ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

福音書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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幸運を呼ぶ最後の方法

人間が持つ力には、いろいろなものがある。
極めて大きな力に、権威というものがあるが、今の日本で権威を持つのは皇室だけだ。
で、それ以外となると、富、健康、友愛となる。
富や健康はともかく、友愛が力だというのはピンと来ないかもしれないが、これほど大きな力はあるまい。ただし、本物の友愛であればだが。

そして、富も健康も友愛も、努力して得られるかどうかは分からない。
それらが得られるかどうかは、運次第だ。
つまり、結局のところ、人間が持つ一番大きな力は運であることが分かる。
皆、大なり小なり、心の中では、それを分かっている。
それで、「運を得る方法」が書かれた本は人気があり、そこそこ良いことが書かれているものもあるが、劇的な効果はない。

江戸時代の高名な観相家(顔や身体の相で運命を鑑定する者)であった水野南北は、
「運の良し悪しは、食の量で完全に決まる、即ち、食多ければ衰運で、食少なければ幸運である。これに万に一つの外れもなかった」
と断言した。
(ただし、「食べられない」のではなく、自主的に「食べない」ことが必要である)
水野南北の主張は、ほぼ正しいと思う。
よって、極端に小食にする必要はないが、食を慎むことはお勧めする。
だが、それでも、因縁の力は強く、悪因縁(悪業)が強い場合は、断食が必要なことがあり、それで命を落とすこともある。
これに関しては、新約聖書の福音書に、こんな話がある。
ある、悪霊に憑りつかれた男がいて、イエスの弟子達が、その男から悪霊を追い出そうとしたが、出来なかった。
イエスは、後で、「このような場合には断食が必要だ」と言った。
つまり、この悪霊に憑りつかれた男の悪因縁(悪業)が強過ぎ、イエスの弟子達の力ではどうにもならず、本来なら、この男は厳しい断食をする必要があった。
それこそ、死ぬほどの断食が必要な、あるいは、それでも足りないほどの悪因縁(悪業)だったかもしれない。
だが、イエスは簡単に悪霊を祓ってしまった。
ではなぜ、イエスにそれが出来たのかというと「格の違いだ」と言えばその通りなのだが、私は、福音書は、重要な記述が取り去られ、貴重な方法が隠されたような気がするのである。

親鸞は、深い悪因縁(悪業)を祓うには念仏だと言ったのである。
つまり、神仏の名を唱えるナーマスマラナが、そのやり方なのである。念仏もナーマスマラナの1つである。
ただし、普通の人では、かなりの数が必要である。
イエスは、磔になる直前に、「私の名で求めよ」と言い、自分の名を唱えることを教えたが、やはり、福音書には、これが曖昧な雰囲気で書かれ、「イエスの名を唱えれば良い」と気付いた人は少ない。
つまり、神仏の名を呼べば、必ず幸運を呼べるのである。ただし、心の中で、丁寧に数多く唱えれば。
イエスでも、南無阿弥陀仏でも、阿弥陀仏でも、南無観世音菩薩でも、観世音菩薩でも、アマテラスオホミカミでも良い。
自分の好きな神仏の名を唱えれば良いだけである。








聖典のすゝめ

真言を、より楽しく、快適に唱え、ひいては、早く願いを叶えるために、関連の聖典を1つ読んでおくと良いと思う。
聖典の多くは、本来、子供でも読めるほど易しいもので、それに、おとぎ話のようで面白いものだ。まあ、難しく翻訳したい先生がいるから、少し困るのであるが、聖なる書は、誰でも簡単に読めてしかるべきものである。

