ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

自己信頼

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

夢で知る真の世界

賢者が好きな話というものがある。
アメリカの哲学者で、最大の賢者の1人と考えられていると言って良い、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、有名なエッセイ『自己信頼』の中で、「あの有名な飲んだくれの話」として取り上げているものは、おそらく、エマーソン自身が好きな話なのだろうと思う。私も大好きである。
こんな話だ。

道端で酔いつぶれているところを拾われて公爵様の家に運ばれ、体を洗って服を着せられ、公爵様のベッドに寝かされる。そして目を覚ますと、周りからちやほやされ、「あなたはこれまでずっと正気を失っていたのです」と聞かされる。

エマーソンは、この話が人間の実態を見事に言い当てていると言う。
人というのは世間にあっては酔っ払いのようなもので、ときどき目を覚ましては正気に返り、自分が本物の貴公子であることを悟るのであると。

人は時々、名家の跡取りになった夢を見る。
私が、立派な王国の王子様やお姫様であると知らされたり、あるいは、有名な大きな財閥の家が、不意に私を後継者に指名してくる。
夢であるから、細かい事情をいちいち説明されるのではなく、私はそんなことをとっくに分かっているといった感じだ。
ライバルが1人いるが、そいつは申し出を受けない。そんなことも、なぜか私には明白である。
つまり、私は、押しも押されもしない後継者である。
指定の大学を出ろと言われているかもしれないが(それもなぜか私には分かっている)、入学試験は名前を書いておけば(あるいは書かずとも)合格と分かっているし、何なら無試験でも良いのだ。
映画『フォレスト・ガンプ』のフォレスト・ガンプは、絶対に合格出来ないはずの大学に、アメリカンフットボールの実力で入り、講義には一度も出なくても修士号まで取れたが、私は別に、アメフトも何も出来なくて良い。
大学の教授も学長も機嫌を取ってくれるので、悠然と大学を楽しむか、あるいは、一度も出席しなくても卒業出来る。
私はそれまで、学校や会社で日陰の存在、いや、蔑まれる存在だった。
机があるのは一番悪い場所で、他の者は立派な回転椅子なのに、私のは木製の四つ足の椅子で、しかも、ガタがきている。
扱いも最悪だった。
だが、もう退職届(退学届)は出してあり、私が、あと少しでいなくなることは皆知っているが、誰もが、どうでもいいことと無視するか、時に、係の者が、どこかに置き忘れていた私の持ち物を黙って持って来て机の上に置いていって黙って去る。
皆にも、私がどうなるか教えたたい気持ちもあるが、まあ、明日は彼らと違って大金持ちの身だ。どうでも良い。
ところが、誰か1人、近くに来て、自分の連絡先を書いた紙を私に渡す。
その人は、私が名家の後継者になることを知らない。しかし、「いつでも連絡して下さい」と言う。とても嬉しい。
この人の面倒を見る力は十分にある(と、やはり私には分かっている)。
私の家が支配する大会社の重役にしてやろうと思う。
すると、不意に、誰かが、「君はどこに行くのだね?」と尋ねる。
この会社(あるいは学校)で一番の実力者(社長、あるいは、校長)で、これまで自分を気にかけてくれていたのだ(と不意に分かる)。
私は、「京都の大きな貴族の家に住むことになっています」と、慎ましくも嬉しい報告をする。
おっと、「その家は私のものになります」と付け加えないと。
「そうか」
その実力者は短く言うが、喜んでくれていることが(なぜか)分かる。

もし、そんな夢を見たら、その感覚をしっかり覚え、忘れないことだ。
なぜなら、それがあなたの真の姿なのだから。
その感覚を失わずにいれば、実際は夢と変わらない現実世界もそのようになる。
誰かが、インドの聖者ラマナ・マハルシに尋ねた。
「夢と目覚めの違いは何ですか?」
マハルシは答えた。
「夢は短く、目覚めは長い。その他に何の違いもない」
江戸川乱歩もバシャールも、夢の方が本当なのだと断言している。
あなたの内なる神が、すっかり酔っぱらって現実認識を誤っているあなたに、夢で真実を教えてくれているのである。








