思う
(3)新釈 荘子 (PHP文庫)
(4)荘子(徳間文庫)
(5)華厳の研究(鈴木大拙)
(6)無限の世界観<華厳>(角川ソフィア文庫)

『正法眼蔵』と『荘子』

何か1冊、真理を語った書を読み続ければ、少しずつ真理に目覚め、自覚はなくても、知恵を得、普通にはあり得ぬことを起こす力がつくと思う。
数学者の岡潔は道元の『正法眼蔵』を意味が分からないまま20年の間、座右の書とし、ある日突然『正法眼蔵』の全てが分かったというが、それまでにだって、自覚はないながら、魂の力が発揮出来る度合いが高まっていたはずなのである。

発明家の中山正和さんは、旧制中学卒業の際、国語の先生に、「『正法眼蔵』の『現成公案』だけ一生読め」と言われ、『正法眼蔵』の他のところも読んだが、やはり、まずは『現成公案』をしっかり読んだことが彼に知恵と力を与えたのだろうと思う。

私は、ごく若い時、禅文化学院の『正法眼蔵』を読み、意味はさっぱり分からなかったが、美しいことが書かれていることは感じ、読むのがもったいないと思いながら少しずつ読んだ。そんな読み方でも、何かしらの効果は明らかにあったと思う。
まあ、言ってしまえば、引き寄せの力が向上したのである。

どんな本が薦められるのかというと、私なら、この『正法眼蔵』か『荘子』である。
ただ、中山正和さんは、その『現成公案』の原文を読んだらしいが、古文は慣れていないと真逆の意味に取りかねないし、『正法眼蔵』は難解と言われながらも、文章自体が難しいわけではないので、易しく翻訳された現代文を読むべきと私は思う。つまり、それで書かれていることは十分に伝わるのである。
ただ、現代語訳と言いながら、難しい言葉を使って書いた学者さんもいるので注意が必要と思う。

『荘子』は、元はもちろん漢文であるが、書いてあること自体はおとぎ話レベルの易しいことなので、やはり分かり易い翻訳で読むのが一番だと思う。あまりくどくど、詳細・厳密な翻訳と解説を記したものは、下手したら理解するのに何十年もかかるかもしれない。
『荘子』はあくまで実用書であり、中国の人は気楽に読め、そんな読み方でこそ役に立つのだから、翻訳もそんなものが良いと思う。
(ちなみに、中国の人は孔子・孟子を読むことが多く、老子・荘子はさほど読まれていないのではと思う。まあ、これは日本でも同じと思う)
確かに、アリストテレスみたいなものでは、用語そのものが難しく、翻訳も難解になる場合があるのも仕方がないが、『荘子』に関しては、簡単な用語の説明が記されてあれば(ほとんどの本についている)、それで良いと思う。

『老子』も、もちろん良いが、これは一般人のために書いたものではなく、他にもいろいろな意味で、現実的な効果は期待せずに読むと良いようなものと思う。
ところで、ラマナ・マハルシの本も良いのだが、これは何と言っても、ほとんど会話をすることがなかったマハルシの貴重な言葉を側近が書き写したものがほとんどで、マハルシは自身が語った言葉の意味を解説することはほとんどなく、いかに優秀な側近が注意深く記述しても、間違って記述したところも多いはずだ。
そもそも、話し言葉なんて、よほどの話上手でもなければ、半分も(普通は3割以下)意図した通りには伝わらないものである。
それに、マハルシが使ったのはタミール語というインドの方言で、これを英語に翻訳する際にも、かなりの齟齬が生まれただろうし、それを日本語に訳したのが日本語の本であるから、残念ながら、マハルシが本当に言ったことの残骸としか言えないと思う。
ただ、残骸とはいえ、読むに値しないわけではもちろんない。

私は、『荘子』(徳間書店版)を初めて読んだ時、「これを繰り返し読めば超能力者になる」と思ったが、もちろん、そんな自覚がはっきり得られるかどうかは分からないが、そう外れた見解でもないと思う。
『荘子』は、とりあえず、『内編』のみを読めば良いと思う。
『正法眼蔵』は全巻では大変な量であるが、『現成公案』と、その他いくらかを読めば良いと思う。
ただ、『正法眼蔵』にしろ『荘子』にしろ、私個人としては、解説は決して読まないことをお奨めする。
分かり易い翻訳を淡々と読むのが良いと思う。
禅文化学院の『正法眼蔵』は、現代語訳主体で、下に原文があり、解説もとても良いが、現代語訳を通して読むことをお奨めする。

