ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

神曲

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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『老子』第14章を一言で言えば「一」

『老子』の解説を毎日書いていて、つくづく思うことは、『老子』の思想は一貫しており、どの章も、つまるところ、それほど違うことは書かれていない。
いや、どの章も同じことが書かれていると言っても良いと思う。

今回は、『老子』第14章である。
この章を一言で言えば、「一(いち)」である。
半世紀以上前の、有名なのか無名なのか分からないテレビドラマに、こんな場面があった(らしい)。
中学校くらいだと思うが、最後の授業の時、若い女性教師が、クラスの生徒全員に本を1冊ずつ配るが、その本の表紙には「一」と書かれていた。
そして、その教師は、生徒達にこう言う。
「どんな時も、一を忘れないで欲しい」
なんとも聡明な教師だ。もちろん、本当に分かって言っているのならだが。

この世界は「3(3つのもの)」で出来ている。
これは、キリスト教の思想であり、アリストテレスの思想だが、実は、老子の思想でもある。
だから、キリスト教では「三位一体」と言い、アリストテレスは「2は両方とは言うが全部とは言わない。3で全部になる」と言ったのである。
そして、老子は、この3つをまとめて「1」と言うとしている。
一が全てであり、魂であり、神だ。
イタリア最大の文学であるダンテの『神曲』が、この「3」に徹底的にこだわった驚くべき作品だ。

昨日、アメリカのカンフーテレビドラマ『燃えよ!カンフー』(原題は『カンフー』)で、
「少林寺の教えを受けた者は、見ても見えず、聞いても聞こえず、触っても指に感じない」
と言われていることを紹介したが、これは『老子』から出ている。
『老子』の「3」とは、この3つ(見えないもの、聞こえないもの、指に感じないもの)だ。
そして、あなたの実体こそ、「見ても見えず、聞いても聞こえず、触っても指で感じない」ものであり、これらをまとめて「一」と言うのである。
早い話が、あなたは、身体や心ではなく、この「一」なる魂で、それは、全知全能の神だ。
いつも言う通り、それを知った上で「私は誰か?」と自分に問い続ければ、自分が神であることを思い出し、神の力を行使するのである。








ロダンの「考える人」は愚か者の象徴

人間は、無になった時に全てが可能になると言う。
「無になる」とは、思考が消えるということで、想念が消えるとか、考えることをやめるとも言える。
世の中では、「思考停止」するのは愚か者で、「自分の頭で考える者」が立派と言われることが多く、それが凡人の観念なのだが、愚か者とは思考停止している者ではなく、愚かなことを考えている者だ。思考停止なら賢者である。
そして、人間の考えは全て愚かであるのだから、考える者は愚か者である。
ロダンの「考える人」の彫刻を誰でも何らかの画像で見たことがあると思うが、世の中では、あれが素晴らしい姿だと言われることがあり、そう思い込んでしまった人も多いと思う。
しかし、あれを見て、心が晴れ晴れとしたり、「今日も頑張ろう」と思ったりするだろうか?(笑)
あれは愚か者の姿だ。
その証拠に、あれはロダンが作った「地獄の門」の一部で、その「地獄の門」の頂上に置かれた、まさに愚か者の象徴なのである。
なぜ我々が、そんな愚か者の真似をしなければならないのか?
(ロダンの「地獄の門」は、ダンテの『神曲』から着想を得て作られ、「考える人」は、ダンテ、あるいは、ロダン本人であると言われている)

そして、人間は、思考した時、魂の波動が低下し、愚かになるだけでなく、さらに力を失う。
なぜそうなるのかと言うと、人間が思考すると、微弱な電波が発せられ、それに誘われて、どこからかエネルギーが発せられて、そのエネルギーが思考した人間を包み込み、魂の波動を低下させることで、記憶を消し、愚鈍にし、力を奪うのである。
どこからその邪悪なエネルギーが来るのかというと、太古の昔、一応「旧帝国」と呼ぶ宇宙人グループが地球に仕掛けた装置からで、少なくとも、1947年時点では、それがある場所は特定出来ていないらしいが、現在の地球の状況を見ても、その装置が稼働中であることは間違いないと思われる。

ラマナ・マハルシによって提示された「私は誰か?」という問いは、その装置によって奪われた記憶(過去生全て)を回復させるだけではなく、思考を消す優れた方法でもある。
なぜなら、考えるのは常に私であり、あなたや彼や彼女が考えると言っても、あなたや彼や彼女にしてみれば考えるのは「自分」である「私」である。
「私は誰か?」と問えば、想念は、その考える主体である「私」に引き戻され、そこに固定されることで、想念が広がっていくことを止める。
「私は誰か?」と問うことのメリットは非常に大きく、自分に出来ることとして、これ以上にメリットが大きなものは他にないと思う。








