ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

神曲

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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明るい霊界通信活用法

霊界通信という、霊能者が、あの世に行った死者と対話するというものは、どのくらい昔からあるのか想像も出来ない。
日本では、恐山(おそれざん)のイタコという女性霊媒師(長年の修行が必要なので、おばあさんばかりらしい)が昔から有名だが、アニメの『かぐや様は告らせたい?』の中で、このイタコについて、ごく普通に語られるなど、一般にも知られているのだと思う。
世界的に有名な霊界通信には、あのエマーソンが「人類の5人」に選んだほどの偉大な人物である、スウェーデンのエマニュエル・スウェーデンボルグ(1688~1772。科学者、政治家、思想家)によるものがある。

霊界通信には胡散臭いものもあるのかもしれないし、そもそも、本当にそんなものがあるとは信じない人もいるだろう。
「この霊媒師は本物だ」と言われる人だって、その人が、単に調査能力があり、話も上手い「プロの職業霊媒師」であるだけで、本当に霊界通信が出来る訳ではないのかもしれない。
まあ、今は、故人についての情報は、有名人であればネットで簡単にかなりの調査が出来るので、有名人専門であれば、昔に比べ、職業霊媒師になるためのハードルは下がっているかもしれない。
そして、霊界通信を行うことで金銭を受け取ることが、詐欺かファンタジーかは、やり方によるだろうが、微妙な場合もあるだろう。

ところで、YouTubeの人気チャンネル「『真相を霊視』してゆっくり解説」の動画をいくつか見たが、これが本物の霊界通信かどうかは私には不明ながら、これによってもたらされるものが霊界通信の効用なのだと思った。
どういうことかというと、あの世からの視点を持つことで、この世とか自分の人生を違った目で見ることが出来るということだ。
その「あの世からの視点」は、仮想的なものであっても構わない。
例えば、自分が「もし凄い貧乏だったら」「もし重度の障害者であったら」「もし既に老人であったら」と仮定することで、今の自分の状況は、それほど悪いものではないと思い直すことが出来る。
だが、「もし自分が死んだら」というのは、なかなか考え難い。
しかし、直接は知らなくても、自分が好感を持っていたスターが死後の様子を語ってくれ、その言葉に共感を覚えたら、自分も、あの世からの視点を持てるように感じるのである。
そして、 「『真相を霊視』してゆっくり解説」の良いところは、死んだスター達が皆、非常にポジティブで明るく、誰に対しても、何に対しても、全く、恨み言や否定的なことは言わず、爽やかで、そして、心打たれることを言うので、こちらも気分が良くなるし、死後の世界が楽しいものであると思うことが出来る。
また、本当に霊視しているのか、単に調査と語り方が優れているのかは分からないが、亡くなったスター達が、少なくとも、あまり不自然なことを言わないことも、すんなりと入って行きやすい要因である。
もし、これが、本物の霊視でないとしても、ファンタジーとして許容出来る範囲かもしれない(このあたりは人によっては見解が異なるかもしれないが)。
私も、霊界通信に関しては、スウェーデンボルグも含め、重厚なものや、やや軽薄なものまで沢山見たが、いくら格調高くてもスウェーデンボルグでは時代が違うので思想的に違和感があるし、現代的なものであっても、やはりかなり引っかかるところがあるものが多かった。
イタリア文学の最高傑作と言われるダンテの『神曲』は、おそらくフィクションだと思うが、これも壮大な霊界通信である。
しかし、これも、ダンテが見た霊界の人々が古過ぎることと共に、明らかに、ダンテの、そして、キリスト教の思想の影響が大きく、現代の、特に日本人が、これから人生の指針を得ることは難しいだろう。
そこにいくと、 「『真相を霊視』してゆっくり解説」は、悪影響は比較的少なく、それでいて、ポジティブに人生を客観視することで希望が持てるかもしれない。
坂井泉水さんのファンであった私にも、この坂井さんの霊界通信に不快感はなく、あくまでファンタジーとして楽しむことは出来た。
【YouTube】『ゆっくり解説』全てが謎に包まれた、"ZARD"坂井泉水最後の瞬間を、霊視して解説
他にも、竹内結子さん、尾崎豊さん、志村けんさん、西城秀樹さん、織田無道さん、その他、多くの有名人との霊界通信を行っている。








完全数呪文

イエスは「信じる者は何でも出来る」と言ったが、どうすれば信じられるかは言わなかったように思う。
では、どうすれば信じられるかと言うと、
「全ての願いが実現すると信じる」
と、感情を込めず、けれども、丁寧に、心の中で、いつも繰り返し言えば良い。
他にどんな方法もない。
人間は、心を支配する能力はなく、自在に信じることは出来ない。
しかし、言葉を支配する能力があり、言葉は心を支配する。

普通は、アファーメーションと言われると思うが、やや長い新しい万能呪文を作った。

いかなる望みも叶う
この世は私の王国だ
私の要求は絶対令だ

神秘数3を基調とした、3×9(ミク)文字の「完全数呪文」である。
アリストテレスは言った。
「2は両方とは言うが、全部とは言わない。3で全部と言う」
ダンテの神曲は、三行韻詩の3編33歌の叙事詩である。もう見事なまでに3だ。
そして、ダンテが描く、世界(地上、地獄、煉獄)と天界は三次元球面という、いわば四次元的な構造をしている。
万能呪文の上位版である、この「3の呪文」「完全数呪文」で、あなたは絶対的な力を味方にするだろう。









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閻魔様の前で何を言おうか?

ギリシャ神話でも、エジプトの死者の書でも、人間は死んだら、生前の行為を裁かれ、死後の運命が決まるとされている。
仏教にも六道輪廻というものがあるが、キリスト教では、最後の審判まで死者は眠り続けるようだ。
だが、熱心なキリスト教徒であるダンテは、『神曲』で、死後の世界のことを詳細に描いているが、やはり、生前の行いにより、死後どうなるかが決まるのである。
エマニュエル・スウェーデンボルグは、死後の世界を、事実として示したが、裁かれて天国に行くか地獄に行くかが決まるのではなく、仲間の霊が迎えに来るらしい。

他にも、色々な死後の様子のことが語られ、どれが本当か、全部嘘か、あるいは、物質世界では想像も出来ないミラクルな仕組みで、全て本当か・・・それは分からない。
しかし、裁かれるかどうかは別として、人生の総合評価がどうなるか、考えてみても良いと思う。

スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンが共演した1973年公開の150分の長編映画『パピヨン』で、スティーブ・マックイーン演じるパピヨンと呼ばれる男は、殺人罪などにより、終身刑の流刑となる。しかし、それは無実の罪だった。
流刑の地でも問題を起こし、独房に入れられたパピヨンは、砂漠の中で裁判を受ける夢を見る。
裁判官は「有罪」を告げ、パピヨンは「俺は殺していない」と訴える。
だが、裁判官は、「その罪ではない」と言う。
パピヨンが、「どの罪だ?」と問うと、裁判官は、「人生を無駄にした罪だ」と告げる。
それを聴いたパピヨンは呆然として、うな垂れる。
そして、パピヨンは力なく言う。
「確かに有罪だ・・・認めるよ」

人生を無駄にすることが最大の罪であるようだ。
パピヨンもそうであったように、私も、なるほどと思ったものだ。
つまり、人生は値打ちのあるものであり、大切にしなければならない。

昔、こんなことが書かれているのを見たことがある。
「私は死んで閻魔様の前に出たら、大したことは何もしなかったが、便所の下駄だけは揃えて出たと言うつもりだ」
みみっちいようではあるが、もし、一生の間、パーフェクトに実行したなら大したものである。
そして、このように、自分の掟を持ってい者は、大事業とは言わないまでも、それなりに人生を有意義に過ごし、人生を無駄にはしないのかもしれない。
例えば、子供を立派に育てたりしてね。

さて、私は、人生裁判があれば、どう裁かれるのか?
どんな人生であったかと問われれば、アレルギーと人間嫌いに苦しむ人生だったかもしれない。
もちろん、それが人生を無駄にした言い訳にはならない。
というのは、私のそんなハンデはむしろ軽い方だからだ。
そして、子供を立派に育てるなんてことも・・・まあ、絶対しない。
で、威厳ある、敬うべき閻魔様が、
「お前は人生で何をした?」
と問われるなら、私は、
「初音ミクさんを愛しました」
とお答えする。
他には何もない。
そこで、恐ろしい形相で私を震え上がらせた閻魔様が、
「それが何になる?」
と、問い詰めるなら、私は言うだろう。
「それが神に近付くことでした」
しかし、閻魔様は、こう言われるかもしれない。
「それなら、善行に励めば良かったのではないか?」
しかも、悪行は多いときている。
駄目だこりゃ・・・
しかし、言わずとも、私の魂はこう告げる。
「ミクさんを崇めることに優る善はない」
同時に、閻魔様は教えて下さるだろう。
「ゆえに観音はお前を助けた」
確かに、恵み多い人生である。









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神聖なる存在を崇めることで神に近付いた人達

理想とする存在を崇めることが、魂を輝かせ、高めることには疑問の余地はないと思うようになった。

イタリア最大の文学である『神曲』を生み出したのもまた、崇める力だった。
ダンテは、ベアトリーチェを崇めることで、自分の魂を、神の魂と融合させていったのだ。
ベアトリーチェは確かに実在の女性であったが、ダンテが崇めたのは、ただの女性ではないことに注意しなければならない。
ダンテは9歳の時、同い年の少女ベアトリーチェに出逢い、一瞬で魂を奪われた。
ダンテが再びベアトリーチェに会ったのは9年後、18歳になってからだったが、ダンテはほとんどベアトリーチェと口を利くことも出来なかった。
それでも、ダンテのベアトリーチェに対する想いは、再び燃え上がったが、その後も、ダンテはほとんど彼女と接触することがないばかりか、彼女に避けられるようになったという。
だが、ダンテのベアトリーチェに対する憧れは、消えるどころか、募る(ますます激しくなる)ばかりだった。

ダンテは、ベアトリーチェとうまくいかなかったことが、彼の魂の向上の為には絶対的に良かった。
もし、ダンテがベアトリーチェを恋人にしたり、あるいは、結婚などしていたら、やがては、ベアトリーチェもただの人間の女であることを思い知らされたことだろう。
ダンテは、ベアトリーチェの実際のことは、ほとんど何も知らなかったのだ。
それなら、ダンテが愛し、崇めたのは、ベアトリーチェの幻想であったと思うかもしれないが、そうではなく、ダンテは、自分の内にある神聖な理想を、彼女に投影して見ていたのだ。
そして、ベアトリーチェが24歳の若さで夭逝することで、彼女はダンテにとって、永遠の女神になる。
そんな神聖なる存在を崇めることで、ダンテは、彼がこの上なく尊敬した、古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』にも並ぶ叙事詩の傑作『神曲』を生み出すことが出来たのだ。

探せば、ダンテのような例は多いし、それどころか、人間を超えるほどの力を得た者は、皆、人間でない何かを崇めていたことは間違いないと思うのだ。
レイ・ブラッドベリの短編『みずうみ』で、ハロルドは、純粋に愛していたが、12歳で永遠に失ってしまったタリーという、同い年の少女を、青年になり結婚してから、神秘的な出来事によって崇めるようになり、全くの別人になる。
まるで謎のような作品であるが、読む者は、これが恐ろしい傑作であることを感じるのである。
萩尾望都さんが、この『みずうみ』を漫画家しているが、萩尾さんの繊細な絵が、この不思議な物語にさらに輝きを与えていると思う。
ブラッドべりも、何かは分からないが、聖なる存在を崇めることで、魂を高めていたのであることを確信させるのである。

時々ご紹介する、ローマン・ガリーの『自由の大地』や、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』もまた、崇める力の不思議な力を描いてはいるが、『二十六人の男と一人の少女』では、崇める存在は人間であってはならないことの警告でもあると思われる。
男達が女神のように崇めたターニャという名の16歳の美少女は、高潔ではないにせよ、別に劣悪でもない、ごく当たり前の娘であった。
だが、やはり、人間は崇める対象には相応しくはなく、いつかは裏切られる。
その意味では、ダンテは幸運であったと言えるのだ。









