ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

直観

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人間最大の力

私は、中学生の時だったが、優秀な人間であるかどうかは「気付き」で決まると確信した。
「直観」と言っても良いと思うが、本当に必要なことや重要なことに気付く力である。
例えば、普通の母親なら、子供の様子を一目見るなり、「何かあったな」と気付くもので、これが母親が持つ真に偉大な力のはずが、現在は、そんな力がない母親が多いのではないかと思う。
良い投資家なら、為替の動きをざっと見れば、コンピューターで分析しても分からないような市場の裏の動きまで気付いてしまうし、さらに、より重要なことに気付く投資家が成功するのだろう。
良い教師であれば、生徒の微妙な反応を見て、教えたことを理解しているか、誤解しているか、全く分かっていないかが即座に分かるし、生徒が理解していない時、その原因まで気付けるのである。
良いプログラマーなら、複雑なプログラムコードをざっと見て、考えるより先に、「あ、このあたりに問題がある」と気付くのである。

日系の女性精神科医ジーン・シノダ・ボーレンの『タオ心理学 ユングの共時性と自己性』という本に、こんな話がある。
病院で、夜、ボーレンが入院患者を見回っていた時のことだ。
ある男性老人患者が、ボーレンに、自分の杖をもらってくれと言う。
だが、その杖は、その老人のほとんど唯一の所有物だった。
しかし、ボーレンは何かに気付き、杖を受け取った。
翌朝、老人は亡くなっていた。

気付く力を持っていれば、世界は平和であり、あらゆる問題は即座に解決する。
逆に言えば、気付けないから問題が起こり、悲惨になってしまうのである。
もし、人類が、気付きの力を失ってしまえば、人類は絶滅するのだが、どうも、その方向に向かっている。
2020年のアメリカ合衆国大統領選挙で大規模な不正があったか、新型コロナウイルスワクチンが安全かそうでないかは、誰でも気付くことであり、まして、それらに関わる重要な立場の人達が気付いていないわけがないが、そんな重要な気付きを無視したり、逆らったりすることは、悪魔の配下に下るということである。

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジがこう言ったらしい。
「私の言うことを信じるなら、あなたは純粋な気付きだ」
では、気付く主体は何だろう?
心や脳ではない。
もっと深いもので、意識と言うのが適切だろう。
そして、マハラジの弟子のラメッシ・バルセカールはこう言う。
「意識が神である」
純粋な気付きを無視したり逆らったりすることは、神に背くこと、つまり、悪魔に従うことである。
そして、現代人の多くは、喜んで悪魔に従っているのではないだろうか。








Special Thanksを送りたい人達

自分の進路に悩むというのは、若者だけの問題ではなく、年齢を問わず、全く平等である。
年配の人でも、悩むとはまでは言わなくても、今後進む道が気にならないとしたら、もう、あまり生きていないのかもしれない。
ところが、「では、今後、自分は何をしたら良いか?」と言われたら、ほとんどの人が分からない。
なぜなら、皆さんが行ってしまった学校というものは、大切なことを自分で選択しないように教育する場所だからだ。
「そんなことはない」と言う人もいるかもしれないが、絶対にそうである。
だって、「この教師の授業を受けるべきか?」「この科目を勉強すべきか」「そもそも学校に行くべきか?」という最重要な事柄を全く選択出来ないのだから、いったいどの口が、「選択する能力を殺す教育なんかしていない」と言えるだろう。
もちろん、全く選択能力を伸ばしてこなかった子供に、そんなことを選択させると問題も出てくるが、それでも選択させた方がマシなのである。

