ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

荘子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

やっぱり正義は必ず勝つ

「正義は常に勝つ」と言うが、一方、「勝った方が正義になるだけだ」なんてシニカル(皮肉な。冷笑的な)ことを言う者もいる。
しかしだ、やっぱり正しい者は最後には勝つのだ。
こんなことを言うと、現実主義を標榜する者達に馬鹿にされそうだが、それでも、正義は勝つ。
だが、その前に「正義」の定義をしておくべきだろう。

善の反対も、正義の反対も、共に「悪」で通用する(正義の反対は不義や不正と言う者もいるが、ピンと来ないし、そんな決まりはない)。
では、善と正義は同じだろうか?
そこが問題で、ある意味では同じだが、ある意味では違う。
悪にはレベルはない。巨悪と言おうが小悪党と言おうが、悪は悪だ。
しかし、善にはレベルがある。高レベルの善が正義である。
高レベルの善とは、物質的な善ではない、見えない善だ。
簡単に説明する。
荘子は、「善悪は相対的なもの」と言う。
善と悪は、立場の違いに過ぎないというわけだ。
また、荘子は、善悪だけでなく、あらゆるものが相対的と言った。
例えば、破壊と見えるものも、立場が変われば完成だ(奴隷制度の破壊は、奴隷制度廃止を求める者の完成)。
中島敦の『名人伝』で、悟りの境地に至った弓の名人は、「私には、善と悪の区別がつかない」と言う。
その通りだ。
だが、これらは、目に見える物質的世界での善悪なのだ。
目に見える物質的世界では、善と悪も、他の一切のものと同様、見る者の立場で入れ替わる。
しかし、人間の頭脳では理解出来ないが、高次の観点での善は絶対だ。
それは、人間からすれば「神の意思」とか「宇宙の意思」とでも言うしかない。
その、高次の絶対的善を正義と言う。
つまり、初めに述べた通り、高レベルの善が正義である。

だから、神の意思に沿ったことが正義で、神の意思に沿っていないことが悪である。
そして、正義は必ず勝つ。
大切なことは、自分勝手な都合で、神の意思が何かを決めてはならないことだ。
子供には、社長や大統領の意思が全く分からないのと同じだ。

神の意思が理解出来なくても、神の意思に沿うことは出来る。
そして、神の意思に沿うことが正義であるから、神の意思に沿えば、必ず勝つ。
神の意思に沿う方法・・・それは、変な感じがするかもしれないが、神の名を心で唱えることだ。
他にも方法はあるだろうが、普通の人には難しい。
そして、神の名を唱える・・・ナーマスマラナ(神の名を心で唱える行)や念仏であれば、誰でも出来、しかも、確実なのである。

ドナルド・トランプが噂通りの男であれば、最後は必ず勝つ。
彼が、自分で言うように、聖書を読む男であれば、特に、ナーマスマラナを知らなくても、神の名は自然に何度も唱えるはずだ。
一方、彼の敵さんらは、心で神の名を唱えることは決してない。
そして、我々は、心で神の名を唱える行があることを知っている。
それが、ナーマスマラナや念仏だ(実際は両者は等しい)。
それを行えば、負けることは決してない。








超大物を跪かせる少女

経験豊かな人間とか、生きた知識が多い物知りな人がいる。
一方、冒険的行動が少なければ、経験や生きた知識は少ない。
現代は、40代、50代以上でも、ほとんど就労したことがない引きこもりや、働いているとしても1つの会社にずっと勤めていて世間が狭い者が多いが、そんな者達も、経験や生きた知識が少ない。
当然だが、試験の点を取るためだけの知識が多い者は、本当に大切なことは何も知らない。

ところで、いかに経験豊かな者でも、全く未経験で見当もつかないことや、いかに物知りでも、全く知らずに恥をかくことはいくらでもある。
事業で大きな実績がある人は、経験や生きた知識が大きく、そういった人間的な厚みの点でも、人々から称賛され、畏敬の目で見られることもあるが、1人の人間が経験出来ることや、知ることが出来ることは、たかが知れている。
世界一級のビジネスマンや軍人、革命家も、ニートの引きこもりと大した違いはない。
老子、荘子の老荘思想(「タオイズム」と言うこともある)では、そのように考えるのだと思う。
『荘子』には、「生まれてすぐ死ぬ赤ん坊も、800歳生きたと言われる彭祖(ほうそ)という伝説の人物も同じである」とあり、さらに、「一本の指もまた天下である」と記されている。

