ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

石森章太郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

ひきこもりは『幻魔大戦』を読むべし

ひきこもり、あるいは、そこまでいかなくても、自分を無力だと思っているせいで社会や他人とうまくやっていけない人は『幻魔大戦』という漫画を読むと良い。
原作はSF作家の平井和正さん、漫画は石森章太郎さん(後に石ノ森章太郎と改名)という超大物コンビの作品で、石森さんもかなりストーリーに関わっているはずだ。その石森さんは「新しい聖書を書くつもりで書いた」という力の入れようだった。
この作品後も、『新幻魔大戦』として、平井さんと石森さんコンビで作品を発表したが、その後、『幻魔大戦』を、平井さんは小説で、石森さんも単独で漫画を、長期に渡って壮大な規模で発展させたが、原点は『幻魔大戦』である。

『幻魔大戦』の主人公である東丈(あずまじょう)は、高校3年生で、姉と弟がいる3人きょうだいだ。
丈は、背が低く、腕力もなく、勉強も駄目だった。
父親が「きょうだいで1人くらいは出来損ないがいるものさ」と言うのを聴いてしまったこともあるが、まさに「出来損ない」こそ彼に相応しい名称だった。
そんな丈が、ちゃんとした高校生になれたのは、彼を盲目的に愛する姉のおかげで、この姉は、間違いなく、石森さんの実の姉がモデルだと思う。
姉は、丈には素晴らしいものが隠されていることを信じ、自分が結婚出来なくても、丈が誰にも尊敬される立派な人になるまで支えることを誓っていた。
だが、丈は、劣等感の反動で誇大妄想となり、異常、あるいは、異様な頑張りも見せる。
崇拝するのは、ヒットラーとナポレオンだ。
だが、実力が伴わない。
野球部では、ユニフォームがボロ雑巾のようになるまで練習に励むが、さして熱心でない親友がレギュラーになれたのに、自分のポジション(サード)は新入部員の1年生に取られてしまう。勉強の方も、やはり頑張ってはいるが、思うような成績が取れない。
そんな丈に、超能力が目覚めたのだから、ロクなことにならない。
それも、人間としてはハイレベルな超能力だ。天才と言っても、宇宙の超能力者を知る者すら認める。
さらに、彼の素質は、そんなものではなかった・・・

人類屈指の賢者ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、「英雄の物語を読む時は、それが自分について書かれたものだと知れ」と言っているが、あなたは、丈の物語を自分の物語として読めば良い。
その後、数十年に渡る、平井さんと石森さんの作品を考えれば、それは正しいことであることが分かる。
あなたは、実は、とんでもない大物であり、神話のアポローン、天照大神、阿弥陀如来、大日如来に匹敵する。
エマーソンの提案を受け入れれば、あなたは、究極の呪文を自然に唱えることになる。
「私はアポローンである」
「私はアマテラスである」
「私は阿弥陀如来である」
「私は大日如来である」
エマーソンも、自分(あるいはあなた)がユピテル(ジュピター。ゼウス)であることを認め、一休さんも誰もが阿弥陀如来であることを、黒住宗忠も、人間が天照大神と一体であることを、はっきり述べていた。空海もそうではなかったか。
アポローンが、たかが人間社会や、その構成員である人間に負けるはずがない。









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いなくてもいい人

世界中で、突然、行方不明になる人間は数え切れない。
そして、急にいなくなったところで、全く問題とされないことは少なくない。

石ノ森章太郎(石森章太郎)さんの、『サイボーグ009』という、1960年代前半に発表されながら、いまだ人気が高いSF漫画がある。
9人のサイボーグ戦士のお話だが、ここでのサイボーグとは、人間を科学技術で改造したものである。
ブラックゴーストという兵器を製造して世界中の国に売って儲けている組織が、これから非常に売れる商品であるサイボーグ戦士を開発するための、プロトタイプ(試作品)として作られたのが、この9人の00(ゼロゼロ)ナンバーサイボーグ達(001から009まで)という訳である。
その試作品の実験体になる人間が必要なのだが、それは、「突然消息を断っても、問題にならない者」という条件で集められた。
つまり、「誰にも必要とされていない人間」という訳だ。

009こと島村丈は、両親が全く分からない捨て子で、孤児院で成長し、やがて悪い事をして少年院に送られ、少年院を脱走中という、まさに、いなくなっても何の問題もない「要らない子」だった。