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手本となる人物をどう選ぶか

手本になる人間がいることは幸福なことだろう。
何だかんだ言っても、幼いうちは、父親、母親は子供にとって憧れの存在であり、目指すべき手本である。
ところが、それがいつまで続くだろうか?
映画『サウンド・オブ・ミュージック』で、ヒロインのマリアが、トラップ大佐のどの息子だったかは忘れたが、決して小さくはないその男の子が、「あなたに理想の男性像を見ている」と、トラップ大佐に言う場面がある。
しかし、そのシーンを見たほとんどの青少年はムシズが走ったりするだろう。自分の父親を思い出すからだ。
萩尾望都さんのある漫画で、中学3年生の女の子が、母親に対し、「お母さんのようなお母さんになりたい」と、真面目に言う場面があったのだが、これにも、読んでいる女の子のみならず、男の子も、自分の母親を思い出して冷笑してしまうかもしれない。
今の子供にとって、親以外で接触する数少ない大人である教師も、ほとんどの場合、ひどいものであるし、その点、会う時間の短い塾やお稽古事の先生の方が、正体がバレない分、「マシに見える」ことだろう。
早い話が、子供の手本になるような大人は滅多にいない。

インドでは、『ラーマーヤナ』に登場するラーマ王子と、その妻シータが理想の男性と女性の姿を見せてくれている。
実際、この2人は、元々が至高の神が2つに分かれたものだけあり、実に素晴らしい。
だが、インドでも、特に近年では、この2人をちゃんと手本にする人は、あまり多くないに違いない。

ギリシャ神話では、神々自体は、人間の常識からかけ離れた存在であるので、崇拝の対象ではあっても、直接の手本にはならない。
しかし、ホメーロスによって書かれたと云われる『イーリアス』、『オデュッセイア』に登場する英雄達・・・その中でも、特にオデュッセイアは手本とすべき存在と言えるかもしれないが、なかなか、そうしている者はいないだろう。

我が国の『古事記』の中にも、中々、理想の存在を見出せない。
ただ、イザナギが、黄泉の国(死者の国)から帰って来て、水で禊をすることで、数々の神を、そして、最後に貴い3柱の神を生むところに、手本とする行為がある。
身に付けているものを脱ぎ、身体を洗うことが、執着や穢れを捨てることを表しているというのである。
だが、そう教える人がどこにでもいる訳ではないので、なかなかそんなふうには理解しないと思われるかもしれない。
しかし、子供のうちであれば、古事記を読めば心の内でそんなことをちゃんと感じるものなのである。
だから、子供のうちに古事記を読んだ人は、案外に良い影響を受けているし、大人であっても、真摯に読めば、心の穢れを祓ってくれるだろう。
『古事記』は世界の神話の中でも、実に貴いものではあるまいかと思う。

ゲーテの『ファウスト』のファウストや、ダンテの『神曲』のダンテは、彼らが、これらの物語の中で見聞を深め、経験を積むことで成長する様子が、優れた手本になる。
『古事記』のイザナギは、それを、短いお話の中で、もっと端的にやっているのである。
『バガヴァッド・ギーター』のアルジュナ王子もそうだ。クリシュナ神に18章に渡る教えを受ける中で、優れた人間になるが、それが我々の手本である。
これらのような、最初から完成した手本でなく、理想の存在になるまでを動的に描いたダイナミックな手本というのは、学び易く、有り難いものである。

『ラーマーヤナ』のラーマとシータ、そして、『新約聖書』のイエスは、成長という面もないではないが、基本的に最初から完成した理想の姿である。
このように欠点のない者からは意外に学び難いかもしれない。
しかし、彼らの何が理想であるかを探求することには、深い意味がある。

『ファウスト』にあるように、人間は神に向かって努力する存在であるべきだ。
そのためには、手本がなくてはどうしようもない。
身近に手本がいない訳ではないだろうが、上に挙げた物語によって、人間の理想の姿を知ることが必要である。
そして、それが、生き甲斐のある人生や、神の恩寵に恵まれた豊かな人生を創ることだろう。

















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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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