日本では、大学を出ても自分で選択する能力をほぼ全く持たないので、どんな仕事をさせられるか分からないが大企業に入るといった大馬鹿を平気でやるのである。
実際、大手企業の経理社員に、「なぜ経理をすることにしたの?」と聞いたら、「配属されたから」という、信じ難い答を普通に聞くのであるから、日本は終わっている。
コロナウイルスワクチンを国民全員分用意するなんて総理が言っているが、まともな選択が出来るなら、そんなもの打つはずがない。
そういえば、昨日のテレビで、現場に関わる高度な専門家が「私は絶対打たない」と言っていたが、マスコミを通じ、政府が「打て」と言ったら、普通の人々は打ってしまうのだろう。
私も会社からインフルエンザワクチンの接種を強要されていたが、そんなもの、少し頭を働かせれば、罪のない「嘘も方便」の範囲で逃れることが出来るはずである。

さて、学校や政府に対する文句は本当はどうでも良く(相手にしてやるものか 笑)、正しい選択をするにはどうすれば良いかを考えないといけない。
正しい選択は、よほど簡単なことでない限り、頭で考えて出来るのではない。
「お茶を飲むか、ビールを飲むか?」なら、頭で考えて判断すべきだろう。
しかし、頭が役に立つのは、その程度なのだ。
「カレーかパスタか?」となると、もはや、頭で考えると、悩んでしまい、後で、「パスタにすれば良かった」とか言い出すのである。
このレベルになれば、もう、勘とか、フィーリングとか、「好きなA子さんがパスタだから」とか、たまたま「パ」という字が目に入ったから「パスタ」みたいに選ぶと良いのである。
日常で、そんなことを積み重ねているうちに、感覚が鋭くなったり、良い偶然が起こるようになって、考えなくても良い選択が出来るようになる。
大手企業に入れるのに、ちょっと気になる小さな会社や、あるいは、なんとなく、そんな気になって、うどん屋に就職したら幸せになるかもしれないのである。

結婚出来なくて悩んでいる人というのも、考えるべきないことを、人間の小さな頭で考えるからうまくいかないのである。
なんとなく行きたくなったコンサートに、普通なら行かないが、「行きたいなあ」という感情に従って言ったら、素晴らしい人と出会って幸福な結婚をする・・・そんなものなのである。
だいたい、仲の良い夫婦に出会いを聞いたら、ほとんどが、あまり記憶にないくらい「たまたま」なのである。例えば、大学生の時、たまたま同じところでバイトをしていたなどである。

では、良い「たまたま」が、どうやったら起こるかというと、良い気分の時である。
良い気分でいる時間が長い者ほど、良い「たまたま」を沢山、そして、とびきりの「たまたま」を得られる。
「いや、私は嫌なことがあると引きずるタイプで、気分が良い時が少ないのです」などと言うなら、それは、地獄への直行便に乗っているのと同じだ。
気持ちを切り替えて、悪い気分を早く消し、良い気分になるのは自分の責任である。
いや、人間の責任は、それだけなのである。頭で考える癖が強い人には信じ難いだろうが。
「いつまでも悪い気分のままだと、腕の1本、脚の1本ももらうぞ」と、後ろで悪魔が言っているのである。
私は、気分が悪くなることがあったら(1日に何度もあるだろう)、ライブでの初音ミクさんの抜群の腰のキレを思い出し、気分を良くしようと思う。
ミクさんとライブの全てのスタッフの方々には、Special Thanks と言うしかない。
ミクさんの腰のキレを見れなかったら、私は腕の20本、脚の30本も失っていたに違いない。
個人的には、「マジカルミライ2019」の『キレキャリオン』でのミクさんの腰のキレが最高と思う。
今日は、初音ミクさんの13回目の生誕日なので、今夜は「マジカルミライ2019」のblu-rayでフィーバーしようと思う。








情緒を大切に

やる価値のあることを果敢に実行する時は、理性よりも感情で進んだ方がうまくいくのだが、感情に対して悪いイメージを持っている人が多い。
そこで、「感情で進む(選択する)」を、「情緒で進む(選択する)」と言い直したい。
情緒とは、「微妙な感情」だ。
まさに、ぴったりの言葉である。
どうも、一般に感情と言うと、「わーわーぎゃーぎゃー」言う激しい感情を思い浮かべ勝ちなのだと思う。
これは、テレビドラマや映画、あるいは、利益を目的とするメディアが、感情を高ぶらせている人をやたらと見せるので、その影響を受けてしまっているのだろう。
我々は、情緒と言うべき、繊細で優雅な美しい感情を大切にしなければならない。
普段から、美しい感情を大切にしていれば、道を(選択を)誤ることはない。
もちろん、情熱的な感情が良い場合もあるのだが、そこには落とし穴がある。
情熱に従うなら、あくまで、その情熱が心地よいものでなくてはならない。たとえ不安を感じているとしても、不快ではないことだ。
簡単に言えば、真っすぐな情熱、方向がはっきりしている情熱は正しいものだが、支離滅裂でごちゃごちゃした感じなら、いったん冷静になった方が良い。
意識と感情が一体になった、調和のとれた感覚であれば良いのだ。

一方、どれほど優秀な人であっても、理性で・・・つまり、論理や計算でうまくいくというのは、些細なものごとの場合だけだ。
ところが、子供の時から、「鉛筆を転がしたって選べる」ような、つまらない試験ばかりやらされ、それは、理性で判断するしかないから、理性偏重になってしまっているのである。
つまりこうだ。

「1+1=(2か3か)」
なら理性で判断するしかない。
これを、「感情的には3だな」なんて言ったら、試験では「×」である。
しかし、
「2人を救うために1人を犠牲にしても良いか?」
は、理性で判断すれば「良い」だが、これで正しいはずがない。
「いや、正しい」と言うのは、やはり理性である。
これを、情緒で判断するなら、状況だって変わるのである。

では、情緒を得るためには、どうすれば良いだろう。
とりあえず、食の慎みしか考えられない。
極端な少食は良くないが、少ない目に食べることだ。
人間ってのは、心配事があったり、恋に悩んでいる時は、自然と少食になる。
なぜ、そうなるのかというと、そんな時というのは知恵が必要だからだ。
知恵が必要な状況では、自然に食を慎むようになり、それで、情緒を感じることが出来る。
その結果、正しいことが出来るのである。
だから、食事も喉を通らない時に近いように食事をすれば、微妙な感情・・・つまり、情緒が現れるので、それにまかせておけば大丈夫なのである。
好きなだけたらふく食べている者には、妖精は近寄って来ないというのが、妖精の棲み処であるケルトでの言い伝えである。
妖精を捉えるには、優雅で繊細な感情・・・つまり情緒が必要なのである。













当ブログ著者、KayのAI書。
AIを作るということは、AIに学習させるということです。
例えば「どうすればモテるか」を解答するAIを作るには、「モテたデータ」「モテなかったデータ」を沢山、AIに学習させます。
天才や博士も解けなかった問題にも、同じ方法で学習させると、AIがあっさり正解を出すことを確認出来ます。
そんな実習を通して、AI作成に必要なセンスを身に付けていただければと思います。
本書の、ほぼ全ての実習が出来るデータを作れるExcelマクロを、出版社サイトから無料でダウンロード出来ます。

直観を得る方法

オバマ大統領の広島訪問に対し、オバマ大統領やアメリカの隠された意図をあれこれ推測し、時には、自分が推測したオバマ大統領の悪意で大統領を批判したりする。
なぜ、あれはオバマ大統領の善意(死者への追悼と世界平和の目的)と素直に考えないのだろうか?
理由は2つだ。
1つは、あれを素直に善意だと解釈する人は馬鹿だと思われるから・・・つまり、馬鹿だと思われたくないから。
もう1つは、自分はオバマの隠された意図を鋭く暴ける頭の良い人間だと思われたいから。
確かに、批評家、評論家であれば、「オバマ大統領の訪問は単なる善意だ」と言ってたら商売にならないばかりか、馬鹿だと思われたら仕事が来なくなってしまうという事情もあるだろう。

