ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

筒井康隆

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

若き天才作家達の創造力の秘密

手塚治虫さんの『ジャングル大帝』や『リボンの騎士』、石ノ森章太郎さんの『サイボーグ009』や『仮面ライダー』など、歴史的な漫画作品のほとんどが、彼らの20代か、せいぜいが30代前半までの作品であるということは興味深い。
他の著名な漫画家の作品についてもほぼ同じようなことが言えると思う。
ちばてつやさんの『あしたのジョー』(原作は梶原一騎さん)もそうだし、武内直子さんは世界的ヒット作『美少女戦士セーラームーン』を23歳くらいで描き始めたと思う。
それでも、これらの作品は年配の人をも惹き付ける精神的な深さも充分にあるが、そんな作品を、そのような若さで描くことができたというのはやはり、彼らは天才なのであろうか?

漫画家になるような人は、例外なく、幼い頃から絵を描くことが好きで、しかも、その絵の上手さは普通の子とは比較にならず、「この子は大画家になるんじゃないだろうか?」と言われたような人ばかりであったと思う。
手塚治虫さんは、あまり絵が上手いとは認識されていないかもしれないし、私も割と最近までそう思っていた。
しかし、数年前に宝塚にある手塚治虫記念館で手塚さんが中学生の時に描いた写実画を見たが、「やっぱり絵だけでも天才だ」と思うほど素晴らしいものだった。
人気漫画家というのは非常に忙しく、1つ1つの絵にかける時間が厳しく制限されるのだということは、理屈では分かっていたが、改めてそれを思い知った気がしたものだ。
男性漫画家としてかなり繊細な描写をしていた楳図かずおさんも、やはり売れていた頃は殺人的な忙しさであったらしいが、それであれだけ描けるのであるから、その気になれば、画家やイラストレーターとしても相当なものであったと思う。
だから、漫画家で成功するには、絵を描く才能というのは絶対的条件と思う。
その上で、素晴らしいストーリーを創り、あるいは、たとえ原作が別にあったとしても、それを輝かせる創作力が必要であるのだろう。
だが、特に売れっ子作家の場合、ストーリーなどを考える時間、エネルギーも限られているはずなのだ。

そう考えると、思うのであるが、逆に、漫画家が20代で代表作を描くのは、その多忙さゆえではないかという気もするのだ。
もし、その時の彼らに十分な時間があって、お金の心配もなく、余裕を持って描いていたら、おそらく、今残っているような傑作を描くことはなかっただろう。
普通に考えるなら、若い作家の作品の致命的な欠点は、技術的なことよりも、自己主張の稚拙(幼稚で未熟であること)さであると思う。
だから、本当は、特に若い作家は、作品に自己主張を持ち込むべきでない。
ところが、上にも述べた大作家達の若い時の代表作には、むしろ、大いなる自己主張が見られるに違いない。
しかし、それは、彼らの個人的な自己主張ではないのだ。
ここが重要なところだ。
忙し過ぎて、私的な自己主張等などは考えている余裕はなかったはずなのだ。
作品の中にある精神的なものは、一見、彼らの個人としての思想、信念、情感のように見えて、実はそうではない。
多忙のために、普通に言う思考のようなものは飛んでしまっていて、彼らの心の奥深くにあるものが現れているのであり、それは、もはや、個人的な精神とは言えないのだと思う。

小説家の場合であるが、筒井康隆さんには素晴らしい作品が沢山あるのに、『時をかける少女』を代表作のように書かれることがよくあるのは、おそらく本人にとっては不本意であろうと思う。
この作品は、筒井さんにとっては、多分、さほどの思い入れはないのではないかと思うし、おそらく、それほど情熱を込めて書いたものでもないと思う。
しかし、だからこそ傑作になったのだということも、上に述べた漫画家の場合と似ているように思う。
実際、『時をかける少女』は、表面的に見れば、表現的には10代の若者向けに(元々、中学3年生の学習雑誌用に書いたものらしい)簡明に書かれ、ストーリーも比較的単純で、過去にも似たようなものがあると言えるかもしれないが、それでも、恐ろしいほどの傑作であると思う。

プラトンの『ソクラテスの弁明』に書かれているソクラテスの話の通り、いかなる職業であれ、優れた創造的活動は、作者とされる者が行っているのではない。
ソクラテスは、教師として自分が話すこと全てが、自分が考えて言っているのではないことに気付いていた。
自分の教えが自分の個人的なものではないことを知っていたという理由で、彼は自分を知恵者だと言った。
決して、自分の個人としての考え方が優れているから自分は賢いと言ったのではない。
むしろ彼は、自分自身は何も知らないのだと言ったし、それをはっきりと自覚していたのだ。

プラトンがソクラテスの言葉を書き写した、『ソクラテスの弁明』には、創造の偉大な秘密が明かされているのである。
ところで、個人的に制作したものだと思うが、Kindle電子書籍の藤田大雪さんの『ソクラテスの弁明』が非常に良いと思う。わずか150円なので、Kindkeが利用できる方は読んでみられてはと思う。
また、よろしければ、初音ミクがサファイア王女に扮して歌った、『イーハトーヴ交響曲』のアンコール曲『リボンの騎士』をご覧になられたい。









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ジェネレーションギャップは大きいほど気づき難い

『時をかける少女』は、1934年生まれの作家、筒井康隆さんが1965年頃に書いた短編小説であるが、いまだ映画や漫画になることに、著者本人が驚いているかもしれない。
この作品は今でも当たり前のように出版されているが、「今読んでも違和感がないなあ」と感じるのは、ひょっとしたらかなり年配の人かもしれない。
主人公の芳山和子は中学3年生で、他にも中学生が何人か登場するが、当たり前だが誰もスマートフォンを持っていないし、当然、LINEで連絡を取り合うこともない。SNSなんて概念もない。
当時の人に初音ミクのライブ映像を見せたら、恐るべきロボットだと思うだろう。それを空想したら、ちょっと面白くはある。

しかし、学校の様子はどうだろう?
今は、小学校でもコンピューター室があったりもするのだが、基本的には学校というのは百年以上前から変わっていない。
『時をかける少女』の、初めの1行はこうなのだ。

放課後の校舎は、静かでなにかしらさむざむしい。ときどきどこかの教室のとびらのあけしめされる音がだれもいない廊下にうつろにひびく。

なんとも涼秋を感じさせられるという人も多いと思うが、ここらの様子は今でも同じようなもの・・・あるいは、全く変わらない。
百年前の人が、現代の銀行や空港に来たら、そこがどんな場所なのか理解することができないが、学校だけはすぐに分かるというのは問題だから、学校も変化しないといけないなんて議論が盛んに行われるようになったのもまた、かなり昔のことなのだ。
電子書籍しかないが、『10年後の教室』という本が最近出版されていて、この中で、近未来の進歩した教室と、それに相応しい授業風景、教育内容が意気込みを持って書かれているが、まあ、期待薄といったところかもしれない。

学校だけでなく、会社のオフィスも、いかに変化しているとはいえ、基本的にはそう変わらないような気がする。
「近未来オフィス」に似たような言葉は、おそらく、何十年も前からあるが、昭和30年代の映画の中の「ちょっといい会社」のオフィスの様子を見たら、「俺のとこよりずっといいじゃないか」と思うことも多いかもしれない。いまだ、だらだら何十分も電話をする30代の人も決して少なくはない。そんな人達は、いかにスマートフォンやインターネットを使っていても、旧世代の人間であり、おそらく、現代のITテクノロジを本当には使えていないのである。
「今の人」は電話なんてほとんど使わないし、たとえ使っても、実に簡潔だ。

また、こんな話があった。
60代の女性が、遊びに来ていた小学生の孫に、「テレビのチャンネルを回してみて」と言うと、孫は、その言葉が理解できない。
「チャンネルを回すとはどういう意味なのだろう?」
昔のテレビはリモコンもなく、テレビのところまで行って、電源を入れたり、ボリュームを上げ下げする操作をしなければならなかったが、チャンネルを変えるには、手で回転させるスイッチで行うものが多かったのだ。

こんなことは、10歳の年の差があれば、何かのことで十分に有り得る。
今でもアナログカセットはそのためのデッキもメディアも売っているが、カセットテープを見ても、これは何に使うものか分からない人がいてもおかしくはない。
アメリカの中高生が、音楽CDというものがそろそろ分からなくなったのは10年以上前のことだ。

たった10年の違いで世の中の概念が変わり、明らかなジェネレーションギャップが存在する。
これが数十年なら、大変な違いになり、百年近く経てば、もう別世界だ。
それなら、いかに素晴らしいことが書かれているとはいえ、古典であれば、うかつにそのまま受け取ると、とんでもない誤解をする可能性がある。
新約聖書の福音書を読むと、一見、そう違和感を感じないかもしれない。しかし、それは、読み手が、その内容を勝手に現代的なものや概念に置き換えているからに違いない。
これが、1937年に書かれSF小説『銀河パトロール隊』であれば、まだ、現代との違いに気付くので、可笑しく感じたり、ちょっと間抜けに感じたりするのであるが、聖書や論語やギリシャ神話となると、古過ぎて気付かないことが多いのである。
(もっとも、『銀河パトロール隊』には、現代以上のステルス戦闘機の構想などがあったりして、なかなか面白い)
偉い人には、論語を優れた人生哲学として振りかざす者もいるのだが、実は、孔子が教えた意味は、そんな人が「こうだ」と主張することとは随分違うことも多い・・・いや、実際は「全く違う」のである。
年の差カップルなんてものにしても、年代差が気に障るのは、10歳差くらいの場合で、これが30年違えば、案外に気にならなくなってしまうものらしい。慣れてしまえば、「こんなものだ」と諦めてしまうということもあるが、分からないのでかえって刺激がなくなってしまう・・・まあ、親子みたいなものである。

だから、古典を読む時は、理屈の頭で読めば、自己本位の解釈になってしまい、その真意や貴重なところを得ることができないのだ。
いわゆる、「論語読みの論語知らず」の状態になるが、さっきも述べたが、論語信者の大半はそうであると私は思う。自分勝手な解釈をして悦に入っているというだけだ。
『老子』や『聖書』や『バガヴァッド・ギーター』、『ギリシャ神話』、『古事記』、その他の優れた古典を読む時は、無心で、魂で読まなければ、むしろ、害があるかもしれない。公式な立場の宗教家のほとんどが、仏陀やイエスの教えを全く理解していないというのは確かである。
古い聖典を読んでも、理屈では何も分からないのは当たり前なのだ。
しかし、できるだけ無我になって読めば、行間から霊的な叡智が囁くだろう。

尚、下にご紹介した書籍は、『10年後の教室』は電子書籍だけ。後は、紙の本と電子書籍の両方が存在する。
私は、『時をかける少女』以外は、全て電子書籍で読んでいる。









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運命が異なる並行世界の間をあなたも移動している

並行宇宙という、今のところ仮説と言えるものがある。
並行世界、並行時空、あるいは、パラレルワールドとも言う。
数多くの宇宙(世界)が同時に存在し、それぞれは大きく、あるいは、少し異なっている。
例えば、今のあなたがサラリーマンの平社員でも、別の1つの世界では係長で、また別の世界では大事業家である。さらに、スポーツのスターである世界もあり、極悪犯罪者である世界もある。
どれだけの世界があるのかというと無限で、それどころか、絶えず新しい世界が生まれ、いかなる世界でも存在する。

筒井康隆さんの昔の短編小説で『果てしなき多元宇宙』というものがある。
この作品は、筒井さんの超ロングセラーで日本の歴史的作品と言える『時をかける少女』と共に盛光社のジュブナイル短編集に収録され、1967年に出版されたのが最初と思うが、現在も、角川文庫の『時をかける少女』に収録されていると思う(私は、少し昔の角川文庫版を持っている)。
昭和40年頃の作品と思うが、並列世界のことを非常に面白く描いた、現代でも十分に通用する作品である。
3921年のトーキョーで、新型エネルギー供給装置の実験中に事故が起こり、あらゆる時代において、並列宇宙に混乱が生じてしまう。
現代(昭和40年頃か)の高校一年生である暢子(のぶこ)は美少女で、自分でも美しいと思っていたが、まぶたが一重であることを残念に思っていた。ところが、不意に二重まぶたになってしまう。
また、ボーイフレンドの史郎は優等生で人間的に立派だが、暢子は、彼にはヒーロー的な男らしさと感じるものがないのが物足りないと思っていた。しかしある日、彼が大勢の不良達を叩きのめしてしまう。
さらに時空は動き、平凡な女子高生であった暢子は人気タレントになっていた。

SF世界の空想のように思われる並行宇宙であるが、実際にあると言って良いと思う。科学者の中には、技術的問題さえ解決すれば観測可能と言う者も いるし、おそらくその通りだ。それなら、そんな装置が既に発明された世界もあるだろうし、我々は観察されているのだろう。

「この世界」では、我々の運命は完全に決まっている。それに納得しない人もいるが、広大な宇宙の中で、人一人の一生なんて、あまりにちっぽけであり、せいぜいが百年程度の人生がコンマ一秒まで全部事前に決められているといっても、不思議でも何でもない。
インドの偉大な聖者ラマナ・マハルシの前で、ある者が、1つの扇を床に置き、それを持ち上げた後、マハルシに、「私がこうすることも、既に決まっていたことなのですか?」と尋ねると、マハルシは何の感慨も示さず、「もちろんだ」と答えた。
だが、別の宇宙では、別の運命が展開されている。
アメリカのSFテレビドラマ『宇宙大作戦(スター・トレック)』で、並列世界が重なって同時に現れるというお話があった。ある世界では、カーク船長やミスター・スポックが乗る宇宙船USSエンタープライズ号は、見事危機を乗り越えてミッション(任務)に成功するが、別の宇宙では失敗し、エンタープライズ号は消滅する。
あなたは、学校や会社で憧れている女性(あるいは男性)がいるが、口を利くこともないかもしれない。しかし、別の世界では恋人同士だし、別の世界では犯罪者仲間かもしれない。

しかし、どんなに多くの世界があり、どれほど大きな違いがあろうと、魂は1つで、どの世界の自分もつながっており、実際は同じであるのだろうと思う。
『法華経』を読むと、お釈迦様はおそらく、並行世界のことを言っているのだろうなあと思うところがある。
そして、同じ魂の自分がいる別世界に行くことも可能だと言っているのかもしれない。
私も、次元を超えて世界を移動したことがある、何の証拠も示せないが、そうとしか思えない特殊な印象がある。覚えていないものも含めれば、一度や二度のことではないのかもしれない。
あなたも、覚えていないだけで、次元移動をしているのかもしれない。いや、おそらくしているし、その気になれば思い出すことも可能だ。
次元移動をすれば、変わるはずのない運命も変わる。
移動した先の自分がどうなるかなんてのは三次元的発想であり、四次元的に考えれば、別に矛盾は起こらない。単純に解釈してもらっては困るが、吸収されてしまう。吸収の意味を三次元的に考えてはならないのだ。そこは、『法華経』や『正法眼蔵』を何度も読んで超発想を持たない限り分からない。多分、量子物理学で本当に理解しようと思ったら、時間がかかる上に、一面的な理解しかできないし、ある時には、考え方の全面転換が迫られることになるだろう。その場合でも、時が経てばまた、考え方の基礎が崩れてしまう。科学なんてそんなものである。
しかし、悟りを開けば、全ての世界に同時に存在していることを知るのだから、特に別の世界に移りたいなどとは思わないだろう。









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あなたはなぜ実力が発揮できず、後悔するような言動をしてしまうのか?

予防医学ってものがある。病気になってから治療するより、病気にならないように手を打ちましょうというもので、例えば、インフルエンザ予防接種もその1つである。
ただ、あらゆる病気を予防することはできないし、あまり多くの病気の予防をするのは大変なので、かかると深刻な病気(例えばポリオ)や、年を取るとかかりやすい、心臓病や脳卒中などに特に備えたりするのだろう。

肉体に対して、精神的な予防というものは、ほとんど進歩していないが、こちらの方が重要であるはずなのである。
心身医学というものはあるのだが、精神が身体に影響を及ぼすということに対し、まだまだ理解が低いのである。
だが、実際は、身体と心は1つである。しかし、人類はそれを当分、認識しないだろう。
精神の予防ということについて、1つのことを以下に取り上げる。
サイエントロジーという宗教を作ったL.ロン.ハバートというアメリカのSF作家は、ほとんどの病気は精神が原因とあるとし、「ダイアネティックス」という精神療法技術を確立した。
だが、サイエントロジー、および、ダイアネティックスには批判も多い。その一方、どうしても、トム・クルーズやジョン・トラボルタ、あるいは、有名ミュージシャンといった芸能界の大物が注目されるのだが、多くの分野の信奉者も多いのである。ハバートは教育家でもあるが、彼の教育書には、日本の教育界の有識者や、あるいは、稲盛和夫さんといった実業界の著名人が賛同、推薦の言葉を述べていたりもする。
私は、サイエントロジーに関してはよく知らないが、「ダイアネティックス」については、ハバートが完璧に書いた書籍をじっくりと読んだ。世界で2千万部ほども出版されているそうだ。
サイエントロジー、ダイアネティックス、あるいは、ハバートそのものに対し、よく知りもせずに、カルト扱いする者も少なくない。そもそも、「カルト」という言葉が、単に宗教的崇拝とか、せいぜいが熱烈な支持だという意味を知らずに、「カルトだ」と非難の意味で言う者も多いのである。
擬似科学批判者として知られる数学者、奇術師のマーティン・ガードナーも著書でハバートを批判していたが、おそらく彼はダイアネティックスの本をちゃんと読んでいない。彼の批判は的外れで滑稽だった。
私とて、実は、ダイアネティックスを完全に信頼しているのではない。
しかし、実に興味深いと思ったし、たとえ想像にしろ、このようなものを考え、作り上げたことに対してはハバートに敬意を持つべきだと思う。また、まがりなりにも、1億冊の著書が出版されているというハバートはただ者ではないことは確かだろう。

