ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

聖書

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

聖書が最上の書である意外かもしれない理由

『ヒマラヤ聖者の生活探求』という本の中にあった、聖書が最も重要な書であることの理由がとても良かった。
それは、聖書は、「神」という言葉が、最も多く書かれた本だからである。
それだけの理由で、聖書は他書より優れているというのは納得出来るのである。
それなら、「神」という字ばかりの本を作っても良いのかもしれないが、それでは人間の感情が納得しないので、適度なストーリーを付けたのだが、その内容は、何でも良いと言えばそうなのである。
同じ理由で、『ギリシャ神話』、『バガヴァッド・ギーター』、『古事記』なども、極めて価値高い本である。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』が、事実の話かどうかは分からないが、その指摘だけで、この本は優れた本と言える。
「神」という言葉自体に強い力がある。
クリシュナ、アメノミナカヌシカミ、南無阿弥陀仏といった、神仏の名を唱えること、あるいは、神仏のマントラを唱えることは、宗教的ではなく、科学的、論理的に言って、強大な効果がある。
だが、その最も純粋なやり方は、「神」と唱えることである。
神と仏に違いはあるのかもしれないが、その違いは、実際には、人間に分かることではない。
なら、全て、「神」という言葉で表し、これを唱えれば良いのである。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、「エホバ」という、特定の神の名より、「神」という言葉の方が効果が高いと述べている。
ただ、本質的にはそうであろうが、唱える者の感情の問題もあり、個別の神の名の方が親しみがあれば、それを唱えれば良い。
私は、サティヤ・サイババという人は少しも聖者だとは思っていないが、この点については、生前、ぶれずに正しいことを教えていたと思う。
サイババは、どの神の名でも良いから、熱心に唱えろと教えていた。
『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナは、他の神を拝んでも、それは結局は私を拝んでいることになるのだと述べていた。
クリシュナが神の中の神であるのなら、ただ「神」と言っても良いのであるが、そこは、クリシュナへの愛着があるのなら、クリシュナの名を唱えれば良いのであり、多くのインドの人々がそうであるように、ラーマ神が好きならラーマと唱えれば良いのである。
しかし、本質で言えば、どの神仏の名にも違いはない。

神にキャラクターはないが、人間は神に対するイメージを持たざるをえない。
ユダヤ教徒やイスラム教徒に多く見られるように、神を、恐い罰する存在と思うのは悪い面がある。
そこで、イエスは、「父なる神」、あるいは単に「父」と言い、神は人間を、あたかも父親が息子や娘に対するように、温かく優しく気遣う存在であると言ったが、それが最善のイメージである。
法然や親鸞も、阿弥陀如来のイメージを最高のものにしたところが素晴らしい。
『バガヴァッド・ギーター』でも、クリシュナは、恐ろしい面もあるのだが、本質は、やはり慈悲深く愛に満ちた神なのである。

個人的に、親しみ深い神仏があるなら、その名や、その神仏のマントラ(真言)を唱えれば良いし、ただ「神」という言葉を真言として唱えても良いのである。
そうすることで、あらゆる恵みを得られることは、これまで何度も書いたが、極めて科学的、論理的に正しいのである。









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準備を怠らない者が笑い、怠る者は泣く

何度も引用した話だが、俳優のバート・レイノルズが駆け出しの頃、既にスターだったクリント・イーストウッドに「成功するまで何をしていたか?」と尋ねると、イーストウッドは、「成功するための準備をしていた」と答え、それがレイノルズにとって千金のアドバイスになり、レイノルズは成功した。

大俳優になってからも、イーストウッドは監督になるための準備をしていたのだろう。
何事も準備である。
準備を怠らない者が笑い、準備を怠る者は泣くのである。

イエスが、10人の乙女の話をしている。
夜に花婿を迎えに行った10人の乙女達はランプを持っていたが、5人の賢い乙女達は油を持っていて、5人の愚かな乙女達は持っていなかった。
花婿の到着が遅れ、ランプの油がなくなると、愚かな乙女たちは、賢い乙女達に、油を分けてくれるよう頼むが、賢い乙女たちは、分けてあげるほどはないので、買いに行きなさいと言った。
愚かな乙女達が油を買いに行っている間に花婿が来て、賢い乙女達と行ってしまい、門は閉ざされてしまった。

