「精神薄弱」という言葉が差別的であるとして、1999年に、法的にこの用語を廃止し、それに替えて、「知的障害」と表現を改めたらしい。
そして、知的障害者に対する差別はいけないと世間で宣伝している。
しかし、これは、心の中ではともかく、行為として、あるいは、言葉としての差別をしてはいけないということだと心得ている人が多いだろう。
世間では、心の中では何を考えても罪はないという考え方であるのだと思う。

だが、イエスは、「女性を邪まな目で見れば姦淫したるも同じ」と言った。そして、それは、必ずしも、「女性を邪まな目で見るな」と言ったのだとは思えない。
そうではなく、「行為として姦淫しなければ、心の中では何を考えても罪がないと思うな。思うだけで罪なのだ」と言ったのだと思うのだ。
だから、知的障害者に対し、露骨な差別行為をしたり、差別発言をしなくても、心で蔑めば、やはり、差別をしているのだということは自覚したが良いと思う。

私は、知的障害者を知的障害者と認めるし、おそらく、私は知的障害者ではないのだろう。
だが、おそらく、知的障害者を蔑んだことはない。
なぜなら、蔑み疎まれることでは私も同じであるし、星の巡り会わせで決まった彼らと私の状況に、それほどの違いがある訳でもないのだと理解していたからだ。

しかし、今日、全く違うことに気が付いた。
だが、まず、山岸 凉子さんの、『日出処の天子(ひいづるところのてんし)』という、1980年から1984年に連載されていた傑作漫画について少し話したい。
この漫画の主人公の一人が、後に聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子(うまやどのおうじ)である。
厩戸皇子は大天才で、14歳の頃には、普通の大人は勿論、いかなる身分の高い者や権力者も、彼を恐れ敬った。
その厩戸皇子がある時、まだ幼い、知的障害者の少女に出会う。厩戸皇子は最初、彼女を見て何も感じなかったが、その少女が河に落ちて溺れるのを見て嫌悪を感じる。なぜかというと、少女が、必死に助かろうとする様子に、全く自分の姿を見たからだ。
大天才、厩戸皇子が、知的障害の少女を自分だと思ったのだ。
そして、厩戸皇子は、少女を連れ帰り、妻に迎えた。
これまでは、私には、厩戸皇子が、知的障害の少女に自分を見たということがピンと来なかった。
しかし、今日、よく理解できた。
私は今日、知的障害の青年を見た。
彼は、その様子からして、知的障害であったことは確かだった。
その彼が、電車のドアが開いた時、周囲の人を押しのけたと言うしかない乗り方をした。
しかし、それは、知的な障害のない人もやっていることだ。
だが、知的に障害のない人というのは、そのようなことをしても、虚栄心や自尊心があるので、澄ました顔をして、「私は別に悪いことをしたりなどしていない」といった顔をする。
ところが、知的障害者は、普通、面子を気にすることはなく、欲求に素直であり、自分の行為を取り繕おうとしない。
その、素朴な欲望の姿を見た時、私は、自分が隠しているあらゆる欲望をはっきりと認識し、自分と彼に何の違いもないことを強く感じたのである。
あの漫画の厩戸皇子も、何かに執着してすがることにおいて、知的障害者も自分も、何の違いもないことに気付いたのだろう。
知的障害かそうでないかは、単に星の巡り合わせ、つまり運命であるが、それ以外に関しては、全く何の違いもないのであり、むしろ、悪いことをしていながら、なぜか自分だけは悪くないと正当化する、知的健常者の方がはるかに愚かで迷惑なのである。
それで、私は自分を恥じて、憂鬱になってしまったのである。









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