ダイアネティックスは簡単に言えば、人間の中には、精神的逸脱を起こす要因が、普通の人では少なくとも数百はあるとされるが、それを消去するための技術である。
その精神的逸脱を起こすものは、一人の人間の誕生以前から現在にいたるまで、いかなる時点でも作られうるが、我々はそれを全く意識できないので、自分で消去することはできない。
筒井康隆さんの短編『悪夢の真相』で、般若の面がなぜか恐くして仕方がないという少女がいた。だが、彼女はその理由が全く分からない。ある時、彼女はそれには衝撃的な原因があったことを知るが、彼女は全く覚えていなかった。この少女に、般若の面に対する恐怖を起こさせたのが、ダイアネティックスでいう「精神的逸脱を起こさせる原因」であり、それは、この少女にとって、正常に生きるための障害になっている。
(※『悪夢の真相』は、角川文庫『時をかける少女』に収録)
そのようなものが深刻な影響を与えることがある。自分では気付かないが、内部にできたしまった「精神的逸脱の要因」により、本来の実力の1/10も発揮できなかったり、身体と心が1つのものであるなら、身体にも深刻な悪影響を及ぼすこともある。そう言われたら、はっとする人も多いことだろう。
フランスの心理学者エミール・クーエは、自己暗示だけで、数多くの難病を治した。自分で歩くこともできずに、彼の治療院に担ぎ込まれた人が、彼の暗示療法により、10分後には元気に走り回っているということもよくあったらしい。その患者は、「精神的逸脱の要因」により、脚に障害が出来ていたが、クーエの精神療法がその作用を止めたのだろう。ただ、クーエの療法が、その要因を消したのか、止めただけなのかは分からない。

あくまでダイアネティックスではということだが、これにそれなりの信憑性があるとして述べるとこうだ。
あなたには、実力の発揮を妨げたり、醜悪な、あるいは、奇怪な言動をあなたにさせてしまう、自分では分からない要因が、あなたの中に何百、何千とあるのである。
そして、その要因を発動させる引き金(トリガー)というものがある。
上に挙げた『悪夢の真相』の少女では、それが般若の面であったのだが、実をいうと、どんなものでもトリガーになり得る。たとえば、やなぎの木であるとか、ベンゼンの臭い、何かの歌である。
その要因を消せない以上、それに近付かないというのが、「予防ダイアネティックス」である。
そして、あなたを狂わせ、堕落させる要因が、あなたの母親であるということもあるかもしれない。私は、実は、それが多いと思っている。
だから、早くに家を出て、母親、あるいは、父親と顔を合わせないようにすることが、幸福なことであり、あなたの人生を豊かにすることである可能性は高いのである。
ニートだって、家を出てしまえば、案外に普通の人以上に積極的に、そして、有能に働ける場合は多いはずなのだが、家で母親の顔を見ている限り、一生ニートにならざるを得ないのである。
これも、人間の問題解決の1つのヒントになるだろう。
ただ1つ簡単に付け加えておく。
精神的逸脱の要因になることを、意識的にしろ、無意識的にしろ、いくら避けようとしても、不思議なほどにそれに遭遇してしまうものだということに気付くかもしれない。
それが運命であると同時に、神に何かの意図があったり(それは決して人知では理解できないが)、神があなたに何かをさせようとしているのかもしれない。
その対応方法を知り、教えるのが本物の聖者なのである。









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嘘の記憶がなぜバレないのか?

