ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

老子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

釈迦と老子の仮想世界制御法

結局、人間は仮想世界の中で生きることになるのではないかと思う人が増えていると思う。
仮想世界とは、夢の世界のようなものだが、夢のように不安定ではなく、数学的に制御された世界で、言ってみれば、極めて複雑で精巧な3Dのコンピューターゲームのような世界だ。
ところが、実は、この世界が既に、そんな仮想世界であるという説もあり、よく聞くところでは、有名な事業家のイーロン・マスクやイギリスの数理哲学者のニック・ボストロムらは、我々のこの世界は、ほぼ間違いなく、コンピューターが作った仮想世界であると断言している。まあ、コンピューターが作ったと言っても、我々が知ってるようなレベルの性能のコンピューターとは全く異なる高度なコンピューターであるのだと思う。

その割には、イーロン・マスクの有名な電気自動車会社テスラの電気自動車の欠陥が明らかになって先行き不透明なのは、イーロン・マスクも、この仮想世界の支配権を持っていない、あるいは、完全には持っていないということか?
あるいは、この仮想世界は、少数者が富をほとんど独占することくらいは出来ても、個人が極端な支配は出来ないアルゴリズムで運営されているのかもしれない。

釈迦や老子は、この仮想世界の仕組みや、これに影響を与えるコマンドの発し方が分かったのかもしれないが、やはり動かす範囲に影響があったのだと思う。
あくまで説であるが、釈迦は紀元前624年、老子は紀元前384年の生まれで、この時代の240年の違いは、ないと考えて良いかもしれない。
老子の唯一の著作『老子』は口述(老子が語ったことを誰かが書き写した)とはいえ、直接の教えが残っているが、釈迦の教えは長く口伝で伝えられ、どれだけ正確かは分からない。
で、老子の教えは、一言で言えば「控えめに」であると言って良いと思う。
「曲がってこそ完全だ」「水のように低いところに行け」「倹約しろ」「自分は無能であると思え」など、一貫して「控えよ」と書かれていると思われる。
ただし、「控えるほど強い」ということなのである。
釈迦の教えは、人間の本性は偉大な仏であるということだが、それは老子も同じようなことを言っているのだと思う。
そして、偉大な存在になる手法が、老子は分かり易く、「控えよ」ということである。
釈迦も同じなのであるが、控えるという意味を、心が静かであることとしたのだ。
それで、心を静かにする特別な方法があるのかと釈迦に聞きたいところであるが、これが意外に伝わっていない。だから、釈迦の教えは、複雑怪奇なものになっている場合が多いのだ。
だが、一説では、釈迦の教えは結局、念仏であると言われている。
ただし、念仏と言っても南無阿弥陀仏だけではなく、要は、仏の名を唱えよということで、唱えるべき仏の名は沢山ある。
ただ、釈迦の時代に、名前のついた仏(如来)があったかは疑問だ。神様ならあったはずだが、釈迦は神様は崇拝していない。
ところが、いろいろな仏の名がでっち上げかというとそうでもない。
何と言っても、釈迦は仮想世界の仕組みを、かなり解明してしまったのだからだ。
それで、何らかのことを語ったが、それは難し過ぎて理解されなかった。
しかし、龍樹という天才が、それをある程度まで解明し、経緯は複雑なので省くが、結局、仏の名を唱えよということになり、それが後に念仏になったのだと思う。
現在は念仏は、日本では葬式にのみ使われるので有難味は薄いが、念仏が仮想世界制御のコマンドであることは案外に実証されている。その1つが、妙好人と呼ばれる、無学だが超人的な人々の存在だ。

川堀
AIアート685
「川堀」
Kay


最近よく書いているように、念仏に限らず、あらゆるマントラは、老子の言う「控える」を容易に実現し、釈迦の言う「心静かに」に導き、結局は、仮想成果をうまく利用出来る。
これは、試してみないと分からない。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)老子 (岩波文庫)
(2)老子・列子 (徳間文庫)
(3)老子(全)
(4)浄土三部経(現代語版)
(5)華厳経入門 (角川ソフィア文庫)
(6)歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(7)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力
(8)妙好人(鈴木大拙)

釈迦、老子に匹敵する矢追純一

志賀一雅博士の「よかった・ありがとう」呼吸を研究するうちに、つくづく、矢追純一さんという人は大変な人だと分かってきた。
人間にとって究極である、釈迦や老子の境地とは何かと言うと、「思考が消えている」ことである。
ところが、世間の人(高名な脳科学者すら)は「自分の頭で考える者が偉い」というとんでもない誤解をして、自分も世界も混乱させている。
だが、矢追さんは、
「僕は頭が悪いので、考えることを放棄した」
と、さらっと言ってのけ、そして、
「人間の頭なんて大したものじゃない」
と真理を指摘する。
大天才というのは、誰よりも思考が消えている者で、それに気付いたのは、歴史上の人物で言えば、ソクラテスと荘子だった。
そして、矢追さんも、堂々、それに迫ると思う。

ところで、矢追さんは引き寄せおいても、正しいことを分かっていた。なぜ分かったのかは分からないが、特殊な少年時代・青春時代を送ったことと関係があるように思える。
矢追さんは、「引き寄せ」という言い方はしていないが、目標を達成するという意味で「着地点を決めろ」と言う。
これは実例で言った方が良いだろう。
矢追さんは、現役で法学部の名門である中央大学法学部に合格し、4年で卒業している。
ところが、矢追さんは、偏差値の低い高校に入学したが、ほとんど通学せず、2人の妹を養うために深夜まで働き、勉強は全くしておらず、受験勉強もしなかったという。何と言っても、深夜まで働いた後は飲みに行っていたからだ(笑)。
だが、最初から、受験は合格と決めていた。これが「着地点を決める」ということだろう。
そして、受験後は、さっさと旅行に行き、帰って来てから合格通知を見て、初めて合格と分かったが、矢追さんはもう合格と決めていたから、合否など全然興味がなかったのだ。

矢追さんが、どんなマインドでそれ(引き寄せ)を実施したか分からないので、これを志賀一雅博士の「よかった・ありがとう」呼吸に当てはめる。
よかった=合格した
ありがとう=うれしい
程度でいいだろう。
もちろん、矢追さんは、「よかった・ありがとう」呼吸をやったわけではない。
だが、「合格した」と思うと、快感を感じて脳内のA10神経が活性化し、それがA9神経を刺激し、自然と喜びを表現し、たとえば「うれしい」と思ったはずだ。
矢追さんは受験勉強をしなかったとはいえ、中央大学法学部の過去問集を1冊購入し、それだけは暗記するまで読んだらしい。
それだけでもやったら、やっぱり既定とはいえ、合格は嬉しいはずだ。

ヴィーナス
AIアート323
「ヴィーナス」
Kay


ところが、引き寄せの指導者を自称する人には、いきなり、「うれしい」「幸せだ」「ありがとう」と唱えよと言う人がいる。
しかし、これらの表現は、あくまで、快感を感じてA10神経が活性化することでA9神経が刺激されて自然に現れるものでなくてはならない。
まずは快感なのだ。
また、「俺は合格する」「俺は勝つ」と必死で唱えるだけでは、快感を感じず、A10神経が活性化されない。
よって、A9神経が刺激されることもなく、喜びの表現も起こらない。
矢追さんの合格法を最も効果的にやるには、これを「よかった・ありがとう」呼吸にあてはめると、

「合格した」と思いながら息を吸い、「うれしい」と思いながら息を吐く

であると思う。








我々はずっと騙されている

我々庶民は、ずっと騙され続けている。
どう騙されているのかというと、嘘の信念を叩き込まれている。
その嘘を、もう見事なまでに、固く信じている。
なぜ騙すのかというと、一通りの理由ではないのかもしれないが、まあ、我々を奴隷にしたいのだろう。
幸せな奴隷であれば良いのだが、奴隷が幸せであるはずがなく、実際、我々は不幸に耐えるだけの人生を送り、不幸な意識のまま死ぬ。
そして、どうやら、我々奴隷が増え過ぎたらしく、もう削減が行われ始めているのだろう。

さて、我々が信じ込まされている飛び切りの嘘は何だろう?
しかし、そんなこと「こうです!」と言っても誰も信じない。
だって、その嘘を固く信じるよう騙されてきたのだから。
試しに言ってみようか?
その嘘とは、「思考に力がある」ということだ。

我々に思考が重要だと思わせるのは、ちょうど、鷲にトウモロコシが必要だと信じさせるようなものだ。
鷲にトウモロコシなど必要ない。
しかし、トウモロコシが何より重要だと騙され、信じ込まされた鷲は、トウモロコシがないと不安で寂しくて自分は不幸だと思い込む。
そんな滑稽な鷲が我々なのである。
この鷲とトウモロコシの譬えは、ヴァーノン・ハワードの本に書かれていたが、なぜかハワードは重要な点や解決策を書いていなかった。
本が改変でもされたのか、本人も生半可にしか分かっていなかったのか・・・それは分からない。

飾らない
AIアート220
「飾らない」
Kay


2400年ほど前に、思考が不要なものであることを直接的に書いたのは荘子で、その前の老子は間接的に書いていた。
よって、荘子を読めば分かるが、荘子の解説者は全員が騙されている人達なので、解説は全部間違いだ。
荘子は、ただ、思考は不要だから消せと言っただけだ。
その方法も一応は書いている。
そして、20世紀になって、ラマナ・マハルシが、思考は不要だと言ったが、なぜか彼はコミュ障で、うまく伝えなかった。
だが、彼は「私は誰か?」と自分に問うか、自分に「私」と呼びかけ続ければ良いと、良い方法を教えた。
ただし、それらは、起きている間、ずっとやらないといけない。
それは難しいので、私は、呼吸だけはずっとしているのだから、その呼吸を静かでゆっくりしたものにすれば思考は消えると教えているのである。
他にも方法があるのかもしれないが、私は見たことがないし、嘘の方法ならいくらでも見た。
これまでは、思考を消さないと一生不幸な奴隷であったが、これからは、生きてもいられず、もしかしたら、食用にされるかもしれない(これは主に子供であるが)。
一方、思考を消せば全知全能であり、パラレルワールドを移動するなり、タイムリープするなり、あるいは、この世界でのんびりするか、好きなようにすれば良い。








悪霊はやはりいて、その正体は?

私は中学1年生の時からゲーテを読んでいたが、それが良かったかどうかより、もっとちゃんと読んでおけば良かったと思う。
ゲーテは人間性の批判もするが、人間性を、そんな批判すべき低いものに引き落とす何かがあると考えていたと思う。
つまり、彼にもそれが何かは分からなかったのだろうが、見えない何かが、我々人間の性質を、愚かで醜いものに引き下げてしまうのである。
ラルフ・ウォルドー・トラインは、それを一応、「悪霊」の仕業だと表現していたが、あくまで仮にそう呼んだのであり、やはり、何かが人間を劣ったものに変えるので、その何かから自分を防御しなければならないと考えていたと思う。

ジクムント・フロイトは、元々人間は狂っているのであり、それは進化に失敗したからだといったように考えていたし、アーサー・ケストラーも同じで、ケストラーの場合は、人間の脳が進化過程で間違いが起こったのだと考えていたと思う。

だが、彼らの疑問に答は提示されず、ただ人間はロクでもないものであることがはっきりしただけだった。
ところが、ローレンス・スペンサーが、SF小説の形で出版した『エイリアン・インタビュー』で、人間性の欠陥の説明がついてしまったと思う。
細かい部分を省くと、数万年の昔かもしれないが、宇宙人がある目的を持って、人間を劣った存在に引き落とす効果を持つ装置を仕掛け、それが現在も稼働し続けている。
その装置は、何らかの理由で効果が弱くなることがあり、そんな時には人類もかなり高度な文明を築いた。
世界各地のよく似た神話は、宇宙人の話が脚色されたものだ。
そして、その宇宙人の装置の影響を免れる手段は難しいながら存在し、釈迦や老子をはじめ、いくらかの人々はそれを発見したことが『エイリアン・インタビュー』で示唆されている。

