ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

聖書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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真言の謎

昔、スウェーデンに、エマニュエル・スウェーデンボルグ(スウェーデンボリ。1688~1772)という万能の天才がいた。
彼は、科学技術、政治、芸術、霊界研究などと共に、聖書の解釈にも力を入れたが、聖書に関する、彼の、ある指摘が興味深い。
それは、アダムとイヴが楽園を追放された後、カインとアベルという兄弟が生まれるが、カインはアベルを殺し、アダム達のところからも追放される。
ところが、カインは、自分が他所の土地の者に殺されることを恐れた。
もし、アダムとイヴが唯一、神に作られた人間なら、他に人間がいるのはおかしなことになる。
つまり、全ての人間がアダムとイブの子孫ではないということだ。
このことを、特に、スウェーデンボルグは指摘したのである。

では、日本ではどうかというと、同じなのだ。
天皇家に関しては、一番元の先祖は、イザナギ、イザナミであり、イザナギが最後に生んだアマテラスオホミカミ(天照大神)の子孫が天皇である。
ところが、アマテラスオホミカミの弟スサノウが高天原を追放されて地上に降りた時、地上には、地上の神である国津神(くにつかみ)がいた。
ただ、国津神は、イザナギ、イザナギが生んだ、沢山の神々や、その子孫であると思われるので、いたとしても不思議はない。
ところが、『古事記』では、人間の起源が分からないのである。
ギリシャ神話では、プロメテウスが土から作ったものにゼウスが息で命を吹き込んで人間が出来たことになっていて、これが一番分かり易い。

だが、聖書でも、古事記でも、記述されていないが、神は、いろいろな場所で人間を作ったのだと思われる。
すると、我々一般人は、神の直系の子孫ではないということになる。
ただ、神の生命は込められて持っているのだ。
聖書でもギリシャ神話でも、人間の生命は、神が息とともに吹き込んだものである。
『古事記』では、そのような記述はないが、息によってかどうかはともかく、神の生命を人間に与えたことは間違いない。

仏教は、神は登場するが、神は、ただ、ずっと昔から存在している貴いものとして扱われている。
そして、人間が仏(仏陀、如来)になることが仏教の主題である。
仏、神、人間の起源ははっきり述べられていないが、やはり、最初に神がいて、神が人間を作ったのだろう。その人間には、やはり、神の生命が入っている。
その人間が、神のような存在になれば、それが仏なのであるが、いったん人間になってから神に戻った者を仏というのだと思われる。
そして、そんな、人間の経験を持つ神である仏が特別扱いされている。
神にとって、いったん、人間になること、あるいは、神の生命が人間に入って生きることに意味があるのだ。
ただ、人間に入った神は、力を大きく失うので、自由自在ではなく、苦労をする。
そこで、人間が、神の力を取り戻す手段が設定されているのである。
それが真言であるが、真言の基本は念仏なのである。
念仏とは、本来、阿弥陀如来(阿弥陀仏。阿弥陀。アミターバ)の名を唱えることだ。
そして、他の仏の名を唱えたり、阿弥陀や他の仏を讃える言葉(これが、各仏・菩薩の真言だ)にも、それに近い力があり、それらは全て真言である。
なぜ真言に力があるのかというと、簡単に言えば(簡単に言うしかないが)、真言の中に、人間が神の力を回復させるプログラムが組み込まれているからだ。
そんなわけで、念仏や、真言や、様々な仏・菩薩の名(この名自体が真言であるが)を唱えるほど、神の力を取り戻せるのである。
仏教は、人間が神の力を取り戻す直接的な方法が述べられている点が特殊で、本来、分かり易く、有り難いものである。

ところで、経緯は分からないが、般若心経の呪文という特別なものが人間に与えられている。
般若心経の呪文は、念仏のような真言とは、やや機能が異なるが、ダイレクトに神の力が発動する特殊な呪文、あるいは、真言である。
よって、これを唱えると、特に、保護の力が強く、安全である。
その呪文は、サンスクリット語では、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
で、中国語に音写されたものが、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」
であるが、どちらも威力は同じだし、正直、少々言葉が違っても調整されて、間違いなく力が発揮される仕組みはある。それは、多くの聖者や研究者が確認していることである。
人間が、神の力を取り戻す、実践可能な簡単な方法は、真言だけである。
他にも方法はあるが、有効ではあっても、効果は少ないのである。
よって、真言を大いに唱えるべきで、その中で、般若心経の呪文は、この世において直接的な効果が高いので、唱えることをお勧めする。








