ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

般若心経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

マントラは歌

孫悟空のお話で知られる『西遊記』に登場する三蔵法師は、実在の人物である、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)をモデルにしているのだと思う。
玄奘三蔵は、629年に、仏教の経典を求めて中国からインドに向かったが、その陸路の旅は雪山高山を越えていく過酷な旅で、山賊も野獣も出る。日本の遣唐使や遣隋使も危険だったが、それ以上で、当時、そのルートでインドに到着出来たのは、ほとんど奇跡だったという話もある。
このあたりは、マード・マクドナルド・ベインの『解脱の真理』の中で、ベインが、そのあたりの地域の旅をした話があり、非常にスリリングであった。
玄奘三蔵には、こんな伝説がある。
玄奘三蔵が、インドに向かっての旅を始めようとしたら、インドから来た僧が、病気で苦しんでいた。
玄奘三蔵は、それを放っておくことが出来ず、僧を手厚く看護した。
それで回復した僧は玄奘三蔵に、呪文を教え、これを唱えていれば旅は安全だと言う。
その呪文は、般若心経の最後の部分である、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
だった。
この呪文の効果で、無事、玄奘三蔵がインドに着くと、そこに、あの玄奘三蔵が看護した僧がいて、驚く玄奘三蔵に、「私は観自在菩薩である」と言って消えたという。

呪文、念仏、祝詞、ナーマスマラナ(神の名を唱えること)を常に行えば、高次の力の支援を得るというのは、宗教的であるが、科学的でもあると思う。今は、なかなかそうは認められないが、結果は割と確実なのではないかと思う。
そして、これらのマントラ(真言)的なものは、棒読みするような言葉より、歌にした方が唱えやすいし、実際、ほとんどは歌として唱えられているのではないかと思う。
念仏だって、お坊さんは歌っているのだと言って良いだろう。
そして、別に、お坊さんが唱える真似をしなくても良い。
私は、ある日、夕陽を見ている時、不意に念仏のメロディーが浮かんだが、それは、伸びやかな音で、若い女性の声がよく似合っていた。
そして、マントラのメロディーは作りやすく、即興でも、誰でも、感じの良いメロディーが作りやすいと思う。そもそも、音楽を含む芸術は、宗教から誕生したという考え方もある。
きっと、玄奘三蔵も、般若心経の呪文を歌うように唱えていたのだと思う。

『クリムゾン・コレクション』という、シク教のマントラをケルト・ハープの伴奏で唱えた音楽があるが、非常に美しく、心が癒される。
あらゆるマントラを、あのような美しい音楽にすれば、それを、頭の中でずっと鳴らしておける人が増えるだろう。
頭の中でマントラが鳴ってる状態も、唱えていることと同じで、高次の力の加護が得られるのだと思う。
そして、それは、宗教的なマントラに限らず、敬虔であるもの、霊的であるもの、あるいは、自分が神聖な気持ちになれるものであれば、何でも良いのだと思う。













当ブログオーナーKayのAI書。
Amazon Kindle版は発売中。紙の書籍は5月30日発売。
Excelが入ったWindowsパソコンで実際に動かしながら読むと理解し易いと思います。
最初の、足し算をAIに教える実習だけでも、NNCでAIを作る感覚がなんとなく解ると思います。
本書の中でも触れましたが、複雑になってしまうやり方(沢山のファイルを作る必要があるもの等)は避け、基本的な考え方がしっかり身に付くことを意図しました。
その点、厳密でない部分もあるかもしれませんが、難しい表現で厳密に書くことも避けました。
本書で、AI人口の裾野が広がることを期待しています。

親が悪いとどこまでも駄目。その宿命を切るには。

ケント・ギルバート氏が昔、何かのテレビ番組で、こんなことを言っていたのを印象深く覚えている。
「日本では、子供は天使だと思われていて、子供は正しいと言って、あまり躾けない。だけど、西洋の多くの国では、子供は悪魔だと考えられていて、放っておいたら悪魔のままなので、徹底的に躾けられる」
海外のことは知らないが、日本はまさにその通りだし、西洋人は、日本人に比べれば、よく躾けられていると思うことも、よくあった。
もっとも、今は、「日本人並に」マナーを知らない西洋人も多いように思う。

では、子供は天使か悪魔かと言うと、どちらでもない。
単に、子供は、主に親を、そして、周囲に大人の真似をするだけだ。
そして、大人でも子供でも、人間は楽をしたがるものであり、子供も親の悪い部分を真似るのが楽なので、そのようにするものだ。
オウムなど、喋る鳥は、人間の汚い言葉ほどすぐ覚えるのは、汚い言葉ほど言い易いからで、それは子供の場合も当然同じである。
つまり、品格、マナーにおいて、子供が親以上になることは、まずない。それが悲しい現実だ。
そして、子供は、自分の品格にあったグループに入るのであり、性格の悪さは、ますます磨かれていく。
親が、子供を、優れた人格の持ち主に育てようとしても、概ね無駄だ。
子供は、あくまで、親の振る舞いを真似るのだ。
そして、親の振る舞いと、親が自分に行う躾の内容に、あまりに差があれば、子供は反発し、不良化するなど、余計に悪い状況になる。
親は、自分が駄目人間だと理解したら、子供を自分から引き離すのは、賢いと言うか、唯一の正解なのだ。