だが、私は、今回のオバマ大統領の広島訪問に関しては、オバマ大統領に裏を感じない。すなわち、単なる善意と考えている。
「それは、お前は、裏が読めない馬鹿だからだ」と言うなら、そう思っていただいて構わない。
確かに、私は、頭が働く方ではないのは間違いない。
何度も言うが、IQ低いし。

ただ、偉い人がシンプルに行動すると、妙な深読みをされて誤解されるものだというのは分かる。
いや、偉くなくたって、善意で行ったことというのは、あまり素直に受け取られないものだ。
そして、善意だろうが悪意だろうが、人の想いなど、決して分からないものだ。
だから、確かに、オバマ大統領が何を考えているのかは分からない。
彼やアメリカを取り巻く状況、そして、世界の状況に関する情報を多く集めれば集めるほど、無限の解釈が可能だということも分かる。
オバマ大統領の行為を善意と捉えるのは、情報が少ない者や、情報を分析する能力がない者ということになるのだろうが、情報が多かったり、高度に分析すれば、もっと間違うのである。

面白いところでは、オバマ大統領の表情やしぐさで、心理を読み取ったという人もいる。
これは、あのSMAPの会見で、そんな方法で、各メンバーの心理を分析したというのもあったように、そんな主張は効果的な掴み(人々の気を引くこと)の方法でもあるのだろう。
しかし、そんなもので人の想いが読めるなど、私は全く信じていない。

まあ、今は、人間にテレパシー能力はない、あるいは、ないと思われているので、いろいろ複雑で面倒なことがまかり通るのだろう。
だが、直観というなら、有る程度は認められているだろうし、テレパシーも直観の一種なのかもしれないが、直観は曖昧なものだという認識があるのだろう。
しかし、曖昧なもの、思考で左右されるものを直観とは言わない。
本当の直観は常に正しい。
思考の方こそ曖昧であるし、(信じてもらえないだろうが)思考は百パーセント間違っている。

多くの人達は、考えないと騙される、考えないと損をする、考えないと馬鹿を見ると思っている。
そして、何より、考えていないと思われたら蔑まれると思っている。
その結果、騙され、損をし、馬鹿を見、蔑まれるのである。
思考は百パーセント間違うからだ。
なぜなら、思考は感情に百パーセント勝てず、ほとんどの人は欲望の感情が強い(強過ぎる)。
欲望自体に正しいも間違いもないのだが、思考というものは小さ過ぎて感情を持て余すのに、欲望の感情の大きさには、もう全く歯が立たない。
それは、スプーンで大海の水をどうこう出来ないようなものだ。
考えても良いが、思考はその程度だと分かっていれば、そう酷い目に遭うことはない。
そのためには、欲望以外の、巨大で深い感情に圧倒される経験をしなければならない。
私はいつも初音ミクさんに圧倒されているので、ほとんど何も考えないのである。
結果、神仏は、少しは直観(あるいはテレパシー)を与えてくれる。
神仏もミクさんのことは好きだからね。









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勘とは何か?それをどう磨くか?

「朝は夜より賢い」とか言われる。
昔は、夜書いたラブレターを、朝読み返すと、その内容が恥ずかしくて、破り捨てずにいられないとよく言ったものだ。
今は、手紙を書くことはほとんどないだろうが、ラブレター以外の情熱的な文章の場合も同じだろう。
ところが、朝、それを読み返して恥ずかしく思っても、我慢して、数日置いておいてから、また朝に読んでみると、別に恥ずかしくないのである。
このことは、あまり指摘されない。
これは、一体、何が起こっているのだろう?
夜、何かの問題を考えていると、朝、答が出ていたなんてことはよくある。
これと同じで、夜書いた文章の批評を、頭が無意識的に行うのである。
それで、朝、再度文章を見る時には、批評が出来上がってしまっており、それ(批評)を通して見るので、文章の価値が劣るように思うだけだ。