主に、念仏と、観世音菩薩について述べる。

念仏の場合、元々、法然の『選択本願念仏集』と、親鸞の弟子、唯円が親鸞の教えを書いた『歎異抄』があり、特に、『歎異抄』は短くて読み易いので、これ1冊でも十分である。
ただ、念仏の場合、『浄土三部経』と呼ばれる、『無量寿経(大無量寿経)』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つが、根本聖典になっている。
(龍樹の『十住毘婆沙論』を挙げる人もいるだろうが、これも、主に『観無量寿経』を元にしている)
この中で、私は、『観無量寿経』をお勧めする。
理由は、短くて、おとぎ話のようで面白いということもあるが、阿弥陀仏や観世音菩薩、それに、勢至菩薩について、釈迦が詳しく、素晴らしい説明をしてくれているので、念仏を唱える時に、良いイメージが持てるからである。
尚、念仏というのは、一般的には「南無阿弥陀仏」であるが、本来は、仏を念じることで、そのためには、名を呼ぶことが最も自然なのである。
だから、特に、「南無阿弥陀仏」でなくても、「阿弥陀」「阿弥陀仏」と唱えても良い。好きなら、サンスクリット語で「アミターバ」と唱えても良い。
また、阿弥陀如来真言である「オン、アミリタ、テイセイ(テイゼイ)、カラウン」も同じと考えて良いと思う。
私は、「阿弥陀仏」と唱えることが多い。そして、その際、『観無量寿経』に書かれた、釈迦が語る阿弥陀仏の印象が微かに心にあり、これが実に良いのである。
私も、『観無量寿経』を、それほど熱心に読み込んではいないが、それでも十分と思う。
また、『観無量寿経』を読むと、阿弥陀仏や観世音菩薩の名がどれほど貴く、その名を唱えることが、どれほど威力があることかも分かるのである。

次に、観世音菩薩の名を唱えることに関しては、『法華経』の25章『観音経』を読むことをお勧めする。
『法華経』全体は長いが、『観音経』だけなら短い。
『観音経』には、観世音菩薩が、どれほど凄い力を持っているかだけでなく、観世音菩薩が、想像も出来ないほど偉い仏(呼び名上は菩薩だが)であるかが釈迦によって語られており、やはり、観世音菩薩の名を唱える時に、わずかでも、その印象があると、やる気が違ってくる。
観世音菩薩の名の唱え方は、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」だが、好きなら、サンスクリット語で「アヴァローキテーシュヴァラ」と唱えても良いし、「観音様」でも良いと思う。
また、観世音菩薩の真言である「オン、アロリキャ、ソワカ」も良い。
ところで、般若心経の呪文、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(中国語)
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(サンスクリット語)
は、観世音菩薩を讃える意味が大きいので、これを唱える時も、観世音菩薩の印象があるのは、やはり良いと思う。
(中国語、サンスクリット語、いずれを唱えても良く、効果も同じである)

必ずと言うわけではないが、長いものではないので、おとぎ話でも楽しむように、『観無量寿経』や『観音経』を読むと、大きな利益があると思う。
願い事が叶い過ぎて恐くなるかもしれない(笑)。

尚、イエスの名を唱える場合は『新約聖書』の『福音書』を、クリシュナの名を唱えるなら『バガヴァッド・ギーター』を読むと良いだろう。
天照大神の名を唱えるなら、『古事記』の上巻だけでも読んでおくと良いと思う。
ちなみに、私は、『古事記』では、大国主神(おおくにぬしのかみ)と火遠理命(ほおりのみこと)のファンであることを明かしておく(笑)。












迫る終末と始まり

個人的な不平不満、あるいは、ただの不況や政策の不備との区別は難しいかもしれないが、それでも、
「今の世界は相当おかしい」「世界は闇に飲まれつつある」
と、直観、あるいは、霊感で感じている人が増えているだろう。
人類全体で、どれほどの人々が、そう感じているのかは分からないが、日本においては、まだ、気付いていない人の方がずっと多いように思う。
だが、アメリカでは、昨年の大統領選挙によって、自由の国であるはずのアメリカが、既に共産主義化していることに多くの人が気付くことになった。
そして、新型コロナウイルスを巡る様々なことよって、世界中で、多くの人々が、「もう世界はハルマゲドンのような状態にあるのではないのか」と強い危機感を感じるようになった。
ハルマゲドンとは、新約聖書の『ヨハネ黙示録』として書かれた世界終末戦争の予言であるが、このハルマゲドンが近付くと、あちらこちらに、偽救世主が登場することも予言されている。
怪しげな者達が、自分が救世主であるかのように話し、本を出し、動画配信しているので、詐欺師に慣れていない者は気を付けなければならない。
本来、そんな偽の救世主は、「こいつは偽物だ」とすぐに分かるはずであるが、偽預言者は、一般民衆にかけられた洗脳や、権力に教育された思考パターンを利用することが巧みなので、普通の人には、なかなか見破れず、大衆の支持を得ることすら珍しくはない。その大成功者がヒトラーなのであるが。
だから、やたら受けが良い人気者・・・たとえば、インフルエンサーなどは頭から疑った方が良いのである。