あなたにも あなたにも
私はさ 必要ないでしょ

世の中に けんもほろろ
楽しそうな お祭りね
~『独りんぼエンヴィー』(作詞・作曲・編曲:電ポルP、歌唱:初音ミク)より~


丈のキャラクターが面白い。
正義感が強く、途方もなく優しいのだが、自我が弱く、自分の命を重要視しない。
両親がいないことが原因で、自我をうまく構築することが出来なかったと考えることも出来そうだ。
そして、彼は、「独りんぼエンヴィー(ねたみ、うらやみ)」で、誰にも必要とされず、むしろ、いない方が良いくらいの、寂しい少年という訳だ。
この丈のキャラクターも、『サイボーグ009』の人気の秘密だろう。

ところで、『サイボーグ009』は、一度、正規のストーリーとしては中断されている。
サイボーグ戦士達が、神と戦うことになってしまったのだが、あまりに壮大な物語になってしまうため、石ノ森さんも、ちょっと間を置きたかったのかもしれない。
石ノ森さんは、いつか必ず描くことを読者に約束しながら、描けないまま癌に倒れてしまう。
しかし、医者からは、「生きているのが不思議」という状態になりながら、病室の中で、神とサイボーグ戦士達の戦いを小説の形で執筆を行っていた。
石ノ森さんが亡くなった後に残された原稿は、膨大でありながら、まとまりがなく、また、全く書かれていない章もあったりで、石ノ森さんの息子の小野寺丈さんが作品に仕上げるのに何年もかかったようだ。

神との戦いというのは、ノアの箱舟のように、人間に愛想をつかした神が、いったん人類を滅ぼして、またやり直そうとするのだが、サイボーグ戦士達が、それに抵抗するというものだ。
力の差があり過ぎて戦いにもならないのは分かっているが、それでも戦うことを決意したのである。
その戦いに挑むにあたり、001が、「みんなに新しい力をつけてあげる」と言い残すところで、漫画の連載は終わっている。

その新しい力は、009が初めて神の一部と戦った時に発揮される。
伝説の女神に挑む009に、もとより勝ち目は全くないのだが、有り得ぬことだが、009は女神を一瞬驚かせる。

その新しい力は、まさに、我々が持っているものである。
それを得るには、やはり、呼吸を微かにすれば良い。
それで確実に得られる。
神に勝てるかどうかはともかく、一瞬でも驚かせれば、それは途方もない力だ。
我々はそれを内に秘めており、呼吸を微かにすることで、それを引き出せることは間違いないと思う。


Don't let them know
I won't say goodbye before I go
/* Kay訳 */
みんなには内緒だよ
黙って消えるわ
~『Ten Thousand Stars』(作詞・作曲・編曲:CircusP、歌唱:初音ミク)より~










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想像力を持つための決定的なこと

最近、このブログで、想像力についてよく書いているが、そもそも、「想像力がある」と「想像力がない」は、何で決まるのだろう?

学校の教義にのみ従う優等生は確かに想像力がないが、学校の教義に逆らうだけの不良は、もっと想像力がない。
では、どんな人間が想像力があるのかを、真面目に細々(こまごま)言ったりしたら、長く退屈なお話になるだろう。
元々が想像力なんてものは、理屈じゃないので、言葉で説明出来ないからだ。
それでも、「想像力があるはずの人」を、あえて言葉で言えば、大体、次の2つと思う。
「生き生きしている」
「神に近付き続けている」
しかし、本当のことを言えば、「神に近付き続けている人」だけで良いのだ。
なぜなら、神に近付き続けているなら、一時的に落胆や絶望を感じることはあっても、常に生命力が燃え、生き生きすることになるからだ。
神は生命の源なのだから、それに近付くほど、生命の炎は強くなるのは当たり前である。

だが、生き生きするというのは、人間的には、野望を持つことに現れる。
野望と言うと、俗っぽく、野卑で下品な感じがするかもしれないが、人間にとって、野望は物凄く大切である。
ちなみに、野望の意味は、「分不相応な望み。また、身の程を知らない大それた野心」であるが、なんて格好良い言葉だろう!