仏典が正しい不思議な理由

この世界が、宇宙人か高次元生命体かは分からないが、そんな者達のコンピューター(のようなもの)が作り出す仮想現実世界であるシミュレーテッド・リアリティであるとする。
実際にそうなのだが、信じられない場合は、まあ、仮の話としておいて欲しい。
そして、以下は、この仮想世界の仕組みに関わることで、公言することは禁忌(道徳的、科学技術的に禁止されていること)であったのだが、もう分かることなので、バラしてしまう(笑)。
尚、芸術家や哲学者の中には、科学技術が分からなくても、知っていた者は、昔からいた。

仏教の経典、つまり、仏典について考えてみる。
仏典に書かれていることは正しいだろうか?
だが、その質問はおかしいのだ。
仏典は正しいに決まっていて、間違っているはずがない。
なぜだろうか?
ちょっと変なことを言うが、
「仏典に書かれているから正しい」
のではない。
「正しいから仏典に書かれている」
のだ。
もう少し、世間的な言い方をすれば、
「あなたが読んだから正しい」
のである。いや、あまり世間的に感じないかもしれないが・・・
仏典は、あなたが読むまで正しくなかった・・・と言うより、あなたが読むまで、何も書かれていなかったのだ。
これが、仏典に関する、この仮想世界のルールである。

サルトルが言ったことを引用するなら、
「本を読むとは、本を書くこと」
であり、あなたが読む時に、あなたが一瞬で書くのである。
同じく、絵は、見る時に、あなたが一瞬で描くのであり、あなたが音楽を聴く時に、あなたは一瞬で音楽を創造するのだ。

我々は、脳機能の制約により、自分の外に世界があると思っているが、全ては内側にあるのである。
その中で、あなたは、仏教以外の大抵の聖典には、虚偽を含ませて再現するが、仏典に関しては、正しいことしか再現出来ない取り決めがある。
もっとも、虚偽があると言っても、虚偽の因子もあなたの脳の中にあり、虚偽だから値打ちがないというのではなく、何らかの意味があるのである。
だが、仏典には嘘がない。
もちろん、仏典だって、読めば荒唐無稽に思えたり、作り話に思える部分もあるだろうが、それも含めて、今、あなたが、正しいこととして書いたのであり、実際、正しい。
もし、作り話に思えるなら、こう考えると良い。
「私は今、なぜ、作り話のようなことを書いたのか?」
参考に言うと、聖書の場合は、少し違った考え方の方が合っている。
それは、こうである。
「私はかつて、どんな意味でこれを書いたのか?」
つまり、聖書は、自分を過去に引き戻す作用がある。
一方、仏典は、現状である。
しかし、実際には、時間は幻想のようなもので、実際には存在しないし、仏典とその他の聖典の違いについても、どうせ理屈では分からないので、あまり気にしない方が良いかもしれない。

そして、仏典である華厳経にも法華経にも観無量寿経(浄土三部経の1つ)にも、仏の名を呼べと書いてある。
つまり、あなたが今、そう書いたのだ。
主には、阿弥陀如来と観世音菩薩の名だ。
よって、それらの仏・菩薩の名を呼べば、この世界で自由自在である。
そんな仕組みなのだ。
江戸時代の無学な念仏者達は、それを夢か宇宙人に教えてもらい、この上ない自由を得た。

仏や菩薩の名について述べる。
「アミターバ(阿弥陀如来)」と呼ぶか、敬いの気持ちを込めて「南無阿弥陀仏」と呼んでも良い。
「アヴァローキテーシュヴァラ(観世音菩薩)」と呼ぶか、敬いの気持ちを込めて「南無観世音菩薩」と呼んでも良い。
そして、仏典が正しいのだから、そこに出てくる仏の真言を唱えると、仏典に書かれた利益は確実である。
そのようなわけで、科学的に言っても、真言を唱えることを勧めるのである。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」であり、観世音菩薩の真言は「オン、アロリキャ、ソワカ」である。
その他の、仏、菩薩、明王などの真言も全て良く、書籍やWebサイトに載っているので、どれを唱えても効果は同じである。
上下、優劣、一切ない。

