ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

老子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

王になる方法

神様が「3つの願いを叶えてあげよう」と言ってくれたら、何を願うか?
私が小学生の時、それを教師に教室で聞かれたが、誰か小賢しいヤツが、「何度でも願いを叶えて」と願うと言い、クラスメイト達はそいつの頭の良さを称賛し、そいつはドヤ顔で優越感に浸っていた。
もし、そんなことを願ったら、前提の「3つの願い」がある以上、世界は無限に分裂する。

「例外のないルールはない」が成立しても、「例外のないルールはない」の例外、つまり、「例外のないルールはある」は成立しない。
これは、「この壁に貼り紙すべからず」の貼り紙をしても構わないのと同じだ。
これらの正当性は、数学的にも証明出来るらしいが、そんなことより、「ルールはルールの主体に適用出来ない」ことを身体で覚えておけば良い。
隊長が「回れ右」を命じても、隊長自身は回れ右をしないものだ。

簡単に言えば、「格」の違いだ。
壁の所有者でない者が、「この壁に貼り紙すべからず」という貼り紙をしても無効だが、壁の所有者がやれば有効になる。
「例外のないルールはない。よって、僕は借金を返さなくても良い場合がある」と、低レベルの者が言っても、例外は認められない。だが、法を超える権威者が言えば、善悪はともかく、やはり有効だ。

つまり、この世を支配するのは権限なのだ。
会社の中では、仕事においてはピラミッド型権限の通りに支配される。
しかし、社長が女子社員に「今晩デートしろ」と言っても、それは、社長の権限の通用しないことである。
そんなことを命じることが出来るのは、昔の君主制国家での、君主そのものか、君主に権限を与えられた者であり、民主国家では誰にもそんな権限はない。

だが、あなたの本体は超君主世界の王だというのが、トップシークレットであろと、それが事実なのだ。
あなたは、あらゆる矛盾、例外を超えて、どんなことでも要求出来るし、要求すればそれで終わり・・・必ず叶えられる。
だから、あなたは王になりなさい。
方法は・・・確か、『老子』に書いてある。
というより、『老子』には、王についてしか書かれていないのだ。
例えば、麗しき39章(この数字の麗しさ!)に、王は自分のことを「孤児」「独り者」「善でない」と言うとある。
これは、「考えるあなたは、善でないので、権威がなく、保護されず、孤立している」という意味で、それはつまり、「考えないあなたは善であり、宇宙に保護され、宇宙がパートナーである」という意味だ。
あなたは、考えないことで王になるのである。









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宇宙コンピューターとつながる方法

人間は、自分を高く評価し、他人を低く評価する。
本質的に例外の人間はいない。
どんな愚か者であっても、自分は大抵の人よりはずっと上だと思っているのだ。

そして、ほとんどの人間は愚かなのであるが、実を言うと、愚かな人間ほど、自分は優れていると思っているのである。
昨今、自己評価が低いことが問題であるように言われるが、おそらく見当違いだ。
自己肯定感が低いと言われる人間だって、本当は法外に自分を高く評価していると思う。
自己評価が低いのではなく、他人が自分を軽んじることに敏感なだけと思う。

かなり優れた人間の自己評価は、概ね、「中の上」である。
そして、最高度の人間の自己評価は、ほぼゼロなのだ。
それを老子は、「賢者は水のように、最も低い場所で満足している」と表現しているのだと思う。
また、老子は、「みんな鋭いのに、私だけ鈍い」とも書いている。
別に、謙遜でも何でもない。それが本音なのだ。
むしろ、嘘の謙虚さは不自然で醜い。
そして、本当のところ、謙虚さなど無用である。
おそらく、人間は、脳の構造上、謙虚になるには向いていない。
だが、自己評価を高めるほど、馬鹿になる構造ではあるようだ。

イギリスの作家チェスタートンが「天使が飛べるのは自分が軽いと思っているからだ」と書いたらしい。
"Angels can fly because they can take themselves lightly."
これは、体重のことではなく、自己評価である。
そりゃそうだ。天使ってのは、自我がないのだから、自分を高く評価しようがない。
自己評価を行うのは自我であり、自我は、必ずや自分を高く評価するのである。
自我を絵に描けば、これほど醜悪で間抜けで馬鹿げたものはない。
そして、「自分は優れている」と言う者ほど、そんなつまらぬものを大事にしているのである。

では、自我を消すにはどうすれば良いか?
柳生宗矩が、子供の時の徳川家光に教えたのは、1本の杭の頭を、木刀で毎日、延々と打つことだった。
延々と丁寧にやれば、ゾーンに入れる。
ゾーンは、エクスタシー・・・即ち、忘我、没我であり、文字通り我はない。
バットや木刀の素振りでも、四股でも、念仏でも、真言でも良い。
呼吸を数えても良い。
丁寧に延々と出来れば・・・
要は、何も考えないことだ。
最も考えない者が、最もよく考えているのである。
スーパーコンピューターに接続された端末パソコンが、スーパーコンピューターのインターフェース(入出力装置)に徹し、自分では処理をしないようなものである。
それが、自分の小さな思考を捨て、神の英知を得る方法である。
宇宙コンピューターから見れば、人類のスーパーコンピューターなど、利口なサルですらない。
人間は、自我を消せば、それにつながるのである。








