ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

般若心経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

親が悪いとどこまでも駄目。その宿命を切るには。

ケント・ギルバート氏が昔、何かのテレビ番組で、こんなことを言っていたのを印象深く覚えている。
「日本では、子供は天使だと思われていて、子供は正しいと言って、あまり躾けない。だけど、西洋の多くの国では、子供は悪魔だと考えられていて、放っておいたら悪魔のままなので、徹底的に躾けられる」
海外のことは知らないが、日本はまさにその通りだし、西洋人は、日本人に比べれば、よく躾けられていると思うことも、よくあった。
もっとも、今は、「日本人並に」マナーを知らない西洋人も多いように思う。

では、子供は天使か悪魔かと言うと、どちらでもない。
単に、子供は、主に親を、そして、周囲に大人の真似をするだけだ。
そして、大人でも子供でも、人間は楽をしたがるものであり、子供も親の悪い部分を真似るのが楽なので、そのようにするものだ。
オウムなど、喋る鳥は、人間の汚い言葉ほどすぐ覚えるのは、汚い言葉ほど言い易いからで、それは子供の場合も当然同じである。
つまり、品格、マナーにおいて、子供が親以上になることは、まずない。それが悲しい現実だ。
そして、子供は、自分の品格にあったグループに入るのであり、性格の悪さは、ますます磨かれていく。
親が、子供を、優れた人格の持ち主に育てようとしても、概ね無駄だ。
子供は、あくまで、親の振る舞いを真似るのだ。
そして、親の振る舞いと、親が自分に行う躾の内容に、あまりに差があれば、子供は反発し、不良化するなど、余計に悪い状況になる。
親は、自分が駄目人間だと理解したら、子供を自分から引き離すのは、賢いと言うか、唯一の正解なのだ。

ロクな性質を身につけなかった子供が、自分に合った悪いグループがなく、自分より優れた人達の間にいることになった場合、友達が出来ず、孤立する。
学校時代は、その程度で済むが、社会に出て、まともな世界で働くようになったら、性格の悪い者は、行く先々で頭を叩かれる。
それで、見かけだけでも、いくらかまともな人間として振舞うようになる。
その方がコスパが高いからだ。
だが、頭の悪い者は、社会でうまくやっていくマナーを身に付けることも出来ず、つまはじきに遭う。
それでも、ある程度歳を取り、社会的な力がないのに、元気や体力が失くなってくると、自分の人格の欠点を痛感することが多くなる。
そこで初めて、自分の人格を呪い、なんとかしたいと思うが、もう遅い。

だが、品格の悪さは、自我の性質なのであり、自我を消せば、悪い人間性も消え、自然の大らかな優れた性質が現れてくる。
つまり、不要な自我を消せば、優れた人間になるのであり、しかも、知的にも向上するのである。
本来、自我を弱める方法は、社会の中で、徹底的に頭を叩かれ、それに耐え抜くことであるが、それが出来るのは、元々、自我の弱い、かなり立派な人間である。
品格の悪い、自我の強い人間は、叩いてくるものに反発したり、そこから逃げ出すだけだからだ。
どうしようもない人間の最終手段は、1日中、呪文や念仏を唱えることだ。
問答無用で1日中である。
10回や100回や、1時間や5時間ではない。
「1日中」である。
般若心経の呪文など良い。
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」である。
意味などない。ないから良い。
だが、「南無阿弥陀仏」でも、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」でも、何でも良い。
般若心経全体でも、大祓詞でも良い。
何でも良い。混ぜても良い。
とにかく1日中やれば、自我は消えていく。
ただ、残るべき部分は残るので(聖者すら、自我の全てが消える訳ではない)、自分でなくなることはない。









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般若心経の呪文

こんな話をちょっと思い出した。
玄奘三蔵という中国の有名な僧が若い時、いよいよインドに行こうとしていた。
当時、中国からインドへの旅は極めて困難で、生きて帰れる可能性はほとんどなかったらしいが、三蔵は仏教の経典を求めて危険を冒す覚悟だった。
ところがそんな時、インドから来た僧が重病に陥っているのを見つけ、三蔵はそれを見過ごさずに熱心に介護した。
やがて回復したインドの僧は、三蔵に、般若心経の呪文を教え、これを常に唱えれば、事故にも遭わず、病気にもならず、無事にインドに着けると言った。
三蔵は、言われた通り、その呪文「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」を唱えながら旅をしたが、あらゆる危機を乗り越え見事、インドに到着する。
するとそこで待っていたのは、あのインドの僧だった。
インドの僧は、「私は観自在菩薩である」と言って姿を消した。

この話を見た時、私は、
「呪文を唱えれば病気にならないとか言って、インドの僧自体が病気で苦しんでるじゃないか?」
と思ったものだ。
それでも信じた三蔵はアホではないかと思ってしまったのだ。
しかし、今ならこう思う。
今が盛りの大金持ちの成功者が、「こうすれば成功するぞ」と言うものの方がずっと怪しい。
なぜなら、成功するためには、それに見合った代償と責任が求められる。
その代償と責任を負う覚悟のない者に、本当に成功する方法を教えられるはずがない。

