ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

自助論

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

『自助論』と『自己信頼』の圧倒的な差とは?

アメリカの代表的な賢者である哲学者のラルフ・ウォルドー・エマーソンのエッセイの中でも、『自己信頼(Self-Reliance)』は特によく知られていて、短いながら、単独の本にして出版されていることも多い。
エマーソンのエッセイはどれも素晴らしいと思うが、この『自己信頼』もそうで、人が生きるための重要な指針が書かれている。
人が生きるための重要な指針と言えば、私はエマーソンと同時代の作家で医師のサミュエル・スマイルズの『自助論(Self-Help)』との比較を考える。
『自己信頼(Self-Reliance)』と『自助論(Self-Help)』は、タイトルは冗談のように似ているが、内容は全く違う。
そして、一般的には『自助論』の方が圧倒的に受け入れ易く、実際、日本でも『自己信頼』よりはるかに普及している。
『自助論』は、努力、正しくあること、理性的で前向きであることの素晴らしさを訴えるが、その訴え方が力強くすがすがしいので、歪んだ人間でない限り間違いなく好感を感じる。
一方、『自己信頼』は、ただ無謀なまでに自分を信じることを説くだけで、努力も説かなければ、一般的な意味で正しくあることなどどうでも良い。「私が正しいと言えばそれが正しい」とでも言わんばかりで、実際、自分が悪魔の子なら悪魔になりきると言う。つまり、大切なことは自分の天性であるということで、それを信じれば良いのである。
当然、『自己信頼』は誤解され易い。
『自己信頼』も『自助論』も両方正しいが、『自助論』が世間の教えであるのに対し、『自己信頼』は高次の教えで、『自助論』が誰でも理解出来るのに対し、『自己信頼』は、洗脳され魂が曇っていれば、分からないばかりか反発を感じるかもしれない。

私が思う『自己信頼』の1つのハイライトは、親に生活を依存する子供が一番立派であるという、おそらく『自助論』の・・・と言いうより、世間一般の思想と真逆を言っていることだ。
私は、『自己信頼』のこの主張は全く正しいと思う。

今は、YouTubeなどの動画で、昭和30年代~昭和50年代あたりの日本の様子を見ることが出来るが、それを見ると、この高度経済成長期の日本の明るさ、活力を感じるのである。
完全に良い時代だったかどうかは分からないが(当然、闇の部分もある)、平和で希望があり、今と比べ、人々は思いやりがあった。
なぜか?
経済的な不安が少ないからであると思う。
ここを見て、『自己信頼』の経済的な不安のない子供のことが分かる気がするのである。
もちろん、当時(昭和30~50年代)でも貧しい人はいたが、世の中全体では、今よりずっと豊かな雰囲気があったと思う。
たとえば、当時の花形産業であった鉄鋼の会社では、戦後10年にもならない頃に、労働者の福利厚生を充実させていた。
当時は、行政もまともなところがあり、公団住宅をガンガン作って一般の人々の大きな悩みである住居問題を改善していたが、大手企業では、社員のために大規模な社宅を建設した。当時としては非常に立派な造りで、快適だった。そんなものを、社員である限りは工場労働者などにも格安で利用させ、住居の問題で苦しむことがなくなった。
他のことも合わせ、社員は、真面目に働く限り、何の不安もなく生活出来、その労働状況も配慮がなされていた(ブラックでなかった)。
そんな中では、人々は明るく親切であった。
私も、そんな時代に現役生活を送っていた人を何人か知っているが、本当に皆、立派で親切な人達であると感じる。
アメリカの大手自動車会社の1つであるフォードの創業者ヘンリー・フォードも、当時のアメリカの常識を覆すほど、工場労働者を大事にし、工場労働者でもフォードの車を買えるよう(当時、自動車は金持ちのためのもので、労働者が買うことは想像も出来なかった)、自動車自体も安価にしたが、労働者の給料も上げた。
そうすると、やはり仕事場も活気があり、人に親切になり、モラルも高まるのである。

月の庭園
AIアート484
「月の庭園」
Kay


ベーシックインカムという、国民全員に生活が出来るお金を配るという制度に賛否はあるが、上記のことを考えると、良い結果を生む部分が多いと思う。
ただ、上の社員を保護する企業には、利益だけでなく善意の部分も確実にあったが、ベーシックインカムでは政府に国民を思う気持ちがなければ、それほどの成果は得られず、悪い部分も多くなる。
つまり、金は与えるが、その分、思想を統制したりの不当な支配を強めれば、ますます国は悲惨な方向にいく。