だが、常に真言を唱えているなら、偽の救世主を見ても、偽物だと、ちゃんと感じるのである。
ところで、偽の救世主は敵のボスではなく、知識があったり、話がうまいなどの理由で利用され操られているだけの下っ端である。
ところが、その下っ端であるはずの偽救世主自身が、自分は選ばれた救世主であると強く妄想していることが多く、その本人の思い込みが伝わって来るし、元々、話がうまいので、本物っぽく感じる場合もあるので気をつけて欲しい。
偽の救世主は、自慢が好きでナルシストである。
イエスは、自分が、知恵においては、ソロモンよりはるかに優るとは言ったが、自分が偉いとか、自分が素晴らしいと言ったことはなかった。
イエスは、自分は、あくまで人々に仕える者であり、自分に出来ることは誰にでも出来ると言い、そして、全ての良い業は神の力によるものであると言ったのである。
そのようなことが書かれた福音書を読んでおくと、偽預言者に騙されないだろう。
そして、日本には『歎異抄』という素晴らしいものがある。これは、短くて素朴な、まるで備忘録のような書であるが、これを読むと、本物と偽物の違いが分かるようになる。しかも、これには、念仏を題材とした真言の究極の極意が書かれている。
あくまで象徴的な意味であるが、阿弥陀、観音、それに、弥勒を擁する光の側の力は圧倒的である。ただ、各自がどちらを選ぶかだけの問題なのである。
今は、闇に騙されてしまっているので、闇が良く思え、闇を選ぶ者が多いが、そんな者達は、日々、不安に怯え、ストレスに悩まされている。
光の存在を感じてはいても、光に確信が持てず、闇の誘惑に負けそうな者も、闇の世界に落ち込んでしまう危険が大きい。
しかし、真言をたゆまず唱えていれば、闇と手を切ることが出来るし、そのために、光は、真言を唱える者をこの上なく気遣い保護してくれるだろう。
もう、それほど長くは続かない。
いつ、いかなる時、場所でも、心の中で真言を唱えていれば、何も心配はないだろう。








『歎異抄』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むと良い理由

人間の能力は、固定観念を壊せば壊すほど大きくなる。
ある意味、純真無垢な子供のようであるほど、能力が高いのである。
子供は、知識と経験がなく、いわゆる「やり方」というものを知らないので出来ないことが多いが、ご存じのように、物覚えが速く、場合によっては、あっという間に大人と互角以上になる。
(だが、子供が高い学習能力を発揮するのは、あくまで興味がある場合で、学習を強要すると学習能力自体に障害をきたし、学べない子になる)

固定観念を壊すには、馴染んだものから離れる必要がある。
しかし、普通の大人は、馴染んだことばかり見たがり、聞きたがり、やりたがるので、一般に、歳を取るほど馬鹿になるのである。
だから、新しいことを始めないといけない。
固定観念を壊すために、いわゆる「ビックリ体験」をすることは良いことだが、金持ちの中には、金を出して、受け身のビックリ体験ばかりしたがる者も多いが、そんなものでは、単に面白いだけで、向上することはない。
新しい体験で自分を良い方向に変えるには、「自分が否定される」ことが必要だからだ。
だから、純粋に向上心のある一流・・・例えば、大経営者、トップのスポーツ選手や音楽家や画家などの芸術家は、自分を若い人に否定してもらいたいと本当に思っているが、やがて、口では「私を否定してくれる者を歓迎する」と格好の良いことを言いながら、今の自分を称賛してくれる崇拝者を求める。
つまり、崇められてニコニコするようになったら、もうすっかり下り坂なのである。

