ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

福音書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

頬を撫でる風

10年以上前のことだったと思うが、調査によれば、アメリカ人の半分以上が守護天使(ガーディアン・エンジェル)の存在を信じているというものがあった(どれほどの規模の調査かは分からなかったが)。
アメリカではキリスト教徒が多いはずだが、福音書の中で、イエスが、寄付をする時や断食をする時、あるいは、お祈りをする時は、隠れてやれと言っている。そうしたら、神が見ていて、ご褒美を下さるからだと言う。
つまり、善いことをしても、悪いことをしても神が見ているぞと言うのであり、キリスト教徒は、子供の時からそう教えられ、神の目を意識しているはずだが、天使が人間の行いを見ていて、それを神に報告したり、あるいは、天使が直接、褒美を与えたり罰したりするという考え方もあるのかもしれない。

日本では、「お天道様が見ている」という言い方をすることがあり、「お天道様(おてんとうさま)」は太陽のことだが、太陽と神を同一視する考え方があるのだと思う。
時代劇の『木枯らし紋次郎』で、数人の外道な男達が女の子を襲っていた時、紋次郎が、「お天道様が高い時に何やっていなさるんで」と言う場面があり、それで視聴者にはちゃんと通じたのだと思う。
太陽は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の象徴であるから、お天道様が一番恐い訳であるが、日本では、あらゆるものに神が宿っていると考えていた。いわゆる、八百万(やおよろず)の神である。

初音ミクさんの公式デモソングで、事実上のデビュー曲とも言える『星のカケラ』は実に良い曲で、近年ではライブで歌われることもあるが、その中に、

頬なでる柔らかな風が
そっと寄り添ってくれる
~『星のカケラ』 (作詞作曲編曲:平沢栄司。唄:初音ミク)より~

という歌詞があるが、これは、日本人には自然に受け入れられる感覚である・・・つまり、風にも神が宿っているのである。
私も、子供の時から、夏の夕暮れに吹くそよ風に、何か感慨深いものを感じていたものである。
『サイボーグ009』で、インディアンである005ことジェロニモがよく「風が騒いでいる」などと言い、自然の風の中に精霊のようなものを感じていたのかもしれないが、それは日本人にも通じるのではないかと思う。

インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』でも、至高神クリシュナが「私はあらゆるものに宿る」と言い、人間では心臓の中にいると言う。
心臓と言うよりは、心の中にいるのだと思うが、心臓が魂の座であるという考え方はあると思う。

これらのことは、懐かしくは感じるが、実感を伴わない人が多いかもしれない。
しかし、神というか、人間を超えた存在を身近に感じることが、人間を高い存在にするのだと思う。
それがなくなって来たことが、人間の堕落の原因かもしれない。
アメリカの大統領選挙を見ていると、選挙で大規模な不正を行い、露骨なまでに証拠が上がっていながら、それを無視、あるいは、強硬に否定する左派(リベラル派。民主党)、主要メディア、裁判官、ビッグテックを見ていると、人間がいかに神を畏れなくなってしまったかが分かり、恐怖を感じるほどである。
アメリカの公式標語が「我々は神を信じる」であったはずが、金しか信じないアメリカ人が増えてしまい、さらに、そんな者達が支配する世の中になってしまった。

民族により、やや趣は異なるかもしれないが、神を畏れる気持ちを忘れては終わりであると思う。
それは、案外に、人間である限り、共通する感覚なのであると思う。
だが、逆に、神を身近に感じているほど、放埓(勝手気まま)に振る舞うことは出来ないが、一般に幸運と呼ばれる神の恵もあるのだと思う。
1952年に出版された、ノーマン・ヴィンセント・ピールの『積極的考え方の力』は、神を身近に感じることを思い出させてくれる書であり、だからこそ、アメリカ人に偉大な魂を取り戻させ、3年の間、ベストセラーのトップになり、今日にまで愛読されるのだろう。
そして、今のアメリカはもう手遅れかというと、不正選挙に抗議し、首都ワシントンDCに何十万もの愛国者が集まって、神の国を取り戻そうとしているのを見ると、まさに今が正念場と思う。