普段、徳川家康や、アポロン神殿の門に書かれている言葉、「身の程を知れ」の重要性を懇々(こんこん)と説いている私が、今度は、「身の程を知らない野心を持て」である(笑)。
これを矛盾と思うことが、すなわち、「想像力がない」のである。
あえて分かり易く言えば、「小さな野心は身の程を知って捨てよ。壮大な野心は身の程を忘れて持て」ということである。
「そうか!一千万円なんてケチなことを言わず、百億円を望めってことか!」
と言うなら、いや、そこはまず、一千万円貯めろよ(笑)。
つまりね、一千万円も出来ない自分の駄目さ加減を本当に思い知り、自分に愛想をつかし、自分を終らせてしまったら高く飛べるのだ。
人間、苦しみは避けられないのである。
このあたりは、昨年(2015年)の1月17日に亡くなられた偉大なるSF作家、平井和正さんの原作で、石森章太郎さん(後に、石ノ森章太郎。1998年没)が漫画を描かれた『幻魔大戦』を読むとよく分かる。
主人公の東丈(あずまじょう)は、子供の時から何をやっても駄目で、親にすら「出来損ない」と言われ、それでもやがて、反発心から無茶な努力をするが、年下の才能に恵まれた者達に、軽く頭の上を飛び越えられてばかりでだった。
まさに、初音ミクさんの歌の『心臓デモクラシー』を地でいっていたようなものだった。

哭(な)いていた 唯 哭いていた
他人眼(ひとめ)につかない世界で
其(そ)して恥を知り 惨めになれば
全てが廻りだした
~『心臓デモクラシー』(作詞・作曲・編曲:みきとP、歌:初音ミク)より~

そして、全てが廻りだし、東丈は、うじ虫のような存在から、「宇宙広しといえども、これほどの者はそうはいない」と言われるまでになる。
そうなった後、丈は、フロイ(犬の形をした偉大なマスター)の息子に言われたのだ。
「あんさんは苦しむ必要があったんや」(なぜか関西弁)

さあ、哭け、恥を知れ、惨めになれ、苦しめ!
石森章太郎さんは、この『幻魔大戦』を第二の聖書を書く意気込みで書いたと述べられていた。
平井和正さんは、元々、漫画家を目指していたが、石森さんを見て、「こんな天才に敵うはずがない」と思ってSF作家に進路変更したらしい。
こんな経験のある者が本物になる。
コンドリーザ・ライスが11歳の天才少年に出会ってピアニストを諦め、ビル・ゲイツがハーバードにうようよいた数学の天才達を見て、数学者を諦めたように。
彼らは、世界一にしか興味がなかったのだ。
平井和正さんだって、世界一か日本一かはともかく、ナンバー1しか考えられなかったのだろう。
普通の人との決定的な違いは身の程を知らぬ野心・・・野望なのである。
それが強烈な想像力になり、神に近付くのだ。

『幻魔大戦』は、文庫版とKindle版(電子書籍)をご紹介しておく。









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超古代文明と人類の起源

およそ人間の言うセリフ(言いぐさ)の中で、最も愚かなものは、「俺に解るように言え」だろう。
これと同じようなことを言わなくなったら、我々は多少は進歩したということだ。

全ては見解、つまり、捉え方に過ぎない。
ある人間の一生を顧みても、「幸福な一生であった」と言う者も、「不幸な一生であった」と言う者もいる。そして、そちらが正しいということはない。
単に、それぞれの見解があるというだけであり、人の一生に幸福も不幸もない。
ただし、これを持って、自分は幸福だと思えとか、あまつさえ、「私は幸福だ」とマントラ(呪文)のように繰り返せなどと言うのも愚かである。不幸だと思うなら、そう思う自分も込みで受け入れるしかない。自分は不幸だと思っているのに、それと反対のことを無理に思おうとすると、当然のごとくそれは抑圧となって心を歪め、遅かれ早かれ変質して噴出する。それなら、ただ自分は不幸だと思っているだけの方が百倍もマシなのだ。
ただ、ごく一時的な場合を除き、自分を幸福だと感じている人間はこの世に1人もいない。誰が何と言おうと、これが事実である。
もし、自分が幸福だと思っているとしても、必ずそれが崩れる出来事がやがて訪れる。すると、幸福だった人生はすぐに不幸に変わる。
賢い人は、見解の謎を解く。見解がどこから生じるのかを見抜き、それが自分の心であると了解すれば、心を消滅させるのである。