三蔵は、インドへ行くという危険を進んで冒す覚悟があったし、すぐに出発するつもりだった。
つまり、代償を払うことに関しては合格である。
だが、仏教の僧である限り、インドから来た僧の苦難に手を貸す責任がある。
その責任を放棄しなかったことで、三蔵は成功の条件を満たしたのだ。

アラジンの魔法のランプは、誰でも得られる。
しかし、ランプの魔神は、願いに対し、代償を払い責任を負う覚悟を求める。
覚悟が出来た・・・つまり、代償を払い責任を負う決心をした時、魔神は現実を改変してでも、あなたの願いを叶える。
現実ハッキングの代償と責任は重い。
そして、魔神はあなたの潜在意識なのであり、魔神はあなた(顕在意識)と共同で事を行うのである。
般若心経の呪文は、代償と責任を負うことの宣言であり、それを担保に、雑多な負債は肩代わりしてもらえる・・・つまり、いかなる困難も突破出来る。
うかつに唱えて良い呪文ではないかもしれない。









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人生最後の望み

般若心経を10万回称えたって人がいたが、その人の力は大したもので、イエス・キリスト並に、かなり大物の悪霊も祓うことが出来た。
人間の不幸の深い原因は悪霊であり、その彼に会うと、危機的状況を逃れるなど、少なくとも、一時的には運命を好転させることが出来た。
ところが、世の中には、「般若心経を3千回称えました」とか、「般若心経の呪文を1万回称えました」とかいう人は割といるが、そんな人は危ない。

般若心経に限らず、祝詞や念仏や真言を称えると、自我より高い存在に意識を向けることになり、称える回数が多くなれば、少しずつだが自我は退き、その高い存在に似てくるというか、同化していく。
ところが、般若心経3千回程度なら、自我は「俺は般若心経を3千回称えた立派な人間だ」と誇り、かえって自我が強くなる。
それでも、そこから更に称え続けるなら良いが、3千回でやめてしまうと、驕った自我を悪霊に利用されて手玉に取られるかもしれない。
中途半端に信仰を持った人間なんて、ぞっとしないというのは分かると思う。

私が、まるで駄目男君(私の職場にいる30歳もとおに過ぎた人生の落伍者)に、念仏や真言を勧めたくない理由もそんなところにある。
まるで駄目男君は、おだてれば、2週間程度は熱心に念仏を称えたりするかもしれないが、すぐに、「昨日は忙しくて出来ませんでした」とか言い出して、やめてしまうに決まっている。
結果、自尊心だけは高まり、もっと駄目になるのである。

私も一頃、休日には1日7時間、神道の大祓詞を称えていたことがある。平日も2~3時間、称えていたと思う。
合計で5千回になったが、それでやめてしまい・・・まあ、ロクなことはなかった。
土台、1日7時間も称えるというのは、欲深であるというだけのことだ。
エドガー・ケイシーって人は、毎朝必ず聖書を読むことを一生続けたので、偉大な霊能者になったのであると思う。

とはいえ、般若心経10万回とか、大祓詞5万回なら、さぞ強力な力がついていることだろう。
人生に何の望みもなく、暇で退屈で、死ぬ時のことをよく考えてしまうようであれば、最後の望みを賭け、そういったことをやってみるのも良いと思う。
まあ、ある程度やっているうちに、自我が退き、つまらないことを望まなくなる。力が出てくるのは、そうなった後である。









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謙虚な人には長い呪文

お坊様に聴いた話だが、親鸞が法然に、結婚相談をしたそうだ。
親鸞は、戒律に反するが、結婚したい人がいたのである。
すると法然は、「それで念仏が唱えやすいなら結婚しなさい」と言ったそうだ。
そりゃそうだ。
一番肝心なのは念仏を唱えることで、それは戒律に優先する。
さらに、肉食した方が念仏をし易かったのか、親鸞はそれもやっていたそうだ。
だが、親鸞の息子は出来が悪く、「俺は親父から秘法を教わっている」とか言って親鸞を怒らせたというが、さあ、それはどうだろう。
息子は遠い地にいたのだし、通信手段といえば手紙しかなかった時代だ。それも、届くのがいつになるか分からないし、そもそも、ちゃんと届くかどうかも甚だ怪しい。
電子メールやSNSがある現代ですら、メッセージが誤解されることも多いのだから、親鸞と息子も、何か誤解があったのだろう。
そう考えた方がむしろ自然と思う。
息子も、ちゃんと念仏が第一と教えてはいたのではないだろうか?

