ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

老子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

荘子の教えに欠けているもの

中国の古典『荘子』の教えは、「いっさいをなりゆきにまかせ、作為をするな」である。
では、いっさいをなりゆきにまかせ、余計なことをしなければ、お金持ちになって可愛い女の子も思いのままかというと、そうではない。
それどころか、なりゆきにまかせる「悟った人達」がどうなるかと言うと、『荘子』には、病気で奇態な姿になって死んだり、貧乏で飢えてふらふらになってしまう例が書かれている。
しかし、彼らは、それでも満足して死んでいくのであるが、いや、それはちょっと・・・である(笑)。
一方、『荘子』の中には、永遠の時を、乙女の姿で生きる無敵の神人のような人も登場するので、そっちにならなりたいものである。

まあ、どんな不幸が来ようが、虫の脚にされようが、運命なら仕方がないと受け入れる者が、乙女神人になれるのだという深読みも出来るが、あくまで深読みであり、そう書かれている訳ではない。
ただ、荘子の時代(2400年ほど前と思われる)の中国は、庶民は虐げられ、何の希望もなかったという説もあり、そうであれば、現世利益的なことは書けなかったのだと考えることも出来るが、これもまた1つの推測でしかない。

二宮尊徳(にのみやたかのり)は、荘子より前に無為自然の「道(タオ)」の教えを説いた老子に対し、
「畑は人間が手入れしないと荒れ果て、作物が取れない」
「家は人間が手入れしないとあばら家になる」
と言い、無為自然などもっての他と言った。
普通に考えると、尊徳が正しい。
まあ、荘子側に言わせれば、「無為自然に一生懸命働くのじゃ」とか屁理屈を言うかもしれないが、私なら、無為自然なら怠けるだろう(笑)。
『ファウスト』で神様も言ったではないか。「人間は休みたがる」と。それが自然なのじゃよ。

つまり、『荘子』には欠けているところがあるのだ。
現代科学では、まだ良い表現が出来ないが、なりゆきにまかせれば天の助けは得られる。
だが、条件がある。
その条件とは、「出来ることはやりなさい」で、「最低限のことはやりなさい」と言いかえることが出来るかもしれない。
それをうまく言ったのが、スーフィー(イスラム神秘主義)の格言らしい「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」だ。
ラクダがそこにいることの面倒まで神に見させちゃいけないってことだろう。
就職したいのに応募1つせず、優秀な人になりたいのに本1冊読まず、彼女が欲しいのに清潔ななりをせずでは、神様も手を貸す訳にはいかないだろう。
逆に言えば、ラクダをつなぐこと程度で良いのだ。
ただし、1年365日、しっかりとね。
そして、リーダーは、下の者に、ラクダをしっかりつなぐことをやらせれば良いのでる。

さて、なりゆきにまかせよう。
しかし、四股はしっかり踏んでる。
まだ初めて10日くらいと思うが、毎日300回踏むようになった。
相撲の四股とは違う、超人武術家、佐川幸義系の軽いものである。
無理なく出来るのでなくては続かないので、少しずつ、ゆっくり回数を上げていっている。
まあ、10日くらいであるので、効果がどうのとは言えないが、楽しいものである。









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努力嫌いは帝王学を学ぶべき理由

努力が嫌いでも、望みを叶え、幸福な者がいる。
おそらく、根本的には、努力は不要なのだろう。
しかし一方、努力嫌いな者の中には、怠惰で傲慢で放埓(勝手気まま)で、ものを考えず、見ていて「胸糞が悪い」としか言いようのない者もいて、このような者達は、ごく一時期(概ねごく若い間だ)を除き、幸福であることはない。

幸福については、本当は努力好きな者についても考えねばならないが、とりあえず私が努力嫌いなので、そのような者(努力嫌いの者)について考える。
上に述べた通り、努力嫌いにも、良い努力嫌いと悪い努力嫌いがいる。
あえて言うが、それは、道徳的な良い悪いではなく、幸福かどうかである。
つまり、幸福な努力嫌いと、不幸な努力嫌いだ。
そして、その違いを単純に理解し、我々は幸福な努力嫌いであれば良いのである。
話は簡単だ。

