ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

聖書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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神話はこの世界(メタバース世界)の操作マニュアル

結局、引き寄せというのは、この世界であるメタバース(※)を動かすシステムの操作技術のことだ。
※メタバース・・・メタ(超)・ユニバース(宇宙)の略語。コンピューターが作る3次元仮想空間のことであり、我々が居る世界はメタバースと考えられる。

我々の多くが、閉塞感や不安を感じているのは、まず、この世界が物質世界であって、思うようにならないと信じているからだ。
そこで、この世界がメタバースであることや、それを動かすシステムの操作方法が分かれば、安心し、幸福を感じるだろう。
最初に言ったように、このメタバースシステムの操作技術が引き寄せだが、引き寄せは特権のある者しか出来ないことではなく、また、そのやり方は、別に隠されてもいない。
引き寄せの方法は、神話の中に明かされていて、実際、神話が消された国では誰も引き寄せが出来ない。
自分では聖書や古事記を読んだことがなくても、間接的に内容を知れば、ある程度の引き寄せは出来るが、あまりうまく出来ない。
また、聖書や古事記の誤った解釈を知ったら、やはり、引き寄せがうまく出来ない。

聖書や古事記は何なのかというと、霊界の話・・・つまり、上位メタバースの話で、我々の概念で言えば、精神世界の話だ。
あまりに個性的に書き換えられていない限り、読めば、知性ではなく、心で理解出来、何となく引き寄せが出来るようになる。
昔は、子供でも、いくらかの古事記の内容を大人に教えてもらったので、かなり引き寄せが出来た。
もちろん、キリスト教国では聖書がそれに相当する。
インドでは、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』になるのだろう。
『ギリシャ神話』や『北欧神話』、それに、『アラビアンナイト』も、おそらく、そのようなものなのだろうと思う。

日本では、古事記は聖書のように宗教として扱われていないおかげで、余計な解釈を聞かされることがないことは良いことである。
読みさえすれば、知らず知らず引き寄せが出来るようになる。
昔はもっと、「古事記を読め」という人がいたが、今は滅多にいないし、古事記を読めば何が良いのかを言う人はさらに少ない。
古事記を読むことが良いことと理解している人も、何が良いのか理屈では説明し難いので、それは仕方ない。
しかし、やはり、古事記を読むのは、この世界というメタバースを動かしているシステムの操作技術の習得のためである。
他の国の神話を読むことも良いことである。
内容自体はだいたい同じなのだが、視点が異なるので、いろいろ読めば理解が深まるかもしれない。
しかし、中途半端にあれこれ手を出すと混乱してしまうことになるだろう。
とりあえず、自分の国のをしっかり読むと良いと思う。








あなたにも出来る宇宙人の技

『シン・ウルトラマン』という映画があるが、アマゾンプライムで配信されていたので一度観てみた。
娯楽映画だが、1つだけ、なかなか良い場面があった。
ザラブという宇宙人が、地球の特殊組織にあった電子機器を手も触れずに自在に支配する場面だ。
地球人が「どうやってるんだ?」と尋ねると、ザラブは「私が意図すればそうなる」と言った。
実際、人間だって進歩すれば、そんなことが出来る。
ただ、本当に進歩した宇宙人が、この映画のザラブやメフィラスのように、地球を支配しようだの、騙そうなどとはしない・・・というか出来ない。
そもそも、この映画の主要人物達のレベルが、人間としても低過ぎる。とてもではないが、リーダーの立場に立てる者達ではない。
これが製作者のレベルであろう。
まあ、娯楽映画だから、文句を言っても仕方がないが。