ロクな性質を身につけなかった子供が、自分に合った悪いグループがなく、自分より優れた人達の間にいることになった場合、友達が出来ず、孤立する。
学校時代は、その程度で済むが、社会に出て、まともな世界で働くようになったら、性格の悪い者は、行く先々で頭を叩かれる。
それで、見かけだけでも、いくらかまともな人間として振舞うようになる。
その方がコスパが高いからだ。
だが、頭の悪い者は、社会でうまくやっていくマナーを身に付けることも出来ず、つまはじきに遭う。
それでも、ある程度歳を取り、社会的な力がないのに、元気や体力が失くなってくると、自分の人格の欠点を痛感することが多くなる。
そこで初めて、自分の人格を呪い、なんとかしたいと思うが、もう遅い。

だが、品格の悪さは、自我の性質なのであり、自我を消せば、悪い人間性も消え、自然の大らかな優れた性質が現れてくる。
つまり、不要な自我を消せば、優れた人間になるのであり、しかも、知的にも向上するのである。
本来、自我を弱める方法は、社会の中で、徹底的に頭を叩かれ、それに耐え抜くことであるが、それが出来るのは、元々、自我の弱い、かなり立派な人間である。
品格の悪い、自我の強い人間は、叩いてくるものに反発したり、そこから逃げ出すだけだからだ。
どうしようもない人間の最終手段は、1日中、呪文や念仏を唱えることだ。
問答無用で1日中である。
10回や100回や、1時間や5時間ではない。
「1日中」である。
般若心経の呪文など良い。
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」である。
意味などない。ないから良い。
だが、「南無阿弥陀仏」でも、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」でも、何でも良い。
般若心経全体でも、大祓詞でも良い。
何でも良い。混ぜても良い。
とにかく1日中やれば、自我は消えていく。
ただ、残るべき部分は残るので(聖者すら、自我の全てが消える訳ではない)、自分でなくなることはない。









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般若心経の呪文

こんな話をちょっと思い出した。
玄奘三蔵という中国の有名な僧が若い時、いよいよインドに行こうとしていた。
当時、中国からインドへの旅は極めて困難で、生きて帰れる可能性はほとんどなかったらしいが、三蔵は仏教の経典を求めて危険を冒す覚悟だった。
ところがそんな時、インドから来た僧が重病に陥っているのを見つけ、三蔵はそれを見過ごさずに熱心に介護した。
やがて回復したインドの僧は、三蔵に、般若心経の呪文を教え、これを常に唱えれば、事故にも遭わず、病気にもならず、無事にインドに着けると言った。
三蔵は、言われた通り、その呪文「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」を唱えながら旅をしたが、あらゆる危機を乗り越え見事、インドに到着する。
するとそこで待っていたのは、あのインドの僧だった。
インドの僧は、「私は観自在菩薩である」と言って姿を消した。

この話を見た時、私は、
「呪文を唱えれば病気にならないとか言って、インドの僧自体が病気で苦しんでるじゃないか?」
と思ったものだ。
それでも信じた三蔵はアホではないかと思ってしまったのだ。
しかし、今ならこう思う。
今が盛りの大金持ちの成功者が、「こうすれば成功するぞ」と言うものの方がずっと怪しい。
なぜなら、成功するためには、それに見合った代償と責任が求められる。
その代償と責任を負う覚悟のない者に、本当に成功する方法を教えられるはずがない。

三蔵は、インドへ行くという危険を進んで冒す覚悟があったし、すぐに出発するつもりだった。
つまり、代償を払うことに関しては合格である。
だが、仏教の僧である限り、インドから来た僧の苦難に手を貸す責任がある。
その責任を放棄しなかったことで、三蔵は成功の条件を満たしたのだ。

アラジンの魔法のランプは、誰でも得られる。
しかし、ランプの魔神は、願いに対し、代償を払い責任を負う覚悟を求める。
覚悟が出来た・・・つまり、代償を払い責任を負う決心をした時、魔神は現実を改変してでも、あなたの願いを叶える。
現実ハッキングの代償と責任は重い。
そして、魔神はあなたの潜在意識なのであり、魔神はあなた(顕在意識)と共同で事を行うのである。
般若心経の呪文は、代償と責任を負うことの宣言であり、それを担保に、雑多な負債は肩代わりしてもらえる・・・つまり、いかなる困難も突破出来る。
うかつに唱えて良い呪文ではないかもしれない。









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人生最後の望み

般若心経を10万回称えたって人がいたが、その人の力は大したもので、イエス・キリスト並に、かなり大物の悪霊も祓うことが出来た。
人間の不幸の深い原因は悪霊であり、その彼に会うと、危機的状況を逃れるなど、少なくとも、一時的には運命を好転させることが出来た。
ところが、世の中には、「般若心経を3千回称えました」とか、「般若心経の呪文を1万回称えました」とかいう人は割といるが、そんな人は危ない。