石で殺されることを免れた女は、その後どうなったか

『幸福な王子』で知られるアイルランドの作家、オスカー・ワイルドの『善をなす魂』は、異色で面白いものらしいが、日本人で知る者はあまりいないかもしれない。
(私も直接読んだことはないし、どこに収録されているのかも知らない)
イエス・キリストに救われた人々が、皆、不幸になっていた・・・という、大変にばち当たりなお話のようだ。
死から甦らされたラザロですらそうだ。
分かり易い例として、イエスの「罪のない者から石を投げよ」という名セリフで救われた女を取り上げる。
その女は、夫以外の男とエッチしたことがバレたのだと思うが、当時のその地では、それは重罪で、この女の場合は、投石で殺される死刑ということになったのだと思う。裁判でそう決定された訳ではないリンチとしても、人々の間で正当性が認められるリンチだったのだろう。
そして、今まさに、その刑が実行されようとした時にイエスが現れ、女に石を投げようとする人々に、
「罪のない者から石を投げよ」
と言うと、身に覚えのない者・・・叩いてもホコリの出ない者はいないので、誰も石を投げなかった。
そこでイエスは、
「女よ、お前は許された。もう罪を犯すな」
と言って去った。
新約聖書の福音書の記述はここまでだ。
『善をなす魂』では、その後、その女は堕落し、娼婦にでもなったのだと思う。
女に再会したイエスが、「愚か者」と女を責めると、女は、
「あなたが許してくれたのよ。他にどうしろって言うの?」
と言い、イエスは返答が出来なかった。

どうもね、ワイルドは、この女のように不幸な者に自分を重ねていたのだと思う。
だから、イエスが、この女を本当には救えないように、イエスは私も救うことは出来ないとでも言いたいのかもしれない。
『幸福の王子』だって、一見、美しい話だが、王子による不幸な人々の救済には限界がある上、タイトルとは違い、王子も悲惨になるばかりだった。

その女の話は単純である。
女が石打ちの刑になったのは、女が引き寄せた状況である。
女は夫と不仲だったのだろう。
というより、夫が気に食わなかったはずだ。
それで、いつも気分が悪く、男遊びにうつつを抜かすようになったが、そんな悪い気分の中で、ロクな男を引き寄せるはずがないから、結果、ますます気分が悪くなる。
いつも言うが、この世界は、「気分が良ければ良いことが起こり、気分が悪ければ悪いことが起こる」仕組みになっている。
(いい男、いい女を引き寄せるには、良い気分でいなければならない)
確かに、女はイエスに救われる状況も引き寄せ、救われた時は、気分も良かっただろうが、根本的な解決はされていないので、すぐにまた悪い気分になり、同じことを繰り返すしかなかった。

つまり、人間は、苦しいところを助けられたからって、心を入れ替えるようなものではない。
常に自分の心の状態を監視し、悪い気分に支配されていたら、良い気分になるよう、気持ちを切り替える術を持つことで、好ましい状況を引き寄せるようにならないと、不幸なままだ。
また、気分が良いことと、快楽との区別が付く程度の知恵は持たねばならない。
快楽は苦痛に変わる甘いお菓子と同じで、限度をわきまえねばならない。
つまり、「私はチョコレートを食べると気分が良くなるんです。だから、気分が悪い時はチョコレートにします」と言ったところで、チョコレートは、ちょっと沢山食べただけで気持ちが悪くなる。
もっと賢くならないといけない。
最も良い気分になれる方法は、これもイエスが教えているのだが、願いが叶った状況を想像して楽しくなり、「幸せだ」「ありがたい」と思うことである。