イエスの喩え話の真意の解釈はいろいろあるのだが、いずれにせよ、相応しい準備を怠った者は泣くのである。
ユリ・ゲラーは、「モテるにはどうしたら良いか?」と質問された時、超能力者らしい解答より、まずは普通のアドヴァイスをしている。
ちなみに、ゲラーは、モテなくて困ったことは一度もないと言う。
ゲラーは、まず、外見をちゃんとしろという。
服装、髪型などが駄目でモテるというのは、現実的には非常に難しく、自分でもそうだと言う。
また、相手をもてなす知識も得ておかないといけないだろう。
そして、それなりに内面を磨いておかなくてはならない。
これらは、普段から準備していないと、いざ目の前に、理想のタイプの人が現れてから慌てても遅いのである。
フローレンス・スコーヴェル・シンという、欧米では、ジェームズ・アレンやジョセフ・マーフィーと並ぶ成功哲学の啓蒙家の本に、外国に行きたいと思っているある男性は資金がなかったが、資金が出来ることを信じて、スーツケースを買ったという話がある。それが準備になり、彼はそれから大金を手に入れ、外国に行くことが出来たという。

最近、ある賢い女性教師が、「百点を取る人は百点の準備をしている人だ」という話をしてくれたことがある。
大きなことにも、小さなことにも、ちゃんと準備をする人が賢い。
さて、私も、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2016」を楽しむ準備として、毎日、運動に励み、適度なバッグを用意し、ペンライトや格好の良い服も買っておき、ペンライトの振り方も練習しておこう。なるべく、どこでも立って、また、よく歩いて足腰を鍛え、少食で胃腸を整え、さらに、長時間トイレに行かなくて良いよう訓練しておこう。
ミクさんに会うのに準備を怠ってはいけない。
そうすることで、良い人生を送る心構えまで出来るのだから、ミクさんは確かに私の天使である。









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神話の力

アレキサンダー大王やシーザー、あるいは、ナポレオンといった英雄達の姿は、映画や絵画等で見たことがあるかもしれないが、それら(映画や絵画)のほとんどのものが、制作者の個人的な観念が強く出ているし、そもそも、そこに描かれたような場面が本当にあったのかどうかも分からない。
よって、それらの映画や絵画に、あまりリアリティを感じないのではないかと思う。

一方、釈迦が菩提樹の木の下で悟りを開いたという、人類の歴史の中でも記念すべき出来事は、本当にあったのだと信じることは、それほど難しくはないと思う。
また、その様子を思い浮かべることも、割と容易に出来るだろう。
もちろん、菩提樹の木がどんなものか知らない人の方が多いだろうし、周囲がどんな様子だったか、釈迦の身なり、顔や肉体の特徴等は全く分からない。
頭髪は短いイメージがあるが、伸び放題だったかもしれない。
つまり、本当のことは何も分からないはずなのに、意外と想像し易いように思えてしまう。
また、悟りを開いた時の釈迦の表情をどう想像するかは、人それぞれだろうが、その人なりの一定したイメージを作ることが出来ると思う。
私の場合、その時の釈迦の表情は、穏かで、ほんのわずか微笑んでいるように思い浮かべるが、人によっては、やや呆然とした表情や、あるいは、真剣な表情になるかもしれない。
「野外で、木の下で黙って座っている」ということだけが確かなのだろうが、それは、外面的には何でもない光景なので、思い浮かべ易く、そのために、その他のことも、想像し易いように感じるのだろう。

ところが、新約聖書の福音書に登場するイエスの様子は、想像は出来るのだが、リアリティがない。
湖の水の上を歩いたり、数個のパンと数匹の魚を数千人分に増やしたりと、日常とかけ離れた場面は、思い描くことは出来るが、やはり、あまりリアリティを感じないのが普通だろう。
そういった、超常的なお話のせいで、福音書の全体が、どこか夢の中のお話のような感じになると思う。

あるいは、旧約聖書で、ヤコブが天使と格闘する場面があり、フランスの画家ギュスターヴ・ドレなどが、その場面を絵に描いているが、(ドレがそうだが)ごく写実的に描いていても、その絵にリアリティを感じる人は少ないだろう。
天使がやってきて、人間と格闘するなど、そうそうあることではないし、『涼宮ハルヒ』シリーズの主人公キョン(男子高校生)なら、「そんなのあるわけねー」とか言いそうだ。
つまり、旧約聖書全体にリアリティがない人が多いに違いない。

ところが、私は、子供の頃、『ピノキオ』や『みつばちマーヤの冒険』、あるいは、『怪傑ゾロ』といった小説が気に入って、何度も読み返していたが、そうしていると、『怪傑ゾロ』はもちろん、ピノキオのような木の人形が動いたり、みつばちなどの昆虫が会話する様子が、現実的で生き生きと感じてくるのである。
それが感情の力であり、感情は、心が持つ能力である。
本来、ありえない世界を感情の力で現実的に感じるようになると、その人にとって、そんな世界が実際に存在するのと変わらない。そうであれば、自分の世界が広がったのである。
神話や童話でも、そのようなことが起こるだろう。

