会社の入社式などで、「新入社員の誓い」なんてものは、よくあるのだろうか?
私は新卒で入社したことがないし、入社式というのも縁が無いのでよく分からないのだが、テレビで見た大企業の入社式にそんなものがあったと思う。
学校などでも、新入生挨拶などというものがあったのかもしれないが、私はさっぱり憶えていない。多分、ほとんど誰も憶えていないだろう。
会社であれば、新入社員の代表が、「業績向上のため、全力で努力します」というのを、言葉を飾って言うのだろうし、学校であれば、「伝統を守り、勉学に励みます」といったところだろうか。
しかし、イエス・キリストは、「誓うな」と言ったのである。
もう少し詳しく言うと、「誓ったことは必ず果たせと昔の人は言ったが、私はお前達に言う。決して誓ってはならない」とイエスは言ったのである。
つまり、誓いというのは、どんなものでも、神に対する誓約となる。
普通の意味で言うなら、会社の業績など、新入社員にとっては知ったことではないだろうし、学校の伝統など、ほとんどの生徒には関心外のことで、勉学に励む気も無いだろう。
そんな者が誓えば、神に対して嘘を言ったことになる。
それも軽くはないが、イエスは、もっと重大な意味で言ったに違いないのだ。
例えば、本当に真面目でやる気のある新入社員や新入生が、心から、「俺の力で会社の業績を上げてみせる」とか、「立派な学生になって、勉強もがんばるぞ」と思っているとしても、そのようなことを思いのままにやれたりなどはしないのだ。
会社の業績を上げることが、その者の運命であれば、仕事に興味がなくてもそれを成し遂げるだろうが、そういう運命でなければ、いかに能力があって努力をしたところで会社の発展に寄与しないばかりか、会社に重大な損失を与えることだってあるかもしれない。
勉強するつもりであっても、学業を放棄する運命であれば必ずそうなる。逆に、はじめはやる気がなかったとしても、運命がそうなっていれば、学校始まって以来の学績を上げるだろう。
我々には、出来事をコントロールする何の力もない。どんな些細なことであっても思い通りにすることなど決して出来ないのだ。
イエスも、「お前達は、髪の毛1本、黒くすることも白くすることもできない」と言い、人々に、自分の無力さを自覚させようとしたのである。
全ては神の意思の通りに動くのだ。
それを、イエスは、「神の意思によらずに何も起こらない。空の雀一羽、神の許可なく落ちたりしない」と言ったのだ。
人が何を誓ったとて、それを叶える力は、その者には全くないのだ。
だから、自分の想いでどうなる訳でもないことを誓うべきではない。それは、自分では気が付かないかもしれないが、神に対し、嘘を言ったことになるのだ。
だが、その者に、叶うはずのない誓いをさせたのもまた神なのだ。おかしな話であるが、これを、聖なるジョークだと言った聖者もいる。
つまり、人は、想いすら、自分で自由に起こせるのではない。
想いもまた、神が人に与えたものなのである。
自分で考えたつもりであっても、そう思い込んでいるだけであるが、これは科学的にも解明されていることである。
入社式や入学式での誓いは、世間の教義に基づくもので、そんな誓い言葉を言わされたのもなりゆきであろう。
しかし、馬鹿げた世間の誓いなど、たとえ言ってしまっても、それは忘れることだ。
人は、自由に考えることが出来る訳ではない。だが、起こったことに対して、心を留めるか離すかを決めることだけは出来るのだ。
そして、悟った人間は、全て幻想として、そこに心を留めない。
それを釈迦は、「聖者は第二の矢を受けず」と言ったのである。
好みのタイプの異性に惹かれるのが第一の矢で、これは聖人、凡人の区別なく受ける。だが、凡人はそこに心を留めることでエロチックな想念が起きるが、聖人は心を離すので、現実感を持たないのだ。
なりゆきで、世間の迷妄に従った誓いをさせられたのは仕方がない。それもまた、起こるべくして起こった必然であり、運命であった。しかし、それから自分を解放することは出来るのである。
キリスト教式の教会の結婚式を見たことがあるだろうか?
私も何度か見たが、あまりの馬鹿馬鹿しさに居たたまれなかった思い出ばかりだ。
あれはイエス・キリストとは何の関係もない偽物だ。
「神が結び合わせた」と言うことに関しては正しい。神の意思によらずして、何も起こらない。これは、人の側から言えば、運命によらずして何も起こらないということだ。
だが、「この女(男)を、生涯、愛し、敬うことを誓いますか?」などという冗談を言うのはやめた方がいいだろうし、それに、「はい」なんて答えたら、皆で爆笑するくらいで良いのである。なぜなら、それはジョーク以外の何物でもないからだ。
実際、そんな誓いは誰も守っていないのだから、もし本気で誓ったなら、神に嘘をついているのである。そして、それをさせる教会もまた、神をないがしろにしていると言えるに違いない。
だが、ジョークにしてしまえば、罪は免れるだろう。
私が世界屈指の小説と思う、カミュの『異邦人』で、若くチャーミングな娘マリィがムルソーに「結婚してくれる?」と問うと、ムルソーは簡単に「いいよ」と答える。
だが、マリィが、「私のこと、愛している?」と聞くと、ムルソーは、「分からないけど、多分、愛していない」と言ってマリィを戸惑わせる。
だが、ムルソーこそ正しいのだ。なりゆきであれば結婚すればいい。ムルソーは、マリィのことは、美しいし、多くの点で好ましいとは思っているのだろうから。しかし、そのように、最初から、愛してなどいないと正直に言うべきなのである。
我々も、イエスの真の教えに則り、決して誓わないことだ。
だが、操り人形かロボットでしかない我々は、神の意思により、「心から」誓ってしまうこともあるだろう。
ならば、あなたに悪いことをした者やその行為を忘れるように、悲しいことを忘れるように、あるいは、逃した利益を忘れるように、その誓いも忘れてしまうことだ。
神もまた、忘れるために、我々に誓わせたのかもしれない。
『不思議の国のアリス』で名高い数学者のルイス・キャロル教授は、ある少女(小学生位と思うが)にこんな手紙を書いている。
「僕は、忘れることが出来るというレッスンを受けている。その成果で、もう名前も仕事も忘れてしまった。先生は、『月謝を払うことだけは忘れないで欲しい』と言ったけど、先生のレッスンは素晴らしいので、それも忘れちゃった。忘れることは本当に気持ちのいいことだよ」
『列子』の中にも、こんなお話がある。
ひどく物忘れの激しい男がいて、家族は困っていた。そこで、ある名医に診てもらい、見事に治ったが、医者はその男に激しく憎まれることとなった。男は、毎日、泣き暮らすしかなくなったからだ。
私の知る、ものを忘れるための素晴らしい先生は、NLP(神経言語プログラミング)の開発者であるリチャード・バンドラーだ。
彼は、人の問題は記憶力が悪いことではなく、物覚えが良過ぎることだと言う。
脳は、「さあ、あのひどい出来事を思い出して、また落ち込もう。なあに、あの思い出でまだまだ嫌な気分になれるさ」と言っているようなものなのだ。
バンドラーは、嫌な記憶を忘れる・・・というか、印象を変えてしまって、非現実化するテクニックをいろいろ紹介している。例えば、その思い出を、頭の中で再現しながら、サーカスでピエロが登場する時のような間抜けな雰囲気の音楽をBGMにするのだ。
他にも様々なものがあり、例えば、レイプされた苦しみから立ち直った女性も多くいるという。
結婚式で、神父に「あなたは富める時も貧しい時も、生涯、変わらず彼女を愛しますか?」と聞かれ、真面目な顔と声で「はい」と言った記憶を、滑稽なBGMを鳴り響かせながら頭の中に描けば良いのである。
すると、「神様、あれは冗談でした。でも、私にああ言わせたのは神様でしょ?」と思えるようになるだろう。
ただし、あなたもまた、「あなたは私をずっと愛するって誓ったじゃない?」などと決して言わないことだ。
そして、どんな時も、決して神様に恨み言を言わないことだ。
いや、言ってもいい。でも、すぐ忘れることだ。