だが、もう親や国に頼る時代ではなく、まさに、『自己信頼』にあるように自分を頼る時代だ。
今回は触れないが、そのためには深呼吸を忘れないことだ。
そして、深呼吸を忘れなければそれで良い。
エマーソンがそこに触れていないことはやや残念ではある。








天の助け

天の助けは、とても良いもので、私は大好きだ(笑)。
聖書の中に、
「私は山に向かって目を上げる。わが助けはどこから来るであろうか」
という言葉があり、クリスチャンの人には、この言葉を大切にし、いつも唱えている人もいると聞く。
この言葉は、天の助けは必ずあるという、神への信頼と思う。
私も、天の助けには何度も救われた。
そして、別に、不安を煽るわけではないが、今は、天の助けがなければ、苦しいことになりかねない時代だ。

では、天の助けは、どうすれば得られるのだろう?
サミュエル・スマイルの『自助論』に、「天は自ら助くる者を助く」という、分かり易いようで、実は分かり難いことが主張されている。
スマイルズの欠点と言うのも何だが、スマイルズのこの言葉を「無限の努力をしろ」と受け取り、さらに、それを主張する人が多い。特に、昔の日本人のインテリ層がそうであったようで、それが日本人の一種の伝統になってしまった。
今の日本人は、それほど勤勉ではないが、努力主義という精神はやはり残っている。
つまり、スマイルズの言葉は、「自分で最大の努力をしてこそ、天は助けてくれる」と解釈されている。
しかし、本当に必要なのは「最小の努力」なのだ。

いくら努力不要論と言っても、本当に全く何もしなかったら駄目だろう。
二宮金次郎が、「家は人が手を入れなければあばら家になるし、畑は人が手を入れなければ荒れて収穫が出来ない」と言うが、そんなのは当たり前である。
二宮金次郎は、「だから、老子の無為自然なんてとんでもない」と言うが、それは極端論というものだ。
今の発達した農法でも、それなりに頑張る必要はあるが、かといって、苦しみながら嫌々やっているなら、何か間違っているのである。

宗教もその一種であるが、神秘とか霊を全く信じない人は、天の助けを得難い。ただ、そんな人でも、他者に多大な貢献をしている場合は別であるが、普通の人に出来ることではない。
一方、宗教や神秘や霊だけでも駄目である。
我々は、神秘的なことと、現実の泥臭いことの両方をやらないといけない。
つまり、いかに神様や仏様が好きでも、地に足がついていることも必要だ。
そして、神秘も現実も、自分が楽しいと思う分だけやれば良い。
現実世界で、研究をするのが大好きだったり、野球が大好きだったり、人の世話が大好きで、傍目には凄い努力をしているように見える人もいるが、それで本人は楽しいのである。
一方で、仕事や身の周りのことが、あまり好きでない人もいる。
そして、いかなる場合もバランスが必要だ。
いくら野球が大好きで一流選手になっても、やり過ぎて身体を壊したり、いろいろ面倒な状況に陥ってしまう人がいる。
逆に、仕事や身の周りのことが嫌でも、最低限のことはしないといけない。仕事や家庭で、自分の義務だけはちゃんと果たさないといけないし、最低限の身なりを整えることも必要だ。

仕事ばかりして家族を顧みなかったり、ひいきの野球チームやサッカーチームの過度な応援活動をしたり、ファンであるアイドルに入れ込み過ぎるのは、はっきり言って駄目である。
一方で、あまりに怠惰でやるべきことを何もしなかったり、宗教ばかりやっているのも、これまた駄目である。
とはいえ、極端なことをやっている者を、逆方向に過度に持って行こうとするのも良くない。

