ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

良心

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

古事記は読み手を選ばない

イエス・キリストは旧約聖書を深く理解していたが、普通の人にまでこれを読めと言ったり、その内容を教えることはなかった。
一般庶民には、ただ、モーセの十戒を守るようにと言った。
即ち、盗むな、殺すな、偽証するな、姦淫するな、父母を敬え・・・等、人として基本的なことである。
これらは道徳と言えるが、イエスに、「掟の中で一番重要なものは?」と聞かれたら、「神を愛せよ」だと言った。
これは、道徳ではなく、良心に従えということだ。
道徳とは、伝統やしきたりである。
だが、C.G.ユングもまた、良心は、道徳とは異なり、時によっては、道徳に逆らうこともあると言っている。
ユングは、良心とは、やはり、神の声だと言うのである。

イエスは、旧約聖書を独学したのではなく、優れた教育で訓練されたとする説もある。
だが、本当のところは分からない。
しかし、まず、普通の人が福音書をしっかり自分のものにしようと思ったら、少なくとも10年、旧約聖書なら20年から30年はかかると思う。
そんなことをするよりも、まず、少ない教えをしっかりと守るのが良いのだし、その少しの教えすら、完全に守るのは難しいのである。

だが、少しの教えであっても、優れた教えであれば、それをほとんど完全に守るなら、人間は宇宙の理に従って生きているのであり、それは、流れに乗って泳ぐようなもので、ほとんどの苦労はなくなる。
嘘か本当か分からない膨大なことを学んだ者より、少ししか知らないが、確実に理解している者の方がずっと賢いのである。
知識ばかり詰め込んで大学を出た者は馬鹿だが、小学校の内容を、自分で確かめて理解した者の方がはるかに能力が高いのである。

日本の『古事記』は、少しの易しい教えも学べると同時に、深遠な英知にまで至ることの出来る、世界でも稀な宝典だ。
まず、女の方から男を誘ってはいけないとか、いかに愛しくても、死んだ人に執着してはいけないといった、簡単だが重要なことを学べる。
穢れたなら禊をすべきこと、疑いすぎてもいけないが、あまりに甘やかしてもいけないことも述べられている。
役目を終えたなら、その成果に寄りかからず、さっさと引退すべきことも教えられる。
そして、読み手が進歩したなら、それに応じて深い英知も学べるのだ。
まさに、子供から大人まで、一生学べる至高の聖典である。









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人間だけが老化しないようになれる

私はかつて、DNA(デオキシリボ核酸)による遺伝子情報の解明により、生命の謎が解けたように思い込んでいたことがあったが、実際は、それにより、生命の謎はさらに深まったと言うべきだろう。
遺伝子は生命体の設計図のようなものだが、人間だって設計図くらい書く。しかし、そこに置いておいた設計図から、勝手に機械や電子回路や建築物ができたりしない。なぜ生命体が成長するかに関する全ての説は単なる空想だと思う。
成長だけではない。
生きている生命体なら形を保つが、生命が去ると、腐敗し朽ち果てる。
成長と維持には生命という不可思議なものが関わることが分かるが、物質的な思考では、生命を全く理解できない。

人間も他の生物も老化するが、人間だけは老化を支配する可能性がある。
世間は、普通の長寿については注目し、賞賛するが、世間の常識に合わない長寿・・・たとえば、全く老化しないとか、不死であるといったものを認識することはない。
だから、世間には不老不死は存在しないし、世間的な人間にとってはも、やはりそんなものは無いのだろう。
だが、明治時代の長南年恵(おさなみとしえ)のように、43歳で亡くなるまで少女のような容姿であったという人もいたらしい。彼女は、別に老化で死んだのではなく、必要だったので、あの世に行っただけだろう。
実際、知られていないだけで、不老不死といったことは、よくあるのだろうと思う。
そして、動物には、そのような極端なことは起こらない。

人間と動物の違いは何かというと、頭脳の発達ということになるが、もっと注目すべきは、頭脳を発達させたものである。
人間は3万年くらい前から急激に知能を発達させたが、脳の容量自体は20万年ほど前から変わらず、むしろ、古代の方が大きかったようだ。
動物や古代の人類と、現代の人類の最大の、もっと根本的な違いは何だろう?
道徳と言うなら、それは動物にだって明らかにあることは、『シートン動物記』の、特に狼王ロボの話を読めば分かるし、動物にもある種の道徳があることは、C.G.ユングもはっきりと認めている。
では、本当に人間固有のものは何かというと、良心なのである。
道徳は、伝統やしきたりであり、記憶から生じるものだ。
しかし、良心は、心を超えた魂から、あるいは、聖霊や神からのものだとしか言えない。
良心は、本能や道徳に逆らうことも少なくはない。
そして、良心のレベルは、本能や道徳と比較にならない。
人間は、良心を目覚めさせるほどに、生命の根源に近付き、肉体を含め、物質に対する支配力を高めるということが、古代からの賢者達の共通する直覚と言って良いと思う。
良心とは何か、どうすればそれを心の奥底から掘り起こせるのかは、世間にあるつまらないまがい物とは比較にならない価値がある。
それは、ちょっと綺麗なガラス玉を争って、ダイヤに目を向けないようなことだ。
感覚的、肉体的な快楽ばかり求めるのはやめ、本当に良いものを求めようではないか。









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良心は、伝統、しきたり、教育ではなく、それらに対立することすらある