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私は新卒で入社したことがないし、入社式というのも縁が無いのでよく分からないのだが、テレビで見た大企業の入社式にそんなものがあったと思う。
学校などでも、新入生挨拶などというものがあったのかもしれないが、私はさっぱり憶えていない。多分、ほとんど誰も憶えていないだろう。
会社であれば、新入社員の代表が、「業績向上のため、全力で努力します」というのを、言葉を飾って言うのだろうし、学校であれば、「伝統を守り、勉学に励みます」といったところだろうか。
しかし、イエス・キリストは、「誓うな」と言ったのである。
もう少し詳しく言うと、「誓ったことは必ず果たせと昔の人は言ったが、私はお前達に言う。決して誓ってはならない」とイエスは言ったのである。
つまり、誓いというのは、どんなものでも、神に対する誓約となる。
普通の意味で言うなら、会社の業績など、新入社員にとっては知ったことではないだろうし、学校の伝統など、ほとんどの生徒には関心外のことで、勉学に励む気も無いだろう。
そんな者が誓えば、神に対して嘘を言ったことになる。
それも軽くはないが、イエスは、もっと重大な意味で言ったに違いないのだ。
例えば、本当に真面目でやる気のある新入社員や新入生が、心から、「俺の力で会社の業績を上げてみせる」とか、「立派な学生になって、勉強もがんばるぞ」と思っているとしても、そのようなことを思いのままにやれたりなどはしないのだ。
会社の業績を上げることが、その者の運命であれば、仕事に興味がなくてもそれを成し遂げるだろうが、そういう運命でなければ、いかに能力があって努力をしたところで会社の発展に寄与しないばかりか、会社に重大な損失を与えることだってあるかもしれない。
勉強するつもりであっても、学業を放棄する運命であれば必ずそうなる。逆に、はじめはやる気がなかったとしても、運命がそうなっていれば、学校始まって以来の学績を上げるだろう。
我々には、出来事をコントロールする何の力もない。どんな些細なことであっても思い通りにすることなど決して出来ないのだ。
イエスも、「お前達は、髪の毛1本、黒くすることも白くすることもできない」と言い、人々に、自分の無力さを自覚させようとしたのである。
全ては神の意思の通りに動くのだ。
それを、イエスは、「神の意思によらずに何も起こらない。空の雀一羽、神の許可なく落ちたりしない」と言ったのだ。
人が何を誓ったとて、それを叶える力は、その者には全くないのだ。
だから、自分の想いでどうなる訳でもないことを誓うべきではない。それは、自分では気が付かないかもしれないが、神に対し、嘘を言ったことになるのだ。
だが、その者に、叶うはずのない誓いをさせたのもまた神なのだ。おかしな話であるが、これを、聖なるジョークだと言った聖者もいる。
つまり、人は、想いすら、自分で自由に起こせるのではない。
想いもまた、神が人に与えたものなのである。
自分で考えたつもりであっても、そう思い込んでいるだけであるが、これは科学的にも解明されていることである。
入社式や入学式での誓いは、世間の教義に基づくもので、そんな誓い言葉を言わされたのもなりゆきであろう。
しかし、馬鹿げた世間の誓いなど、たとえ言ってしまっても、それは忘れることだ。
人は、自由に考えることが出来る訳ではない。だが、起こったことに対して、心を留めるか離すかを決めることだけは出来るのだ。
そして、悟った人間は、全て幻想として、そこに心を留めない。
それを釈迦は、「聖者は第二の矢を受けず」と言ったのである。
好みのタイプの異性に惹かれるのが第一の矢で、これは聖人、凡人の区別なく受ける。だが、凡人はそこに心を留めることでエロチックな想念が起きるが、聖人は心を離すので、現実感を持たないのだ。
なりゆきで、世間の迷妄に従った誓いをさせられたのは仕方がない。それもまた、起こるべくして起こった必然であり、運命であった。しかし、それから自分を解放することは出来るのである。
キリスト教式の教会の結婚式を見たことがあるだろうか?
私も何度か見たが、あまりの馬鹿馬鹿しさに居たたまれなかった思い出ばかりだ。
あれはイエス・キリストとは何の関係もない偽物だ。
「神が結び合わせた」と言うことに関しては正しい。神の意思によらずして、何も起こらない。これは、人の側から言えば、運命によらずして何も起こらないということだ。
だが、「この女(男)を、生涯、愛し、敬うことを誓いますか?」などという冗談を言うのはやめた方がいいだろうし、それに、「はい」なんて答えたら、皆で爆笑するくらいで良いのである。なぜなら、それはジョーク以外の何物でもないからだ。
実際、そんな誓いは誰も守っていないのだから、もし本気で誓ったなら、神に嘘をついているのである。そして、それをさせる教会もまた、神をないがしろにしていると言えるに違いない。
だが、ジョークにしてしまえば、罪は免れるだろう。
私が世界屈指の小説と思う、カミュの『異邦人』で、若くチャーミングな娘マリィがムルソーに「結婚してくれる?」と問うと、ムルソーは簡単に「いいよ」と答える。
だが、マリィが、「私のこと、愛している?」と聞くと、ムルソーは、「分からないけど、多分、愛していない」と言ってマリィを戸惑わせる。
だが、ムルソーこそ正しいのだ。なりゆきであれば結婚すればいい。ムルソーは、マリィのことは、美しいし、多くの点で好ましいとは思っているのだろうから。しかし、そのように、最初から、愛してなどいないと正直に言うべきなのである。
我々も、イエスの真の教えに則り、決して誓わないことだ。
だが、操り人形かロボットでしかない我々は、神の意思により、「心から」誓ってしまうこともあるだろう。
ならば、あなたに悪いことをした者やその行為を忘れるように、悲しいことを忘れるように、あるいは、逃した利益を忘れるように、その誓いも忘れてしまうことだ。
神もまた、忘れるために、我々に誓わせたのかもしれない。
『不思議の国のアリス』で名高い数学者のルイス・キャロル教授は、ある少女(小学生位と思うが)にこんな手紙を書いている。
「僕は、忘れることが出来るというレッスンを受けている。その成果で、もう名前も仕事も忘れてしまった。先生は、『月謝を払うことだけは忘れないで欲しい』と言ったけど、先生のレッスンは素晴らしいので、それも忘れちゃった。忘れることは本当に気持ちのいいことだよ」
『列子』の中にも、こんなお話がある。
ひどく物忘れの激しい男がいて、家族は困っていた。そこで、ある名医に診てもらい、見事に治ったが、医者はその男に激しく憎まれることとなった。男は、毎日、泣き暮らすしかなくなったからだ。
私の知る、ものを忘れるための素晴らしい先生は、NLP(神経言語プログラミング)の開発者であるリチャード・バンドラーだ。
彼は、人の問題は記憶力が悪いことではなく、物覚えが良過ぎることだと言う。
脳は、「さあ、あのひどい出来事を思い出して、また落ち込もう。なあに、あの思い出でまだまだ嫌な気分になれるさ」と言っているようなものなのだ。
バンドラーは、嫌な記憶を忘れる・・・というか、印象を変えてしまって、非現実化するテクニックをいろいろ紹介している。例えば、その思い出を、頭の中で再現しながら、サーカスでピエロが登場する時のような間抜けな雰囲気の音楽をBGMにするのだ。
他にも様々なものがあり、例えば、レイプされた苦しみから立ち直った女性も多くいるという。
結婚式で、神父に「あなたは富める時も貧しい時も、生涯、変わらず彼女を愛しますか?」と聞かれ、真面目な顔と声で「はい」と言った記憶を、滑稽なBGMを鳴り響かせながら頭の中に描けば良いのである。
すると、「神様、あれは冗談でした。でも、私にああ言わせたのは神様でしょ?」と思えるようになるだろう。
ただし、あなたもまた、「あなたは私をずっと愛するって誓ったじゃない?」などと決して言わないことだ。
そして、どんな時も、決して神様に恨み言を言わないことだ。
いや、言ってもいい。でも、すぐ忘れることだ。
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