さて、上の「意図すればそうなる」は、別に電子機器だけでなく、この映画で「改ざんが出来ない」とされたアナログ情報や香り(浅見弘子の匂い)すら、操作・改ざんが可能だ。
さらには、出来事や人の思考も同様である。
まあ、「意図すればそうなる」のではなく、本当は、「意図すると同時にそうなる」で、感覚としては「意図する前にそうなる」のである。
聖書に、神は「呼ぶ前に答える」と書かれているようなものだ。
もちろん、全部、あなたが出来る。
ただ、我々が未発達なので、自分同様、未発達な支配者の相手になるしかなく、未発達な支配者は、あの映画の製作者達をコントロールし、あなたを低レベルに留める作品を作り、マスコミもコントロールして大ヒットさせたのだ。
あの映画を絶賛するような者は信じないことだ。あまり賢くないので。
まあ、「面白かった」と言うだけなら、別に構わない。

ザラブやメフィラス以上の「普通の力」を取り戻したければ、意図すると同時に実現する様子を、想像の中で何度も何度もやってみることだ。
例えば、石ころがパンに変わったり・・・いや、もっと面白いことを。
イエスに悪魔が「石をパンに変えてみろ」と言った時、イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉で生きる」と言ったが、神の言葉とは神の意図のことだ。
神が意図すれば何でもそうなるのだから当たり前だ。
そして、あなたが神なのである。
とにかく、それが分かるよう、想像の中で練習することだ。
コツは、自信満々でやることである。








聖書に書かれている完璧な奇跡の起こし方(決定版)

信念がいかに奇跡を起こすかを、新約聖書の福音書の中に見てみよう。

イエスの弟子ペテロが、他の弟子達と共に、湖の沖に浮かぶ船に乗っていた。
夜中に、ペテロは、湖の上を歩いてこっちに向かって来る人影を見て、幽霊だと思い、恐れて悲鳴を上げた。
すると、湖の上を歩く人は、「私だ。恐れるな」と言った。それはイエスだった。
その時、ペテロは、思わず言った。
「主よ。あなたが来いと命じて下されば、私にも出来ます。どうか命じて下さい」
それに応え、イエスは言う。
「私は命じる。来い」
それを聞くと、ペテロは湖の上に降り、イエスの所に歩いて行った。
だが、その時、強い風が吹き、ペテロは恐くなり、イエスに向かって叫んだ。
「主よ、沈みそうです。助けて下さい」
イエスは、ペテロの身体を掴むと言った。
「なぜ疑った。信仰薄い者(信念の弱い者)よ」

この短いお話の中に、奇跡を我がものとする秘訣が全て込められている。
ペテロが、湖の上を歩いているのがイエスだと分かった時、
「主よ。あなたが来いと命じて下されば、私にも出来ます。どうか命じて下さい」
と言ったのは、ペテロが考えて言ったのではない。
ペテロの潜在意識から、そんな想いが湧き出て、ペテロはその想いを言葉にして言ったのだ。
つまり、潜在意識(真の自分)は、「ペテロよ、お前にも出来る」と伝えてきたが、ペテロには、イエスの助けが必要だった。
それを見抜いたイエスはペトロに「私は命じる。来い」と言い、ペトロは潜在意識から来た想いを信じることが出来た。
信じれば、いかなることでも出来る。
それで、ペテロは湖の上を、イエスと同じように歩いた。
しかし、強い風が吹いた時、イエスのエゴ(自我)は、「沈むぞ」と言い、ペテロはそれを信じてしまった。
つまり、「自分は水の上を歩ける」という信念より、「そんなことが出来るはずがない」という信念の方が勝ってしまったのだ。