今回の話の理屈が分かれば幸いであるが、別に分からなくても問題ない。
ただ、これが正しいのである。
理解したい場合、エマーソンのエッセイ『歴史』『自己信頼』(『精神について』に収録)が参考になると思う。また、引き寄せ関連の本は、真理そのものではなくても、真理の周辺のことを書いている場合がある。まあ、だから混乱するのであるから、あくまで参考にすると良いのではと思う。












自分に相応しい富のイメージを得る

昔は、富をイメージし易かった。
大昔、富のという概念が出来たばかりの頃は、その富のイメージは、家畜の数、農地の広さ、奴隷や兵士の数だった。
想像力が強い者は、壮大な農地や牛や羊の群れ、そして、農園で自分のために働く大勢の奴隷や、出来るだけ多くの兵士を思い描くことで、それらを得ることが出来た。
やがて貨幣経済になり、金や銀が富のイメージで、日本文化が花開いた江戸時代には、小判と千両箱が最良の富のイメージだった。
その江戸時代なら、沢山の小判や千両箱を、そして、百年ほど前までは、札束を思い描けば金持ちになれた。

では、今は何が富の象徴かというと、ドナルド・トランプの場合は不動産だったが、これはやや古いし、誰にでも縁のあることではないが、やはり、良い富のイメージである。
IT時代になると、最初の頃は情報を集め、操作することだったし、やがて、情報をうまく管理することが富になることが分かった。
ただし、情豪をエネルギーや物質に変換出来るように管理しないといけない。
ゴミのような情報も、使い方次第で富になるのであるが、ここらは専門的な話になる。
このようなこと(情報を富に変換する)は、基本は、初期のマイクロソフト(あるいはロータス)と今のグーグルでも同じだが、情報収集とその管理方法が飛躍的に進歩したのだ。

このような中で、現在は、どんなふうに富をイメージすれば良いだろう。
人間はイメージ出来ないものを得ることは出来ない。

ゲーム好きでイメージ力のある者なら、現実空間の中に、「クレジット」というステイタスバーが出現している様子を想像し、そのステイタスが大きくなった様子をビジュアライズすれば良いだろう。
ただ、この場合でも、潜在意識の力を発動させるためには、心の純粋さ、強さ、安定性といったものが必要である。
20~30年ほど前から、魔法とゲームを組み合わせたようなゲームやアニメ作品がよくあるが、あれは製作者のイメージを表したもので、これらの製作者はやはり金持ちである。
では、ゲームをやることが現実世界でのステイタスを向上させる役に立つかというと、役に立つが、それには、質の高いゲームをしなければならない。
実をいえば、ゲームと潜在能力との関連性は、大学などの研究機関や、営利企業の事業のための目的でも、かなり研究されている。
そして、優秀な事業家の中には、ゲームプレイヤーも増えているのである。
とはいえ、これは単に、現在のゲームがイメージの媒体として優れているというだけで、必ずしもゲームである必要はないし、また、逆に、ゲームがイメージ力を損なう場合も多いのである。

一般的には、イメージの宝庫と言える優れた文学を読むことは、やはり良いだろう。
聖書、ギリシャ神話、ラーマーヤナやマハーバーラタ(バガヴァッド・ギーターを含む)、古事記、法華経や観無量寿経などは、宇宙にも匹敵する超イメージ空間が込められている。
そして、本来、科学は、それらを解き明かすために役に立つはずのものだが、現代の科学の扱い方では、かえって、それらのイメージを崩壊させている。
そこで、例えば、古事記を丁寧に、あまり何も考えずに読むと良い。
お好みによっては、ギリシャ神話でも聖書でも良い。
ちなみに、ギリシャ神話では、格調高い、ホメロス、ウェルギリウスなどが良いが、読み易さを考え、ヘシオドスの『神統記』、それに、著者不明だが『ホメロス讃歌』や、その中の『四つのギリシャ神話』が良いと思う。
ただし、それらを文学として楽しむだけでなく、現実の力に変換する思想やイメージを得なければならない。
それで言えば、ネヴィル・ゴダードの『新装版 世界はどうしたってあなたの意のまま』を手掛かりに、聖書読むことがお薦め出来ると思う。聖書は実は科学的な書物である。
また、どう言っても、日本人には古事記であるかもしれない。








