ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

良心

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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魂の声

道徳的、倫理的にやってはならないことだが、やったら楽しいし、やっても明らかに罰を逃れられる状況にある場合も少なくない。
そんな時、本当に、それをやってしまう者がいるし、最近は多くなっているようにも思う。
私が小学4年生の時、それが何だったかは忘れたが、悪いことでありながら、得だし、やっても誰にも咎められそうにない状況にあったことがあった。
私が、
「やってもバレないよね?」
と10歳年長の従兄に言うと、従兄は私を咎める風は全くなかったが、
「良心の問題だよ」
と言ったのを、私はよく憶えている。
その数年後、従兄は警察官になった。
ある時、下着泥棒を捕まえた後で従兄は、
「まあ、(下着泥棒の)気持ちは分かるがな」
と言ったことがある。
つまり、その犯人は良心が欠けていたのだ。
従兄は、表向きはあまり善人ではないのだが、良心の人だった。
ところが、世の中は、時が経つごとに、捕まるようなことは避けるが、捕まらずに済むと分かっていたら、良心に反したことをする者が多くなった。
多くの人間達が自分の良心を踏みにじっていた代表が、ナチス・ドイツだった。
自分の得や楽しさを選び、良心を捨てた人間達が、あまりに大きな悲劇を起こした。
我々は、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読み、良心を捨てた人間がどうなるかをしっかり確認しなければならない。
今や、ナチスのことを知っても「彼らの何が悪いの?」と言う者が多そうで恐ろしいが。

良心は魂の声だ(心理学的には「超自我」の声と考えることがあるらしい)。
良心に反したことをやり続けたら、魂の声が聞こえなくなってくる。
魂の声は、神の声であり、直観でもある。
IQ200の者が(本当はIQは150程度以上の判定は出来ないらしいが)いくら理屈で考えても、例えば、フォレスト・ガンプの例だが、IQ75の者が直観で導いた答に遠く及ばない。
直観、魂の声、神の声は、人間の知性をはるかに超えて優れていて、それだけでなく、完璧である。

14世紀のインドの聖者ナーマ・デーヴァ(ナーム・デーヴ)が、直観で、つまり、魂の声を聞いて、つまり、神の声を聞いて書いたと思われるのが『聖なる名前の哲学』で、この短い聖典を発見したラマナ・マハルシは、これを自ら書き写し、生涯、手元に置いた。
その第2章を引用すると、

名前そのものが形であり、形そのものが名前である。名前と形に違いはない。
神は顕現し、名称と形態を装った。名前ゆえに『ヴェーダ』が確立されたのである。
名前を超えたマントラはないと知りなさい。これに異議を唱えるのは愚か者である。
ナームデーヴ曰く、「名前はケーシャヴァ(クリシュナ神)そのものである」。これは主の愛すべき帰依者にのみ知られる。

である。
(『あるがままに』、あるいは、『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』より)

神(あるいは仏)の名を唱えれば、神の声を聞くようになり、直観も強くなる。
これもまた、聖者達の直観、あるいは、魂の声が聞いたことだろう。
だが、神仏の名は、世俗の手垢がついてしまい、どうも抵抗がある場合も多いと思う。
例えば、「南無阿弥陀仏」の念仏も、神仏の名であり、それを唱えると、一切の問題が解決し救われるのだが、人によっては、この名に、宗教や葬式のイメージが強くて駄目だと言う者もいるかもしれない。