無限に許すのが断然お得

あまりはっきりとは覚えていないが、新約聖書の福音書で、誰かがイエスに、
「悪いことをしてきた相手を何度許せば良いですか?7度ですか?」
と尋ねると、イエスは、
「その70倍許しなさい」
と答えた。
77回という解釈もあるが、まあ、無制限に許せという意味と思う。
いまどき、そんなことを言うと、
「そんなに許せるか!」
「しかし、あいつだけは許せん」
「一度でも許せない罪がある」
などという声が上がりそうだ。

だが、イエスが言う通りにすることは、別に高潔であるとか、偉いからというのではなく、断然お得なのである。
言い換えれば、人を許さないのは、恐ろしいほど損なのである。

まず、相手が自分に悪いことをしてきたのは、自分が引き寄せた・・・つまり、本当は、自分が相手にやらせたのである。
そうでなければ、そんなことは起こらない(相手が悪いことをしてこない)。
つまり、本当に罪があるのは自分だ・・・などと言ったら、怒られるくらいでは済まないかもしれないが、少なくとも私はそう思っている。
この部分から納得しない人が多いが、敢えて言えば、この通りなのである。
そして、悪いことをされたら、誰でも腹が立つ。つまり、不快な気分になる。
それは、凡人でも、聖者でも同じである。
だが、この宇宙の厳然たる仕組みというのが、
「良い気分でいれば良いことが起こり、悪い気分でいれば悪いことが起こる」
である。
これは、科学的(特に量子物理学的)、心理学的、宗教的、霊的・・・どれで言っても正しいと思う。
だから、本当に賢い人は、悪い気分になっても、すぐに気持ちを切り替えて良い気分になる。
少しくらい悪い気分になっても、すぐに悪いことは起こらないし、良い気分(の作用)の方が悪い気分(の作用)よりずっと大きな力があるので、良い気分になれば、悪い気分の影響を容易く消せる。
とはいえ、悪い気分を放置したり、それどころか、多くの人がそうするのだが、悪い気分にさせた悪いこと(相手がしてきた悪いこともそうだ)について集中して考え、さらに気分が悪くなる。
すると、次の、さらに悪いことが起こり、ますます、気分を悪くすることになってしまう。
この「悪いこと―悪い気分」ループが習慣になってしまっている人が多く、結果、お金はないし、好きな人には相手にしてもらえず、人が去っていくと・・・いうのが、当たり前になってしまっている。

人を許さないと、こんなに損なのである。
別に、悪いことをしてきた相手を好きになれとか、仲良くしろというのではない。
その相手のことや、その相手がした悪いことに意識を向けるのをやめて、楽しいこと、建設的な興味を持っていること、面白いこと、愛すべきことに意識を向ければ良いのである。
それで気分が良くなれば、その者がした悪いことの影響もなくなるし、忘れてしまう。
また、悪い問題に蓋をしろというのではない。
負債があるなら返さないといけない。
しかし、負債に対し、ネガティブな感情を起こすのではなく、楽々と返すことが出来るはずだと考えることだ。
そう考えて気分が良くなれば、実際にそうなるだろう。








キリストの秘法を親切に解説してみた

イエス・キリストは、自分が万能であると堂々宣言し、実際にその力を見せたが、そんなことが出来るのは自分だけではなく、「信じる者には何でも出来る」と言い、誰でも自分と同じことが出来ることを示唆した。
それなら、どんな願いも叶うはずだが、イエスは、願いの叶え方を特別に教えている。
彼が教えたシンプルな方法こそが究極であることを、チャールズ・ハアネルは成功講座である『ザ・マスター・キー』で述べていえる。この本は、若き日のビル・ゲイツも学んだと言われている。
そのイエスの願望達成法について、少し述べる。

イエスの方法は実に簡単で、「願いは既に叶ったものと思う」だけである。
貧しくて豊かになりたいなら、既に豊かであると思い、病気で苦しんでいるなら、既に健康になったと思えば良い。
ただ、貧乏な者が、自分は豊かであると、「本当に」思うことは難しい。
なぜなら、自分は貧乏だと思っているから貧乏という状態を引き寄せたのであるからだ。
その者の「私は貧乏だ」という思いは信念であると言えるが、人の信念を変えることは難しい。
そして、その信念を変える方法こそが、世の中に無数に現れ続ける成功法則、成功講座、成功プログラムで、上に挙げたハアネルの『ザ・マスター・キー』も、その1つということになる。