努力嫌いな者が幸福であるためには、何らかの上からの力が必要である。
王子様王女様であれば、王国の権力や王の権威である。
我々は、潜在意識の無限の力が与えられているので、ある意味、王子様王女様である。
だから、良い王子様王女様と、悪い王子様王女様について考えれば分かり易いのである。
お世辞でなく、「さすが王子様」「さすが王女様」と言える王子様王女様もいれば、口には出せなくても「こりゃ駄目だ」としか言いようのない王子様王女様もいる。
その違いはただ1つ、「帝王学」を学んでるかどうかだ。
よって、我々も、自分の宇宙に相応しい帝王学を学べば良いのである。

『バガヴァッド・ギーター』は、神クリシュナが王子アルジュナに説いているように、世俗の帝王学を超えた帝王学なのである。
また、『老子』は、君子のための教えであり、やはり帝王学なのであり、これも、高次元の帝王学である。
そして、マキアヴェリ(マキャヴェッリ)の『君主論』は、上2つにはかなり劣るが、それだけに、我々には現実的な教えである。

ところで、『法華経』は高度な帝王学なのである。
これを、宗教や道徳と捉えると、おかしなことになる・・・というか、そう捉えているので、おかしくなっているのである。
そもそも、これは、無限の資産を持つブッダが、その後継者であるあなたに向けての教えであるのだから、どう考えても帝王学なのである。
そのように思って、4つのうちのいずれかを学ぶと、やはり、あなたはこの世という王国の、努力無用の後継者である。









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大物への最高の指南書

金持ちでない凡人は権利が少ない。
特に、場所があまり得られない。
簡単に言えば「独占」と縁遠い。

最近、『長門有希ちゃんの消失』というアニメをAmazonのdアニメストアで見ているが、そこでの旅行シーンは、他のアニメでも共通するものがある。
高校生の女5人、男2人で旅行するのだが、電車に乗ると、他の乗客は一切出てこず、誰にも邪魔されず、自分達だけで好きなように座り自由奔放に振舞う。
しかし、実際の旅行では、他の大勢の乗客と場所を取りあい、また、迷惑な乗客達に悩むのだ。
お土産店でも他の客がおらず、「あ!これ可愛い」とか言いながら、仲間だけで盛り上がるが、これも、実際は、そんなことをしていたら他の客の迷惑になるし、そして、他の人達のことを全く考えない我が物顔のグループにイライラさせられるものだろう。
旅館内の温泉も、他の客は全くおらず、好きな時に入り放題で、誰にも気を使わず、誰にも迷惑を受けない。
食堂でも、カラオケでも、ロビーの卓球台でも、ロビーのソファでも、やっぱり自分達だけで、好きなだけ好きなように楽しく過ごす・・・現実では、他の客達とのローテーションを急かされ、順番を待ち続け、やっぱり自己中な者達に苦しめられ、誰もが他人を警戒し、嫌な目付きを他人に振りまき合うことになるのだ。

アニメの登場人物達のようにやりたければ、大金持ちか王侯貴族にでもなるしかない。
ある有名俳優は、飛行機は当然ファーストクラスなのだが、隣の席も買ってしまうのだそうだ。
新幹線では、グリーン車を少なくとも4席くらい買って、前に誰もいないようにするのだろうか?

