ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

真言

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

現代の魔法

ウイルスに感染し、遠隔操作で不正行為に利用されるコンピューターのことをゾンビコンピューターと言うが、我々はまさに「ゾンビ人間」だ。
我々は、脳内に神経ウイルスのようなものが作られてしまっていて、その神経ウイルスは、脳のリソース(資源)をふんだんに使い、我々を落ち込ませる言葉を1分に数百とつぶやき(意識されないが)、我々を疲労と憂鬱に落とし込む。
それに対抗するためには、我々は意識的に肯定的な言葉を唱えなければならない。
実に、成功と失敗の原因は、それをするかしないかだけだ。

確かに、良いつぶやきが大事だと教える人がいて、本も沢山出ているが、それらの本が全く役に立たない理由は、「沢山の言葉をつぶやかせようとする」からだ。
言葉は1つでなければ唱え続けられない。
法然が『選択本願念仏集』で、「阿弥陀如来だけを崇めよ」と言い、ただ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えよと言っているのは、そのことをよく理解していたからだと思う。
普通に考えれば、阿弥陀如来以外の仏や菩薩、ましてや、釈迦は尊いのに、念ずべきは阿弥陀如来だけにしろという。
しかし、「南無阿弥陀仏」の他に「南無観世音菩薩」とか「南無釈迦牟尼仏」と唱えようとすれば、念仏がシンドくなるに決まっているからだ。結果、どの念仏と唱えなくなってしまうのである。
そうなれば、その人の頭は悪霊(否定的な言葉)に支配されてしまうのである。

私も昔、営業の仕事をしていた若い頃、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えて、うまくいっていた。
しかし、本を読むと、「観世音菩薩の真言オン、アロリキャ、ソワカを唱えると守護が得られる」とか、「やはり大日如来真言の威力は大きい」と書いてあるのを見て、それらを唱えるようになったら、やがて、あまり真言を唱えなくなり、そのうち、どんな真言も全く唱えなくなった。
そうしたら、トラブルが多くなり、人間関係も乱れ、売上はさっぱりになり、会社も辞めることになった。

もし、本当に明るいものを感じ、抵抗がないなら、念仏や真言を唱えれば良いと思う。
そして、全ての現代人に抵抗がなく唱えられる効果抜群の言葉が、いつもお薦めする万能呪文である。
「絶対、大丈夫だ」
「全て順調だ」
「世界は意のままだ」
の3つから1つを選び、感情を込めず、頭の中で、出来るだけ多く唱えるのである。
感情を込めないことも大切で、いわゆる「心を込めて」唱えると、やはり続かない。
ただ、感情を込めないと言っても、いい加減に唱えるのではなく、真面目に唱えなければならない。
万能呪文は、脳内の神経ウイルスを抑え、さらに、潜在意識に良い指令をインプットするのであるから、うまくいかない方がおかしい。
私は、今年7月16日に、万能呪文1本に絞り、他のことは一切やめたが、今も、脳内の神経ウイルスはなくなった訳ではなく、油断すると心を支配しようとしてくる。
だが、万能呪文を忘れていたことに気付き、攻勢をかけると、すぐに状況は好転していく。
まだ、一瞬で状況を書き換えるというほどではないが、いずれそうなるだろう。
これが現代の魔法である。









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身の程を知る怠け者と身の程を知らない努力家

宗教やオカルト・神秘主義の何が悪いのかというと、「思考停止すること」と思っている人が多いかもしれない。
しかし、思考停止することは素晴らしいことだ。
思考停止すれば、神の叡智が出てくる。
いや、思考停止しなければ、神の叡智は出てこない。

思考停止することが悪いのではなく、「余計なことを考える」ことが悪いのだ。
では、なぜ人間は余計なこと・・・考えなくていいこと、無駄なこと、考えても仕方がないことを考えるのだろう?
まあ、そこが、人類最高の難問な訳だ。
答は、ギリシアのデルポイにあるアポロン神殿の入り口に書かれている、人類最高の言葉、
「グノーティ・セアウトン」
に適うかどうかだけだ。
グノーティ・セアウトンは難しい意味じゃない。
ただ、「身の程を知れ」ということだ。