私の場合でいえば、現実があまり好きではないので、何とか最低限だけやるのだが、最低限であれば、いくら好きでなくても楽しく出来るのである。後は、神秘というか引き寄せでまかなっている。
そして、今は、世界も日本も、詳しい人は詳しいだろうが、あまり良い状況でないことも確かで、引き寄せの力(これは天の助けであるが)が必要である。
現実であまり頑張りすぎて、支配者や外国のスパイに目をつけられて、酷い目にあったり、最悪、殺されるような人もいる。
そんな人だって、天の助けがあれば大丈夫なのだが、現実主義の人は神秘的なことを馬鹿にして、自分で全部やろうとして、どんどん沼に落ち込んでいることが多い。
「霊主体従」という言葉がある。
霊(神秘)も体(現実)も両方大事であえるが、霊の方がずっと重要と考えるのが正しいあり方と思う。
だが、今は、「体主霊従」、あるいは、「体だけ」の人が多いのだろう。
先程も述べたが、霊とは言わないまでも心を大切にし、表向きは「体だけ」でも、社会に貢献し、人に優しくしていれば天の助けもあると思う。
だが、自分のためだけに現実で戦いまくると、天の助けがない代わりに、悪霊のようなものに支配され、成功しているように見えて、破滅に近付き、悲惨な最後となる者もいる。
私の場合は、現実主義に走り過ぎた時、過労で倒れてしまった・・・と言うより、倒されたのだろう。私は、現実主義的な行動をしていても、神秘が大好きだったから、そのおかげで無事に済んだ・・・つまり、倒れたことが天の助けだったのである。

アメリカの作家で事業家のチン・ニンチュウは、ある時、「神様に面倒を見てもらいさえすれば良いと分かった」と言うが、こんな努力家の言葉には注意が必要だ。
ニンチュウは、神と人の関係を、聖書に従って、羊飼いと羊で描写したが、羊だって、羊飼いの傍にいるくらいの現実的努力はしなくてはならない。
そして、私がまさに、現実は最低限のことしかせず、後は、神を頼るのである。
ただし、最低限の現実のこともしていないと気付いたら、そこは反省するのである。








全ての聖者賢者の教えは同じ

古代から現在に到るまで、全ての聖者、賢者が説く、幸福になる方法は同じである、つまり、1つしかないことに気付いてしまった。
これは、人生のあらゆる面を含み、細かく言えば、引き寄せの方法も入っている。
その方法は、「神にまかせる」である。
この「まかせる」は「頼る」という意味でもある。
ところが、「神」について、ややこしく考える人は厄介なのである。
私もそうだが、よく、「神という言い方に抵抗があれば・・・」とか、「神を現代的に言えば・・・」などと言うが、普通の家庭の素直な子供が考える神が解れば良いと思う。
「普通の家庭」とは何か、「素直な子供」とは何かと言い出す人は、他を当たっていただけると良い。

幸福になるには「神にまかせよ」以外のことを言う聖者、賢者は1人もいない。
逆に言えば、これ以外のことを言うなら、それは聖者でも賢者でもない愚か者である。
では、どう考えても、努力の大切さを説いたとしか思えないサミュエル・スマイルズの『自助論』はどうだろう?
全く同じである。
あれは、神にまかせる心構えを作るためのもので、若者向けである。
勝手きままで、怠惰な人間ほど、神に頼ることが出来ないのである。
例えば、飲んだくれのロクデナシに、「君は神を信頼して全てまかせる気があるか?」と尋ねたら、
「てやんでえ、神が金くれるってのかい?」
「もちろんでさあ。神様、働かなくても酒を飲むお金ちょーだい」
などと言うだろう。
いずれも、神にまかせる気など全くないことが分かる。
では、狂信的な信仰者に同じこと(神を信頼してまかせるか)を尋ねればどうだろう?
「はい、そのためには戒律を守らねばなりません。我々の戒律の通りの生き方をしない者を神は助けてくれません」
「いえ、私は身を捨てて信仰しております。神を頼ったりはいたしません」
などと言うだろう。
これらも神を信じていないのである。
神を頼るのに戒律は全く関係ない。
では、神を頼れば、悪いことをしても良いのかというと、神を頼れるのに、悪いことをする必要など全くない。
「いや、場所によっては、泥棒、強奪をしなければ生きていけない」
と言うなら、全くその通りで、誤解を恐れないまま言えば、神を頼りながら泥棒をすれば良いのである。
そうすれば、逮捕されたり、報復されたりして、酷い目に遭うかもしれないが、神がうまく取り計らってくれるのである。

とにかく、幸福になるためには、神にまかせれば良いという考えに例外を見つけることは全く出来ない。
このことには、私もかなり驚いた。
アメリカ合衆国の公式標語は、「In God We Trust(我々は神を信頼する)」だが、現代の多くのアメリカ人はそれを忘れてしまっているように思える。
2400年前の中国の賢者、荘子は「是非好悪の判断を捨て、一切をなりゆきにまかせろ」と言ったが、これこそが正しい神にまかせる方法である。

