ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

聖徳太子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

さりげない奇跡を味方にする秘法

荘子が『荘子』(約2400年前の中国の古典)で書いた教えは、一言で言えば、「無為自然」だが、もっと普通に言えば、「全て、なりゆきにまかせろ」だと言って良いと思う。
荘子は、そうした結果、儲かるとも、モテるとも書いていないし、時には、わざと悲惨なことになるようなことも書いたが、少なくとも、安らぎは得られるし、実際は、かなり恵まれるようなこともほのめかしているのだと思う。
言い切ってしまえば、余計なことを考えたり行ったりせず、自然のなりゆきにまかせれば、そうでない場合より千倍も上手くいく。
だが、人間はいつも、下らないことを考え、しなくていことをして墓穴を掘るものだ。

では、なりゆきにまかせるとは、本当のところ、どういうことだろう?
山岸凉子さんの1980年から1984年の作品ながら、いまだ人気が高く、ロングセラーを続ける漫画『日出処の天子(ひいづるところのてんし)』に、良い話がある。
都に干ばつが続いていた時、厩戸王子(うまやどのおうじ。後の聖徳太子)が祈祷を行い、見事、雨を降らせる。
ところが、いったん降り出した雨が止まず、今度は水害が起こり、厩戸王子の責任が問われ、朝廷は、大臣達を集合させた中に、厩戸王子を呼びつける。
厩戸王子は、なかなか現れず、天皇もしびれを切らすが、ようやく厩戸王子が現れた時、雨はぴたりと止んで陽が差し、大臣達は思わず厩戸王子にひれ伏す。
厩戸王子は何をしたのかというと、実は、何もしなかった。
自分の責任が問われ、マズい事態になっていることは理解しながら、では、何をしようかとか、どう申し開きをしようとか、全く、何も考えていなかったのだ。
それで、気が向いたところで、屋敷を出て朝廷に向かったのだが、空を見ると、心なしか明るくなりかけたように思ったので、到着と同時に止むことを期待したら、その通りになったのだった。
いうならば、厩戸王子が朝廷に着いた時に雨が止んだのは、全くの偶然である。
だが、そんなことは、よくあるのだ。
「こうなればいいなあ」と思い、少し期待はするが、それほど強く願う訳でもなく、特に何もせずにいたら、期待通りになってしまう。
そういったようにやれば、そうそう期待を裏切られることはない。大切なことは、渇望しないこと、よって、焦らないこと、余計なことはしないこと、だが、ごく自然なことだけはやること。
それが本当に出来た時、奇跡も起こる。
そんな経験がない・・・いや、最近ないと思っている人は、単に、見過ごしているだけで、結構ありふれたことなのだ。
厩戸王子は、法華経、維摩経(ゆいまきょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)まどを仏教の経典を取り寄せて読み、注釈書を書いている。
維摩経や勝鬘経のことは知らないが、法華経の、あの気が遠くなるほどスケールの大きな話を読んでいるうちに、一切の作為を捨ててしまえるに違いない。
そうすれば、気付かないうちに、奇跡体質になってしまうような気がする。
もちろん、『荘子』を読んでも良い。中国では、『荘子』が仏典の中に入れられてしまっていることもあるが、やはり、仏教と通じるところがあるのだろう。












当ブログオーナー、KayのAI書。
Kindle版は発売中。紙の本は30日発売。
全体が長過ぎると思われた場合、まず、Chapter.1の算数問題だけをやっても良いと思います。
それで、現代のAIの考え方について、見当が付くのではないかと思います。
Chapter.2、Chapter.3は、ある意味、遊びです。その遊びをAIと一緒にやることで、AIと仲良くなり、自然に、自分とAIで1ユニットになるコツを掴めるのではないかと期待しています。
最初は難しいと思っても、実は、簡単なことを書いています。むしろ、解り易くするために、多少、正統的でないやり方も採用しましたが、その点は本書内で注意しています。

隠していた自分の欲望を見る

「精神薄弱」という言葉が差別的であるとして、1999年に、法的にこの用語を廃止し、それに替えて、「知的障害」と表現を改めたらしい。
そして、知的障害者に対する差別はいけないと世間で宣伝している。
しかし、これは、心の中ではともかく、行為として、あるいは、言葉としての差別をしてはいけないということだと心得ている人が多いだろう。
世間では、心の中では何を考えても罪はないという考え方であるのだと思う。

だが、イエスは、「女性を邪まな目で見れば姦淫したるも同じ」と言った。そして、それは、必ずしも、「女性を邪まな目で見るな」と言ったのだとは思えない。
そうではなく、「行為として姦淫しなければ、心の中では何を考えても罪がないと思うな。思うだけで罪なのだ」と言ったのだと思うのだ。
だから、知的障害者に対し、露骨な差別行為をしたり、差別発言をしなくても、心で蔑めば、やはり、差別をしているのだということは自覚したが良いと思う。

私は、知的障害者を知的障害者と認めるし、おそらく、私は知的障害者ではないのだろう。
だが、おそらく、知的障害者を蔑んだことはない。
なぜなら、蔑み疎まれることでは私も同じであるし、星の巡り会わせで決まった彼らと私の状況に、それほどの違いがある訳でもないのだと理解していたからだ。

しかし、今日、全く違うことに気が付いた。
だが、まず、山岸 凉子さんの、『日出処の天子(ひいづるところのてんし)』という、1980年から1984年に連載されていた傑作漫画について少し話したい。
この漫画の主人公の一人が、後に聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子(うまやどのおうじ)である。
厩戸皇子は大天才で、14歳の頃には、普通の大人は勿論、いかなる身分の高い者や権力者も、彼を恐れ敬った。
その厩戸皇子がある時、まだ幼い、知的障害者の少女に出会う。厩戸皇子は最初、彼女を見て何も感じなかったが、その少女が河に落ちて溺れるのを見て嫌悪を感じる。なぜかというと、少女が、必死に助かろうとする様子に、全く自分の姿を見たからだ。
大天才、厩戸皇子が、知的障害の少女を自分だと思ったのだ。
そして、厩戸皇子は、少女を連れ帰り、妻に迎えた。
これまでは、私には、厩戸皇子が、知的障害の少女に自分を見たということがピンと来なかった。
しかし、今日、よく理解できた。
私は今日、知的障害の青年を見た。
彼は、その様子からして、知的障害であったことは確かだった。
その彼が、電車のドアが開いた時、周囲の人を押しのけたと言うしかない乗り方をした。
しかし、それは、知的な障害のない人もやっていることだ。
だが、知的に障害のない人というのは、そのようなことをしても、虚栄心や自尊心があるので、澄ました顔をして、「私は別に悪いことをしたりなどしていない」といった顔をする。
ところが、知的障害者は、普通、面子を気にすることはなく、欲求に素直であり、自分の行為を取り繕おうとしない。
その、素朴な欲望の姿を見た時、私は、自分が隠しているあらゆる欲望をはっきりと認識し、自分と彼に何の違いもないことを強く感じたのである。
あの漫画の厩戸皇子も、何かに執着してすがることにおいて、知的障害者も自分も、何の違いもないことに気付いたのだろう。
知的障害かそうでないかは、単に星の巡り合わせ、つまり運命であるが、それ以外に関しては、全く何の違いもないのであり、むしろ、悪いことをしていながら、なぜか自分だけは悪くないと正当化する、知的健常者の方がはるかに愚かで迷惑なのである。
それで、私は自分を恥じて、憂鬱になってしまったのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
[AI&教育blog] メディアの風


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
最新コメント
月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ
PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード