「一蓮托生(いちれんたくしょう)」という言葉自体は知っていても、意味を正確に知らない人が多いかもしれない。
私は、正確どころか、ほとんど解っていなかった。
ちょっと辞書をひけば解るのではあるが、こんな言葉を使うとは思えないのだろう。
意味は、「結果はどうなろうと、行動や運命をともにすること。」だ。
何と良い言葉だろう。
しかも、この言葉の由来が巣晴らしい。
「一連」の蓮は、蓮華、つまり、蓮(はす)の花のことだ。「レンゲソウ」「レンゲの花」と言えば、親しみを感じるかもしれない。仏様が座っているのは蓮華の花の上であり、蓮華は、清らかさや聖性の象徴である。
蓮華は、英語ではロータス・フラワーで、西洋でも、清らかで高貴なイメージのある花であるのは、ギリシャ神話の影響もあるのだと思うが、やはり、神秘的な美を持った花だからだと思う。
そして、浄土系仏教では、念仏を唱えれば、死後、誰でも仏になれるが、「一蓮托生」とは、死後、同じ蓮華の花の上に生まれるという意味でもあり、そんな2人は、大変な強い結び付きのパートナーであることが解る。
1年生になって友達百人出来たとしても、一蓮托生の友など、まずいないだろう。
ちゃらちゃらした「おともだち」なんか百人作って何が嬉しいのだ・・・と言いたくなるのは、あまり良くないかもしれないが。
普通、「お前とは一蓮托生だ」と言ったら、主に深い利害関係を表し、「どちらかがコケたら共倒れだぞ!」と言って、実のところ、「お前、しっかりうまくやって俺に迷惑かけるな」といった本音が見え隠れする(あるいは見え見えである)ことも多いだろう。
ところが、良い場面で、一蓮托生という言葉を聴いた。
アニメ『まちカドまぞく』である。
強力な魔力を持つ魔法少女、千代田桃は、あることで魔力が弱くなり、その原因を作ってしまった魔族の少女、吉田優子に半ば無理矢理に、町を守ることに協力させる。
だが、桃に比べ、優子はあまりに弱いので、桃は優子を鍛えまくろうとする。
優子は、無理に自分を鍛えようとする桃への反発もあって、控え目ながら不満をぶつける。
「あたしだって頑張ります。でも、私達は一蓮托生なんだから、あなたも頑張るべきです」
そう言われた桃は、はっとする。
「なるほど、一蓮托生か・・・その発想はなかった」
それで、見ている私には、桃はよほど嬉しかったのだと思うのである。
2人は、同じ15歳の高校1年生だが、いわゆる「仲良し」ではない。
桃も優子も、他の人に、相手のことを「友達」と言われると、露骨に嫌な顔をする。
だけど、桃の優子への愛は隠しきれないし、優子はちょっと幼いので、そこまでではないとしても、心の中では桃を慕っている。
ところで、男同士の本当の友情は「なかよし」とはほど遠い。
例えば、本物の男の友情を描いた超傑作映画は、『OK牧場の決闘』と『さらば友よ』であると確信するが、この中の、ワイアット・アープとドク・ホリデイ(OK牧場の決闘)、バランとプロップ(さらば友よ)は、お互い相手を徹底的に嫌いで、憎み合っているように見えることすらあるが、究極の状況で友情を見せてしまう。
彼らに、死後、同じロータスの花の上に生まれると言ったら、4人全員激怒するだろう。
しかし、本当の友なのだ。彼らは。
尚、『OK牧場の決闘』は、史実に基くもので、『荒野の決闘』というタイトルのいくつかの映画があり、いずれも名作の誉れ高い。
ところで、桃と優子、ワイアット・アープとドク・ホリデイ、バランとプロップは、どちらかが新型コロナウイルスに感染しても、相手にうつすことはないほど相手に近寄らない。
まあ、なりゆきで触れ合うことはあったし、バランとプロップとなると猛烈に殴りあったが、普段は全くベタベタせず、ツルまず、群れない。
いや、どちらかが感染していて、相手に触れたとしても、ウイルスの方でおとなしくするだろう。
きっと、ウイルスにも意思はある。
私には、ウイルスを使わした者は、人類に、桃と優子のようにあって欲しいのだと思う。