身の程を知れば、何をしても正しいが、身の程を知らなければ、何をしても間違っている。
人間の幸・不幸は、ただ、身の程を知るかどうかで決まる。

「天は自らを助ける者を助ける」とか言った人がいたが、そうではない。
身の程を知った怠け者は案外に幸せだが、身の程を知らない努力家は見捨てられることはないが、キリキリ舞ばかりさせられる。
身の程を知った宗教は科学だが、身の程を知らない科学は妄想だ。

身の程を知るとは、自分より優れた存在を認めるということだ。
とはいえ、人間同士なら、大差はない。
しかし、人間をはるかに超えた何かは確実に存在する。
人間には、その存在は見えないが、それを認めることが、身の程を知ることだ。
自分を超えた存在に意識を向けることを繰り返すことで、少しずつだが、人間は身の程を知る。
その手段が念仏や真言や、あるいは、自分を超えたものの存在を前提とした呪文だ。
南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、オーム(アウム)、阿吽、アジマリカン・・・何でも良い。
何でも同じだ。
自分を超えた存在に意識を向ける限り。

身の程を知らないと、不調和な生命エネルギー・・・即ち、悪霊(低級霊)にとり憑かれる。それが、人間の運勢低下の唯一の原因だ。
いろんなやり方があるが、私に関して言えば、『歎異抄』を読んで念仏を称えれば、全てはうまくいく。
ただ、『歎異抄』の解説書を書く人の中には、身の程を知らない人も沢山いるようである。
『歎異抄』は、なるべく分かり易い現代語訳と、最低限の解説があれば良い。
外国の人には原文は絶対に読めないが、それでも、シンプルに訳されていれば真意は伝わる。

どんなことも・・・趣味であっても、身の程を知ったものは楽しいが、身の程を知らずにやると苦しくなる。
ロリコンだって、身の程を知ったロリコンなら、ルイス・キャロルのように、そう悪くはなく、幸福ですらあるが、そうでないなら、ハンバート・ハンバート(『ロリータ』の主人公)のように、喜劇を演じる愚か者になるしかない(作者は喜劇のつもりで書いたのだそうだ)。
イエスは「思い煩うな」と言い、釈迦の教えを受けた者は「妄想するな」と言ったらしいが、そんなこと、身の程を知る限り、どうでも良いし、身の程を知れば、思い煩うことも、妄想することもない。
だから、常に、念仏、あるいは、真言、あるいは、呪文を称えることである。

ところで・・・毎朝、ガッツポーズだけはするように。
でないと、世間に殺されてしまうからね。









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人生最後の望み

般若心経を10万回称えたって人がいたが、その人の力は大したもので、イエス・キリスト並に、かなり大物の悪霊も祓うことが出来た。
人間の不幸の深い原因は悪霊であり、その彼に会うと、危機的状況を逃れるなど、少なくとも、一時的には運命を好転させることが出来た。
ところが、世の中には、「般若心経を3千回称えました」とか、「般若心経の呪文を1万回称えました」とかいう人は割といるが、そんな人は危ない。

般若心経に限らず、祝詞や念仏や真言を称えると、自我より高い存在に意識を向けることになり、称える回数が多くなれば、少しずつだが自我は退き、その高い存在に似てくるというか、同化していく。
ところが、般若心経3千回程度なら、自我は「俺は般若心経を3千回称えた立派な人間だ」と誇り、かえって自我が強くなる。
それでも、そこから更に称え続けるなら良いが、3千回でやめてしまうと、驕った自我を悪霊に利用されて手玉に取られるかもしれない。
中途半端に信仰を持った人間なんて、ぞっとしないというのは分かると思う。

