ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

瞑想

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

瞑想すれば幸運になる理由

私が子供の時、異常な引き寄せ能力を発揮したことは何度か述べたが、大人になれば、一概には言えないが、そんな力より、幸運である方が幸せではないかと思う。
そもそもだが、引き寄せ力と幸運との区別はそれほどはっきりしていないと思う。
そして、子供のうちは欲しいものがストレートに分かるし、欲しいものは大抵良いものなので、引き寄せが出来れば良いが、大人になれば、自分で自分の本音が分からない場合が多い。
つまり、大人になれば、余計な知識や社会の洗脳で、魂が覆い隠されてしまい、偽りの自我が出来てしまっているが、その偽りの自我が望むままに引き寄せが出来たら、それこそ地獄である。
自分に本当に良いものを魂が引き寄せてくれるのであるが、それを偽りの自我が邪魔をするのである。

よって、自我を出来るだけ消し、魂にまかせてしまうことで、幸運と等価である魂による引き寄せが起こるのである。
瞑想をすれば、少々下手な瞑想であっても、自我が薄くなるので、瞑想する人ほど運が良いのは道理であると思う。

私は、極端な引き寄せから幸運へのシフトは、だいたい高校生の時から22~23歳くらいで起こったが、それほど厳密なわけではない。
しかし、私は、特に社会人になってから・・・いや、それ以前のニート時代からの(笑)幸運は驚くべきものだと思う。
そして、何で覚えたのか自分でも分からないが、私は、随分若い頃から瞑想・・・というか、瞑想じみたことをよくやっていた。
多分、漫画か何かで、ヒーローが座禅を組んで瞑想しているのを見て「カッコええなあ」と思って真似し始めたのだろう。
それで、子供の頃から、結跏趺坐(座禅の本格的な座り方)まではしなかったが、胡坐(あぐら)や半跏趺坐(はんかふざ)で瞑想していたのを覚えている。
だが、座り方は、自分が心地よければ何でも良い。

地中海の女神
AIアート568
「地中海の女神」
Kay


そんなわけで、再び瞑想してみようという気になった。
瞑想は、別に難しいものではなく、それなりにきちんと座って深呼吸をしたり、あるいは、呼吸に意識を集中すれば良い。
座って、心の中で、あるいは、微かな声で念仏を唱えるのも立派な瞑想だ。
唱えるのは、マントラでも、神仏の名でも、「アジマリカン」や「トホカミエミタメ」のような神呪でも良い。
W.E.バトラーの『魔法修行』にある「4の呼吸」や、政木和三さんの腹式呼吸も良い。
パム・グラウトの『人生を思うように変える呼吸法』には「三角の呼吸」などの簡単な呼吸法が載っている。
これらの呼吸法を座ってやれば、それで十分な瞑想である。
もちろん、志賀一雅博士の「よかった・ありがとう呼吸」は最上の瞑想に導いてくれるだろう。
最近もご紹介した苫米地英人さんのIQが上がる音楽や、ソルフォジオ周波数の音楽を聴きながら瞑想しても良いと思う。
尚、腕振り運動や佐川幸義流四股は、無心にやれば「動禅」とも言える優れた瞑想になる。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)人生を思うように変える呼吸法(パム・グラウト)
(2)魔法修行―カバラの秘法伝授(W.E.バトラー)
(3)苫米地式 聴くだけで脳が生まれ変わるCDブック
(4)ソルフェジオ・ヒーリング528~心身を整える5つの周波数(CD、ダウンロード)
(5)神さまの周波数とシンクロする方法(志賀一雅)
()ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力

意外な幸運の秘密

私は、子供の時から、自分の異様な運の良さを感じていたが、やっと、その理由について単純に説明がつけられるようになった。
説明がつけられるということは、それに従えば、これからも運が良く出来るし、同じようにやれば、誰でも、運が良くなる。
以前は、自分が運が良いのは、いくらかは自分が特別な人間だからだと思っていたし、そうでないとしても、運を良くするのは何か奥深い秘法があり、私がたまたまそれを行っていたと考えていたが、そうではない。
それは実に簡単なことだった。

その方法は、もちろん、思考を消すことで、心を消すことと言っても良い。
ただし、思考を消すと言っても、眠っていたり、気絶していてはならない。
意識があって、なおかつ、思考を消さなくてはならない。
これを自然に実践していたのは、UFO研究家で有名な矢追純一さんだった。
彼は、何かのインタビューで、「僕は頭が悪いから考えることを放棄した」と言っていたが、この態度こそまことに好ましいものだと思う。
ただ、思考を止めることが出来るのであれば、方法は問わない。