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古文マニア、英語マニア、数学マニア、プログラミングマニアの被害から免れる

日本の古典の名作は原文で味わって欲しいと言う文学者がいる。
私も以前は、それに賛成していたが、今ではそれは、「極めて古文に強い人は」と書かない限り欺瞞(だますこと)だと思うほどになった。
古文の言い方は、精通していないと、肯定と否定の区別が付かないことも多いと思う。
それで、ある重要な物の理に関し、原文は否定しているのに、私は、ずっと肯定だと理解していた・・・ということがいくつかあった。
極端に例えて言えば、原文では「人殺しは善くない」と書いてあるのを、読み慣れない古文の言い回しのせいで、私は、「人殺しは善い」と理解していたという訳だ。
古文の本当の専門家であれば、正確な意味が伝わるよう、分かり易く現代語訳してこそ値打ちがあるというものだ。

私が、つくづく、そう思うに至った理由に、英文学者の加島祥造さんのことがある。
加島さんは、英文学者であるが、老子、荘子の研究者でもあるのだが、彼が何かの本で、「私はずっと老子が解らなかったが、英訳の老子を読んで解った」と書かれていた。
老子、荘子も、原文が素晴らしいので、漢文はともかく、書き下し文(日本の古文とほぼ同じになると思う)で読むべしと言うのが、やはり、中国や日本の古典文学の専門家に多いと思う。
しかし、普通の人は、読み下し文を読んで悦に入っても、意味は誤解するのであるから、何とも馬鹿なことだ。
重要なことは意味ではないか?
英訳の老子を読んで解ったなど、日本語への翻訳者は恥ずべきことではないだろうか?
よく分からないが、加島さんも日本語翻訳者を馬鹿にしているはずだと思うのだ。
中国語により近い日本語の翻訳では解らないのに、英語に訳されたものだと解るなど、これはもう、翻訳能力の問題である。早い話が、老子の日本語訳を書いた者は無能者ばかり・・・というのは言い過ぎだろうか?

同じく、英語の文献に関しても、「翻訳では意味が正確に解らないので、原文を読むべし」と言うおかしな人が多くて困る。
英語の勉強のために原文を読むというのは大いに賛成である。
しかし、その本を正しく理解するために、英語に強くない者が原文を読むなど、馬鹿もいい加減にしろと言いたい。
優れた翻訳者が翻訳したものでも60%しか理解出来ないなら、英語に弱い者が原文で読めば10%以下、あるいは、5%以下の理解しか出来なくても不思議はない。
簡単な理屈である。

『It Works』という成功法則の古典がある。
ある予備校の英語の先生だったかもしれないが、「原文で読まないと作者の真意が伝わらぬ」として、彼も翻訳は作ったが、英文を丁寧に解説し、原文で読むよう要請する本を出版していた。
私は、結局、英文の理解にエネルギーを取られ、その本から全く何も得られなかった。
しかし、特に翻訳家ではないのかもしれないが、ある人が、その本を日本語訳したものを電子書籍にしてくれている。
実は、原文の英語も、シンプルに解り易く書かれていて、僅か10分で読める短いものでもあり、翻訳は難しくないと思うが、この電子書籍の著者は、さらに解り易く丁寧な訳をしてくれていると思う。
それで、「何だ、こんなに良い本だったのか」とやっと解った次第である。

ところで、AIの機械学習やディープラーニングはプログラミング言語Python(パイソン)でやれと言う人が大半と思うが、これも、よほどPythonプログラミングに熟練した人でないと、Python部分でエネルギーを取られ、機械学習(ディープラーニングは機械学習の高度なもの)について、さっぱり使えるようにならないと思う。
また、「機械学習に必要な数学」という本も多く、これまた、数学でエネルギーを奪われ、機械学習は出来るようにならない結果になる。
私も、機械学習をずっとやっていて、微分について考えるとすっきりするということはあったが、それは、微分のごく基本的な概念を思い浮かべただけだ。
そして、それは、すっきりしたというだけであり、AIの推測結果に影響があった訳でもない。
それより先に、機械学習では、データの形を考える能力の方がよほど大事である。その意味で、PythonよりExcelに熟練した方がずっと良いと思う。

もちろん、古文、数学、プログラミング、どれにも大いに価値がある。
しかし、自分はこれらに通じている者達が、これらの価値を貶めているのだから皮肉である。









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荘子の教えに欠けているもの

中国の古典『荘子』の教えは、「いっさいをなりゆきにまかせ、作為をするな」である。
では、いっさいをなりゆきにまかせ、余計なことをしなければ、お金持ちになって可愛い女の子も思いのままかというと、そうではない。
それどころか、なりゆきにまかせる「悟った人達」がどうなるかと言うと、『荘子』には、病気で奇態な姿になって死んだり、貧乏で飢えてふらふらになってしまう例が書かれている。
しかし、彼らは、それでも満足して死んでいくのであるが、いや、それはちょっと・・・である(笑)。
一方、『荘子』の中には、永遠の時を、乙女の姿で生きる無敵の神人のような人も登場するので、そっちにならなりたいものである。