私が、まるで駄目男君(私の職場にいる30歳もとおに過ぎた人生の落伍者)に、念仏や真言を勧めたくない理由もそんなところにある。
まるで駄目男君は、おだてれば、2週間程度は熱心に念仏を称えたりするかもしれないが、すぐに、「昨日は忙しくて出来ませんでした」とか言い出して、やめてしまうに決まっている。
結果、自尊心だけは高まり、もっと駄目になるのである。

私も一頃、休日には1日7時間、神道の大祓詞を称えていたことがある。平日も2~3時間、称えていたと思う。
合計で5千回になったが、それでやめてしまい・・・まあ、ロクなことはなかった。
土台、1日7時間も称えるというのは、欲深であるというだけのことだ。
エドガー・ケイシーって人は、毎朝必ず聖書を読むことを一生続けたので、偉大な霊能者になったのであると思う。

とはいえ、般若心経10万回とか、大祓詞5万回なら、さぞ強力な力がついていることだろう。
人生に何の望みもなく、暇で退屈で、死ぬ時のことをよく考えてしまうようであれば、最後の望みを賭け、そういったことをやってみるのも良いと思う。
まあ、ある程度やっているうちに、自我が退き、つまらないことを望まなくなる。力が出てくるのは、そうなった後である。









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悪霊を封じるには

悪霊・・・と言ったら、迷信と思われるかもしれないし、迷信という部分も確かにあるのだが、他に良い言い方がないので、一応、悪霊としておく。
悪霊というのは、見えないだけでなく、五感の全てでほとんど感じられない存在で、ある種の意思、波動、エネルギーといったものであるが、我々もまた、物質的存在であると共に霊的存在であり、その霊的な面にマイナスの影響を与えるものを悪霊と言う。
非物質的存在である霊に起こった影響は物質的にも現れる。いずれにしても、悪霊の働きかけは無視出来ない。

合気道の達人で神道家の佐々木の将人(まさんど)さんは、悪霊を封じる呪文として「アジマリカン」を使うよう教えている。
その根拠は述べていないが、根拠を知らなくても効力があるから、特に言わないのだろう。
また、佐々木の将人さんの神道の師と思える山蔭神道の山蔭基央さんは、英訳もされている著書『神道の神秘』で、この「アジマリカン」の呪文を取り上げておられるが、やはりその意味などは述べていない。一般には秘なるものなのかもしれない。
しかし、やはり、誰が唱えても力があるのだろう。
また、仙骨療法であるMRTの創始者の内海康満さんは、著書の中で、『ローム太霊講和集』の中にもあったある呪文を紹介され、危険な状況で唱えると効果があると述べておられる。
その呪文をここで書いて良いものかどうか分からないので、ご興味があれば、下に紹介した内海氏の著書か『ローム太霊講和集』を参照されたい。

悪霊に対しても、「南無阿弥陀仏」の念仏は最上の効力を持つと思う。
何と言っても、念仏を称える者を、仏、菩薩、天の神、地の神が守るからである。
このあたりは、親鸞の『現世利益和讃』に明記されている。
理屈で言えば、自分より高次の存在に崇高なイメージと共に意識を向けることで、宇宙全体の高次エネルギーが反応すると共に、念仏によって、余計な思考が消え、悪霊の影響を受けなくなるのである。
「南無阿弥陀仏」については、『浄土三部経』や、龍樹の『十住毘婆沙論』に、「南無観世音菩薩」については、『法華経』の25章『観音経』に記述がある。
しかし、そのようなものを読まなくても、ただ称えれば良い。

人生の不具合は悪霊の影響によるものが甚だ多い・・・いや、自分の思考を含め、全て忌むべき出来事は悪霊の影響とも言える。
このあたりは、ルドルフ・シュタイナーの著書からも分かるかもしれないが、シュタイナーの著書は恐ろしく抽象的で分かり難い。
私も散々、悪霊には苦しめられてきたと思うが、念仏などの真言のおかげで、一切の障りはない。
トラインの著書にも、悪霊の影響を受けてはいけないことが書かれているが、トラインは、悪霊に対し、良い想いで対抗すべしとしているのだと思う。
しかし、それは甚だ難しく、我々は、念仏、真言、呪文の力を借りるべきと思う。
また、念仏などを称えれば、自然、少しは落ち着いた心にもなっていくと思う。

