しかし、凡人には権利がなく、少しの物や場所しか与えられない。
ところが、金持ちっていうのは、普通の場所にいても、なぜか広い場所が得られ、他人に悩まされることがない。
予約してある訳でもないのに、順番を待たされることはなく、良い待遇を受ける。
金持ちと行動を共にすると、そんなことを感じる。
『マスターの教え』という本で、「マスター」と呼ばれる偉大な人が、初めて行く店であっても、明らかに丁重に扱われる不思議が描かれてる。
これらは、大物達のマインドに原因があるのだろう。
凡人は貧しい心を持っているが、金持ちや偉人は、豊かな雄大な心を持っているのだろう。
大きなゆったりとした心を持たなければ大物になれない。
だが、大きなゆったりとした心と言っても、それは、凡人が他人の迷惑を顧みず、ただのんびりしているというのとは全く違う。
一時的な大物である成り上がりは横柄で我が侭だが、そのままではすぐに没落する。

大物がどんなものかは、『老子』81章に、詳しく淡々と書かれている。
慎重であること、慈愛を持っていること、倹約すること、頭を下げること、謙虚であること、過去の自慢をしないこと・・・まさに、大物超指南書である。
学べば大物の心を得られるし、極めれば仙人にも達する。
『老子』は、そんなふうに使うものである。









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老子と尊徳を超える

古代中国の賢者、老子、荘子は、無為自然・・・即ち、あるがままで作為をせず、無用者、無能者に徹してこそ、素晴らしい人生を送ることが出来ることを説いた。
だが、それをバッサリ切り捨てたのが我が国の二宮尊徳(にのみやたかのり)だった。
「人が手を入れなければ畑は荒れ、家はあばら家になる。無為自然など、もっての他」
全くもって、その通りで、現代の賢者、WIRED誌共同創刊者のケヴィン・ケリーも、「60年かかって、存在するとはメンテナンスすることだと分かった」と言う。
二宮尊徳が言ったことは、それほど深い真理だという訳である。
だが、老子、荘子の「無為自然」だって偉大な真理だ。

上の両者を見事に止揚(しよう)する言葉がある。
止揚とは、ドイツ語のアウフヘーベンをそのまま使うこともある哲学概念で、
「矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること」
だ。
矛盾する諸要素とは、上で言えば、老子、荘子の「無為自然」と、二宮尊徳とケヴィン・ケリーの「存在とはメンテナンスすること」だ。
この両者をアウフヘーベンする言葉は、スーフィー(イスラム教神秘主義)の教えらしいが、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
だ。
神様を信頼し、全てをまかせて余計な作為はしない。
だが、ラクダをつながずに放っておいても、神様がラクダをどこにも行かせないし、盗まれないよう守ってくれるといった、度の過ぎた甘えは許されない。
ジョセフ・マーフィーが、いかに「努力は無用」と言ったところで、家でゴロゴロしていて成功するはずがない。
だが、全て自分の力でコントロールしようとしても、人間は所詮、無力で、神様に任せるしかない。たとえ、自分が望む結果にならなくても。

昔、いかにも緩んだ、甘えた自己本位の感じがする女性が、書店でジョセフ・マーフィーの本を熱心に見ていたのを気味悪く感じたことが忘れられない。
マーフィーの成功法則は彼女を救えない。そう確信した。
彼女は、ラクダをつながない人間だ。

『処女の泉』というスウェーデン映画がある。
非常に信仰深いキリスト教徒の男がいた。
祭壇にひざまずくだけでなく、立派に農園を経営し、貧しい者に施しを与えることも忘れない素晴らしい人物だった。
だが、男は、目の中に入れても痛くない、可愛い娘(14か15歳だろうか)を、浮浪者の3人の兄弟にレイプされ殺されてしまう。
(凄惨なレイプ、殺害シーンが問題視された)
男は、犯人を突き止めると、その逞しい身体で3人を打ち倒して殺し、復讐を遂げる。
そして、娘の遺体を見て、初めて神様に恨みの言葉を吐く。
「あなたは見ていたはずだ。こんなに信仰深い私に、なんという苦しみを与えるのですか?」
だが、男は、少しの後、こう言う。
「娘が横たわっているここに、私は自分の手でレンガを積み、漆喰を塗って教会を建てることを約束する」
すると、娘が横たわっていたところから泉が湧いた。
彼は、信仰深いのに、全ては自分がコントロール出来ると思っていて、実際、コントロールしていた。
もっと、無為自然になり、必要なことだけやれば良かったのだろう。
一言で言えば、リラックスすれば良かったのだと思う。