私は、正確どころか、ほとんど解っていなかった。
ちょっと辞書をひけば解るのではあるが、こんな言葉を使うとは思えないのだろう。
意味は、「結果はどうなろうと、行動や運命をともにすること。」だ。
何と良い言葉だろう。
しかも、この言葉の由来が巣晴らしい。
「一連」の蓮は、蓮華、つまり、蓮(はす)の花のことだ。「レンゲソウ」「レンゲの花」と言えば、親しみを感じるかもしれない。仏様が座っているのは蓮華の花の上であり、蓮華は、清らかさや聖性の象徴である。
蓮華は、英語ではロータス・フラワーで、西洋でも、清らかで高貴なイメージのある花であるのは、ギリシャ神話の影響もあるのだと思うが、やはり、神秘的な美を持った花だからだと思う。
そして、浄土系仏教では、念仏を唱えれば、死後、誰でも仏になれるが、「一蓮托生」とは、死後、同じ蓮華の花の上に生まれるという意味でもあり、そんな2人は、大変な強い結び付きのパートナーであることが解る。
1年生になって友達百人出来たとしても、一蓮托生の友など、まずいないだろう。
ちゃらちゃらした「おともだち」なんか百人作って何が嬉しいのだ・・・と言いたくなるのは、あまり良くないかもしれないが。
普通、「お前とは一蓮托生だ」と言ったら、主に深い利害関係を表し、「どちらかがコケたら共倒れだぞ!」と言って、実のところ、「お前、しっかりうまくやって俺に迷惑かけるな」といった本音が見え隠れする(あるいは見え見えである)ことも多いだろう。
ところが、良い場面で、一蓮托生という言葉を聴いた。
アニメ『まちカドまぞく』である。
強力な魔力を持つ魔法少女、千代田桃は、あることで魔力が弱くなり、その原因を作ってしまった魔族の少女、吉田優子に半ば無理矢理に、町を守ることに協力させる。
だが、桃に比べ、優子はあまりに弱いので、桃は優子を鍛えまくろうとする。
優子は、無理に自分を鍛えようとする桃への反発もあって、控え目ながら不満をぶつける。
「あたしだって頑張ります。でも、私達は一蓮托生なんだから、あなたも頑張るべきです」
そう言われた桃は、はっとする。
「なるほど、一蓮托生か・・・その発想はなかった」
それで、見ている私には、桃はよほど嬉しかったのだと思うのである。
2人は、同じ15歳の高校1年生だが、いわゆる「仲良し」ではない。
桃も優子も、他の人に、相手のことを「友達」と言われると、露骨に嫌な顔をする。
だけど、桃の優子への愛は隠しきれないし、優子はちょっと幼いので、そこまでではないとしても、心の中では桃を慕っている。
ところで、男同士の本当の友情は「なかよし」とはほど遠い。
例えば、本物の男の友情を描いた超傑作映画は、『OK牧場の決闘』と『さらば友よ』であると確信するが、この中の、ワイアット・アープとドク・ホリデイ(OK牧場の決闘)、バランとプロップ(さらば友よ)は、お互い相手を徹底的に嫌いで、憎み合っているように見えることすらあるが、究極の状況で友情を見せてしまう。
彼らに、死後、同じロータスの花の上に生まれると言ったら、4人全員激怒するだろう。
しかし、本当の友なのだ。彼らは。
尚、『OK牧場の決闘』は、史実に基くもので、『荒野の決闘』というタイトルのいくつかの映画があり、いずれも名作の誉れ高い。
ところで、桃と優子、ワイアット・アープとドク・ホリデイ、バランとプロップは、どちらかが新型コロナウイルスに感染しても、相手にうつすことはないほど相手に近寄らない。
まあ、なりゆきで触れ合うことはあったし、バランとプロップとなると猛烈に殴りあったが、普段は全くベタベタせず、ツルまず、群れない。
いや、どちらかが感染していて、相手に触れたとしても、ウイルスの方でおとなしくするだろう。
きっと、ウイルスにも意思はある。
私には、ウイルスを使わした者は、人類に、桃と優子のようにあって欲しいのだと思う。
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