以上が分かれば、奇跡の起こし方は明晰だ。
まず、どうすれば信じることが出来るかだ。
ペテロは、別に、イエスが言ったから信じたのではない。
イエスはただ「来い」と言っただけだ。
ペテロに何が起こっていたのかというと、幽霊を見たと思ってパニックになったが、それがイエスだと分かって安心し、そして、イエスが湖の上を歩いているのを見て感動した結果、ペテロの思考が消えたのである。
その時、潜在意識の「お前にも出来る」という声が、言葉ではない直観としてペテロに伝わったのである。
つまり、奇跡を起こすには、思考を消せば良いのである。
思考を止めるには、私の勧める方法では、息の流れを止めれば良い・・・つまり、「息を飲む」状態になる。難しければ、微かな呼吸をすれば良い。他にも、沢山の方法がある。
だが、強い風が吹いて、ペテロは恐れ、それによって思考が戻ってきてしまったので、奇跡が途切れた。
この「強い風」は、あなたを疑わせる出来事の象徴で、「現実からの挑戦」とも言われ、あなたの信念を揺るがす出来事であり、そんなことが起こることが多い。
例えば、話を分かり易くするため、やや低レベルな喩えで言うが、可愛いあの子を必ず恋人に出来ると信じているが、彼女があなたに非常にそっけない態度をして、信念が揺らぐといったようなことだ。
そんな時、どうすれば良いか?
答は、旧約聖書のダニエル書に書かれている。
ダニエルは、ライオンのいる洞窟に入ってしまった。
だが、ダニエルは、ライオンに背を向け、太陽の方を見た。
つまり、悪い状況(ライオンがいる)から目を逸らして無視し、願いが叶っていることを意識する(太陽を見る)のである。

聖書は、開かれた心で読めば、引き寄せの最高のテキストなのである。








脳のリミッターを外す

脳に嘘のデータが入ると、脳の力には制限がかかる。
もし、脳に全く嘘のデータがなく、真実のデータのみが入っていれば、神のような力を発揮する。
ところが、「嘘のデータだって必要」という論がある。
それに関しては、こう考えると良い。
「嘘のラベルがついた嘘のデータは正しいデータ。真実のラベルがついた嘘のデータは嘘のデータ」であり、やはり、嘘のデータは脳の力を低下させるのである。
よって、あなたは、脳に真実のデータのみ入れなければならない。
尚、正しいということには、「真実」「真理」「真」「まこと」等といった言い方があるが、ここでは区別しない。

聖書や仏典や、その他の聖典は、読む者が、誤った解釈をすることで、脳に嘘のデータが入り易い。
さらに、宗教団体等によって、最初から、信者に誤った解釈を与える場合も少なくない。
また、悪意のない誤訳や転写ミスということもある。
ところが、脳は、いかなる間違いにも気付くのである。このことは、デカルトが『方法序説』の中で少し述べているが、そんなものだと思っていただけるとありがたい。
科学はどうかというと、前提理論を共有する者の間では真理であるが、前提理論は幻想とまでは言わないが、作り物である。
とはいえ、科学は必要なものなので、背を向けるわけにはいかないが、真理ではないので、脳に詰め込んでも、脳が神の力を発揮することはなく、むしろ、弱くなる場合が多い。

ゲーテやタゴールなどの詩も、十分に聖典に準じるが、彼らには育ちによる偏見がある分(つまり、彼らの脳にも誤ったデータがあった)、真理から外れていることが多いのだ。

脳に真実のデータを入れる良い方法として、何の解釈も加えることなく聖典を読むというものがある。
何の解釈も加えないと言っても、字面だけを追って読解しないという意味ではない。
モラルが崩れた今の人間には承服しかねるかもしれないが、とにかく「真面目に」読むこと、それだけだ。
素直な子供が、信頼する親や教師に読めと言われた時のように、思考のフィルターを通さずに読めば、真理のみが脳に入る。
子供が魔法のような力を持っていることは意外に多いのである。








真言の謎

昔、スウェーデンに、エマニュエル・スウェーデンボルグ(スウェーデンボリ。1688~1772)という万能の天才がいた。
彼は、科学技術、政治、芸術、霊界研究などと共に、聖書の解釈にも力を入れたが、聖書に関する、彼の、ある指摘が興味深い。
それは、アダムとイヴが楽園を追放された後、カインとアベルという兄弟が生まれるが、カインはアベルを殺し、アダム達のところからも追放される。
ところが、カインは、自分が他所の土地の者に殺されることを恐れた。
もし、アダムとイヴが唯一、神に作られた人間なら、他に人間がいるのはおかしなことになる。
つまり、全ての人間がアダムとイブの子孫ではないということだ。
このことを、特に、スウェーデンボルグは指摘したのである。