あるがまま
AIアート674
「あるがまま」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)現代訳 正法眼蔵(禅文化学院)
(2)正法眼蔵(ひろさちや訳)
(3)荘子(そうじ) 1 (中公クラシックス)
(4)荘子(徳間文庫)
(5)新釈 荘子 (PHP文庫)

やはりこれが最上の引き寄せ書

引き寄せに関する、最も正しいことが書かれた本は、おそらく『荘子』だと思う。
※言うまでもなく『荘子』は引き寄せを目的とした書というわけではない。

良寛という江戸時代後期の僧(曹洞宗という禅家の僧だから禅僧と言っても良い)をご存じと思う。
貧しい庶民の子供達を集めて遊んでいたエピソードで有名な、今も日本人に非常に愛されている僧である。
実際、良寛は毎日、沢山の子供達を集めて遊んでいたが、次々に女の子がいなくなることに気付く。
親が貧しくて、年頃になると(と言っても10歳とかから)売られてしまうのである。
それを知った良寛は、自分の無力を思い知り嘆いた。
だが、良寛は『荘子』を読んで立ち直った。
この時、良寛が『荘子』で何を悟ったかは、いろんな人が勝手なことを言っているが、全部外れだろう。

最初に戻るが、『荘子』こそ、最上の引き寄せの書であると思う。
現代の有名な引き寄せの本など、比較にならない。
『荘子』に比べればかなり劣るが、優れた本はいろいろある。
たとえば『歎異抄』で、実は、親鸞自体は荘子に劣らないが、『歎異抄』に書かれているのは、親鸞の方便としての教えという面がある。
『老子』は素晴らしいが、もうどれが本当の原文が分からなくなっているのだと思う。

で、『荘子』には何が書かれているのかというと、一言で言えば「何もするな」で、もっと簡単な言葉では「無為」となる。
二宮金次郎は、老子の教えに対してだが、
「無為だと家はあばら家になり、畑は荒れる」
と、無為を否定した。
老子の無為も荘子の無為も同じであるから、荘子の教えも否定したことになる。
もちろん、二宮金次郎の状況を考えれば非難は出来ないが、今日、彼のようなことを言うのはIQが低い馬鹿である。

荘子の教えが「何もするな」だと言っても、それは、ずっと寝転んでじっとしていることではないのは当たり前である。
荘子の無為をよく分かっている人だって、美味しいものは食べるし、かゆければかくし、好きな人とはいちゃつくこともあるだろう。
二宮金次郎で言えば、荘子だって家が汚れていたら掃除するし、壊れたところがあれば直すし、畑に水をやったり雑草を抜いたりと必要なことはする。

現代の人のために分かり易く言えば、引き寄せのために、あるいは、願いを叶えるために何もしない・・・無為であるということだ。
こう言うと、「いや、俺はプロ野球選手になるために練習を頑張っているが、それをしてはならないのか?」と言う者もいるかもしれない。
練習なんか、やりたければ勝手にやればいいのである。
勘違いして「じゃあ俺、練習やめる」と言うような者は、元々、プロ野球選手になる見込みはない。
極端な例で言えば、子供時代のテッド・ウィリアムズのように、夜、親がベッドに押し込まないと素振りを止めないような者がプロになれるのである。
だが、ウィリアムズが引き寄せのメソッドをやっていたら、彼があれほどの選手になれたかは甚だ疑問だ。
ちなみに、ブルース・リーは、せっかくうまくいっていたのに、引き寄せメソッドを始めてしまって悲惨なことになったのだと思う(彼の目標は2千万ドルだった)。

今回は、ここまでとする。
今後、真相はどんどん明らかになるが、一度に広げるのも良くないだろう。

ダンシング
AIアート662
「ダンシング」
Kay


◆『荘子』のご紹介◆
■荘子(そうじ) 1 (森三樹三郎翻訳。中公クラシックス)
優れた中国文学者が丁寧に訳した文章は非常に分かり易く、解説もくどくなく適切で、非常に読み易い。
続刊の『荘子2』もあるが、荘子の自著と言われる内編を中心とした、この『荘子1』だけで良いと思う。
現在のところ、紙の本のみ。

■中国の思想(12) 荘子(改訂版)(岸陽子翻訳。徳間文庫)
私の一押しだが、元々のハードカバー版と、それの文庫版の紙の本はなぜか絶版で、古書かKindle版しかない。
そのKindle版は画像式で読み難いかもしれないし、価格が高い。
岸陽子氏の文章は親しみ易く癖がなく、解説も適切で、結局は私はこれを読んでいる。

■新釈 荘子 (西野広祥翻訳。PHP文庫)
紙の本は絶版だが、Kindle版は読み易く、価格も安く、内容も上の2冊に次いでお奨めである。

最大の攻撃とは無抵抗なり

私が好きな言葉が2つあるが、両方、子供の時にイギリスのテレビドラマで聞いたもので、原文は確認していないが、おそらくだが、翻訳は大体正しいと思う。
1つは、
「攻撃こそ最大の防御なり。最大の攻撃とは無抵抗なり」
で、もう1つは、
「爆発現場に近いほど生き残ることが出来る」
だ。

1人の人間でも、精神状態によってIQは変化する。
心が穏やかな時はIQは高く、怒ったり興奮したりして心が乱れている時はIQが低い。
IQが120以上の状態が長い人を頭が良いと言うだけのことだ。
つまり、冷静沈着な人ほど頭が良いのである。
上の2つの言葉は、IQが低い状態では深い意味が分からない。
そして、これらの言葉は、直観的に分かるものだ。

「最大の攻撃は無抵抗」は、老子や荘子の思想と言われる「無為の為」とか「無作為の作為」と似ていて、やはり、何もしないのが一番強い、あるいは、何もしないことが最大の効果・威力があるということだ。
頭が悪い人は「そんな馬鹿な」と言うだろうが、頭が悪い人に用はない。勝手に言ってろだ。
無為をマスターすれば無敵である。

引き寄せも高度なものでは無為で、願いを叶えるために何もしない。アファーメーションなどの引き寄せメソッドも含めてね。
一般的な引き寄せでは、アファーメーションならアファーメーションを唱えまくる。
「神様の奇跡が起こる」と唱えて宝くじで1億円を2回当てたという実話があるが、これは、あくまで、1日中、2週間ほど唱えたのである。それほどやれる人は、まあ、滅多にというか、ほぼいない。
高度な引き寄せでは、一度も唱えない。
神様の奇跡はいつでも起きているからだ。
だからまあ、確認の意味で「神様の奇跡が起きている」とたまに言うかもしれないが。

これは、法然の念仏と親鸞の念仏との違いと同じだが、仏教の専門家も分かっていない。
法然は、起きている間ずっと念仏を唱えよと説いた。
法然が書いた『選択本願念仏集』に実際にそう書かれている。
だが、親鸞は、1度唱えれば良い、さらに、唱えなくても良いと教え、師の法然を怒らせた。
法然が親鸞の意図を理解していたのかどうかは分からない。
法然は、仏(阿弥陀如来)に救ってもらうために念仏を唱えよと教えた。
だが、親鸞が、もう仏に救われているのだから、別に念仏を唱える必要はないとした。実は、これが正しい。
だから親鸞は、救ってもらったことへの感謝として、一度くらいは念仏を唱えることもあると言ったのだ。
これが親鸞の教えの神髄であるが、これを理解している専門家を私は知らない。
ただし、親鸞も、一足飛びにこの真理に至ったわけではないので、ちょっと違うことも言ったり書いたりはしているかもしれない。
まあ、こう言うと、「いや俺、全然救われてないんっすけど」と言う者がいるので、じゃあ、法然式に念仏を唱えよと、おそらく親鸞も言ったことも多いと思う。

法然式の引き寄せは、なかなか厳しい。
アファーメーションならアファーメーションを、自我が降参するまで唱える必要がある。
しかし、親鸞式では、願いは既に叶っているので何もしない。
「いや、叶ってないんっすけど」という者には、一応、
「霊的世界では叶っているので、物質世界でもその状態になる」
と言わないといけない。厄介だ(笑)。
しかし、霊的世界で叶っていることは、勝手に物質世界に現れると言うか、現れざるをえない。
だから、叶えるために何かする必要はない。
いや、何かする必要がないどころか、何かすると叶わない。
だって、何かするのは、叶ってないこと前提だから、叶ってないことにしてしまうのだ。
だからまあ、唱えるとしたら、「この願いを叶えるために俺は何もしないっすよ」だが、これすら、願いを叶えるために唱えるようではいけない。
マイク・ハーナッキーは、引き寄せの究極の秘訣は「願いを叶えるために、必要なことは全て自主的に実行すると決意する」だと教えたが、「必要なことを何でもやると決意する」って、つまり、何もしないことなのだ。
きっと、ハーナッキーも気付いていない。

薔薇の訴え
AIアート655
「薔薇の訴え」
Kay


ちなみに、「爆発現場に近いほど生き残ることが出来る」は、フランスの詩人ラ・フォンテーヌの寓話『猿と猫』から生まれたことわざ「火中の栗を拾う」に似ている。
ただし、『猿と猫』では、猿にそそのかされた猫が危険を冒して火中から栗を拾い、それを猿が食べるという、騙されて危険なことをする猫の馬鹿さを示したものだが、後の世では、「火中の栗を拾う」は、人のために進んで危険を冒すことの崇高さを示していると共に、「危険を冒してこそ勝利する」という意味がある。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)歎異抄
(2)選択本願念仏集(法然)
(3)ラ・フォンテーヌ寓話
(4)荘子〈1〉 (中公クラシックス)
(5)老子 (岩波文庫)