月下のニンフ
AIアート109
「月下のニンフ」
Kay


以下は私の考えであるが、釈迦や老子らは、装置の影響から解放される方法を、なんとか人々に教えようとしたが、彼らの教えは変なものに改ざんされてしまっていて、今ではほとんど役に立っていない。
だが、20世紀初頭に、インドにラマナ・マハルシという突出した人物が現れ、「私は誰か?」と自分に問うことで、装置の影響を打ち消すことが出来ることを発見し、人々に教えようとしたが、やはり、彼の教えも、かなり捻じ曲げられ、さらにおかしなものになると思われる。

幸い、私は全体をかなり把握したが、いかんせん、釈迦や老子やラマナ・マハルシのように優秀でない(特別なDNAを持っていないということか?)ので、自分が装置の影響を打ち消すだけで精一杯である。
そして、世の中には、この装置に操られた偽物の教師・教祖がやたら多い。そんな者達が装置の影響をモロに受けつつ、売れる本を書いたり、講演を行って人々を扇動している状況で、まあ、あまり好ましくはない。

だが、思考を消せば、即ち、心を消せば、装置は何も出来ない。
そのための最良の方法が「私は誰か?」と自分に問うことである。
心を完全に消せば、我々の観念でいうところの、完全な存在としての神と同じである。
だが、「私は誰か?」とは問い難い。
なぜなら、心は死にたくはなく、生き続けたいので、そのような、心が死んでしまうことには反発し、それを楽しくないものと感じさせるのだと思う。
そこで、もう少し楽に出来るものも含めて、心を消す方法をここで提示しているのである。








神=仏=道=自然

釈迦やイエスが何を教えたのかということについて、仏教やキリスト教の専門家達がとんでもなく難しいことを言っているが、彼らがそんなに難しいことを教えたはずがないのである。
これは、老子も同じであるが、少し前に『老子』全81章を順番に解説したが、結局、全ての章に同じことが書かれており、それは「道に従え。思考を消せ」だった。
この「道」とは、「自然」である。
そして、釈迦は「仏に従え。思考を消せ」と教えたのだし、イエスは「神に従え。思考を消せ」としか教えていないのである。
よって、自然=道=仏=神であることが分かる。
釈迦、イエス、老子は、必要上から、「仏」「神」「道」という観念を使っただけである。
「神とは自然の法則のことだよ」と言う人は多いが、「自然の法則」という言い方をすれば、また混乱するのである。
単に、「神とは自然だよ」で十分である。

それで言えば、日本では、自然の働きを八百万の神と思っていたのだから、賢い民族だったのだなあと思う。
そして、日本では、それを教えた釈迦やイエスのような聖者はいない。
自然と親しむことで、皆が教えられることなく知っていたのである。
本当に凄いことである。
ただし、日本人は、今は世界で最も愚かな民族になりつつあるかもしれない。
その理由はもちろん、「自然に従え。思考を消せ」を全くしなくなったからだ。

睡眠第一
AIアート87
「睡眠第一」
Kay


自然に従い思考を消す最上の方法というものがあり、それは「私は誰か?」と自分に問うことである。
その他に余計なことを言うべきではない。
言うべきではないが、自然、神、仏、道という同じものには、ある性質がある。
それは「パーフェクト」である。
現代人は、うまくいった時のみ「パーフェクト」と言う。
しかし、自然も神も仏も道も、常にパーフェクトなのである。
よって、全てをパーフェクトと認識する人間が一番神に近く、賢いのである。
それにはどうすれば良いかというと、いつでも「パーフェクト」・・・日本人の場合は日本語で「完璧だ」と断定すれば良いのである。
何が起ころうが「完璧だ」と言う癖をつければ、自然が味方するようになる。
つまり、神が味方するのである。
とはいえ、「神様の奇跡が起こる」「生きている」「お金がある」「なぜか分からないがもてる」「不思議だがお金が入ってくる」も全部、「完璧だ」と同じことを示す言葉である。
何でもいいから1日中唱えていると良い。
うまくいかない人は、唱えずに考えてしまうのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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