では、日本ではどうかというと、同じなのだ。
天皇家に関しては、一番元の先祖は、イザナギ、イザナミであり、イザナギが最後に生んだアマテラスオホミカミ(天照大神)の子孫が天皇である。
ところが、アマテラスオホミカミの弟スサノウが高天原を追放されて地上に降りた時、地上には、地上の神である国津神(くにつかみ)がいた。
ただ、国津神は、イザナギ、イザナギが生んだ、沢山の神々や、その子孫であると思われるので、いたとしても不思議はない。
ところが、『古事記』では、人間の起源が分からないのである。
ギリシャ神話では、プロメテウスが土から作ったものにゼウスが息で命を吹き込んで人間が出来たことになっていて、これが一番分かり易い。

だが、聖書でも、古事記でも、記述されていないが、神は、いろいろな場所で人間を作ったのだと思われる。
すると、我々一般人は、神の直系の子孫ではないということになる。
ただ、神の生命は込められて持っているのだ。
聖書でもギリシャ神話でも、人間の生命は、神が息とともに吹き込んだものである。
『古事記』では、そのような記述はないが、息によってかどうかはともかく、神の生命を人間に与えたことは間違いない。

仏教は、神は登場するが、神は、ただ、ずっと昔から存在している貴いものとして扱われている。
そして、人間が仏(仏陀、如来)になることが仏教の主題である。
仏、神、人間の起源ははっきり述べられていないが、やはり、最初に神がいて、神が人間を作ったのだろう。その人間には、やはり、神の生命が入っている。
その人間が、神のような存在になれば、それが仏なのであるが、いったん人間になってから神に戻った者を仏というのだと思われる。
そして、そんな、人間の経験を持つ神である仏が特別扱いされている。
神にとって、いったん、人間になること、あるいは、神の生命が人間に入って生きることに意味があるのだ。
ただ、人間に入った神は、力を大きく失うので、自由自在ではなく、苦労をする。
そこで、人間が、神の力を取り戻す手段が設定されているのである。
それが真言であるが、真言の基本は念仏なのである。
念仏とは、本来、阿弥陀如来(阿弥陀仏。阿弥陀。アミターバ)の名を唱えることだ。
そして、他の仏の名を唱えたり、阿弥陀や他の仏を讃える言葉(これが、各仏・菩薩の真言だ)にも、それに近い力があり、それらは全て真言である。
なぜ真言に力があるのかというと、簡単に言えば(簡単に言うしかないが)、真言の中に、人間が神の力を回復させるプログラムが組み込まれているからだ。
そんなわけで、念仏や、真言や、様々な仏・菩薩の名(この名自体が真言であるが)を唱えるほど、神の力を取り戻せるのである。
仏教は、人間が神の力を取り戻す直接的な方法が述べられている点が特殊で、本来、分かり易く、有り難いものである。

ところで、経緯は分からないが、般若心経の呪文という特別なものが人間に与えられている。
般若心経の呪文は、念仏のような真言とは、やや機能が異なるが、ダイレクトに神の力が発動する特殊な呪文、あるいは、真言である。
よって、これを唱えると、特に、保護の力が強く、安全である。
その呪文は、サンスクリット語では、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
で、中国語に音写されたものが、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」
であるが、どちらも威力は同じだし、正直、少々言葉が違っても調整されて、間違いなく力が発揮される仕組みはある。それは、多くの聖者や研究者が確認していることである。
人間が、神の力を取り戻す、実践可能な簡単な方法は、真言だけである。
他にも方法はあるが、有効ではあっても、効果は少ないのである。
よって、真言を大いに唱えるべきで、その中で、般若心経の呪文は、この世において直接的な効果が高いので、唱えることをお勧めする。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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