健康な人
AIアート105
「健康な人」
Kay


私は残念ながら、なかなか自分の頭が悪いという自覚を持てなかったが、どういうわけか、小学4年生の時から、座禅に興味を持ちそれを度々行っていた。
座禅と言っても、全くの見様見真似の我流で、単に、映画か何かで、ヒーローが座禅をする姿を見て「恰好ええなあ」と思って真似していただけだった。
しかし、「自主的に」座って目を閉じ、心静かなフリをすれば、少しでも思考が消えるものである。
私が好ましく思うヒーローの多くは、ありがたいことに座禅をしていた。
そのおかげで、私は瞑想好きになったが、あくまで恰好だけである。
しかし、恰好だけでも座禅、瞑想、静座が好きになり、たとえ少しでも、心を消すことが出来たのが幸運の秘密だった。

心が消えれば、全知全能の魂が表に出て活動する。
魂は神のようなものであり、イエス・キリストが言ったように、「神はお前たちが必要なものなど、とっくにご存じ」なのであるから、思考が消え、魂が活動すれば自ずと幸運にもなるのである。
座禅や瞑想も、長時間、集中してやれれば(つまり長時間、思考を消せれば)良いのは当然であるが、たとえわずかでも思考が消えれば、魂は全知全能であるのだから、相当なことが出来るのである。

念仏や真言を唱えることでも、思考を追い出し、思考を止めることが出来る。
そのためには、聖者とか修行者になりきって、真面目にやることが大切で、私のように、子供が座禅をするヒーローを見て、格好良いから真似する・・・で十分である。

少しでも良いのである。
たとえ1秒でもだ。
実際、1秒の瞑想(統一という言い方をする人もいる)を勧める聖者もいる。
そして、最も良い瞑想は「私は誰か?」と自分に問うことである。
「私は誰か?」と自分に問えば、瞬間かもしれないが確実に心は消える。
その積み重ねにより、ますます心を消し易くなる。
自分が好きな方法を取れば良いのであるが、とにかく、瞑想をすることで、最終的には「私は誰か?」にたどり着けば良いと思う。








なぜ瞑想をしないといけないのか

少し前に、「マインドフルネス」がブームになったが、これも瞑想の一種に過ぎず、瞑想自体はかなり昔から一部の人々の間で関心が持たれてきた。
しかし、瞑想の真の重要性を理解している者は、ほぼ皆無で、皆がそれぞれ、瞑想に関する、好き勝手な主張・妄想をし続けている。

実際、習慣的に瞑想をしている者が幸運だったり、願い事が叶いやすいのは事実である。
しかし、そのことに明確に気付いている人がおらず、さらに有益なことを起こせないのは、その原理を全く知らないからだ。

若さの特徴
AIアート104
「若さの特徴」
Kay


瞑想をやれば、上手い下手によっていくらかの、あるいは、かなりの差があるが、わずかではあっても、心が消えるのである。
どのくらい心が消えるかは、今言った通り、上手い下手によって違いがあり、ほんのわずかな場合もあれば、かなりの人もいる。
しかし、それほどである人は少ない。
とはいえ、心が消えている間は、魂が表に現れており、魂は全知全能なので、我々の頭では気付かないが、人生の状況を改善するのである。
けれども、ほとんどの人は瞑想をしないし、しても、あまり上手くないので、魂が力を発揮することも少ないのである。

とはいえ、下手でも、瞑想をしないより、する方がはるかに良いが、どうせなら、良い瞑想・・・つまり、心がちゃんと消える瞑想をしたいものだ。
そして、最も心が消える瞑想とは、「私は誰か?」と自分に問うことなのである。
「私は誰か?」と自分に問えば、瞬間かもしれないが、確実に心が消え、魂が現れる。
さらに良いことに、「私は誰か?」と問えば問うほど、心は消え易くなり、魂はますます力を発揮し、あなたの願いは叶うのである。
やがては、心は完全に消え、あなた自身が神になるのである。








秘法 無音霊気四股(保存版)

坐禅や瞑想を、何も考えず、無念無想でやることは、難しいと言うより、無理だと思う。
坐禅では、本式には、公案というものを考えながらやるらしいが、それは、専門的にやらないと難しい。
そこで、数息観といって、吐く息の数を十まで数えることを繰り返したり、マントラ(真言)を心の中で繰り返したりする。
しかし、そんなふうに、頭の中だけで、数えたり、唱えたりするのは、時間が長くなるほど苦痛でストレスになる。ストレスを取るはずの坐禅や瞑想でストレスを溜めていては仕方がないが、坐禅や瞑想をする者には、そんな者が多い・・・というか、ほとんどそうではないかと思う。
そこで、立って行う立禅(気功や太極拳ではタントウコウと言う)というものがあるが、私は、しっかりとした気功家と思える人の動画で、やり方の説明を1分見ていたら、あまりの複雑怪奇さにやる気を失った。
それで私は、腕振り運動を圧倒的に勧めるのだが、ほとんどの人は、腕振り運動を普通の運動のように考え、力が入り過ぎて、本来の腕振り運動の良さを殺してしまっている。