「南無阿弥陀仏」の念仏はまさに、阿弥陀如来という仏ではあるが、絶対神と同じ概念の無限の存在に全てまかせるという意味である。
これと同様、我々は、神に一切をまかせることを心に覚え込ませるような、アファーメーションや自己暗示を行えば間違いない。
現代インドでは、ナーマスマラナという、神の名を唱えることが唯一の救いの道と説く教えがあるが、これも、神を頼る心構えを作る良い方法である。
「自分を信じる」という言葉があるが、これは、欲望まみれの自我である自分を信じるのではなく、無我、忘我、没我になった自分、即ち、神を信じるということだ。
いかなる賢者の教えも理屈で説明出来るが、理屈の説明には誤解や齟齬がつきものだ。
それよりも、神にまかせるアファーメーションをした方が良い。
ただ、若いうちに、上に挙げた『自助論』を読んでおくのは良いことである。
アファーメーションとしては、やはり、「神の奇跡が起こる」をお薦めするが、他にもいろいろあるだろう。
「神は道なきところに道を作る」
とか、聖書にあるように、
「私を強くして下さる方によって、私は何でも出来る」
「神が我々の味方なら、誰が我々に敵対できようか」
と言っても良い。
誌的には、旧約聖書の、
「私は山に向かって目を上げる。わが助けはどこから来るだろう?」
という言葉が好きな人もいる。
他にも、聖書の詩編23と91を読むと良いだろう。
このいずれか、あるいは、両方を毎日読めば不安はなくなるだろう。








「天は自ら助くる者を助く」の真意

サミュエル・スマイルズの『自助論』(原題:Selef-Help 1859)という書物をご存じと思う。
私も、地球物理学者の竹内均さんの訳で一度は読んだことがある。
日本では『西国立志編』というタイトルで1871年(明治4年)に刊行さた。これは明治の終わりまでに100万部以上売れ、当時の若者達を大いに発奮させたらしい。
この書の序文の「天は自ら助くる者を助く(Heaven(God) helps those who help themselves.)」という言葉は有名で、『自助論』の内容そのものは知らなくても、この言葉は知っているという人も多いかもしれない。

「天は自ら助くる者を助く」とはどういう意味だろう?
ごく普通には、「努力する者を天(神)は助けるのだ」という意味だろう。
「自分を助ける=努力する者」ということに関し、こんな印象深い話があった。
少し昔、テレビで、中国の45歳の男性(李さんだったと思う)が、妻と娘を連れて来日し、日本の大学で博士号取得を目指すドキュメンタリーを見たことがある。
事情があって、彼は、若い時に学問に打ち込むことが出来ず、中国では学位の取得に年齢制限があるので日本でそれをするという難題に挑んでいた訳である。
当然、なかなかうまくいかず、生活も苦しい中での奮闘で、大変な苦労をしていたが、その中で、彼の可愛い12歳の娘が、こんなことを言っていたのをよく覚えている。
「神様は夢を追いかけて努力する人を見捨てないのよ」
「天は自ら助くる者を助く」 を「天は夢を追って自ら助くる者を助く」にしたような感じで、こっちの方が、まさに夢がある。

しかし、自助を努力とするのは、ひょっとしたら、支配者による人類への洗脳で、世界中の下々の者達は、この言葉によって、支配者の都合の良い奴隷に仕立て上げられてきたのかもしれない。
スマイルズ自身が、そんな意図を持っていたかどうかは知らないが、彼は、支配者に利用されたような気はするのである。
いずれにせよ、本来あるべき、「天は自らを助くる者を助く」の意味が歪められてしまったのは確かだ。
この言葉の、本来の、「自らを助ける」とは、自分の感情をコントロールするという意味なのだ。
ただ、感情のコントロールというと難しそうだが、単に、「気持ちを切り替える」という程度と考えれば良い。
例えば、何か嫌なことがあって気分が悪くなった時、気持ちを巧みに切り替えて、良い気分に持っていける者は、具体的な天の助力を実際に得て、何をやってもうまくいくのである。
これは、支配者層にのみ伝えられてきた教えである。
一方、気分を害することがあった時、特に今の若者のように「ムカつく~」と言って、長く悪い気分を引きずる者は、悪いことの連鎖に見舞われ、惨めな状況に追い込まれるのである。
これらのことは、全くの真理で、これを知ると知らないでは、人生は全く変わる。
そして、これが正しいかどうかは、実践すればすぐに分かる。