本物の自信

世の中には、まるで駄目な人間もいるが、そうではなく、「そこそこ出来る」し、努力もするのだが、限界が見えてしまっている者もいる。
そんな者の中には、トップに立ちたいという願望を持っている者も少なくないが、せいぜいがCクラス。例えば、野球で言えば、プロ野球のスター選手を夢見ているのだが、現実には、強豪ともいえない高校の野球部で、「頑張ればレギュラーになれないこともない」ようなポジションなのである。
言ってしまえば凡人で、そんな者が大化けしてトップクラスに入ることは、まあ、ない。

上昇志向はあるが、低空の壁に阻まれる者・・・そんな者は、子供の時、自信をつけさせてもらえなかった場合が多い。
漫画家だった楳図かずおさんは、3歳の時、家のふすまいっぱいに絵の落書きをしたのだが、それを見た両親は、その絵を絶賛したらしい。
もしかしたら、実際、3歳にしては凄く上手かったのかもしれないが、そんな親でなければ、後の楳図かずおはなかっただろう。
その楳図かずおさんが漫画家をやめた理由も、聞くところでは些細なことだった。
それは、出版社の者が、楳図かずおさんに、「あなたの手の描き方が良くない」と言ったことらしい。
この2つは、人間は、いかに褒められ認められることが大事で、貶されることがダメージになるか、かなり極端に示しているが、大方では、誰でも、だいたいこの通りなのだ。

子供は褒めないといけない。
ただし、闇雲に褒めて良いわけではない。
その子が好きなことで、自主的にやったことを褒めないといけないのだ。
小さな女の子が、テレビでバレリーナが踊るのを見て、その真似をして踊ると、親が、「まあ!バレリーナのようだわ!」と言うと、その子は「いい気」になるが、自信を得たりはしない。
また、子供にピアノを習わせ、やる気を出させようとして、ピアノを弾くその子を大絶賛するようなのも駄目だ。そもそも、その子は、自主的にピアノに取り組む気はないかもしれないし、あまり楽しくない練習をしている子にとって、わざとらしい称賛は、自信をつけるどころか、馬鹿にされた感じがするのである。

つまり、子供が何が好きか、また、自主的にやっているかを分かる親でなければ、子供に自信をつけてあげる褒め方は出来ない。
何でもかでも、褒めれば良いってものではないのである。
そして、ほとんどの者は、そんな褒め方をされたことがないので、自信がないのだ。

インドの聖者パラマハンサ・ヨガナンダの自伝『あるヨギの自叙伝』に、タイガー・ババという、虎と戦うヨギ(ヨガ行者)が登場する。
どんな強い人間だって、健康な大人のライオンと戦って勝つことは不可能だが、ライオンより身体が大きい虎では、さらに無理である。
向こう見ずにライオンと戦って、九死に一生を得た者はいたが、虎相手では、救助される間もないし、そもそも、それに挑むほどの愚か者もいない。
だが、タイガー・ババは虎と戦い、無傷で勝った。
そして、タイガー・ババによれば、これは誰でも出来ることだと言う。
タイガー・ババは、普通の人は「冷静な自信」に欠けると言う。
冷静な自信・・・静かな自信と言っても良い。
この言葉を覚えておくべきである。
タイガー・ババは、幼い時、親の本気の称賛を受けたか、あるいは、何らかの努力で、そのようにされた人間と同じ心を持ったのだ。

ほとんどの者は、幼い時、親に馬鹿にされ続け、あまりに自信を失っている。
そんな者だって、エマーソンの『自己信頼』を読めば、本物の自信を持った人間に憧れ、それが人間の正しい姿だと分かるかもしれない。
その本を読むことは有益だろうが、おそらく、十分ではない。
ところで、エマーソンが『歴史』の中で、こんな方法を教えている。
「英雄の物語を読む時、それを自分の物語と見なさなければならない」
突飛なアイデアに聞こえるかもしれないが、全く正しい。
英雄の物語は、実際に、あなたの物語なのだ。








絶対の自信

「自信を持て」とよく言うが、自信は大切だし、それについて、最近、時々書いた。
だが、私がアメリカ最大の賢者と思う、ラルフ・ウォルドー・エマーソンが、「これくらいの自信を持て」というレベルは桁外れで、普通の人に言えば、誇大妄想狂と言われかねない、とんでもない高さである。
けれども、エマーソンは、決して、そんな気宇壮大な自信を、特別な人にだけに持てと言ったのではなく、人間であるなら、誰でも持つべきだと言ったのである。
例えば、偉大と言える素晴らしい絵画や彫刻を前にした時、我々は当然のように、こう考えないといけない。
「誰もが、私の評価を待っているのだ」
では、我々は、どんな評価を表明するかと言うと、単に、思いついたまま言えば良い。
ダ・ヴィンチもピカソも、私が良いと言えば、それが価値になる。
そのくらいの自信がなければ駄目である。
後で考えが変われば、その時にまた、違うことを言えば良い。
今、思うことを言えば良いのである。
後で違うことを言って、「一貫性がない」などと言われる筋合いはない。
私の基準に従うということさえ一貫していればそれで良い。

王子と乞食である、2人の少年が瓜二つであるという映画があった。
乞食の少年は、間違えて城に連れて行かれ、大勢の家来たちに慇懃(いんぎん。丁寧で礼儀正しいこと)に扱われる。
だが、それこそが、この乞食だった少年に本当に相応しい状態なのである。
「そんな阿呆な!」と思うだろうか?
いやいや、まだまだ甘い(笑)。

以前、ご紹介したことがあるが、エマーソンのエッセイ『History(歴史)』の冒頭に、こんな詩が書かれている。

I am owner of the sphere,
Of the seven stars and the solar year,
Of Caesar's hand,and Platon's brain,
Of Load Christ's heart,and Shakspeare's strain,

(訳)
私は世界の所有者、
七つの星と太陽年の所有者、
シーザーの手腕、プラトンの頭脳の所有者、
主キリストの愛、シェイクスピアの詩の所有者
~『精神について』(入江勇起男訳。日本教文社)4ページ~

この圧倒的な自信こそが、人間が持つべきものである。
だが、真の自信は冷静である。
奢らず、高ぶらず、ただただ静かである。
静かさを得れば、あなたはキリストを超えたもの、神である。
合気道の開祖、植芝盛平は、「各々が天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ。神道の最高神)にならなければならない」と言われていたようであるが、やはりそうなのである。
上のエマーソンの詩を暗唱して唱えるのも良いと思う。
もし、長過ぎる、あるいは、例が古いと思うなら、最初の1行「私は世界の所有者」だけでも良いと思う。








まるで駄目なやつが逆転する奇跡

駄目なやつはどこにでもいる。
あなたの回りにも何人かいると思う。
「君はちっとも駄目じゃない」
などときれいごとを言っても、駄目なやつはやっぱり駄目だ。
そして、駄目なやつが浮上する(要は駄目でなくなる)ことは、まずない。

確かに、こんな話がある。
コリン・ウィルソンの『超越意識の探求』という本のあとがきにあった話だ(と思う)。
本当に駄目な青年がいた。
ある時、その青年が「僕って本当に駄目だ」と口にしたところ、そばにいた男が、
「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」
と言った。
それを聞いた青年は、何か感じ、「自分でそう思っているだけ」という言葉をずっと考え続けた。
それで彼は駄目でなくなり、誰にも尊敬されるようになった。

この話は曖昧過ぎる。
抽象的過ぎて使えない。
そこで、分かるように、使えるように言い直す。
まず、概要を言えば、その青年は、自信を持った。それだけである。
自信とは、文字通り、自分を信じることであり、それは、自分の能力や自分の人間性を信じることである。
そんな自信を「自己信頼」と言い、エマーソンの有名な本のタイトルでもある。
しかし、エマーソンは、ただ、「自分を信じろ」と言うだけで、「どうすれば」は言わなかった。
18歳でハーバード大学を卒業出来るような優秀な彼には、「どうすれば」が必要だという発想が無かったのかもしれない。

ところで、そもそもだが、駄目なやつでも、自分が駄目だということが分かる殊勝(けなげで感心)な者は少ない。
だから、駄目なやつは、徹底的に叩き落されないと駄目なままなのだ。
今は、学校でも会社でも、駄目なやつを、甘やかすかいじめるかの両極端しかない。
まあ、甘やかすことは1つの無難な手ではあるのだが、それでは、駄目なやつは一生駄目なままで、幸せになれない。

問題は、さっきの青年は、どうやって、自分が駄目でないと思うことが出来た・・・つまり、自信を持てたかだ。
私は、そんな例を2人、知っている。ただし、10代だ。
2人とも、少なくとも1年の修行の末、1つのことで実力を持つことが出来た。
とはいえ、それは、野球で言えば、高校野球のそこそこの選手でも、草野球では抜群に上手いようなものだ。
けれども、その程度で自信は持て、2人とも、実に威風堂々としていた。
この2人は稀に見る幸運だったと言えるが、これでは、うまくいっても、小市民として平凡に生きていけるだけだ。

一方、あの青年は、社会の実力者からも一目置かれているようなので、レベルが違う。
これと似た青年の話が、藤本憲幸さんの『秘法ヨガ入門』の最後にあるが、内容は略す(以前、書いたことはある)。

自信がない者に対し、「出来ると思っても、出来ないと思ってもどちらも正しい」という、ヘンリー・フォードの名言でお茶を濁したがる者も多いが、それでは、全く有効性はない。
そんな言葉を聞いて、自分でなんとかするような者は、最初から駄目じゃない。
つまるところ、答はこうなのだ。
「諦めろ」
それは、プロレスラーとリングの上で勝負し、マットのホコリを嫌というほど舐めさせられて、自分は全く敵わないと認めるようなものだ。
そして、それが出来れば、ピストルで1発で勝てる。
だが、弾丸の火薬を発火させて爆発力を生み出すのは、あなたの仕事ではない。
ただ、あなたは、ピストルが素晴らしいことに感謝するだけだ。
同じように、自分の内にある巨大な力崇め、代わりに戦ってくれることに感謝するのだ。
その内なる力は、既に多くの恩恵を与えてくれている。
住む家があったり、着る服があったり、ネットを見ることが出来る目があったりだ。
それらに感謝すれば、すぐに、もっと良いものをくれるだろう。








自分が最高の存在であることをこう言う

今朝述べた、エマーソンのように、「私は世界の所有者」と宣言することは、世間の教義や信条といった幻想に過ぎないものを打ち破り、真の自己に目覚めることになる。
私は世界の所有者・・・初めはそう思えなくても、この言葉を何百、何千と繰り返すうちに、その言葉の通りに潜在意識が形作られ、潜在意識を映したものに過ぎない世界に反映する・・・即ち、世界は、あなたに従い、意のままとなる。

では、このエマーソンすら貴んだ、インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナは自分をどう表現したか見てみよう。
その中で、特に神話の知識を要しない、我々でも比較的解り易いものを抜き出す。
まず、『バガヴァッド・ギーター』(日本ヴェーダーンタ協会)、「第一〇章 超越者認識の道」より引用する。
・光るものの中では太陽
・星々の中では月
・貯水池の中では大洋
・動かぬものの中ではヒマラヤ
・樹木の中では菩提樹
・人々の中では王
・武器の中では雷電
・獣類の中では獅子
・魚類の中では鮫
・河川の中ではガンジス河
・詐欺の中の賭博
・秘行における沈黙
・智者における智慧

次に、同じ部分を、文語調で訳された『至高者の歌』(三浦関造訳。竜王文庫)「第一〇場 至上神力の統一」で見る。
・爛たる群星中の燃え輝く日輪
・星宿の間に住む月輪
・湖水を凌ぐ大海
・厳たる諸山中のヒマラヤ
・一切樹木中の菩提樹
・人中の大王
・武器中の雷電
・野獣中の獣王
・鳥類中の鷲
・風の中の烈風
・諸川中の恒河(ガンジス河)
・詐欺中の大博奕 ※博奕(ばくえき)は賭博と同じ
・王者等の中の帝笏(ていしゃく) ※帝笏とは君主が持つ装飾的な杖
・秘密中の沈黙
・智者中の大智

クリシュナは至高神であるのだから当然であるが、自己こそ最高の存在であることを権威を持って断じる姿を想うと感動的である。
そして、エマーソンは、自分だけでなく、全ての者がそうでなければならないと確信し、『自己信頼』を書いたのである。
あなたも、上記の中から気に入った言葉を自分のキャッチフレーズとして常に使えば、そのようになるであろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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