全ての聖者賢者の教えは同じ

古代から現在に到るまで、全ての聖者、賢者が説く、幸福になる方法は同じである、つまり、1つしかないことに気付いてしまった。
これは、人生のあらゆる面を含み、細かく言えば、引き寄せの方法も入っている。
その方法は、「神にまかせる」である。
この「まかせる」は「頼る」という意味でもある。
ところが、「神」について、ややこしく考える人は厄介なのである。
私もそうだが、よく、「神という言い方に抵抗があれば・・・」とか、「神を現代的に言えば・・・」などと言うが、普通の家庭の素直な子供が考える神が解れば良いと思う。
「普通の家庭」とは何か、「素直な子供」とは何かと言い出す人は、他を当たっていただけると良い。

幸福になるには「神にまかせよ」以外のことを言う聖者、賢者は1人もいない。
逆に言えば、これ以外のことを言うなら、それは聖者でも賢者でもない愚か者である。
では、どう考えても、努力の大切さを説いたとしか思えないサミュエル・スマイルズの『自助論』はどうだろう?
全く同じである。
あれは、神にまかせる心構えを作るためのもので、若者向けである。
勝手きままで、怠惰な人間ほど、神に頼ることが出来ないのである。
例えば、飲んだくれのロクデナシに、「君は神を信頼して全てまかせる気があるか?」と尋ねたら、
「てやんでえ、神が金くれるってのかい?」
「もちろんでさあ。神様、働かなくても酒を飲むお金ちょーだい」
などと言うだろう。
いずれも、神にまかせる気など全くないことが分かる。
では、狂信的な信仰者に同じこと(神を信頼してまかせるか)を尋ねればどうだろう?
「はい、そのためには戒律を守らねばなりません。我々の戒律の通りの生き方をしない者を神は助けてくれません」
「いえ、私は身を捨てて信仰しております。神を頼ったりはいたしません」
などと言うだろう。
これらも神を信じていないのである。
神を頼るのに戒律は全く関係ない。
では、神を頼れば、悪いことをしても良いのかというと、神を頼れるのに、悪いことをする必要など全くない。
「いや、場所によっては、泥棒、強奪をしなければ生きていけない」
と言うなら、全くその通りで、誤解を恐れないまま言えば、神を頼りながら泥棒をすれば良いのである。
そうすれば、逮捕されたり、報復されたりして、酷い目に遭うかもしれないが、神がうまく取り計らってくれるのである。

とにかく、幸福になるためには、神にまかせれば良いという考えに例外を見つけることは全く出来ない。
このことには、私もかなり驚いた。
アメリカ合衆国の公式標語は、「In God We Trust(我々は神を信頼する)」だが、現代の多くのアメリカ人はそれを忘れてしまっているように思える。
2400年前の中国の賢者、荘子は「是非好悪の判断を捨て、一切をなりゆきにまかせろ」と言ったが、これこそが正しい神にまかせる方法である。

「南無阿弥陀仏」の念仏はまさに、阿弥陀如来という仏ではあるが、絶対神と同じ概念の無限の存在に全てまかせるという意味である。
これと同様、我々は、神に一切をまかせることを心に覚え込ませるような、アファーメーションや自己暗示を行えば間違いない。
現代インドでは、ナーマスマラナという、神の名を唱えることが唯一の救いの道と説く教えがあるが、これも、神を頼る心構えを作る良い方法である。
「自分を信じる」という言葉があるが、これは、欲望まみれの自我である自分を信じるのではなく、無我、忘我、没我になった自分、即ち、神を信じるということだ。
いかなる賢者の教えも理屈で説明出来るが、理屈の説明には誤解や齟齬がつきものだ。
それよりも、神にまかせるアファーメーションをした方が良い。
ただ、若いうちに、上に挙げた『自助論』を読んでおくのは良いことである。
アファーメーションとしては、やはり、「神の奇跡が起こる」をお薦めするが、他にもいろいろあるだろう。
「神は道なきところに道を作る」
とか、聖書にあるように、
「私を強くして下さる方によって、私は何でも出来る」
「神が我々の味方なら、誰が我々に敵対できようか」
と言っても良い。
誌的には、旧約聖書の、
「私は山に向かって目を上げる。わが助けはどこから来るだろう?」
という言葉が好きな人もいる。
他にも、聖書の詩編23と91を読むと良いだろう。
このいずれか、あるいは、両方を毎日読めば不安はなくなるだろう。