破戒の僧と言えば一休が有名だが、一休も親鸞も、弟子達には戒律を守らせた。
ある程度のレベルまでは、きちんと身を慎むことが大切で、法然も、親鸞だから、嫁をもらうことにも同意したのだろう。
ちゃらんぽらんな人間なら、嫁をもらったり、放埓(勝手きまま)をしたら、念仏を唱えなくなる恐れの方が大きいだろう。

般若心経だって、偉い先生達は難しい解釈をして下さっているが、それ(先生方の難しい解説)、役に立つのかと言えば、全くそうではない。
般若心経って、単に、「呪文を唱えよ」と言っているだけで、呪文を教える前に、一応、なぜそれが良いのか理屈を書いているのだが、それが滅法難しい。
難しいだけに誤解を与え、百人が解釈すれば百通りの解釈になる。
それで、「俺が正しい。あいつの解釈は駄目だ」なんて不毛な争いになる。
きっと、書いた当人の真意は、どの解釈とも全然違うし、そもそも、書いた人すら、「あれ、俺、どんなつもりで書いたのだろう?書いた時には、何かポリシーもあったような気がするんだが」程度ではないかと思う。
だが、般若心経の呪文は、ちょっと長過ぎるように思う。
呪文の効能というのは、「無駄なことを考えない」と「自我の増長を消す」だが、中山正和さんが指摘したように、般若心経の呪文は、前者の「無駄なことを考えない」の効果を強く狙ったのだろう。謙虚な人向きと言えるかもしれない。
謙虚でない人には、神仏を直接感じさせるもの(念仏や真言)が良い。

ところで、別に覚えなくて良いが、毎朝、ガッツポーズ(パワーポーズ)をすれば、何もかもうまく行き過ぎて恐くなるだろう。
ガッツポーズで出てくるテストステロンというホルモンは、呪文も唱えやすくするのだと思う。
昨日も書いた通り、呪文、念仏、真言の効果は極めて論理的で、やりさえすれば、まるで駄目男君でも、引きこもりでも、ネット廃、ゲーム廃でも一人前になるだろう。
ミク廃はさらに有利なのだが、それについてはまた述べよう。









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まるで駄目男君はなぜ魔法が使えないのか

魔法の杖とか、魔法のランプがこの世にあるのかというと、確実にある。
しかし、だからといって、それらが「はい」と簡単に与えられる訳ではない。
古代から伝えられている全ての物語や、それをモチーフに作られた新しい物語の通り、人間が成長して、必要な条件が満たされた時に、それが与えられる。

玄奘三蔵の伝説がそれを表している。
インドに行こうとしていた三蔵だが、インドから来ていた僧が病気で苦しんでいるのに出会い、放っておけずに親切に看病した。
すると、そのインドの僧は、三蔵に魔法の呪文を教えた。
中国から、チベットの山々を越えてインドに行くだけでも絶望的に難しいのに、野獣、山賊、食料の入手困難、寒さや病気と、ありとあらゆる障害が三蔵に降りかかる。
しかし、魔法の呪文のおかげで、三蔵が無事インドに着くと、あのインドの僧がそこにおり、自分は観世音菩薩だと告げる。
その呪文が、般若心経の呪文である、「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」である。
三蔵が理屈っぽい人なら、呪文を教えられても、
「いや、その呪文を知っているアンタが病気で苦しんでるじゃない。呪文の効果はないじゃないの?」
と思うだろう。
しかし、自分がこうして看病して、このインドの僧は良くなりつつあるのだから、やっぱり呪文は効果があるんだと三蔵は思ったに違いない。
そんな者でないと、魔法は与えられない。

有名な俳優だった丹波哲郎さんも、若い時から魔法の杖を持っていた。
だから、戦争に行き、若い二等兵(最下位の兵隊)が誰もがやっていた、上官の世話(洗濯や使い走りその多)なんか一切せず、好き勝手やってても、誰もが腹を減らしていた時に、安全な場所でたらふく食べ、欲しいものは豊富に手に入れ、あまつさえ、女にも不自由しなかった。
そりゃ、苦しいこともあったろうが、基本的には、何の苦労もなく、すいすいと大俳優になっていったが、彼は最後まで、好きなことしかしなかった。
丹波さんの魔法の杖とは何かというと、ものにこだわらないということと、後はやはり、とどのつまりが・・・彼は人に優しかったのだ。
と言っても、いつもベタベタと他人に親切にしていた訳ではないが、最後には、冷酷になれずに人情が勝ってしまう・・・そんな人なんだと思う。
私が、若い時から、丹波さんの真似をして、会社の中でいつも、かなりの無茶振りをやっていたが、やはり、うまくいってしまった。
それはつまり、人生では戦いは避けられないが、「最後は許す」という、この一点があるかどうかだけで決まるような気がする。

私は、まるで駄目男君に魔法の杖を与えようとしてきたが、彼はそれを持てない。
昔、嫌な目に遭わされた相手を許すことが出来ないからだ。
だが、たとえ、許せば魔法が与えられると理解しても、それを実践するのは難しい。
私も、丹波さん並に許せば、丹波さん並に成功するが、まだまだだ。
しかし、昨夜も書いたが、トイレを我慢するという、不快さを耐える修行をしているうちに、寛容の心が強くなったようだ。
実は、どうしても許せなかった相手を、コロっと許してしまったのだ。
魔法は、本当は、誰もが心の中に持っているが、寛容の力を持つごとに、その力がレリーズ(封印解除)される。
ヒトラーは、実は、超人的に寛容な部分もあったのだが、どうしても許せない者達がいたので、最後は哀れに滅んでしまった。
結局、彼は修行不足だった。
我々は、苦しみに一人でじっと耐え、心を磨き、寛容を育てなければならない。









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