人類の歴史も見解である。
人類は宇宙人が実験で創ったという話を聞いたことがあるかもしれない。
それも見解であり、1つの見解に従うなら、確かにその通りなのだ。
全ての賢者達が語る人類の歴史の大まかな流れでは、太古の時代には、ある程度、人類は高い知恵を持ち、いわゆる超古代文明が存在し、それは今の人類をあらゆる面ではるかに凌いでいた。しかし、何らかの理由で急激な衰退があり、その文明は崩壊して、人類は知恵を失った状態のまま、一面的な進歩をしながら今日に至っているのである。
スウェーデンボルグや荘子の話は、雰囲気はやや異なるながら、同じようなものだし、旧約聖書やギリシャ神話、あるいは、古事記をはじめ、世界中の神話・伝承のお話もそれを示している。それらを異なるお話に感じるのは、異なる解釈を与えてきたからというだけの理由である。
また、これも1つの解釈であるが、あえて全て象徴的に語り、個人的な見解を除いたのがルドルフ・シュタイナーであったし、彼はそれを直覚的に得たのであるが、ほぼ同じ表現をする者は世界中に少しはいるのである。
ジョージ・アダムスキーが宇宙人から聞いた話もまた、彼の解釈なのであろうが、人類は太古の昔、他の惑星の不良人種達が地球に送られたのであるが、送った方としても、別に地球人類を嫌っていた訳ではなく、むしろ愛していたのであり、援助を惜しまなかったが、やがてある理由で地球人に近付けなくなり、直接的な指導が出来なくなったのである。

作家のような人達は、ただの空想でお話を創るのではなく、ソクラテスが言う、ダイモーンという仲介者を通して宇宙的な英知を表現するのである。
石ノ森章太郎さんは、『サイボーグ009』という漫画を描いていて、遂に、神との戦いという発想に辿りついた。太古の昔、人類を創造した神が、長い時を経て、地球人類の様子を確認に来てみたら、あまりに期待外れだったので、いったん滅ぼし、無に帰してやり直すことを決定する。だが、009達は、それを阻止するために戦うことを決意するが、勝ち目のある戦いではない。石ノ森さんは、作品化には時間が必要と感じ、連載を打ち切ったが、いつかは必ず制作しようと思っていた。
しかし、あまりに壮大な構想であったため、作品にすることが出来ないまま、石ノ森さんは亡くなった。だが、膨大な原稿や資料は残しており、長男の小野寺丈さんが大変な苦労の末、2006年にまずその第1部を発表し、今年、遂に完結させた。
石ノ森さんのお話も、人類の歴史の、壮大な1つの解釈なのだろう。
石ノ森さんは、かつて、平井和正さんと『幻魔対戦』を描いた時、「新しい聖書を創るくらいの意気込みで描いた」と述べていたが、聖書もまた1つの解釈なのである。しかし、それは、全ての解釈を離れるための解釈なのだ。そして、現代人としては、石ノ森さんの解釈がその役に立つかもしれず、もしそうであれば、確かに、新しい聖書と言えるのである。









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こうすれば勇気なんて勝手に溢れてくる

「勇気をもらう」とか「勇気をあげる」という言葉をよく聞く。
しかし、それは、「自分には勇気がない」、「お前達には勇気がない」ということなのだ。
勇気なんて、自分の中に必ずあるのであり、なくなることは決してない。
勇気がないというのは、内側にある勇気を出せない状態であるということなのである。
インドの聖者ニサルガダッタ・マガラジが、「勇気が欲しいと言う人は、勇気がない状態が普通だと思っているのだ。そうじゃくなて、勇気があるのが普通なのだ」と言っていたが、全くである。