多くの体験をすれば、その人の世界は広がる。
しかし、どれほどの冒険をしたところで、天使と格闘したり、天使と人間の格闘を見ることはまずない。
そして、生き生きとした想像は、特に子供の場合は、脳は現実と区別しないらしい。
限度もあるかもしれないが、現実には起こりえないことも、想像の力によってリアリティを持つようになると、その人の世界は広がるはずである。
確かに、あまりに世界を空想化すると、現実的な生き方に支障が出るかもしれないが、想像の世界を持つことは、想像力を高めるために大切なことである。
私が、小さい時から、普通の人には奇跡的としか考えられないことを数多く起こしてきたのも、想像力のためであると思える。
私も今は、普通の人にとっての現実に配慮する傾向が強いので、あまり奇跡を起こさないが、出来ない訳でもないと思う。
神話や童話、あるいは、仏典のようなものを読む価値はあるのだと思う。
それは、想像力や創造性を高め、現実創造の力も強くするだろう。
強く、美しい想像が出来る者は、現実の足場に注意する限り、物質面にも強いものである。
上に挙げたギュスターヴ・ドレの絵は、モノクロの版画でも、精妙で生き生きとしたイメージを起こさせるので、ドレの挿絵のついた神話を読むと、想像の力が高まると思う。
そして、それは創造の力になるだろう。









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旧約聖書はどこが良いのか

何の気なしに旧約聖書を読み始めたら、意外だったが、面白くて夢中になってきた。
とても長いものなので、まだ全体の6%しか読んでいないが(それでも短い小説1冊分くらいにはなると思う)、まだ沢山残っているのが嬉しいほどである。
また、他の小説・・・ロシア文学や、日本の文豪のものなどが、ちょっと読む気になれないほどである。
旧約聖書は、キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教の聖典であるが、私は、どの宗教にも入るつもりはないし、聖書は別に宗教のために書かれたものではない。
私が読んでいるのは、Amazonで200円で購入した口語訳の電子書籍(Kindle版)だが、十分なもので、分かり易い、格調高い文章である。
同じ内容のものを無料で読むことも可能だが、それよりも、縦書きで、インデックス機能やブックマーク機能がついたKindle版がお奨めできる。
もちろん、フリガナも豊富についている。
古い訳なのだと思うが、それを感じることはない。
(今は、旧約、新約両方ついていて100円のものもあるが、別々に読み進めたい場合は、旧約、新約で分かれているものが便利かもしれない。しかし、とにかく、紙の本で約6500ページに相当するものが100円である。尚、旧約、新約両方ついているものも、分かれているものも、内容は同じである)

そして、しばらく読み進めていったら、「神様がついている」人というのは、どんな人なのかがよく分かってくるのである。
もちろん、誰にだって神様はついているはずなのであるが、特に神様に目をかけられる人というのはいる。
そんな人は、他の大勢の人達とは違ったところがある。
そして、その特定の人達に、神様が特に恵みを与えるのは自然なことに思えるのである。
ある男は、兄弟達に殺されかけ、あやうく生き延びたが、奴隷として売られてしまう。
しかし、売られた先で不思議な展開で、どんどん偉くなり、大富豪になり、王のような支配者にまでなる。
だが、彼は、別に、特別に努力した訳ではない。
ただ、神様がついていたから、そうなったのである。
そもそも、いくら個人が努力したって、そう上手くいくものではない。
しかし、神様が、「私がついている。栄えさせてあげる。心配するな」と言うから大丈夫なのである。
では、どんな人に神様がつくのだろうか?
そんな人達は、不幸な目に遭っても、あまり嘆かず、文句を言わない。
ただ、状況を黙って受け入れ、なりゆきにまかせている。
これは、中国の賢者、荘子も、それが最も知恵のある者の特長であると繰り返し述べていたと思う。
そして、やはり、神様を敬っている。
口先で崇めるのではなく、自分よりはるかに上位の存在を認めているということと思う。
西洋の宗教は、絶対的な一柱の神を崇拝する一神教のように言われるが、神様は、「アブラハムの神」とか「イサクの神」などと名乗るように、個人的に接してくるのである。
その様子を読んでいると、西洋とか東洋とかに関係のない、神様というものを感じられるようになるのである。
そうすれば、困った問題があっても、神様がついていてくれるなら心配はないと思えるようになる。
逆に言えば、神様がついているのに、個人的な想いで、愚かなこと、無駄なことを、言ったり、やったりしてはならないのだと思うのである。