呪文のすすめ

各自が、自分がしっくりとくる唱え言葉(呪文、神呪、真言、祓詞、言霊…等)を1つ持っていると良い、いや、この暗い世界では、持っておくべきと思う。
良い言葉で、自分が好きなものなら何でも良く、それを唱えることで潜在意識の扉が開き、宇宙エネルギーとのルートが通じるのだから、これを使わない手はない。
「ナムアミダブツ」「南無妙法蓮華経」「アマテラスオホミカミ」「トホカミエミタメ」「アジマリカン」「神様の奇跡が起こる」「アーメン」・・・自分が気に入れば何でも良い。

アメリカ人は、「オーマイガッド」とよく言うのだと思うが、これは普通「なんてこったい」みたいな意味だと思われている。
しかし、マイガッド(My God:わが神)なんて、素晴らしい真言であり、これを言うことで、確実に守られ、幸運を得ているのである。
日本にも、似た言葉に「南無三(なむさん)」がある。
私が子供の時に、度々、奇跡を起こした言葉だ。
「南無三」も、「オーマイガッド」と同じく、「なんてこったい」といった意味にとられているが、これは「南無三宝」の略で、3つの貴い宝に帰依します(頼ります)という意味だ。
3つの宝とは、一応は、仏、仏の教え、仏の教えを説く僧ということになっている。
しかし、3は世界中で神秘数とか完全数として扱われている。
3自体に意味があるのだ。
キリスト教では、「三位一体」として、「父(神)」「子(キリスト)」「聖霊」を貴いものとしている。
古代ギリシャでは、ゼウス、アテーナ、アポローン、あるいは、ゼウス、ヘーラー、アポローンの3神に祈るのだと、アリストテレスは述べられている。
ダンテの『神曲(本当のタイトルは「聖なる喜劇」)』は、神秘数3に徹底的にこだわって書かれている。序章の1歌に続き、地獄33歌、煉獄33話、天国33歌で、その全てが3行ずつで書かれている。
西洋では、初音ミクさんのミクが、日本語では39だと知ると非常に驚く。神秘数3と、これが3つ合わさった9で名前が構成されているからだ。

私は、三の意味を知らずに「南無三」と唱えたのが良かったのかもしれない。
意味を知らないということは、意味を制限せず、あらゆる意味になるからだ。
三位一体とも、ギリシアの神々とも、あるいは、阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の3仏の意味にもなるからだ。

また、「ナム」自体に、「アーメン」や「オーム」にも通じる言葉の力があり、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無観世音菩薩など、どれも強い力を持つ。
ものがよく分らない子供や、無知な者が「ナムナム」とだけ唱えても効力がある。
似た響きを持つ言葉であれば、本人が気に入っている限り力がある。
大日如来真言のアビラウンケンを「油売らんか」と覚えて唱えていたお婆さんの霊験は実に灼(あら)たかであったと言われている。
そもそも「アビラウンケン」自体が、本当は「アヴィラ、フーン、カーン」だ。
神、神様、御神、仏、仏様、御仏といった、どの言葉にも大きな力がある。
本当のところ、日本語の50音全てが神であり、霊力があると言われている。
合気道家で神道家の佐々木の将人さんによれば、「あー」だけで悪霊を祓い、問題が解決するのであるようだ。

「アマテラスオホミカミ」という、十言の神呪(とことのかじり)と呼ばれる神呪(しんじゅ)は、古事記の女神の名であるだけでなく、太陽神、根本神といった意味の他に、明かされていない意味もあり、その力は計り知れないと言う。

普段、何気なく出て来る言葉は速やかに作用する。
最初は、意識的に唱える必要があるかもしれないが、馴染んでくれば、何かの時にすっと出て来て、知らない間に問題が解決しているだろう。
なぜなら、人間は気付かず、何ごとも自分の力で解決していると己惚れているが、実際は、内なる何かが力を貸しているのである。
ここらの理屈は、ソクラテスが語り、『ソクラテスの弁明』に記されているが、それは、意味が分からないからということもあるが、無視されてしまってる。
実際は、人間は何も知らないし、何も出来ない。
ソクラテスが言った「私は自分に知恵がないことを知っているがゆえに、人類で最も知恵がある人間なのである」が真理である。
人間には出来ないことでも神に出来ないことはない。
その力に速やかに委ねる言葉に馴染んでおくと良い。