それなら、「ア」とだけ唱えると良い。
日本語は、一語一語に神が居る。その中でも「ア」は特別で、これだけで、あらゆる悩みが解決する。
最高神の名は「アウワ」である。
これは、古事記ではアメノミナカヌシノカミであるが、別の名もある。しかし、「アウワ」が根本の名である。
「アウワ」の周辺の神が、「トホカミヱヒタメ」の8神である。
「トホカミヱヒタメ」は、1つの呪文のようなものではなく、「ト」「ホ」「カ」「ミ」「ヱ」「ヒ」「タ」「メ」の8柱の神なのである。
「トホカミエミタメ」を祓詞として唱えることが流行っているが、おそらく、間違いである。
『言霊-ホツマ』を参照すれば、「トホカミヱヒタメ」の「ヒ」が「ビ」と発音されて「トホカミヱビタメ」となったが、今度は、「ビ」が「ミ」に変化してしまったのだと思われる。
例えば、「さびしい」を「さみしい」とも言うように、「ビ」は「ミ」に変化し易いからだ。
再度言うが、「トホカミヱヒタメ」は1つの呪文や祝詞、祓詞ではなく、8柱の神なので、その名を唱える時には、安易に続けて唱えるのではなく、一語一語丁寧に唱えなければならない。
言うなれば「ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ」といった感じだ。
YouTubeなどで「トホカミエミタメ」と唱えることがよく投稿されているが、私は良い印象を持たなかったので、調べてみたら、『言霊-ホツマ』の方が腑に落ちた。
各自で選べば良いことかもしれないが、参考になればと思う。








良心

良心という言葉をご存じか?
まあ、もちろん知っているとは思うが、いつ、その言葉を覚えたか記憶にござるか?
私は、どういう訳か・・・ある。

9歳の、小学4年生の夏休みのことだ。
10歳年長の従兄が、
「それは良心の問題だ」
と言ったのだが、その声を今でも思い出せる。
状況に関しては覚えていないが、黙っていればやってもバレない悪いことが出来る状況だったことは覚えている。
当時、私は、「良心」という言葉を知らなかった。
それでも、「良心」というものにより、人間は、バレなくても悪いことをしないのであると理解した。
いや、それよりも、人間には、バレなくても、悪いことをしない「良心」という心の働きがあることが分かったのだ。
今まで、すっかり忘れていたが・・・ってダメじゃん(笑)。

石ノ森章太郎さんの『人造人間キカイダー』という漫画がある。
ロボットであるキカイダーには、「良心回路」という電子装置が組み込まれていて、それにより、良いことを行い、悪いことをしないのだが、その「良心回路」は不完全なので、悪の誘惑に負ける可能性があるというものだった。
だが、ある時、キカイダーは、自分の良心回路は不完全で良いと言った。
人間の良心も不完全であるが、神がそのようにしたに違いない。
神がそのようにしたからには、理由があるのだろう。
だが、不完全ではあっても、良心は大事にしないといけないのだろう。

引き寄せを手順通りにやって、なぜか引き寄せが出来ないやつがいるのが不思議だった。
しかし、引き寄せが出来ないやつは皆、良心がないことに気付く。
引き寄せが出来ない者は、良心を取り戻し、大事にすることだ。
おそらく、それが正解だが、良心を捨ててしまった者に、こんなことを言っても無駄かもしれない。

石ノ森さんが、「良心回路」のことを「ジェミニ」と名付けたのが印象的だ。
ジェミニとはふたご座のことで、ギリシャ神話では、このふたごの兄弟の母はレーダーで、父は、神々の王ゼウスだ。
ふたごは、両方神だとも、両方人間だとも、あるいは、片方が神で片方が人間だとも言われる。
つまり、完全な神ではないが、神の魂も持っているのだ。
エマーソンは、人間の魂と神の魂は溶け合うものだと言った。
ならば、神の魂と溶け合うことだ。
そうすれば、不完全ながら、神の力と共に、良心も輝くはずである。








人間最大の力

映画や小説で、最強の敵に挑むスーパーヒーローが勝利した場合、視聴者や読者を納得させるのは、スーパーヒーローが凡人として戦った場合だけだ。
スーパーヒーローが、その超人の能力でラスボス(ラストボス。最後の最大の敵)を倒しても、嘘っぽいだけだ。
その典型が、SFテレビドラマの『スター・トレック(日本では、「宇宙大作戦」のタイトルで放送)』で、勝利するカーク船長は、いつも平凡なおじさんだった。