まあ、どんな不幸が来ようが、虫の脚にされようが、運命なら仕方がないと受け入れる者が、乙女神人になれるのだという深読みも出来るが、あくまで深読みであり、そう書かれている訳ではない。
ただ、荘子の時代(2400年ほど前と思われる)の中国は、庶民は虐げられ、何の希望もなかったという説もあり、そうであれば、現世利益的なことは書けなかったのだと考えることも出来るが、これもまた1つの推測でしかない。

二宮尊徳(にのみやたかのり)は、荘子より前に無為自然の「道(タオ)」の教えを説いた老子に対し、
「畑は人間が手入れしないと荒れ果て、作物が取れない」
「家は人間が手入れしないとあばら家になる」
と言い、無為自然などもっての他と言った。
普通に考えると、尊徳が正しい。
まあ、荘子側に言わせれば、「無為自然に一生懸命働くのじゃ」とか屁理屈を言うかもしれないが、私なら、無為自然なら怠けるだろう(笑)。
『ファウスト』で神様も言ったではないか。「人間は休みたがる」と。それが自然なのじゃよ。

つまり、『荘子』には欠けているところがあるのだ。
現代科学では、まだ良い表現が出来ないが、なりゆきにまかせれば天の助けは得られる。
だが、条件がある。
その条件とは、「出来ることはやりなさい」で、「最低限のことはやりなさい」と言いかえることが出来るかもしれない。
それをうまく言ったのが、スーフィー(イスラム神秘主義)の格言らしい「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」だ。
ラクダがそこにいることの面倒まで神に見させちゃいけないってことだろう。
就職したいのに応募1つせず、優秀な人になりたいのに本1冊読まず、彼女が欲しいのに清潔ななりをせずでは、神様も手を貸す訳にはいかないだろう。
逆に言えば、ラクダをつなぐこと程度で良いのだ。
ただし、1年365日、しっかりとね。
そして、リーダーは、下の者に、ラクダをしっかりつなぐことをやらせれば良いのでる。

さて、なりゆきにまかせよう。
しかし、四股はしっかり踏んでる。
まだ初めて10日くらいと思うが、毎日300回踏むようになった。
相撲の四股とは違う、超人武術家、佐川幸義系の軽いものである。
無理なく出来るのでなくては続かないので、少しずつ、ゆっくり回数を上げていっている。
まあ、10日くらいであるので、効果がどうのとは言えないが、楽しいものである。









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努力嫌いは帝王学を学ぶべき理由

努力が嫌いでも、望みを叶え、幸福な者がいる。
おそらく、根本的には、努力は不要なのだろう。
しかし一方、努力嫌いな者の中には、怠惰で傲慢で放埓(勝手気まま)で、ものを考えず、見ていて「胸糞が悪い」としか言いようのない者もいて、このような者達は、ごく一時期(概ねごく若い間だ)を除き、幸福であることはない。

幸福については、本当は努力好きな者についても考えねばならないが、とりあえず私が努力嫌いなので、そのような者(努力嫌いの者)について考える。
上に述べた通り、努力嫌いにも、良い努力嫌いと悪い努力嫌いがいる。
あえて言うが、それは、道徳的な良い悪いではなく、幸福かどうかである。
つまり、幸福な努力嫌いと、不幸な努力嫌いだ。
そして、その違いを単純に理解し、我々は幸福な努力嫌いであれば良いのである。
話は簡単だ。

努力嫌いな者が幸福であるためには、何らかの上からの力が必要である。
王子様王女様であれば、王国の権力や王の権威である。
我々は、潜在意識の無限の力が与えられているので、ある意味、王子様王女様である。
だから、良い王子様王女様と、悪い王子様王女様について考えれば分かり易いのである。
お世辞でなく、「さすが王子様」「さすが王女様」と言える王子様王女様もいれば、口には出せなくても「こりゃ駄目だ」としか言いようのない王子様王女様もいる。
その違いはただ1つ、「帝王学」を学んでるかどうかだ。
よって、我々も、自分の宇宙に相応しい帝王学を学べば良いのである。

『バガヴァッド・ギーター』は、神クリシュナが王子アルジュナに説いているように、世俗の帝王学を超えた帝王学なのである。
また、『老子』は、君子のための教えであり、やはり帝王学なのであり、これも、高次元の帝王学である。
そして、マキアヴェリ(マキャヴェッリ)の『君主論』は、上2つにはかなり劣るが、それだけに、我々には現実的な教えである。

ところで、『法華経』は高度な帝王学なのである。
これを、宗教や道徳と捉えると、おかしなことになる・・・というか、そう捉えているので、おかしくなっているのである。
そもそも、これは、無限の資産を持つブッダが、その後継者であるあなたに向けての教えであるのだから、どう考えても帝王学なのである。
そのように思って、4つのうちのいずれかを学ぶと、やはり、あなたはこの世という王国の、努力無用の後継者である。









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