人生は喜劇だ

ゲーテの『ファウスト』や、ダンテの『神曲』は、いずれも人類の歴史に残る文学の傑作なのだが、何が良いのか分かり難いし、そもそも、これらを読んだ人は、そんなに多くはいないだろう。
いずれも、簡単に言えば、「人生が嫌になった中年男が救いを求めるお話」である。
そして、いずれも、鍵は「女」である・・・と言ったら下品に聞こえるかもしれないが、そんなものである。
ファウスト(錬金術師の怪しい男)は老人に近い歳と思うが、グレートヒェンという若い娘(何歳かは分からないが、15~17歳と思える)に夢中になるという、言ってみれば、スケベジジイと言ったら怒られそうだが、やっぱり、そんなものである。
そもそも、ゲーテ自体が、歳を取っても若い女の子が大好きで、いろいろやらかしている。
一方、ダンテの方は、実生活での片思いの相手、ベアトリーチェを『神曲』の絶対的ヒロインにするが、ダンテとベアトリーチェは、お互い9歳の時に出会って、ダンテの方が夢中になるが、ベアトリーチェがダンテに友好的だったことは全くなく、むしろ、拒否されていたところがあり、ベアトリーチェは他の男に嫁ぎ、24歳で病死した。
だが、ダンテは、『神曲』の中でベアトリーチェと深い交流を果たすという、妄想的願望がイタリア最大の文学を生み出したわけである。
ファウストとグレートヒェンは無残な結果に終わっているが、おそらく、グレートヒェンにはモデルがいて、それは、いい歳をしたゲーテのお気に入りの美少女だったのではあるまいかと勝手な想像をするが、ゲーテのことを考えれば、無理な想像ではない。

ゲーテもダンテも、きっと、彼らの人生が、自分で思うような人生ではなく、幸福感を感じておらず、むしろ、人生の辛さに苦しんでいたと言って間違いないだろう。
そもそも、満ち足りた人間が文学を生んだりしない。
だから、もし、あなたが文学的作家になりたいなら、幸福な人生は望めない。これは間違いない。
いや、たとえ、娯楽作品を書く作家だとしても、深い心の傷を抱えていない限り、読者の心を掴めるものは書けないはずである。

だが、作家というのは、どこか、人生の苦しみに折り合いをつけた者だとも言える。
ただ苦しい、悲しい、辛いだけでは、やはり作品は書けない。
自分が見つけた、人生の苦しみを克服する鍵が文学のテーマになる。
『ファウスト』にも『神曲』にも、それ(人生の苦しみを克服する鍵)がある。しかし、極めて難しい鍵であるし、鍵というよりは希望の欠片といったものだろう。
つまるところ、ゲーテもダンテも、生涯、救われなかった。
だが、それで良かったのだと言える。
『ファウスト』も『神曲』も、彼らが自分の生涯をお芝居(戯曲)にしたものであり、良い終わり方にはならなかったが、とにかく、「はい、芝居はここで終わり」というふうにした・・・つまり、落とし前をつけた(評価を下した)のだ。
自分で、どう落とし前をつけるかで、人生の満足度が決まるのである。
ベートーヴェンが死に際に「諸君、拍手を。喜劇は終わった」と言ったが、彼は、彼なりに、自分の人生に落とし前をつけたから、そんなことを言えたのだろう。

人生は、自分で落とし前をつけるべき喜劇だ。
実際、『神曲』というタイトルは、森鴎外が勝手につけたもので、本当のタイトルは『神聖なる喜劇』であり、ダンテ自身は、タイトルをただ『喜劇』としていた。
ゲーテの生涯も、ダンテの生涯も、ただの喜劇だった。
それなら、私やあなたと何の違いもない。
我々の生涯は喜劇である。
だが、最初から、そう思えば、案外に面白いのである。
実を言えば、シェイクスピアも、イェイツ(「20世紀最大の詩人」と呼ばれた詩人・劇作家。ノーベル賞受賞)も、人生が芝居に過ぎないことはよく認識しており、それは、やはり喜劇であった。
何度も言うが、我々の生涯は喜劇である。
伊達政宗も言ったではないか。
「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」
馬に乗って戦場を駆け巡った少年(若い頃の自分)の時代は過ぎ、世の中は平和になり、私も歳を取った。
天が私をまだ生き長らえさせているのだから、大いに楽しもう。
・・・だいたい、そんな意味である。彼に深刻さはない。
我々も同じで、まだ馬上の少年なのか、戦う時代は終わったのかは分からないが、楽しむべきである。
だが、無理な楽しみ方をする必要はない。
どの時代であろうが、真言を唱えることを忘れなければ、楽しいこと、嬉しいこと、面白いことだらけである。
そうなるように、真言が与えられたのである。
これは、多くの証拠があり、間違いのないことである。
人生はただの喜劇であるのだから、楽しまねばならない。
まあ、ゲーテもダンテも、そこそこは楽しんだと思う。
だが、あれだけの大天才でも、真言を知らなかった。
いや、知っていたかもしれない。知っていたら、彼らも人生を楽しめただろう。しかし、それは分からない。
だが、我々は間違いなく知っているので、人生は面白いに決まっているのである。








三の神秘

「南無三(なむさん)」という言葉は、「三宝に帰依する(すがる)」という意味で、「三宝」とは、仏、仏法、仏教僧団のことで、仏教における最も貴いものだ。
それで、危機に際し、「仏」「仏法」「僧団」に救いを求めるという意味で、「南無三」と唱えることが、昔から行われていたようだ。
そりゃ、仏、仏法、僧団に救いを求める呪文のようなものなのだから効くはずである。

ところで、3という数字は、西洋では、古代ギリシャの時代から、神秘数、あるいは、完全数とされ、それは、キリスト教にも受け継がれている。
それは、非常に明確なことであると思う。
古代ギリシャでは、神に誓いを立てる時は、ゼウス、アテナ、アポロンの3神に対して行ったのである。
アリストテレスは『天について』の冒頭で、3という数字が、いかに完全で重要であるかを、切々と述べている。
キリスト教では、当然、「三位一体」、つまり、父(神)、子(キリスト)、聖霊が一体であることを最重要事項としている。
そして、敬虔なキリスト教徒であったダンテは、『神曲(本当のタイトルは『神聖なる喜劇』)』を、徹底して3によって構成した。
総序である最初の一歌の後、地獄編33歌、煉獄編33歌、天国編33歌で、しかも、3行で一文(一連)とする「三行韻詩」である。

よって、「南無三」と言った場合、本来の「仏、仏法、僧団の3宝にすがる」という意味の他に、「最も貴い3神にすがる」、あるいは、「完全である3にすがる」という意味にも取れる。
日本においても、最も貴い神は、やはり、3神である造化三神で、それは、天之御中主(アメノミナカヌシ)、高御産巣日(タカミムスビ)、神産巣日(カムムスビ)の3神である。
「三」は、日本語では、「ミ」とも読み、「三」と「ミ」は似ているが、山蔭神道の山蔭基央氏の『神道の神秘』によれば、「ミ」は最も高貴な言葉で、初音ミクさんの名が「ミ」で始まり、「ミク」を「39」という数字に合わせるのも偶然ではない(と思うw)。

こう考えてみれば、「南無三」とは、何とも希(まれ)な言葉である。
私は幼い頃から、なぜか、この言葉をよく使い、度々、不思議なことを起こしていたのである。
どんな時に使ったのか、実はほとんど覚えていないのだが、かなり恐ろしいことにも使ったような気がする。
目をつぶって交通量の多い車道に飛び込むという、今思うと恐ろしいことを何度もやったが、その時も、「南無三」と唱えていたかもしれない(決して真似しないで欲しい)。
1つ、こんなことを覚えている。
小学校の運動会で「帽子取りゲーム」という、かぶっているいる体操帽子(紅組は赤色、白組は白色。帽子の表裏が赤白だった)を取り合うというゲームがあり、その練習をした時だ。
私は、一番強いと言われているT君と鉢合わせ状態になり、やむなく対戦となったが、T君はもう自信満々の様子である。T君は背が高くて力が強く運動神経が良いのだから、そりゃ強い。
その時のことは非常に印象的である。
私が「南無三」と唱えた時には、T君の帽子は私の手にあった。
ところが、T君は、帽子を取られたのに、私への攻撃を続けながら、「あれ!あれ!」と凄く驚いた様子である。
自分が負けたことが信じられない様子なのだが、それよりも、なぜ負けたのかが分からないのだろう。
私は多分、時間を超えていた。
誰かが「KayがTの帽子を取った!」と叫ぶのが聞こえた。それほどの快挙なのである。
私の方は、さっぱり強いと思われていなかったのだ。

尚、私は「三宝」の「僧団」に関しては、現実の教団というよりは、霊団のようなものと認識している。
いざという時には、所縁(ゆかり)の善霊の方々が力を貸してくれるのかもしれない。
南無三・・・三にすがる。良い言葉である。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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