『愛と誠』という古い漫画で、こんな興味深い場面があった。
座王与平(ざおうよへい)は、実業界も政界もヤクザ社会も影から操る超大物である。
また、与平は、若い時は、中国大陸で馬賊を率いていたと言い、拳銃を撃てば今でも百発百中の腕前という、どこまでも凄い人物で、貫禄も半端ではない。
ところが、与平は、なぜか、主人公の、高校1年生である早乙女愛に対し、まるで冴えないオッサンか、シャイでダサい大学生のように低姿勢で接する。
愛の父親も相当な大物であるが、与平は全く各違いと言えるほど上で、愛の父親に対しては与平は完全に見下した態度で接し、逆に、愛の父親は与平に対し、王様に対する家臣のようにビクビクしながら接していた。
それなのに、与平は、愛に対してはだらしないほど「負けている」。確かに愛は超がつく美少女であるが、別に、与平が若い子好みの好きものというわけでもない。
与平が愛に対し、慇懃(いんぎん。丁寧で礼儀正しい)である理由の1つは、与平の亡くなった内縁の妻が愛に似ている(ただし、目だけ。愛とは月とスッポンというほど大して美人でなかったと与平は言う)ことだが、それだけではあるまい。
愛に、年齢や経験を超えた深いものがあるからだ。
それで思うのだが、与平とて、自分が何でも知っていると己惚れているのではない。むしろ、自分はほとんど何も知らないと思ってるに違いない。だからこそ、超大物なのだ。

つまり、いかに経験豊かで知識が豊富であるとしても、「俺に分からないことはない」と思っているなら、大したことはないのである。
大事業家になれば、周りが持ち上げるので、ついつい己惚れてしまって、「世界には自分に分からないことが沢山ある」ことを忘れ、ただのモウロク爺さんになることが多いのはそのためである。
逆に、経験や知識が少なくても、自分が無知であることを本当に自覚していれば、若くても大物である。
それに対し、若い人で、天才的な能力があっても、(特に外見も良い場合にそうなるが)もてはやされてしまい、それで己惚れてしまえば、見苦しい雑魚に過ぎないだろう。
ソクラテスは「私が知っている唯一のことは、私が何も知らないということだ」と言ったらしいが、自然にそう思うなら、いかなる相手も恐れないだろう。
ここまでは指摘する者は多いが、では、どうすれば、そうなれるかを単純に言う者は少ない。
その方法は、ナーマスマラナ(神仏の名を心で唱えること。純粋な念仏もその1つ)である。
もし、早乙女愛のような者がいるとしたら、その者は、人間を超えた存在を感じているはずである。
それを無意識に行えるほどであれば、天使や菩薩のようなものであり、小説や漫画であれば、そのような人物を描くことも出来るが、実際には、ナーマスマラナを行うより他、そのようになるのは難しい。
ナーマスマラナは、ナーマ(名前)をスマラナ(心で唱える)というように、必ず、心の中で唱えなければならない。それも、丁寧に数多く。
声に出して唱えると、宗教に巻き込まれる恐れがあるし、他者の存在や反応により、成果が少ないか、逆に、負の影響を受けかねない。
心の中は宮殿のようなものだ。そこに静かに引きこもって、敬虔に神仏の名を唱えれば、神仏と親しく交わり、融合して一体となるのである。
「神と和らぎなさい。そうすれば平安を得るだろう」(旧約聖書、ヨブ記より)。








真言が神秘力を起こす仕組み

文豪の小説でも、しばしば指摘されているが、記憶と最も深く結びつく感覚は、意外に嗅覚だ。
もし、子供の時の一時期でも、焼き芋の匂いに包まれて生活した時期があれば、何十年経っても、焼き芋の匂いを嗅ぐと、その頃の精神状態が蘇り、非常に懐かしく思う。
他の感覚でも、そんなことはあるが、嗅覚が一番、感情的な記憶想起の力が強い。
私は最近、久々に、アイス・デオドラント(冷感制汗)スプレーを使ったが、そのスプレーの匂いで、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ」の光景を鮮明に思い出す。
私は、汗っかきなので、マジカルミライ会場で密着する可能性が高い若いお嬢さん方に不快感を与えてはいけないと、大変に気を使い、初めて「マジカルミライ」に行った2016年から必需品としているからである。

歳を取って元気を取り戻したい時、自分が若くて元気だった時に人気があった歌手の歌を聴くと、かなり気分が高揚するのも確かと思うが、匂いや香りに関わるものの方が感情に働きかけるので、効果的なのである。
二十歳の若者が、ジャスミンの香りのお香をたびたび使っていれば、50歳になっても60歳になっても、ジャスミンのお香の香りに接すれば、若い時の肯定的な感覚が蘇ることだろう。