思い通りの信念を持つことが出来れば、人生は自由自在であり、だから、クラウド・ブリステルは『信念の魔術』を唱え、「魔法使い」ダイアン・フォーチュンは、魔法とは「心に自在に変革を起こす技術」であると定義した。
だが、誰の方法もうまくはいかない。
心の傾向性とは、幼い時の、親や周囲の大人や教師から刷り込まれた、いびつで哀れっぽく、チンケな(程度が低い)教育から出来ていて、それを消去し、優れたものに変えることは容易なことではない。
何百万円もかかる変革法もあるが、それでも上手くはいかなかったのである。

けれども、その方法が単純で簡単であることが分かって来た。
簡単過ぎて見逃していたのである。
例えば、こんなものだ。
私は子供の時、SF映画『火星人地球大襲撃』を見たが、最後に、地球人より、科学力、精神力ではるかに優れた火星人を1人の人間が倒す。
なぜ、そんなことが出来たかというと、その方法が簡単過ぎて、火星人が気付かなかったからだというのが、非常に印象に残っている。
イエスの秘法をうまく使うやり方も同じだ。

願いが叶ったら・・・豊かになったら、健康になったら、素敵な彼氏や彼女が出来たら、希望する学位が取れたら、どうなるだろう?
間違いなく、「良い気分(フィール・ファイン)」になるはずだ。
願いが叶った時の「良い気分」を感じるくらいの想像力は誰にでもある。
それを呼び起こせば良いだけである。
「あの子が僕の彼女」と思ったら、胸の奥が震えるような感動みたいなものがあるだろう。それが良い気分だ。
その良い気分を歌にしたのが、ビートルズの『アイ・フィール・ファイン』で、あのリズムと演奏と歌声の中に、彼らの天才的な感性で表現した『良い気分』がある。
病気が治って健康になった時のように、願いが叶った時の気持ちと、晴れ渡った青空を見た気持ちが似ていることが分かると思う。それを「良い気分」と言うのだ。
また、人によって、良い気分を感じるものが、いろいろあるだろう。
夕焼けの平和な街、猫が平和そうに寝ている姿、一面の花畑、ライブで初音ミクさんが見せる一瞬のポーズ・・・そんなものを見た時の感動、安らかな気持ち、幸福感・・・そんなものに「良い気分」を感じるかもしれない。
それを見た時に感じる感覚を、願いが叶った時のイメージや、「病気が治った」という言葉と合わせれば良いだけである。
断言するが、気分が全てである。
宇宙を運営するプログラムは、あなたの気分に同調するように作られているのである。








我々は法華経や新約聖書に登場する転落した息子である

新約聖書の福音書と、仏教の最も有名な経典である法華経に似たお話があって面白い。
イエスと釈迦が語ったことになっている。
いずれも、金持ちの息子の転落と復活のお話だ。
「俺、金持ちの家の出じゃなから関係ない」なんて思わないで欲しい。釈迦もイエスも、「これはあなたのお話」と言っているのである。

イエスの方のお話はこうだ。
金持ちの地主に、2人の息子がいた。
うち1人の息子が父に、家を出るから財産を分けてくれと願い、父はその通りにしてやった。
だが、出て行った息子は遊び暮らして財産を失くし、貧乏のどん底に陥る。
そこで、父に下僕として雇ってもらおうと思って家に戻ると、父は大歓迎し、盛大なお帰りなさいパーティーまで開いてくれた。
面白くないのは、長年、真面目に働いてきたもう1人の息子だが、父は、その息子の機嫌も取る。