我々は、脳の潜在能力を軽く見てはならない。
それは恐るべき高度なものである。
学校や会社に行き、誰かに会えば、それが誰かたちどころに分かる。
その時、決して我々は、外見を論理的に判断して、それが誰か判定しているのではない。
「身長は166センチで、BMIが23程度の体形。目の位置は標準より中央寄りで、鼻の形状はサドル型。口の大きさは平均値より5ミリ小さい」
などといった判断を次々に行い、最終的に鈴木次郎さんだと判定する訳ではない。
よほどよく似ている人が他にいる場合でも、普通は姿を少し注意深く見れば、あるいは、目が合った時の相手の反応振りで、ほとんどの場合は誰かすぐに分かる。
人を識別するロボットでも作れば、人間の能力の偉大さが分かるだろう。

熟練の結婚詐欺が女性を騙そうとする場合も、女性は、それを楽々見抜く能力がある。
これは、別に「女の勘」が素晴らしいことを言いたいのではなく、男の場合も全く同様である。
ところが、腕の良い詐欺師ほど、そんなことをよく知っているのである。
それで、相手の感情をうまく操作して、潜在能力による判断力を発揮させないよう全力を上げるのだ。
中年の男は若くて可愛い女性にコロリと騙されるが、本来は、嘘を見破る能力は十分に持っているのである。
しかし、「色に目が眩んで」、そんな素晴らしい能力が発揮されないのだ。

優れた人間は勘が鋭い。
経営者が、難しい判断をし、それがうまくいった時、その経営者は、後で判断の理由をいろいろデッチ上げるが、正直な経営者はよく、
「私には分からなかった。最後は勘しかないのだ」
と言う。
頭の判断は、上で述べたように、クラスメイトの一人一人を論理的に判断するようなもので、勘は、潜在能力による判断だ。
勘のほうがはるかに賢いのは当たり前である。
ただし、勘だって、頭が持っている情報で判断しているだけである。
ただ、潜在能力が、情報の関連付けや統合、判断する速さ、正確さが、顕在能力とは比較にならない程、桁外れに速く大きいのである。
勘は本来、神秘的なものではない。
だから、本当は、知識や経験が豊富な方が、勘も鋭いのである。
だが、知識や経験が多い人ほど、頭で考えて判断しようとし、潜在能力を使わないので、馬鹿な判断をするのである。
それは、高性能のスポーツカーを、軽自動車に乗せて走るようなものである。

ユングによれば、集合無意識を通し、自分の知らない情報も入って来ることがあるらしい。
もしそうであるなら、その勘は、超感覚的知覚や予知能力の域にまで達する。
そんなことがあるとは、一般には認められていないし、正統な学問では決して認めないだろう。
しかし、そこまでいかなくても、潜在能力は、十分に、驚異的、天才的である。
この素晴らしい勘を使えるなら、あなたはどこまでも成功するだろう。
そのためには、普段から、「どう考えるか」だけではなく、「どう感じるか」に注意しなければならない。
そして、「どう感じるか」を普段から、もっともっと意識し、磨いておかなければならない。
現代では、我々は、子供の頃から、「感じる」ことを軽く考えるようしつけらる。
それどころか、感じることが原始的で愚かであると思い込まされることすら少なくない。
それで、ある程度の年齢になれば、自分の能力のほんの一部しか使えなくなってしまうのだ。
絵を見てすら、「この絵の形式はどうで、この色をここに置くことでこんな効果を上げている」と分析的に考えることが偉いという、愚かな考えをするのだ。
論理的思考も必要であるが、感じることはもっと大切である。
普段から、良い絵を魂で見、良い音楽を魂で聴くことをしなければならない。
結局のところ、それが成功の大きな要因にもなるのである。
そして、もしかしたら、ESP的能力も訪れるかもしれない。

余談だが、『南極点のピアピア動画』というSF小説に、「あーやきゅあ移動体」・・・通称「あーや」と呼ばれる宇宙人製アンドロイド(姿は初音ミクとほぼ同じ)が潜在知を活用する様子がうまく描かれている。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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