般若心経に限らず、祝詞や念仏や真言を称えると、自我より高い存在に意識を向けることになり、称える回数が多くなれば、少しずつだが自我は退き、その高い存在に似てくるというか、同化していく。
ところが、般若心経3千回程度なら、自我は「俺は般若心経を3千回称えた立派な人間だ」と誇り、かえって自我が強くなる。
それでも、そこから更に称え続けるなら良いが、3千回でやめてしまうと、驕った自我を悪霊に利用されて手玉に取られるかもしれない。
中途半端に信仰を持った人間なんて、ぞっとしないというのは分かると思う。

私が、まるで駄目男君(私の職場にいる30歳もとおに過ぎた人生の落伍者)に、念仏や真言を勧めたくない理由もそんなところにある。
まるで駄目男君は、おだてれば、2週間程度は熱心に念仏を称えたりするかもしれないが、すぐに、「昨日は忙しくて出来ませんでした」とか言い出して、やめてしまうに決まっている。
結果、自尊心だけは高まり、もっと駄目になるのである。

私も一頃、休日には1日7時間、神道の大祓詞を称えていたことがある。平日も2~3時間、称えていたと思う。
合計で5千回になったが、それでやめてしまい・・・まあ、ロクなことはなかった。
土台、1日7時間も称えるというのは、欲深であるというだけのことだ。
エドガー・ケイシーって人は、毎朝必ず聖書を読むことを一生続けたので、偉大な霊能者になったのであると思う。

とはいえ、般若心経10万回とか、大祓詞5万回なら、さぞ強力な力がついていることだろう。
人生に何の望みもなく、暇で退屈で、死ぬ時のことをよく考えてしまうようであれば、最後の望みを賭け、そういったことをやってみるのも良いと思う。
まあ、ある程度やっているうちに、自我が退き、つまらないことを望まなくなる。力が出てくるのは、そうなった後である。









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謙虚な人には長い呪文

お坊様に聴いた話だが、親鸞が法然に、結婚相談をしたそうだ。
親鸞は、戒律に反するが、結婚したい人がいたのである。
すると法然は、「それで念仏が唱えやすいなら結婚しなさい」と言ったそうだ。
そりゃそうだ。
一番肝心なのは念仏を唱えることで、それは戒律に優先する。
さらに、肉食した方が念仏をし易かったのか、親鸞はそれもやっていたそうだ。
だが、親鸞の息子は出来が悪く、「俺は親父から秘法を教わっている」とか言って親鸞を怒らせたというが、さあ、それはどうだろう。
息子は遠い地にいたのだし、通信手段といえば手紙しかなかった時代だ。それも、届くのがいつになるか分からないし、そもそも、ちゃんと届くかどうかも甚だ怪しい。
電子メールやSNSがある現代ですら、メッセージが誤解されることも多いのだから、親鸞と息子も、何か誤解があったのだろう。
そう考えた方がむしろ自然と思う。
息子も、ちゃんと念仏が第一と教えてはいたのではないだろうか?

破戒の僧と言えば一休が有名だが、一休も親鸞も、弟子達には戒律を守らせた。
ある程度のレベルまでは、きちんと身を慎むことが大切で、法然も、親鸞だから、嫁をもらうことにも同意したのだろう。
ちゃらんぽらんな人間なら、嫁をもらったり、放埓(勝手きまま)をしたら、念仏を唱えなくなる恐れの方が大きいだろう。

般若心経だって、偉い先生達は難しい解釈をして下さっているが、それ(先生方の難しい解説)、役に立つのかと言えば、全くそうではない。
般若心経って、単に、「呪文を唱えよ」と言っているだけで、呪文を教える前に、一応、なぜそれが良いのか理屈を書いているのだが、それが滅法難しい。
難しいだけに誤解を与え、百人が解釈すれば百通りの解釈になる。
それで、「俺が正しい。あいつの解釈は駄目だ」なんて不毛な争いになる。
きっと、書いた当人の真意は、どの解釈とも全然違うし、そもそも、書いた人すら、「あれ、俺、どんなつもりで書いたのだろう?書いた時には、何かポリシーもあったような気がするんだが」程度ではないかと思う。
だが、般若心経の呪文は、ちょっと長過ぎるように思う。
呪文の効能というのは、「無駄なことを考えない」と「自我の増長を消す」だが、中山正和さんが指摘したように、般若心経の呪文は、前者の「無駄なことを考えない」の効果を強く狙ったのだろう。謙虚な人向きと言えるかもしれない。
謙虚でない人には、神仏を直接感じさせるもの(念仏や真言)が良い。

ところで、別に覚えなくて良いが、毎朝、ガッツポーズ(パワーポーズ)をすれば、何もかもうまく行き過ぎて恐くなるだろう。
ガッツポーズで出てくるテストステロンというホルモンは、呪文も唱えやすくするのだと思う。
昨日も書いた通り、呪文、念仏、真言の効果は極めて論理的で、やりさえすれば、まるで駄目男君でも、引きこもりでも、ネット廃、ゲーム廃でも一人前になるだろう。
ミク廃はさらに有利なのだが、それについてはまた述べよう。









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