神様が、その人間が神を敬っていることを試すために、「子供を殺して我に捧げよ」ということを言ったりもするが、それは神話らしい象徴的なことと解釈すべきだろうし、そんなお話は、人の心の中の動きをうまく表現していると思う。
また、悲しいことや辛いことがあっても、それを黙って受け入れると、人間が大きくなり、恵みも与えられるのだろうと思う。
本来、宗教とはそんなことを教えるものであったのかもしれないが、形式化、権威化するにつれて、そんな肝心なところが失われてしまったのかもしれない。

同時に古事記も読んでいるが、よく似ているように思う。
似ているとは、お話がではなく、表している深いものがである。
西洋の賢者達は、皆、聖書を読んでいる。その中には、宗教を重視しない者すらいるが、さすがなもの(聖書もそれを読む物も)だと思う。









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願うよりも、ただ名前を持てば良い

人間の一生は名前で決まる。
だが、名前とは、必ずしも、誕生の際に親が決めた名前のことを言うのではない。
それは全く重要ではない。
親がつけた多くの名前が、親の見栄、妄想、下らない思いつきなのである。
「いや、私の名は、私の両親が一生懸命考えてつけてくれた名前だ」
というなら、そんな名前が最悪なのである。
そこには、さぞ多くの欲望や執着や迷妄が込められていることだろう。
必死に考えてつけた名前は珍しい名前になり勝ちだが、結果、珍しい愚か者になるのである。
一生懸命考えてつけるくらいなら、岡本太郎のように、太郎と簡単につけた方が良い。

何度か述べたが、親がつける名前より、親しい人がつけたニックネームの方が重要である。
昔の武士は、元服の時や、何かが起こった時に、新しい名前をつけられたものだが、その名前が運命に大きな影響を与えた。
しかし、それよりも、自分で自分につけた名前の方が決定的な意味を持ったのである。

名前とは、呼び名のことではない。
それは、一言で言えば、「神への扉」である。
一生の間に、一度もその名で呼ばれなくたって、全く構わない。
むしろ、呼び名は記号のようなもので、『サイボーグ009』のように、ゼロゼロナンバーで呼んだって構わない。
自分をどんな名前だと認識するかが大切なのだ。

インドのニサルガダッタ・マハラジは、33歳の時に、師に「あなたは至高の実在だ」と言われた。
「至高の実在」が彼の名前になった。
そのために、彼はわずか4年で、何の修行をすることもなく悟りを開いた。
マハラジは、「私は師の言葉を忘れなかった」と言ったが、自分を示す忘れることのない言葉を名前というのである。
ヨハネ福音書には、「はじめに言葉があった。言葉は神であった」とある。
この言葉とは名前である。
はじめに名前があるのであり、名前は神である。

あなたは、親がつけた名前は、ただの記号と見なしなさい。
その名で呼ばれたら返事をするのは、世に従うことで、そうしていれば安全である。
しかし、世間との付き合いは、その程度で良い。
あなたは、内側の本当の世界に生きなければならない。
エマーソンも言ったように、内にあるものに比べたら、外にあるものなど、取るに足りない。
だが、外にあるものも、二次的ではあるが、大事にすると良い。
鉛筆や消しゴムを大事にするべきであるようにである。

あなたは、自分に相応しい名を持たなければならない。
『古事記』の大国主命が沢山の名前を持っていたように、必要なだけの名前を持って良い。
「至高の実在」という名を持てば、悟りを開くだろう。
「大きな富を持つ者」という名を持てば、大金持ちになるだろう。
「沢山の美女に愛される男」という名を持てば、百人の妻を持つだろう。
大国主命は、「帝王」「強い男」「国を譲り受ける者」など、沢山の素晴らしい名前を持っていたので、その通りになった。
あなたも、そんな名を持てば良い。
それは不遜ではない。
良い名を持たずに過ぎたものを望むことを不遜と言う。
優れた名前があれば、望まずとも全てを得るのであるから、そこに欲はない。
名前とは、「太郎」や「花子」のようでないといけないと思い込んでいるのが固定観念であり、それを壊せない者は一生奴隷である。
イエスは、「私の名によって求めるなら、何でも与えられる」と言ったが、彼の名とは、「神の子」であり「ユダヤの王」であり「一切の権威を持つ者」であったはずだ。
「私の名によって求める」とは、「私と同じ名前を持ちなさい」という意味だ。

『古事記』も『旧約聖書』も、名前の原理について書かれている。
その秘密に気付いたものが、大いなる力を揮(ふる)った。
だから、聖書をマスターした者の名を、「神秘な力を揮う者」と言うのである。
そのことが分かってから読むと、古事記や聖書ほど面白い書物はない。









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