一人の人間の一生の記憶に関しては、この通り、香りが強い記憶になっているが、これが、人類の歴史となるとどうだろう?
『荘子』では、人類が最も優れていた時代は古代ではなかったのかと記されている。なぜかというと、自他内外の区別を一切しなかったからだ。
つまり、自己が宇宙そのものという、今日でいえば、悟り、あるいは、解脱と呼ばれる状態にあったのだから、深い英知を誰もが備えていたのである。
一説によれば、古代の文明は、機械文明とは違う意味で高度で、人工生命体すら作り出すことが出来たと言われている。
荘子は、そんな時代から後は、自他を区別するようにはなったが、区別はしても優劣をつけなかった時代は、現代よりずっと人間は高度であったと言うが、そのはずだと私も思う。
その時代には、神の名、そして、それに関連した真言が作られていた。
神の名には、説明は省くが、古代の叡智への回帰の意味もあったのである。
ギリシャ神話、インド神話(『マハーバーラタ』など)、エジプト神話などは、紀元数世紀に成立したと見なされるが、紀元前300年以上前のアリストテレスが既に、ギリシャ神話の神について著作で言及しており、神話の起源そのものは、いずれももっと古い。
また、ギリシャ神話、旧約聖書、古事記の内容に似た部分が多く、すでに何らかの文化交流があったと思われるが、それは、言語学的に見ても言葉の中に、その痕跡が認められる。
学問的な詳細はともかく、神や仏の名、そして、それらと深く関係する真言は、古代の影響を受け、それは、人類の深い記憶に残されている。
カール・グスタフ・ユング、あるいは、ルドルフ・シュタイナーも、神話が人類の深い記憶(霊体にまで及ぶかもしれない)に存在し、神話を読んだり、神話のシンボルに接することで、古代の記憶を刺激することを示したが、もっと奥深くにあるのが、神や仏の名や真言である。

現代の人間も、神や仏の名、あるいは、古い真言を唱えることで、宇宙の心と通じた賢い時代の英知を呼び起こすことが出来る。
特に、仏教の真言というのは、神仏を称賛する言葉であり、生命力に溢れ、これを唱えることの利益は非常に大きい。
賢くなるだけでなく、古代の人類が持っていた超能力めいたものまで復活させることは、それを成し遂げた者はあまり言わないが、そうであったという証拠は多いはずである。

ところで、1つ言っておくと、阿弥陀如来という仏・・・インドの原語ではアミターバ(同時にアミタ―ユスとも言うが、アミタ―ユスは別の仏という説がある)は、徹底して駄目な人間のための最強の仏であるとみなされている。
その考え方は、法然、親鸞で確定したものとなったが、元々、そのような傾向があったのである。
人間的に最低で、昔の神であれば、見捨てる、罰する対象の欠陥人間の欠点を、ものともしないのが阿弥陀如来である。
それは、特に、親鸞の教えを記したと言われる『歎異抄』に鮮明で、まさに、まるで駄目な人間である我々の希望である。
そんなわけで、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることは、もちろん良いが、念仏は、あまりに葬式のイメージがあり、病室や手術室で念仏なんか唱えていたら叩き出されかねない。
それで、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(あるいは、オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン)」を唱えるか、簡単なので、阿弥陀如来の元の名前、アミターバを唱えると良い。
特に、あらゆる点で駄目駄目な人間は。
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」は、いったん覚えてしまえば、リズムが良く、楽しく唱えられる。
心の中で、静かに、丁寧に唱え、出来るだけ数多く唱えることが大切だ。
そうすれば、あらゆる利益が切りもなく訪れると思う。
それは、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」も同じだが、「南無観世音菩薩」に悪いイメージはないので、これも唱え易い。
ただ、観世音菩薩の元の名は「アヴァローキテーシュヴァラ」と難しいが、この名にピンと来るなら唱えると良いだろう。








『歎異抄』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むと良い理由

人間の能力は、固定観念を壊せば壊すほど大きくなる。
ある意味、純真無垢な子供のようであるほど、能力が高いのである。
子供は、知識と経験がなく、いわゆる「やり方」というものを知らないので出来ないことが多いが、ご存じのように、物覚えが速く、場合によっては、あっという間に大人と互角以上になる。
(だが、子供が高い学習能力を発揮するのは、あくまで興味がある場合で、学習を強要すると学習能力自体に障害をきたし、学べない子になる)