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私は2つのことしか覚えられない

幸福になるため、幸運を呼ぶため、良いものを手に入れるため、成功するための秘法はいろいろあって、自分に合ったものであれば、確実に効果を発揮する。
昨日の夕刻頃だったろうか、私は、そんなものの中の、素晴らしいものを1つ思い出し、嬉しい気持ちを感じた。
しかし、今は、それが何であったか覚えていない。
つまりね、そんなこと、やっぱり覚えていられないのだ。
だから、「ミクさんGO」だけ覚えておけば、後のものは不要・・・忘れてしまって構わないのだ。
ミクさんGOとは、ミク(M)さんGO(G)で、Mはマントラ(真言)で、Gはガッツポーズ(パワーポーズ)だ。
この2つさえあれば、人生、無敵であり、楽しいはずであり、人生で最も大切なこと、即ち、満足を得られるだろう。

マントラ(真言)は、念仏や呪文、あるいは神仏の名や祈りであるが、最近の私は、個人的には念仏が一番よく出来ていると思う。しかし、もちろん、それぞれが好きな言葉を称えれば良い。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中では、イエス・キリストは、「神」という言葉を出来るだけ多く使うべきであること、そして、それ以外のことは忘れて構わないと述べている。
この話が本当にあったことかどうかは分からないが、この教えは、単に理屈で考えても正しい。
キリスト教徒であれば、「主の祈り」を称えても良いし、ただ「アーメン」と言っても良い。
詩篇23篇や91篇を称えても良い。
なぜなら、これらの言葉により、必ず、自分より高い存在に意識が向くからである。
念仏も自然に、確実に、自我を超えた存在に意識を向けさせる。
それ(自分を超えた存在に意識を向ける)をしないと、人間は、自分の自我が、ナンバーワン、オンリーワンと愚かにも思い込む。それが人間の不幸の唯一の原因である。
釈迦は、煩悩が全ての不幸の原因だと言ったらしいが、煩悩が誰に起こるか、考えてみれば良い。
煩悩は誰に起こるか?
それは「私」という自我である。
しかし、それは避けられないのだ。
それどころか、煩悩は大いに起こすべきである。
そんなもの滅して生きられない。
煩悩こそ、生きるエネルギーである。
美味しいものを食べたい、いい女(男)が欲しい・・・当たり前のことだ。
だが、真言によって、自分を超えた存在に意識を向ければ、自ずと、煩悩の影響はなくなる。
土台、聖者だってスケベで怒りん坊で、美味いものが大好きだ。
だが、彼等は、マントラを称えているので、それらに執着しないのである。
釈迦だって、最後は、念仏以外は捨てたという説もある。

ところで、一人で食事をする時でも、必ず「いただきます」と言う人は、絶対に不幸にならない。
キリスト教徒で、食事の前に、「主よ、今日の糧を与えていただき感謝します」と祈る人も絶対に不幸にならない。
トイレの下駄やスリッパを必ず揃えて出る人も同様である。
珍しいが、ビートたけしさんのように、どこに行っても、トイレが汚れていたら掃除してしまう人もだ。
なぜなら、それらの行為は、無意識の場合もあるが、自分を超えた存在を意識しなければ決して出来ないからだ。
これらの行為は、念仏と同じである。

私は、煩悩が叶った場面を瞬間に想いながらガッツポーズをすることが多い。
叶うかどうかは、なりゆきに任せるが、叶っても不都合ないことなら叶うだろう。
念仏を称えていれば、必要なものは光の速さでやってくる・・・いや、称える前に、そこにある。
そして、煩悩を楽しむことに忙しくて、他のことは覚えていられないのである。
だが、そんな私が、無意識に普通の人より多彩多様なことをやっているようなのである。









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