本を読む時も、心地良く感じるもの・・・つまり、自分の思想性に合ったものを読んでも仕方がない。
そんな本は、沢山読めば読むほど、自分の固定観念を強化するだけで、本人は、「私は沢山読んでいる。それで賢くなっている」とでも思っているのだろうが、単なる物知りの馬鹿になっているのである。
世間的常識に染まることを、悪い意味で「大人になった」と言う。
『涼宮ハルヒの憂鬱』で、涼宮ハルヒは美少女なので、中学生の時から、沢山の男子が彼女に交際を求めたが、ハルヒは、「ただの人間には興味ないの」と片っ端から振っていく。
つまり、普通の人間は、中学生にもなれば、世間的常識・・・つまり、固定観念が多くなってしまっていて、ハルヒに嫌われるのである。
キョン(高1男子)もハルヒに「普通になること」を求めたが、ハルヒはそのことについてはキョンを受け入れず、ハルヒはキョンの扱いに困って、精神を乱してしまうのである。
私は、そこそこ大きな会社の新しく社長になる人に『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むよう勧めた。面白いことに、その会社の若い女子社員の中にも、彼にこれを勧めた人がいたらしい。しかし、結局、彼は、「俺には無理」と読まないことに決めた。その会社は、彼が社長になってからも、どんどんつまらない会社になり、業績は低下していった。彼は早々に社長をやめたが、そんな者ばかり社長にするその会社は、そろそろ終わりかもしれない。
そんな訳で、『涼宮ハルヒの憂鬱』を是非読みなさい。

固定観念を壊してくれる本には、中国の『荘子』がある。
大人の固定観念に馴染まない本なので、当然、『論語』に比べれば人気がなく、『荘子』を読んでいる大人は少ない。
固定観念の多い大人から見れば、『荘子』は、子供向けのおとぎ話のように感じるのである。
そして、『荘子』は、世間的常識に凝り固まった人間を笑うが、これを読んで一緒に笑えるのは、その世間的常識という固定観念を壊せた者だけである。
一方、最初から固定観念を持たない者にとっては、ちょっと面白いおとぎ話程度に感じるかもしれない。
そんな訳で、面白く感じるまで『荘子』を読みなさい。

おそらく・・・と言うより、確実に私も固定観念を強く持っていたのだが、そんな私に衝撃を与えてくれたのは『歎異抄』だった。
『歎異抄』は、親鸞聖人の弟子だった唯円が、親鸞聖人の教えを思い出して綴ったものである。
短い本だが、どんどん私の「常識」を裏切り、そして、幸い、壊してくれたと思う。
ところが、『歎異抄』の解説本となると、これが、下らないものが多い。
『私の歎異抄』『歎異抄を読む』みたいなタイトルの本の大半がそうで、そんな本は、著者が一度は『歎異抄』で固定観念を壊された経験があるのだろうが、彼らは、今度は、『歎異抄』で作った固定観念をダラダラ書いているのである。
つまり、『荘子』も『歎異抄』も、永遠の聖典であってはくれない。
これらの本に、内容自体の解説は必要ない。
だから、解説本は読まない方が良い。そんな本を読んで、気持ち悪いと思ったら、まだ救いがある。
『荘子』や『歎異抄』で腐ってしまった人は、科学や数学の本を読んだり、コンピューターの勉強でもすると良いかもしれない。あくまで興味があればだが。

宮沢賢治が、『法華経』を読んで感動したのは、彼がまだ厚い固定観念を持っておらず、『法華経』で固定観念を壊せたからだろう。
そこらは、彼がおぼっちゃんで、あまり苦労をしていないことの、良い面だったかもしれない。
しかし、彼は、別の面の固定観念が強く、浄土仏教(法然や親鸞の教え)の方は、受付けなかった。
だから、彼の能力はどこか歪(いびつ)で、精神的、肉体的にも健康でなかった。
ここらは、秀才であったことの悪い面だったのだと思う。

『法華経』や『聖書』は、固定観念の強い大人から見れば、特に、大人になってから初めて読もうとしたら、とても読めたものではない。
子供騙しの馬鹿げたおとぎ話としか感じないだろう。
また、子供の時から、これらに馴染んでいたとしても、固定観念が増えてくると、読むのが苦痛になる。
よって、『法華経』や『聖書』を大人になってからも熱心に読める人には、天才が多い。
『聖書』全体は長くて大変だから、『福音書』を読んでみると良いと思う。普通の大人には、おそろしくつまらないだろうが。