固定観念を壊すには、馴染んだものから離れる必要がある。
しかし、普通の大人は、馴染んだことばかり見たがり、聞きたがり、やりたがるので、一般に、歳を取るほど馬鹿になるのである。
だから、新しいことを始めないといけない。
固定観念を壊すために、いわゆる「ビックリ体験」をすることは良いことだが、金持ちの中には、金を出して、受け身のビックリ体験ばかりしたがる者も多いが、そんなものでは、単に面白いだけで、向上することはない。
新しい体験で自分を良い方向に変えるには、「自分が否定される」ことが必要だからだ。
だから、純粋に向上心のある一流・・・例えば、大経営者、トップのスポーツ選手や音楽家や画家などの芸術家は、自分を若い人に否定してもらいたいと本当に思っているが、やがて、口では「私を否定してくれる者を歓迎する」と格好の良いことを言いながら、今の自分を称賛してくれる崇拝者を求める。
つまり、崇められてニコニコするようになったら、もうすっかり下り坂なのである。

本を読む時も、心地良く感じるもの・・・つまり、自分の思想性に合ったものを読んでも仕方がない。
そんな本は、沢山読めば読むほど、自分の固定観念を強化するだけで、本人は、「私は沢山読んでいる。それで賢くなっている」とでも思っているのだろうが、単なる物知りの馬鹿になっているのである。
世間的常識に染まることを、悪い意味で「大人になった」と言う。
『涼宮ハルヒの憂鬱』で、涼宮ハルヒは美少女なので、中学生の時から、沢山の男子が彼女に交際を求めたが、ハルヒは、「ただの人間には興味ないの」と片っ端から振っていく。
つまり、普通の人間は、中学生にもなれば、世間的常識・・・つまり、固定観念が多くなってしまっていて、ハルヒに嫌われるのである。
キョン(高1男子)もハルヒに「普通になること」を求めたが、ハルヒはそのことについてはキョンを受け入れず、ハルヒはキョンの扱いに困って、精神を乱してしまうのである。
私は、そこそこ大きな会社の新しく社長になる人に『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むよう勧めた。面白いことに、その会社の若い女子社員の中にも、彼にこれを勧めた人がいたらしい。しかし、結局、彼は、「俺には無理」と読まないことに決めた。その会社は、彼が社長になってからも、どんどんつまらない会社になり、業績は低下していった。彼は早々に社長をやめたが、そんな者ばかり社長にするその会社は、そろそろ終わりかもしれない。
そんな訳で、『涼宮ハルヒの憂鬱』を是非読みなさい。

固定観念を壊してくれる本には、中国の『荘子』がある。
大人の固定観念に馴染まない本なので、当然、『論語』に比べれば人気がなく、『荘子』を読んでいる大人は少ない。
固定観念の多い大人から見れば、『荘子』は、子供向けのおとぎ話のように感じるのである。
そして、『荘子』は、世間的常識に凝り固まった人間を笑うが、これを読んで一緒に笑えるのは、その世間的常識という固定観念を壊せた者だけである。
一方、最初から固定観念を持たない者にとっては、ちょっと面白いおとぎ話程度に感じるかもしれない。
そんな訳で、面白く感じるまで『荘子』を読みなさい。

おそらく・・・と言うより、確実に私も固定観念を強く持っていたのだが、そんな私に衝撃を与えてくれたのは『歎異抄』だった。
『歎異抄』は、親鸞聖人の弟子だった唯円が、親鸞聖人の教えを思い出して綴ったものである。
短い本だが、どんどん私の「常識」を裏切り、そして、幸い、壊してくれたと思う。
ところが、『歎異抄』の解説本となると、これが、下らないものが多い。
『私の歎異抄』『歎異抄を読む』みたいなタイトルの本の大半がそうで、そんな本は、著者が一度は『歎異抄』で固定観念を壊された経験があるのだろうが、彼らは、今度は、『歎異抄』で作った固定観念をダラダラ書いているのである。
つまり、『荘子』も『歎異抄』も、永遠の聖典であってはくれない。
これらの本に、内容自体の解説は必要ない。
だから、解説本は読まない方が良い。そんな本を読んで、気持ち悪いと思ったら、まだ救いがある。
『荘子』や『歎異抄』で腐ってしまった人は、科学や数学の本を読んだり、コンピューターの勉強でもすると良いかもしれない。あくまで興味があればだが。