勇気に関して、良い話がある。
石森章太郎さん(後に石ノ森章太郎と改名した)の代表作の1つ『サイボーグ009』で、009が言った、日本漫画史に残る名セリフがある。
ちなみに、009こと島村ジョーは、日本人と西洋人のハーフの18歳である。
『サイボーグ009』は、9人のサイボーグ戦士達の話だが、彼らは戦争用サイボーグのプロトタイプ(試作品)だった。彼らを開発したブラックゴーストという、戦争兵器の開発販売団体は、009達の開発で成果を上げ、いよいよ実用品のサイボーグを作って、各国に売り込む予定が、009達に逃げられる。しかし、009達の研究データや開発ノウハウはブラックゴースト内に残っているので、もっと優れたサイボーグを作ることが出来る。それを世界中の政府を相手にセールスすると同時に、009達を処分しようとする。処罰の意味もあるが、009達から機密情報が漏れないようにするためもあるのだろう。そういえば、今でも、戦争兵器技術の版権なんて話を聞いたことがないというのも、面白いものであるが、今回はそれについては追及しない。
それで、009達は、ブラックゴーストに挑まれ、新型サイボーグ達と、ある島で対決することとなった。逃げ回っても追われるのだから、戦って勝つしかないし、009達には、ブラックゴーストを滅ぼそうという意志もあった。
ところで、009の持つサイボーグとしての能力は加速装置である。加速装置を起動させると、行動や思考が数千倍化され、加速している者にとって、周囲の動きは逆にスロー化するという強力なものだ。001から008達はまた、それぞれ別の能力を持つ。加速装置を持つのは002と009だが、そのナンバーの違いが示す通り、ずっと先に作られた002の加速装置は、完成形と言える009のものよりずっと性能が低く、加速の大きさがかなり異なる。その代わり、002には飛行能力がある。
いよいよ戦いが始まり、009は、アポロンという若いサイボーグと戦う。アポロンも最新の加速装置を持っており、その加速性能は009と互角だった。
激しく戦う009とアポロンだが、お互い正面からレーザー銃を向け合った状態で、アポロンがその銃を捨てる。
困惑する009にアポロンが言う。
「このまま撃ち合えば、両方死ぬ。それじゃ、つまらないじゃないか?僕達は優れた性能を秘めたサイボーグなのだから、それを使って戦おうじゃないか?」
現代で言えば、ゲーム感覚のような感じもする言葉だ。
だが、心の純粋な若者である009には丸腰の相手を撃つことは出来ない。
ジョーも潔く銃を捨てる。
すると、アポロンは、自分の能力をあらかじめ009に示す。アポロンは全身から千度の熱を、手のひらからは5千度の熱線を、そして、指先から2万度のレーザーを発射することが出来た。アポロンは、岩を手のひらからの熱線で溶かし、指先から出るレーザーで岩を切断してみせる。
先に手の内を見せたのは、アポロンが男らしいと言うより、自分の能力に自信があるからだろう。
そして009に、
「それで、お前は他にどんな能力を持っているのだ?まさか加速装置だけじゃあるまい」
と問う。
その時、009が言ったのが、
「後は…、勇気だけだ」
である。009には実際、加速装置以外の戦闘に役立つ機能は無かったのだ。
009は逃げ回るしかなく、やがてアポロンのレーザーに胸を射抜かれ、海中に沈む。だが、発熱中のアポロンは海中に追っていくことが出来なかった。

単に美しいお話ではなく、天才、石森章太郎は、勇気の真意をよく分かっていた。
勇気というのは、先に述べた通り、自分の中にあるのであり、本当の自分にアクセスすれば勇気そのものになる。
そして、本当の自分と通じ合うには、損得計算を捨てるしかない。
009に損得を考える気持ちがあれば銃を捨てるはずがなかった。彼は、本当に勇気があったのだ。
最も勇気のある人間の代表が岡本太郎だった。
岡本太郎は、作品を売ろうなどとは全く考えていなかった。つまり、売れる作品なんか決して創ろうとしなかった。
売れなくていい、いや、売ってたまるかと思い、個人用のコレクションになりそうな絵など絶対に描かなかった。誰でもタダで見れるモニュメントのようなものの制作に情熱を燃やした。1970年の大阪万博の「太陽の塔」を創った時だって、本当は、もっと小さなものを創るよう依頼されたが、岡本太郎は、依頼主に従って主張を曲げる気などさらさらなかった。
岡本太郎は、作品が売れなくて食えなくてもそれでいい、食えなければ死ねばいいと言っていたが、おそらく本当にそう思っていたはずだ。

つまり、得をしようという考えを持っていれば、本当の自分になることが出来ず、真の自己の属性である勇気も無いのである。
そして、今は、誰もが、損をしたくない、得をしたいと思い、世間には、「得をしよう!」「そんなことしたら損だからやめましょう!」という卑しい声ばかりだ。
岡本太郎らしい言い方を真似るなら、「得をしてたまるか!」「損をしなければならない!」というポリシーで生きるべきなのである。
そうすれば、求めるまでもなく、勇気は勝手に溢れてくるだろう。
岡本太郎の言葉を集めた、『強く生きる言葉』を読むと良い。1ページに1つずつの、ごく短いが、岡本太郎の、ど迫力の言葉が書かれていて、嫌でも鼓舞されるだろう。
もちろん、言葉は言葉であり、いかに岡本太郎のものとはいえ、あまり他人の言葉に頼ってもいけないが、何かの気付きは得られると思う。心がすっかり弱体化した現代人にはそれも必要だろう。









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