現実はやっぱり夢

人生とは辛いもの・・・らしい(笑)。
徳川家康は、人生とは、坂道を重荷を背負って昇るようなものだと言ったらしいが(これに関する本当のことは知らないが)、それはなかなかしんどそうだ。しかし、多くの人は、人生の苦労はそれどころではないと感じていると思う。
イエス・キリストは、重荷は私に預けよと言ったことになっているが、「どうやって預けるか」が分からないと思う。イエスはそこまでは言わなかったが、言ったが伝わっていないかである。

ところで、今はどうか知らないが、中国人の真似をする時は薄目をするのが定番だったらしい。
これは察するに、昔の中国の圧政は想像以上で、庶民は悲惨な状況だったという歴史家の話を見た覚えがあるが、庶民が、そんな現実を文字通り「見ない」・・・実際は「あまり見ない」ために、そんなことをやり始めたのかもしれない。
ところが、芸術やオカルト、そして、科学的な研究において、薄目でものを見る、あるいは視界にまつ毛を重ねて見ることで、脳を特殊な精神状態に導くということが少し分かっていると思う。ただ、お金にならない研究なこともあり曖昧なままであるような気がする。
しかし、曖昧なままの方が良いかもしれない。このような微妙で神秘的なことを下手に合理的に解釈しない方が良い。
大雑把な言い方をすれば、薄目で見ることで、脳のなんらかの作用により、精神のモードが切り替わり、超越的な状態、霊的な状態、アルタード・ステーツ(変性意識)状態になっていくのである(個人により程度の差はある)。
それによって分かることは、世界、あるいは人生は夢と変わらないということだ。

辛いと言われる世の中、あるいは人生が夢だと分かれば、辛いとは思わず、せいぜい「面白くない」という認識に変わる。
嫌な夢を見ている時、その夢を辛いと思うかもしれないが、これが夢だと気付けば、それほど辛くないようなものだ。
そして、夢の中で、これが夢だと気付けば、夢は変化し、うまくいけば快適な状況に変わる。
現実も同じである。
古代中国に、やたら賢者が多かったのは、圧政の中で薄目で見ることが流行ったからではないかと思えるほどである。
特に荘子は、現実は全く夢だと断じていたが、荘子はそこそこの身分でありながら、何か辛い状況にあり、庶民の現実逃避法を学んで、高次の世界に目覚めたのかもしれない。

稀に分かる人がいるが、私は幼い時から、何でもいいが、何かに「さりげなく意識を集める」と、その何かから存在感が消えるのを発見し、その精神操作に夢中になったものだが、これは、夢の中特有のものの見方を現実でやったのである。
夢と現実は同じとはいえ、やや精神状態が異なることは間違いない。
この「さりげなく意識を集める」ことは、発明家のイツァク・ベントフが『ベントフ氏の超意識の物理学入門』の中で、ある種の幽体離脱とか千里眼の実験として提示しているが、やはり、超越意識の状態に導くのだろう。
私が子供の時、異常な引き寄せ能力を持っていたのも、そんなことに関係すると思う。

夢
AIアート528
「夢」
Kay


世界、あるいは人生は夢であると見なせ、薄目で見ろ、さりげなく意識を集めろ、深呼吸しろ・・・こういったことは繰り返し述べた方が良いかもしれない。
これらを公式として行うのではなく、さりげなく行ううちに、不意に閃きを呼ぶ。それは1つの悟りである。
世界は夢であり、それを作っているのは内なる神のようなものだ。
コリン・ウィルソンは『右脳の冒険』の中で、「内なる魔術師」が世界を目を向けた範囲で瞬時に作るのだと、なかなか鋭いことを述べている。
とにかく、世界は夢である。
IA(イア)とONE(オネ)のデュエットソング『Into Starlight』の歌詞が、それを美しく表現していると思う。

浮かぶ幻 私を高次元に誘うけど
目の前の今 輝き眩しすぎて
回る 陽炎 私を取り囲むように
さあ、と巡る 奏でる まるで夢見たように
~『Into Starlight』(作詞・作曲・編曲:KURIS・YUICHI NAKASE。歌:IA・ONE)より~

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ベントフ氏の超意識の物理学入門
(2)荘子〈1〉 (中公クラシックス)
(3)右脳の冒険―内宇宙への道
(4)魂の体外旅行: 体外離脱の科学
(5)ラマナ・マハルシの教え
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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