釈迦の方の話はこうだ。
途方もない金持ちがいたが、その息子が幼い時に行方不明になってしまう。
金持ちは必死に探すが見つからなかった。しかし、50年後、遂に息子を見つける。
しかし、貧しい息子は、すっかり貧乏根性が身に付き、父親が近付くとビビってしまい、話が出来そうにない。
そこで、父親は、自分が父であるとは言わず、息子を下僕に雇い、自分も下僕のふりをして一緒に働きながら息子を導く。
20年かかったが、なんとか息子は立派になり、死が迫った父は、有力者達と共に息子を呼び、「お前は私の息子で、私の全財産の相続者である」と皆の前で宣言し、息子もそれを受け入れる。

イエスの話の金持ちの地主は神であり、一度出て行った息子は、我々のことだ。
そして、釈迦の話の大金持ちは仏であり、貧しくなった息子は、我々のことだ。

つまり、人間というのは、宇宙最大の富と権力のある親がいて、その親と一緒に居れば良いのに、(精神的に)離れてしまうことで不幸になるということを言っている。
だが、親の元に戻りさえすれば、欠けているものは何もないのである。
ここまでは、それぞれの宗教の信者は分かっていることであるが、どうすれば親の元に戻れるか、はっきり教えていない。
いや、妙好人(在家の優れた念仏信者)として知られる因幡の源左という教育のない明治時代の農民や、江戸末期の神道家、黒住宗忠らが、苦労の末、それは、神や仏にまかせきることであると教えていて、その通りなのであるが、肝心のところが隠されたままだ。
その最も肝心なことは「気分を良くする」こである。
イエスの話の息子は、家の仕事が嫌で気分が悪かったから、大金を持っても、心の隙間を埋めるために遊び狂って全財産を潰し、気分が悪いので何をやってもうまくいかなかった。
しかし、どん底の中で、わが身を振り返り、少し気分が良くなったので、父の元に帰るというアイデアが浮かび、自分は愚か者だから下僕で良いと覚悟したので、気分爽やか・・・つまり、気分は良かった。
そして、家に帰ると、神である父は「私のものは全部お前のもの」と言ったのである。
けれども、家に残って真面目に働いていた息子が「なんであんなアホが僕と平等以上の扱いを受けるのですか」と文句を言うが、父は、「そんなこと考えちゃいけないよ。私のものは全部、お前のものじゃないか」と言うが、おそらく、その後、「だから気分良くいなさい」と言ったことは削られているのだ。
父が両方の息子に「私のものは全部お前のもの」と言ったことに引っかかる必要はない。神の財産は無限なのだからだ。
釈迦の話の息子は、長い貧乏生活の中で、すっかり、気分を悪くする習慣が身についていたので、どんどん駄目になっていた。
息子は、気分さえ良ければ、父は「私はお前の息子。私のものは全部、お前のもの」と言って、息子もそれを簡単に受け入れ、すぐに幸せになれたのに、父があの手この手で、息子に、気分が良くなることを教えるまで、それが出来なかった。

我々は、気分を良くしさえすれば、すぐに神や仏の財産を与えられる。
宇宙は、人間の気分に同調し、気分が良い者には、さらに気分が良くなる出来事を、気分が悪い者には、さらに気分が悪くなる出来事を起こすのである。
ある意味、我々は、笑顔やガッツポーズで、気分を良くする訓練をすると良いと思う。
訓練とは楽しいものであり、イチローのように、多くやればやるほど上手くなる。
イチローも、トレーニングが楽しいので、毎日長時間やりたいと言っていたはずだ。
仏典も聖書も、「気分を良くすればOK」という最も肝心なことは隠されてしまった。
今、こう言われても「そんな馬鹿な話は信じません」と言う人が多いのである。
ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』の本やDVDを見ると、『ザ・シークレット』が出る前から金持ちで、バーンの手下でも何でもない成功者達が、気分の秘法をあっけらかんと明かしているので、一度見てみると良いと思う。
だが、この本も、こう言ってやらないと解らない人は多いと思うのだ。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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