1960年代前半のSF漫画・アニメ『8(エイト)マン』の続編で、2000年代前半のSF漫画『8マン インフィニティ』で、8マン・ネオの最大の敵、8マン・シャドウが言う。
「戦いを決めるのは、速さでも火力でもない。意思の強さだ」
その通りだが、これでは解り難い。
なぜ解り難いのかというと、「強い意思」とは何かを、我々は知らないからだ。
強い意思とは、強い欲望、強い執着ではない。
強い意思とは、純粋な心だ。
普通の人間の心は、例えて言うなら、黒鉛(グラファイト)のようなもので、非常に脆い。しかし、黒鉛が脆いのは、不純物が混じっているからで、純粋な黒鉛は理論的にダイヤモンドより硬い。
忘我、没我になった人間が、火事場の馬鹿力を発揮するように、心が純粋になれば無敵である。

大勝負をする者に対し、「リラックスしろ」とアドバイスすることがよくある。
これは、「余計なことを考えるな」「なるべく欲望を捨てろ」ということである。
よって、欲望を持ったままではリラックス出来ないのである。

では、どうやれば、心を純化出来るのだろう。
真実を言えば、「愛を持てば」であるが、人間には愛は難しい。
そこで、「良心を持てば」、カーク船長くらいの活躍は出来るのである。
カーク船長を動かしているのは、単純に、良心なのだからだ。
それ以外にないことは、少し考えれば解ることだ。
良心というのは、称賛を求めて剣を振るうことではない。
英雄気取りで犠牲になることでもない。
真の勇気やヒロイズムには、欲望がない。

「良心だけでは駄目で、力や交渉能力も必要だ」と言われるかもしれない。
だが、時代劇小説『木枯し紋次郎』で、愚かな武士が、一人の町人に、不注意で身体か物をぶつけられたことに腹を立てて手討ちにしようとした時、その町人の主人である少女が、その武士の前に座り、「それで気が済むなら私を切って下さい」と言い、武士は「それなら」と刀を振り上げる。
だが、少女の静かな態度の前に、その武士は怖気づき逃げるように去る。
巨大な利害が絡む取り引きでは、多少の駆け引きも必要かもしれないが、大抵の争いは、意思の強さ、心の純粋さ、真の良心で決まる。
もし、限りなく心が純粋であれば、いかに大きな問題も問題でなくなる。
逆に言えば、どんなテクニックを持とうが、心が不純で意思が弱く、良心が無ければ弱いのである。
Googleの理念が「邪悪になるな」であるらしいが、なるほどと思う。
良心を磨けば強くなれる・・・愚か者が笑うこのことが真実である。









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本当に親切な人

世間の善人は、小の付く善人、つまり、小善人だ。
小善人なんて正式な言葉は無いのかもしれない。
小善人とは、善人の仮面を被った小悪人で、小悪人もまた、正式には存在しない言葉だ。

小善人は、自分が損をしない、傷付かないために、人目のあるところだけで機械的に善いことをするのである。
見返りのある相手には献身的に親切にするが、親切にしても何の得にもならない相手には冷たい。
小善人は、人の目があるところでは、世の中の不幸に関心があるフリをするが、本当は自分にしか関心がなく、自分や家族以外には無関心だ。
「それが人間ってやつだ」という声も聴こえてきそうだが、そうではない。
そんなのは、賎しい小善人である。

だが、これからの世界では、良心を育てた、善意のある、本当に親切な人しか生きられない。
「運を良くする方法」なんて言ったところで、運命の女神が好きなのは、本当に親切な人なのだ。
あまりに単純で、あまりに当たり前のことであるが、おそらく、これが真実だ。

良心を育てるためには、少々、厳しい修行をしなくてはならない。
とはいえ、当たり前のことをすれば良い。
経営者の使命とは、立派な会社を作ることではなく、社員の生活を保障することだ。
プロレスラーのジャイアント馬場さんは、全日本プロレスの社長でもあったが、著書に、「俺の自慢は、赤字続きで苦しかった時でも、レスラー達へのギャラの支払い遅延を一度も起こさなかったこと」と書かれていたが、それが彼の本当の良心だ。
経営者というのは、選ばれた人間だ。だから、良心も大きくなければならない。