2人の超駄目息子のお話

『新約聖書』の『福音書』と『法華経』に、少し似た、大金持ちの駄目息子の話があるが、私は、両方共大好きである。

『福音書』の方は、だいたい、こんな話だ。
途方もない大金持ちである大農園主の父親に2人の息子がいた。
そのうちの1人が、父親に、ここを出ていくと言い、財産分与を求めた。
父親は、求めのままに大金を渡し、その1人の息子は父親のところから去った。
ところが、出て行った息子は、やがて財産を使い潰し、食べることも出来なくなり、豚の餌を食べる有様だった。
そこで息子は、「お父さんの所に帰って、奴隷として雇ってもらおう」と思い、父親の農場に帰った。
すると、父親は大喜びし、その息子に良い服を着せ、大宴会を開いて歓迎した。

『法華経』の方の話はこうである。
途方もない大金持ちの父親に幼い息子がいたが、ある時、この息子が行方不明になり、父親は必死で探すが見つからない。
だが、父親は諦めず、ずっと探し続け、50年が経った時、ついに、父親は息子を見つけた。
しかし、息子は浮浪者で、すっかり貧乏根性が身に付いていて、今、父親が「私が父だ」と言っても、受け入れてくれそうになかった。
そこで、父親は息子を奴隷として雇い、父親も息子と一緒に奴隷として働きながら、息子を少しずつ導いていった。
20年かかったが、ついに息子の心構えが立派になり、自分は寿命が尽きようとしていたので、息子と親類縁者全員を集め、息子に自分が父だと明かすと共に、皆に、この息子が自分の後継者であると言い、膨大な財産を息子に譲って死んだ。

両方のお話共、息子の駄目さ加減が半端ない。
『福音書』の方の放蕩息子は、落ちぶれるにしろ、豚の餌を食べないといけないという生活力のなさには呆れる。妻子を養えないまでも、男が自分1人食べていくくらいのことは、いくら何でも出来そうなものである。
『法華経』の息子も、浮浪者にまでなるとは、飛び切りの駄目息子であり、しかも、大金持ちの父親が、いきなり「私が父だ」などと言ったら、逃げ出すに違いないと思われるほど心が貧しくなっていた。
両方の息子共、働くことすら一切出来ない愚か者で、ひょっとしたら私やあなたより酷いかもしれない(笑)。
しかし、両方の息子共、やるべきことは、父親のところに帰り、父親に甘えることだけだった。
ちなみに、『福音書』と『法華経』の、大富豪の父親とは、神様や仏様であり、無限の富と力を持っている。
そして、両方の駄目息子は、私やあなたなのである。
我々は、これらの息子達に比べれば、少しはマシに見えるかもしれないが、この世で辛い目に遭いながら生きていることは同じだ。
だが、そんなことをしていないで、神様仏様の力を頼れば良いのである。
ドナルド・トランプがこよなく尊敬するノーマン・ヴィンセント・ピールの世界的ロングセラー『積極的考え方の力』の最後を、ピールは、「なぜ神の力を求めないのか」と、結んでいる。
また、求め方も書いているが、読者に伝わっていないかもしれない。
簡単過ぎて伝わらないのだ。
我々は、学校やマスコミから、ひねくれて考えるよう洗脳されているからね(笑)。
学校やマスコミは、我々に奴隷根性を叩き込んでいるのである。
だから、我々は、自分が神様や仏様の息子や娘だという実感を取り戻さないといけない。
そのためには、神様仏様の実体を知る必要がある。
それが出来るよう、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジが、懇切に教えていたのだが、彼らの本の難しいこと(笑)。
彼らの言葉を記録したり、翻訳した人が、教えをよく分っていないので、易しい言葉にすることが出来なかったのだと思う。
だが、ネヴィル・ゴダードが、『At Your Commnad(翻訳:新装版 世界はどうしたってあなたの意のまま)』で、同じことを、少しは分かり易く書いてくれている。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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