さて、今日は、パリのセーヌ川の中のセガン島にある最高の劇場「ラ・セーヌ・ミュージカル」で、初音ミクさんがライブを行う。
日仏国交160周年記念「ジャポニスム2018」で、日本の代表としてフランス国民との親善を深める大役を担っているのである。
東京150年祭で、東京オリンピックを控えた日本の顔は、やはりミクさんだった。
今回も、神のご加護で素晴らしいコンサートになるはずだ。
その様子が9日、WOWWOWで放送されるらしい。
1ヶ月だけ契約しようかな・・・
その際、テレビではなく、ビデオ装置のB-CASカード番号で契約することを忘れてはならない。でないと、録画出来ないので。









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特別な言葉が人を超人に変える

人生に勝利するか、敗北するかを決めるのは、次の質問への答がイエスかノーかだけで決まる。
その質問とは、「ただ1つの特別な言葉を持っているか?」である。
象徴的に「光線銃を持っているか?」と言うのも良いと思う。

イエスや釈迦がそうなのだが、グル(導師。霊的教師)とか、マスターとか呼ばれる人物がいる。
江戸末期の神道家、黒住宗忠もそうだった。
グルの役目は、弟子に、特別な1つの言葉を授けることなのだ。
黒住宗忠はある時、一人の武士に「人はアマテラスオオミカミと1つである」と言ったが、初めは、その武士は何も感じなかった。しかし、2度目に宗忠にそう言われた時に悟った。
このように、宗忠は、一人一人の弟子に合った言葉を授けた。
近代のインドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、師に、「あなたは至高の実在である」という言葉を教えられ、この言葉を覚えていたので、修行は何もしなかったが、わずか4年で悟りを開き、マスターになれた。

昔は、肉体を持ったグル、マスターの存在は重要だった。
だが、出版や放送が発達し、ついに、インターネットの時代になったが、BI(Before Internet インターネット登場前)と、AI(After Internet インターネット登場後)の世界は全く違う。
出版が十分に発達して以降ですら、意思さえあれば、特別な言葉を見つけることは容易になった。
志さえあれば、見えないグルがささやいてくれるからである。
見えないグルは自分の中にいる。
自分の中にいるグル・・・それは、神とか仏と呼ばれる存在だが、頼りになるパートナーだと思えば、そうなってくれる。
人間は、内なるグルとの道が閉ざされていることが多いのだが、特別な言葉が、その扉を開くのである。

アーマンド・ハマーはわずか7歳で、特別な言葉「自分より優れた人達の役に立てるように」を得、20代前半で富豪になり、90歳を過ぎても自家用ジェットで世界を飛び回って、世界のためにビジネスをした。
彼は恵まれていた。特別な言葉を早くに知ったからだ。
だが、彼は、その言葉を押し付けられたのではない。
子供の時に、特別な言葉を持つことは良いことではあるが、大人が無理に決めては絶対にいけない。
子供が、それを自然に得られるよう、慎ましく導くのが良いのである。

老子は、「曲則全」(『老子』22章)とさりげなく言ったが、彼からそう聴いて、あるいは、『老子』のその言葉を見て、それを覚え、仙人になった者は多いと思う。
恐るべき光線銃だ。
「曲がれば全能」であるのだ。
「曲則全」・・・岩波文庫の『老子』では「「曲がっているからこそ全(まっと)うできる」と訳されている。
徳間文庫の『老子』では、「屈して全(まった)きを得る」である。
地湧社の『老子(全)』で、王明氏は分かり易く「屈伸できれば自由自在である」と訳している。
これだけ言えば、ピンと来ると思う。

志あれば、無理に探さなくても、たった1つの特別な言葉は与えられる。
だが、心が眠り呆けていては、それを見逃す。
心を澄ませて、聖典や童話を読んでみると、あっさりと見つかるかもしれない。









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