海外の何かの映画で、ある中年の男が、青春時代までの思い出は、全部、作り物の嘘だったというものがあった。
日本のアニメでも、9歳の少女が、幼児だった頃までの記憶が全部作り物だったり、2年生の女子高生が、1ヶ月ほど前に、それまでの記憶を奪われ、別の記憶と入れ替えられたといったものがあった。
そして、これらの、偽の記憶を与えられた者達は、ずっとそれに気付かずにいた。

しかし、いくら巧妙に新しい記憶を作ったとしても、人間の記憶なんて膨大なものであり、どこかでつじつまが合わず、不自然に感じるはずだ。
上にあげた映画やアニメでも、9歳の少女は、幼い時の記憶の中で、自分が別の名で呼ばれていたり、女子高生は、母親の名前を知らなかったり、中学生の時の制服がどんなものだったか憶えていない。
しかし、別に不思議なことではない。
我々だって、夢の中で王様になることがあるかもしれないが、そんな時も、王子や王女だった頃の記憶がある訳でないはずだ。

L.ロン.ハバートの『フィアー』という小説では、39歳の男性が、ある日の8時間の記憶を失くしていた。
筒井康隆さんの『悪夢の真相』でも、中学2年生の少女が、小学生の時のある時間の記憶が全く消えている。
武内直子さんの漫画『美少女戦士セーラームーン』にも、高校1年生の月野うさぎが、ほんの少しの時間のことだが、重大な記憶を喪失してしまうというものがあった。
これらは、単なる空想ではなく、ありうることだ。
『フィアー』では、「あなたも8時間を失うことがある」といったことが書かれていたが、全くその通りだ。

初めにあげた、ある時までの記憶が偽者である9歳の少女と、2年生の女子高生が、その事実を知った時の反応が興味深い。
共に、ふらふらと崩れ落ちた。
事実そうなる。
こういうことだ。明らかにつじつまが合わないような記憶であっても、本人が疑わないのは、そのように(呆然自失の状態)ならないためだ。「ふらふらと崩れ落ちる」というのは、肉体の問題ではなく、心が土台を失って固定されない状態なのだ。
心というのは、無理にでも記憶のつじつまを合わせて、固定しようとするのだ。
人間が洗脳されやすいのは、そのためだ。

アインシュタインは、時間や空間は相対的なもので、絶対的な時間や空間なんてものはないことを解明したが、心だって相対的なものだ。つまり、心というものは、何かとの関係性で成り立っている。その関係性は、別に嘘であっても良いのだが、それを崩されると、心は土台を失って、崩壊の脅威にさらされる。
そして、これは科学の範囲を超えるが、なぜ、時間や空間が相対的であるかというと、それは、心が作り出したものであるからなのだ。だが、これだって、驚くほどのことではない。時間が精神状態で伸び縮みすることくらい、誰でも知っている。楽しい時間は短く、辛い時間は長いものだ。

そして、さらに重大な秘密を明かすなら、映画やアニメを観るまでもない。あなたの記憶も全部嘘なのだ。
「そんな馬鹿な」と思うかもしれないが、本当だ。
それらの作品が面白いのは、そんな理由もあるのだ。
あなたは、「私は誰か?」と問い続け、本当の自分があなたの心をがっしりと捕らえてくれるのを待つのが良い。ラマナ・マハルシの本で学ぶと良いだろう。

本文であげた作品は下記にご紹介する。(一番最初にあげた映画作品だけは、憶えていない)
尚、『悪夢の真相』は、角川文庫版の『時をかける少女』に収録されている。同じく収録された『果てしなき多元宇宙』と共に、実に面白い傑作である。
『フィアー』の著者、L.ロン.ハバートは、アイザック・アシモフや、レイ・ブラッドベリ、スティーブン・キングらが絶賛する天才作家で、1億冊以上の著作が出版されており、教育家としても知られている。それよりも、トム・クルーズやジョン・トラボルタらが深く信仰する宗教であるサイエントロジーの教祖と言った方が分かり易いかもしれない。
映画『美少女戦士セーラームーンR』では、うさぎ(セーラームーン)の恋人、地場衛の子供の時の記憶が変性されている。それは、そうしなければ、衛はあまりに辛くて、心を保てなかったからだろうと感じる。私の好きなアニメ映画の傑作だ。

















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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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