それで、気持ちを切り替えるにはどうすれば良いかというと、オスカー・ハマースタイン2世作詞の『私のお気に入り(My Favorite Things)』では、悪い気分になった時に、自分のお気に入りのものを思い出すことだし、何でもいいから(猫でも女子大生でも)愛せよと言った人もいる。
だが、おそらく、最も良い方法は、無理にでも微笑むことだと思う。あるいは、ガッツポーズをすることだ。
このあたりのことは、ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』の中で、ほとんどが元は下位層にいた、世界的上位者達が語っている(DVDでは、その上位者達が自ら登場して語っている)ので、参照するとよく解ると思う。








しゃんとした自我を持つ人を神は助ける

この世界は夢と同じ・・・と言うよりは、おそらく、VR(仮想現実)なので、どんなことが起きても不思議はない。
この仮想世界は、物理法則は厳しく適用されるように設定が行われていると思われるが、出来事の因果に関しては割と緩い・・・つまり、願いは叶い易いのだと思う。
いわゆる、引き寄せの法則は、少なくとも、そこそこに作用し、かなりうまく使える人もいるのだと思う。
そこに、神秘的な意味はない。
あくまで、科学技術的な問題と思う。

では、思う通りの状況に世界を変化させるのはどうすれば良いのかというと、細かいことはさておき、確実なことがある。
それは、心の力とか、意思の強さと言われているものだ。
それなしに大きな成果を上げた者はいない。
ただ、心の強さとか言っても、「弱い犬ほどよく吠える」の喩え通り、やる気アピールの強過ぎる者は、実際は弱いのである。
内に強い闘志を秘めた者は、表向き静かなものだ。
とはいえ、煩くはないが、緩んでぼーっとしてる者は、やはり心が弱く、何も出来ないのだ。

そこで、こんな話が参考になる。
英国の作家コリン・ウィルソンの、少年時代の思い出話だ。
彼と弟は、森に遊びに行って、道に迷ってしまった。
なんとか森を脱出しようとして、長い時間歩き続けたが上手くいかず、疲労と不安で身も心も疲れていたところに雨が降り出し、身体が冷え、とても辛かった。
弟は泣きわめき、すっかり駄々をこねている。
コリンもそうしたかったのだが、兄の自覚を奮い起こし、顔を引き締め、弟を一喝した。
この時、状況が変わったと言う。
人間の内部には無限の力があり、それを使えば、大抵の状況は打破出来る。
しかし、そのためには、「私」が「しゃんと」しなければならないのだ。
人間の右脳に秘められた偉大な力のことは、よく知られている。
しかし、右脳に働いてもらうためには、左脳が、しっかりと指揮を取らないといけない。
左脳と右脳の働きは、顕在意識と潜在意識、あるいは、人間と神と言っても良いかもしれない。
「神は自らを助ける者を助ける」
同じものを示す、左脳、顕在意識、自我、人、私・・・がグダグダでは、やはり同じものを指す、右脳、潜在意識、大我、天、神は助けてくれないのである。

まずは、自分がしっかりしないといけないという、大変に古典的な結論に落ち着いた(笑)。
しかし、真理は単純であり、大切にすべきことは「当たり前」である。
それが、現実正解と言われるVR世界(「シミュレーテッド・リアリティ」と呼ばれる)でも有効な設定であることは間違いないだろう。
そこで、『ソードアート・オンライン』のヒーロー、キリト君を見習うと良いと思う。彼はとても心が強く、だから負けないのだと思う。
私の場合、『サクラダリセット』の主人公、浅井ケイのようでありたい。春埼美空に「ケイ」と呼び捨てにされたいものだ(最近、かなり春埼萌えである(^^ゞ  )。












当ブログ著者、KayのAI書。
自動車の運転をするために覚えるべきことは、機械工学や熱力学ではなく、アクセルやブレーキやシフトレバーの使い方です。
同じように、AIを作るために覚えるべきことは、数学やプログラミングやAI理論ではなく、問題を推測問題に捉え直し、データを適切に整え、AIのパターンを選ぶことです。
技術者でもない人が、的外れな努力をしても、AIを作り、使えるようにはなりません。
この本では、AIの作り方を、普通の言葉で普通に理解出来る方法で身に付け、楽しい実習で応用出来るよう工夫しました。
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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