普通の人が良心を育てるために守るべき掟は「弱い者いじめをしない」であり、これは、子供のうちに絶対に教えなければならない。
だが、今は、それを教えてもらえず、親も弱い者いじめに精を出す者ばかりなので、世の中には、弱い者いじめが蔓延している。
さらに、優れた人になるためには、「弱きを助ける」ことが必要だ。
これには力が要るので、力を持たなければならない。

力のある人、幸運な人になるには、自分の内にある良心を、自分で引き出さなければならない。
小善人にとっては、何ともやりたくないことであるが、それしか強くなる道はない。
意図的に損をしなければならないからだ。
簡単に満たせる欲望を手放さなければならないからである。
逆に言えば、それが本当に善いことで、良心を育てることであるなら、あえて損をし、欲望を手放すことだ。
具体的なことは、自分で考えるしかなく、誰も教えてはくれない。
だが、少しも難しいことではない。
ただ、自分で考えようとしない者には難しいというだけのことだ。









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聖人の気高い行いに涙する者は偽善者である

「Aさんは無責任だ」と言う人で、Aさんと同じくらい無責任でない者は絶対にいない。
「Bさんは傲慢だ」と言う人は、万に一つの例外なく、Bさんと同等に傲慢だ。
それどころか、非難する度に、その欠点は大きくなる。
「C君は思いやりが無いね」といつも言う教師は、間違いなく、C君よりも思いやりがない。

傲慢、無責任といった欠点を感じる相手に対してどうすれば良いのだろう?
ただ大目に見ることだ。
「そんなことを言っていたら、教育や指導ができないではないか?」
と言うなら、そんなものしなくて良いと言っておく。
神を恐れよと言いたい。
相手と同じ欠点を持つ者が、どんな指導をしようというのだ?
教育ってのは、生きていくために必要な技術やルールを教えることであり、無責任を矯正する教育など、この世にも、どこの世にもないのだ。
良識は世界が教えてくれる。
良識がないと、悪いことばかり起こって苦しむだろう?
だが、良い教師は、そこにいるだけで苦しみを克服するための手助けができるのだ。

最近、「僕は何をやっても駄目なんです」と言われることがよくある。
そんな時、私は思うのだ。
「意気地がないな」
それは、自分に対してである。
教育というのではないが、そんな相手には何を言えば良いだろう?
アメリカの自己啓発プログラムでは、「あなたは本当は素晴らしい」とか言うのだろう。
逆効果も甚だしいことだ。
自分が駄目だと思っている相手には、
「君は少しも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」
とだけ言ってやれば良い。

私は言われることはないが、「君は優秀だな」と言ってくる者がいたら、何か魂胆がある・・・とまでは言わないが(言ってるも同然だが)、まともな評価ではないから喜ばない方が良い。
本当に優れていると思っている相手に対しては、畏怖してしまって、そんなことは言えないものだよ。

相手の美点を無理に見る必要はない。
まして、相手の良いところを見つけようなんて寝言をほざく気は毛頭ない。
それほど馬鹿げたことはない。
同じ美点を持っていない限り、相手からそれを感じることは決してない。
純粋に、「あの人は優しいなあ」と思う者は、もうすでに同じくらい優しいのだ。
本当のことを言うと、誰でも全ての美点は最初から持っている。
しかし、他人の良いところを見ようなんて者は、人間の優れた性質に違和感を感じているのだ。
そんな人にとっては、良心というものが、変な色の傘のように、単に珍しいのだ。
人間の内に秘められた美しさを自然に感じられるなら、それをことさら問題にしないはずだ。
聖人の気高い行為に涙する者は、やっぱり偽善者だ。
その手の話に涙もろい私が言うのだから間違いないだろう。
聖者にとって聖者の行いは、水が高いところから低いところに流れるように自然なことなのだ。
そして、本物の聖者は、高貴な行いを笑う者のことは、そのまま受け入れるし、未熟な賢者であっても、愚か者を大目に見るのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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