聖典は無限への扉を開く鍵

キリスト教には『聖書』、イスラム教には『コーラン』がある。
一方、仏教には、非常に多くの経典があり、どれが一番かは言い難いが、真面目に読むなら、どれも同じと言ったら怒られるかもしれないが、私はそうだと思う。
ところで、日本人は昔から無宗教と言われるが、神道が根付いていると思われる。
その神道には聖典はないが、『古事記』がそうであると言えなくもない。しかし、『古事記』は「聖典」というのとは違うかもしれない。
とはいえ、神道において『古事記』は重要な書だろう。
中国の儒教や道教は、キリスト教や仏教のような宗教とはちょっと違ったものだと思う。
だが、そもそも、イエス・キリストや釈迦は宗教を作るつもりだったのではない。
そして、『論語』や『老子』は、やはり「聖典」というのではないと思われる。
ところが、実は、『聖書』や『コーラン』も、「聖典」という言い方が不適切なのかもしれない。

これら、特別な扱いを受ける書の価値は計り難い。
至高の英知が秘められていると考える者もいれば、「たわごと」が書かれてるとみなす者もいる。
そのどちらが正しいとも言えない。
読む人次第ということかもしれない。
だが、ここでは、これらの書物は、鍵であると考える。
人間の思考を超えた英知と力に通じる鍵で、この鍵を通し、人間は無限のエネルギー、あるいは、精神に触れることが出来る。
コンピューターのオペレーションシステム(OS)における管理者(アドミニストレーター)パスワードみたいな感じもあるが、この宇宙の管理者パスワードは、普通のコンピューターのような短い単語ではなく、何らかの精神的なものだと思われる。
この鍵は、精神の中に構築するものであり、上記のような書を、教会などが説くようにではなく、本当の意味で理解することで、それを成し遂げることが出来る。
この「本当の意味で理解する」とは、理屈で分かることではなく、ペーパー試験で理解度を計ることは出来ず、あくまで心の(あるいは魂の)問題であり、本当は子供でも解るのだが、大学院を出た大人でも(そんな大人ほど)解らないことが多い。
ただ、虚心に繰り返し読めば解る。

だから、大きな力を持った人間は、毎日、決めた時刻に決めた時間、上記のような書を読む者が多いのである。
実際、毎日、10分でも『聖書』を読むという人に、全く力を持たない人はいないし、むしろ、そんな人であれば、かなりの力がある。
もちろん、それが、『コーラン』であっても、『法華経』、『老子』、『古事記』であっても同じだし、比較的、俗書と考えられる『論語』でも、そうなのではないかと思う。

個人的には、『古事記』では、鈴木三重吉の『古事記物語』が好きだ。
これは、子供でも読めるように簡略化してはいるが、鈴木の文章は格調高くて美しく、大人が読むにも十分に値すると思う。
あるいは、天才作家の福永武彦による、リズムが素晴らしい『古事記』や、やはり、子供向きに書いた『古事記物語』も良いと思う。

『聖書』には、非常に多くの和訳があるが、私がお薦めするのは2種類だ。
1つは、新約聖書の中の福音書であるが、塚本虎二の『新約聖書 福音書』だ。
これは、塚本が、昭和19年10月21日に、14年をかけて翻訳を完了したものだ。
分かり易い口語訳を目指したもので、今読んでも、実に分かり易く、つまづかずに読める。
もう1つは、宣教師として来日したイタリア人のフェデリコ・バルバロが、日本語を学んで、自ら日本語で書いた聖書だ。
外国の人が書いた分、むしろ、いやらしい言い回しがなくて分かり易いかもしれない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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