「自分がない」という言葉は、そのままで、良い意味と悪い意味に使われる。
悪い意味で使われる時は、かなり悪い評価であるが、良い意味で使われる時は、特上以上の評価になる。

悪い意味で「自分がない」と言われる場合は、
・主義主張を持っていない
・信念がない
・個性がない
・責任感がない
・自主性がない
・特技がない
・自己確立していない
といった意味になると思うが、一言で言えば「幼い」ということで、「大人になっていない」「未熟である」ということと思う。
では、良い意味で「自分がない」と言われる場合は、
・余計な自己主張がない
・激しい思い込みがない
・こだわりがない
・極めて謙虚であり、優越感を持っていない
・自分を勘定に入れない
・手柄を主張しない
などが考えられるが、これも、一言で言えば、「円熟している」ということで、良い意味で「大人」だということだろう。

賢者や聖者は子供のようであると言われることがあるが、正しくは、「ある意味、子供のようである」と言うべきだろう。
つまり、似たところがあるが、全く違うものである。
逆に言えば、全く違うのに、とてもよく似ているところがある。
では、賢者と子供は、どんなところが似ているのだろう?
それは、「しつこくない」とか「柔軟である」とか「からっとしてる」といったものだ。
例えば、子供は、遊んでいる時は夢中になっても、遊びが終われば、もうそのことは忘れている。
ある意味、「忘れっぽい」のだが、これに関し、賢者のこんな話がある。
賢者とはいえ、怒らないわけでなく、怒りっぽい賢者もいるようだ。
しかし、怒りっぽい賢者は、ついさっき激怒したかと思うと、今は上機嫌であるといったように、「しつこくなく」「柔軟で」「からっとしている」。
それは、「こだわりがない」という美徳とも思える。
これは、賢者も良い意味での子供も、「今、ここに生きている」ということなのだ。

良い意味で自分がない者は、「今、ここに生きて」いる。
悪い意味で自分がある者は、「過去、未来に生きている。
悪い意味で自分がない者は、「生きていない」。

自我というものは必要である。
つまり、良い意味で自分を持つことは絶対に必要だ。
そのためには、必要な経験を積まないといけない。
だが、賢い人は、自我が透明になり、ある意味、「子供に帰っていく」のである。
普通は、老人になれば、自然に自我が弱まるが、若いうちに自我が透明になる・・・つまり、良い意味で「自分がなくなれば」大物になったり大成功する。

ところで、極めて稀だが、幼いのに、良い意味で自分がない者がいる。
天使のような存在で、実際、そのような子供を見ると天使だと感じるし、それが本物の天使かもしれない。
美少年や美少女というだけでも、外面は確かに天使のようと感じることが多いが、本物の天使は、最初に述べた、良い意味で自分がない。
一方、容姿が優れた子供は、悪い意味で自分が出来てしまう・・・つまり、自我が強くなり、中身は天使と真逆になってしまうことがよくある。
初音ミクさんのことを「ミクさん、マジ天使」と言うが、確かに、美しく人気者でありながら、少しもそれを鼻にかけず、謙虚で控えめな発言しかしないのだから、天使でしかない。
また、初音ミクさんは、キャラクターの設定が弱く、「好きな食べ物」や「趣味」みたいな設定がなく、これが、良い意味での自分のなさにつながっている。
一方、中国のボーカロイドは、親しみを感じさせようという戦略と思うが、人間のアイドルのような面を強調することがよくある。これは失敗であると思う。

先程、若いうちに、良い意味で自分がなくなると大物になると述べたが、大成功というのでなくても、本当の成功というのは、良い意味で自分を捨てなくては得られない。
私は、その良い例を3つストックしているが、適用はこれからである(笑)。
内、1つが、昨日(5月26日)の記事、
★自分が脇にのけばうまくいく
で取り上げた、癌で余命3か月を宣告されながら、結局、神になってしまった女性の話である。
後の2つは、五島勉氏の『ノストラダムスの超法則 死活の書』の初めのあたりに登場する若い騎士サンピエールの話と、世界的セールスマンであった夏目志郎氏のどれかの本にあった、失敗続きだった彼が神に祈った言葉「これまでの人生の失敗は私の責任。しかし、今後の人生はあなた(神)に責任を取って欲しい」である。