そこで、身体鍛錬にもなるし、なおかつ、心も統一させる効果があるものとして、四股に注目した。
四股と言っても、相撲の四股とはかなり・・・いや、全然違い、四股という言い方は止めた方が良いとすら思う。
元々、大東流合気柔術の師範であった佐川幸義氏が考案したものだが、佐川氏はやり方を正式に広めず、弟子達の間でもやり方が異なり、高弟の中には、自分のやり方も自己流と心得ているのか、一切語らない人もいると思う。
私の四股も、佐川流の中に入るのかもしれないが、全く自己流である。
しかし、やっていて面白いので、ちょっとやり方を書いてみる。

(1)足を平行にして立つ。つまり、外股(ガニ股)でも内股でもない立ち方をする。足の外側の距離(小指と小指の間の距離)が肩幅になるように開くが、もう少し開いても良い。
(2)上体を真っすぐに立てたまま、少し腰を沈める。沈め方は、かかとを床につけたまま、膝を前に出しながら、一番ゆったりと感じるところまで腰を落とす。腰が落ちる距離は、数センチから十数センチと思う。腰を落とす際、くれぐれも上体が前屈や後屈をしないように。
(3)左足をわずかに上げる。わずかとは、1ミリから2~3センチ程度で、本当にわずかである。この際、上体があまり右に傾かないように心がけるが、無理に傾けないよう力んでもいけない。また、意図的に体重を右足に移動させてはならないが、自然に移動する分は構わない。このように、左足を上げた際に、いかに自然に、わずかに右に傾き、右足に体重をわずかに移動させるかといった微妙な感覚が大切で、数をこなすうちに、しっくりしてくる。このしっくりさが、この四股の要諦(肝心なところ)である。
(4)左足をつま先からそっと床に降ろす。かかとまで降ろし終わるまで、あくまでそっと行う。
(5)両足で真っすぐ立った状態で静止せず、すぐ、今度は右足を上げ、同じように行う。

慣れないと、脚がかなり疲れるかもしれない。
その場合、両脚で真っすぐ立った状態で少し静止するが、止まっているように見えても、1秒に1ミクロンでも動いているというくらい、極めてゆっくり動いていると思えば問題ない。
この四股で、肉体、精神だけでなく、霊も磨くことが出来る。
おそらく、精神エネルギー(これが気である)を使えるようになり、病気も治るし、引き寄せも出来るようになると思う。

四股や、その他の鍛錬の仕方など全く書いていないが、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』や、『天狗芸術論・猫の妙術』が、非常に参考になった。
あるいは、宮本武蔵の『五輪書』や『荘子』に秘中の秘があると感じた。








神のようになる

無になるとは、言い換えれば、「無我」「忘我」「没我」の状態になることと言えるが、どれも同じことだ。
つまり、我(われ)がない、我を忘却した、我が没した状態で、個人的な心がないことだ。
そして、無になれば、天才だし、幸運がやって来るし、超能力者だし・・・まあ、神様みたいなものかもしれない。
だが、無になるためには、長い厳しい修行が必要だ。

ところが、実を言えば、一瞬、無になるだけなら、簡単に出来る。
そして、一瞬であろが、神様なのだから、その力は計り知れない。
では、どうすれば、一瞬、無になれるのかというと、単に、息を吸って止めれば良い。
息を吸って止めれば、よほど無理に何かを考えようとしない限り、何も考えていないことが分かると思う。
つまり、それで無になっているのである。
その一瞬、心配事は消えているし、欲望もないし、誰かを恨むこともない。
適度に吸って止めれば良いが、万一うまくいかないなら、多めに息を吸えば良い。

息を吸って止めれば、無であり、それは即ち、神なのだから、全て思うがままになる。
「いや、思うがままって、思ったら無じゃないじゃない?」
と思うかもしれないが、そうではない。
自我の思いはないが、神の思いがあるのである。
たとえば、「富」という言葉を心で言えば、必要なお金がやってくる。
全ては神の意思で起こるのだから、別に不思議なことでも浅ましいことでもない。
ただし、願いを表す言葉が言えるのは一瞬だけだ。
とはいえ、流れ星が流れる時間よりはずっと長く、「富」とか「成功」とか、「富、成功」と言う時間はちゃんとあるし、3回くらい言えるかもしれない。
全ての願いに対して、「成った」と言っても良いのである(と言うより、これが良いかもしれない)。
息を吐いたら、神の思いを自我の思いで穢さぬよう、直後は忘れる・・・つまり、願いについて考えないことだ。
そのためには、息を吐く時、細く長く吐くと良い。息を吐いている間は、自我が帰って来ないからだ。
とはいえ、絶対にそうしなくてはならないわけではなく、息を吐いて、しばらく忘れれば良いのである。

何度か言ったが、例えば、前世での業による宿命みたいなものを背負っていると、なかなか願いは実現しない。
その場合、真言、念仏、神仏の名、お経、祝詞、祓詞などを、悪業が消える、あるいは、弱くなるまで唱えると良い。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード