『老子』の解説を毎日書いていて、つくづく思うことは、『老子』の思想は一貫しており、どの章も、つまるところ、それほど違うことは書かれていない。
いや、どの章も同じことが書かれていると言っても良いと思う。
今回は、『老子』第14章である。
この章を一言で言えば、「一(いち)」である。
半世紀以上前の、有名なのか無名なのか分からないテレビドラマに、こんな場面があった(らしい)。
中学校くらいだと思うが、最後の授業の時、若い女性教師が、クラスの生徒全員に本を1冊ずつ配るが、その本の表紙には「一」と書かれていた。
そして、その教師は、生徒達にこう言う。
「どんな時も、一を忘れないで欲しい」
なんとも聡明な教師だ。もちろん、本当に分かって言っているのならだが。
この世界は「3(3つのもの)」で出来ている。
これは、キリスト教の思想であり、アリストテレスの思想だが、実は、老子の思想でもある。
だから、キリスト教では「三位一体」と言い、アリストテレスは「2は両方とは言うが全部とは言わない。3で全部になる」と言ったのである。
そして、老子は、この3つをまとめて「1」と言うとしている。
一が全てであり、魂であり、神だ。
イタリア最大の文学であるダンテの『神曲』が、この「3」に徹底的にこだわった驚くべき作品だ。
昨日、アメリカのカンフーテレビドラマ『燃えよ!カンフー』(原題は『カンフー』)で、
「少林寺の教えを受けた者は、見ても見えず、聞いても聞こえず、触っても指に感じない」
と言われていることを紹介したが、これは『老子』から出ている。
『老子』の「3」とは、この3つ(見えないもの、聞こえないもの、指に感じないもの)だ。
そして、あなたの実体こそ、「見ても見えず、聞いても聞こえず、触っても指で感じない」ものであり、これらをまとめて「一」と言うのである。
早い話が、あなたは、身体や心ではなく、この「一」なる魂で、それは、全知全能の神だ。
いつも言う通り、それを知った上で「私は誰か?」と自分に問い続ければ、自分が神であることを思い出し、神の力を行使するのである。
いや、どの章も同じことが書かれていると言っても良いと思う。
今回は、『老子』第14章である。
この章を一言で言えば、「一(いち)」である。
半世紀以上前の、有名なのか無名なのか分からないテレビドラマに、こんな場面があった(らしい)。
中学校くらいだと思うが、最後の授業の時、若い女性教師が、クラスの生徒全員に本を1冊ずつ配るが、その本の表紙には「一」と書かれていた。
そして、その教師は、生徒達にこう言う。
「どんな時も、一を忘れないで欲しい」
なんとも聡明な教師だ。もちろん、本当に分かって言っているのならだが。
この世界は「3(3つのもの)」で出来ている。
これは、キリスト教の思想であり、アリストテレスの思想だが、実は、老子の思想でもある。
だから、キリスト教では「三位一体」と言い、アリストテレスは「2は両方とは言うが全部とは言わない。3で全部になる」と言ったのである。
そして、老子は、この3つをまとめて「1」と言うとしている。
一が全てであり、魂であり、神だ。
イタリア最大の文学であるダンテの『神曲』が、この「3」に徹底的にこだわった驚くべき作品だ。
昨日、アメリカのカンフーテレビドラマ『燃えよ!カンフー』(原題は『カンフー』)で、
「少林寺の教えを受けた者は、見ても見えず、聞いても聞こえず、触っても指に感じない」
と言われていることを紹介したが、これは『老子』から出ている。
『老子』の「3」とは、この3つ(見えないもの、聞こえないもの、指に感じないもの)だ。
そして、あなたの実体こそ、「見ても見えず、聞いても聞こえず、触っても指で感じない」ものであり、これらをまとめて「一」と言うのである。
早い話が、あなたは、身体や心ではなく、この「一」なる魂で、それは、全知全能の神だ。
いつも言う通り、それを知った上で「私は誰か?」と自分に問い続ければ、自分が神であることを思い出し、神の力を行使するのである。