宮沢賢治が、『法華経』を読んで感動したのは、彼がまだ厚い固定観念を持っておらず、『法華経』で固定観念を壊せたからだろう。
そこらは、彼がおぼっちゃんで、あまり苦労をしていないことの、良い面だったかもしれない。
しかし、彼は、別の面の固定観念が強く、浄土仏教(法然や親鸞の教え)の方は、受付けなかった。
だから、彼の能力はどこか歪(いびつ)で、精神的、肉体的にも健康でなかった。
ここらは、秀才であったことの悪い面だったのだと思う。

『法華経』や『聖書』は、固定観念の強い大人から見れば、特に、大人になってから初めて読もうとしたら、とても読めたものではない。
子供騙しの馬鹿げたおとぎ話としか感じないだろう。
また、子供の時から、これらに馴染んでいたとしても、固定観念が増えてくると、読むのが苦痛になる。
よって、『法華経』や『聖書』を大人になってからも熱心に読める人には、天才が多い。
『聖書』全体は長くて大変だから、『福音書』を読んでみると良いと思う。普通の大人には、おそろしくつまらないだろうが。








ライトな決意

群れの中にいる平凡な人間と、群れを抜け出す特別な人間の違いは、決意をしたかどうかだと思う。
普通の人間が決意をしないというのは、権力者がそう仕向けたという面もあるが、決意をしない凡人が沢山いないと国が成り立たなかったというのも事実かもしれない。

『荘子』は一貫して、「一切をなりゆきにまかせろ」と言い、これは、決意をしない凡人の道であるが、こんな話も書いている。
王様が、側近から、素晴らしい賢者が居るので、召し抱えるべきと言われ、「それなら」とスカウトに行かせた。
ところが、その賢者は、貧しく生活に困窮していながら、スカウトを断った。
賢者の妻が、賢者に文句を言うと、賢者はこう答えた。
「王様は人の噂で私を召し抱えようとした。なら、人の噂で私を貶めもするだろう」
なりゆきにまかせていれば、賢者はスカウトを受けたはずだが、決意してそれを断った。
荘子自身がスカウトを受けた時には、荘子は、
「私は泥の中で尻尾を引きずる亀です。沼から引っ張りあげられて見世物になるより、やはり泥の中で尻尾を引きずっていたい」
と言って断ったという。
荘子自身が、権力に屈しない決意があるのだ。

普通の人は、決して決意をしないよう、学校やマスコミ・・・根本的には国から洗脳を受ける。
その洗脳のやり方は、道は無限にあるのに、その中の下らない数本の道を示され、「どれでも自由に選ぶが良い」と言って、実際は強い制限を課しながら、あたかも自由があるように思わせることだ。
凡民は自分には自由があると思っているが、それは、極めて制限された自由でしかない。
とはいえ、それは必ずしも国の悪意とは言えない。
国は、安全な道を示したのも確かなのだ。
国が示した以外の道はリスクがある。
リスクを取った者の中で、僅かな者が成功するが、やはり、ほとんどの者は悲惨な目に遭う。
例えば、国は、ミュージシャンになるという選択肢を見せない。
それに逆らってミュージシャンになろうとしても、ほぼ全員が失敗し、大きな人生の損失を背負うのだ。

だが、我々は、「ライトな決意」をすれば良いし、しなくてはならない。
最近、坂井泉水さんの映像を見たが(私は昔、坂井さんの熱烈なファンだった)、彼女について世間で言われていることを私は全く信じていない。
彼女は、人見知りする大人しい女性だという話があり、確かに、シャイな雰囲気も魅力なのだが、あの痺れさせられる目線や表情は、地でやってるのか、計算され尽くしたものなのか区別が付かない。
彼女は、美貌と抜群のスタイルという恵まれた外見を生かして、まずモデルになっているが、スカウトしたのが、倉木麻衣さんのあの悪名高い父親というのがすごい。
坂井さんは、苦労しているだけあって、したたかな雰囲気も感じるが、とにかく、あの目は「決意をした者」の目と思える。
でなければ、あれほどの美人で、あれほどの才能があっても、世の中に埋もれた「ただの美人」で終わっていただろう。
それで、全く勝手な想像だが、彼女は、大決心をしたと言うよりは、ライトな決意を何度もした人なんだろうと感じる。美人だったから引きがあったということもあるが、本当にいろんなことをやっており、そのいずれも決意が必要なものでありながら、人生をかけるほどの決意をしていれば、どこかで終わっていたように思う。
まあ、これらは、彼女をモチーフに物語を作っただけであるが、ライトな決意の重要さを意味付けてみたのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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