良心というものは、道徳と同じく、教育や訓練、あるいは、慣習やしきたりによるものだと思っている人が多いと思う。
だが、そうではない。
良心とは、人間を離れて独立した何かである。
しかし、そうは言っても、未開人や、大昔の野蛮だった頃の人類に良心なんてものが存在しただろうかと疑問に思うこともあるかもしれない。つまり、やはり良心は、文明化された後に現れた、人間によって作られたものではないのかという疑問だ。
だが、その疑問に反し、野蛮人にこそ、良心の基礎が見られるのである。
野蛮人達を圧倒的な不安や恐怖に陥れる感情があり、そのために宗教が生まれたのだが、そのような感情には、合理的な説明のつかないものも多いのだ。

そして、そんな感情は、現代の我々の中にも厳然として存在する。
巡音ルカの歌『Just Be Friends』の中に、そんな感情を表したものがある。

分かってたよ 心の奥底では 最も辛い 選択がベスト
それを拒む自己愛と 結果自家 撞着(どうちゃく)の繰り返し
僕はいつになれば言えるのかな
~巡音ルカ『Just Be Friends』(作詞、作曲:Dixie Flatline)より~

良心を言い表すのに使われてきたものに「神の声」というものがある。
これに関し、C.G.ユングの『心理療法論』の「心理学から見た良心」にこうある。

「神の声」とはまさしく、本人の意思にしばしば真っ向から対立して妨害し、ときには最もありがたくない決断を強いるものである。

しかも、それは、時には、道徳的概念にさえ対立するのである。そのことが、良心が、教育や慣習ではないという証拠になる。
また、ユングの師であった(後に決裂した)ジクムント・フロイトは、良心とは、無意識の中の「超自我」によるものであるとしたのであるが、彼は超自我とは、やはり、人間のしきたりや伝統であるとし、彼は、「神の声」的なものを決して認めなかった。
しかし、そのフロイトが、超自我に悪魔的な力を認めているのである。
そして、フロイトがそう認めざるを得なかった理由は、熱心な精神科医であった彼の臨床経験からであり、その経験は、彼の信念(神の声は存在しない)に反していたのだ。
それを考えれば、いっそう、良心が人間を離れて存在する宇宙的なものであると思われるのである。

上に述べた巡音ルカの歌では、その人は、自己愛のゆえに、神の声に従うことが出来ずに苦しんでいるということであろう。
だが、この歌の最後はこうである。

声を枯らして叫んだ 反響 残響 空しく響く
外された鎖の その先は なにひとつ残ってやしないけど
ふたりを繋いでた絆 綻び 解け 日常に消えてく
さよなら愛した人 ここまでだ もう振り向かないで歩き出すんだ
~巡音ルカ『Just Be Friends』(作詞、作曲:Dixie Flatline)より再引用~

解釈はいろいろであろうが、この「愛した人」とは、悪魔であるのかもしれない。
それは、伝統、しきたり、慣習、教育によって作られた、自我にとって愛しい人、あるいは、幻想である。
しかし、我々は、それを捨て、それを超えて行かなければならないのだ。









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良心は、超自我の命令か、それともマナ(神秘力)か

昔、中国で、ある偉いお坊様に、誰かが、「一言、お教えを!」と願った。
すると、お坊様は、こう言った。
「善いことをせよ。悪いことをするな」
言われた方は、ややがっかりし、
「そんなことは子供でも知っています」
と不満げに言った。
すると、お坊様は、
「だが、行うのは老人でも難しい」
と答えた。

素晴らしい教えではあるが、私は、それよりも、老人はもちろん、子供でも、善いこととは何かを知っているということに気付き、感激した。
人間の中には、やはり、良心があるのだと確信したのだ。
これに関し、あのジクムント・フロイトの考えはこうだった。
人間には、普通の自我とは別に、超自我というものがあり、良心、道徳観、倫理観などは、その超自我が司っていて、悪に陥り易い自我に対して、怖いお父さんのように、悪いことをしないよう命じたり、裁いたりするのである。
カール・グスタフ・ユングは、超自我というものは認めなかったが、それでもやはり、自我に対して、善い考えや行いをさせようとすものがあると考えていた。
フロイトとユングの考え方の違いは、フロイトは超自我を個人的なものと考えており、ユングは非個人的なものだと考えていた。
ユングは、そのような善に導くものを、個人を超えたマナ(神秘的な力)であると考えていた。マナは、ユングの言う、個人を超えて存在する集合意識の中にあるものだということだろう。
しかし、フロイトは、ユングの言う集合意識を決して認めなかった。
ユングはフロイトの後継者と言われていたが、あれほど優秀な二人が、ひどく仲が悪くなってしまったことも知られている。
一方、やはりフロイトの後継者と言われたアブラハム・マズローは、フロイトとの意見の違いはあったが、こう語っていた。
「私はフロイトを否定してはいない。ただ、フロイトの深い意味を追求していたのだ」
神秘的なユングに比べ、マズローは現実的であったと考えられていると思うが、実際は、マズローの自己超越とか、至高体験などは、やはりとても神秘的で、案外に、ユングとマズローは近いように感じるのである。

医学的には、フロイトの超自我の考え方の方が、一定の評価を得ていると思うがそれは当然だろう。
なぜなら、世俗の学問が、目に見えないようなものを受け入れるはずがない。医学では、超自我は、脳の前頭葉にあると推測していることがあるようだ。
しかし、私は、良心とは、個人を超えた、大きなものの中にあるのだと確信している。
その大きなものとは神の魂と言ってよく、我々は、良心を大切にすることで、精霊である、この神の魂と結び付くのだ。
私は、良心を守ることを何よりも大切に思っており、それが出来るよう、ある程度の物質的な強さを得て、霊的なものと、地上的なものとのバランスも取らなければならないと思うのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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