いかなる悪人も、「南無阿弥陀仏」の念仏さえ唱えれば、罪は消えると親鸞聖人は言ったようだ。
また、極楽浄土に行くためには、善いことをする必要は全くないとも言う。
なぜなら、念仏の力を妨げるほどの悪は存在しないし、念仏以上の善もないのだからということだ。

『方丈記』の著者として知られる鴨長明(かものちょうめい)が書いた『発心集』の中に、こんな話がある。
源大夫(げんだいふ)という名の極悪人がいた。
彼は、盗み、殺し、暴力、何でもやり、人々に恐れられていた。
その源大夫が、たまたま僧が、阿弥陀如来のことを話すのを聞き、
「俺が念仏を唱えても阿弥陀様は応えてくれるのか?」
と僧に問うと、僧は、その通りだと言う。
そこで、源大夫は、僧に頭を剃らせ、僧侶の服をもらうと(奪うと?)、西に向かって、大声で「南無阿弥陀仏」と唱えながら歩いた。
七日の後、源大夫は絶命し、その舌から蓮の花が咲いた。

この話を読んだ時、私はつくづく、法然も親鸞も、本音のところで源大夫と同じだったのだと思うのだ。
法然や親鸞は立派な僧だと思われているかもしれないが、彼らとて、所詮、自分は煩悩を捨てられない悪人であると知っていて、それに苦しんでいたのだろう。
実は、誰にも言わなかったが、法然はロリコンであったとか・・・って、信者に殺される(笑)。
そして、源大夫は、やりたい放題の大悪人だが、魂では、そんな自分が嫌で苦しんでいたのだと思う。
でなければ、念仏を唱えようなんて思うはずがない。
自覚はなかったかもしれないがね。

我々も同じで、人間の本性はおそらく善だと思うが、どうしても煩悩があって、悪いことをしたり考えたりする。
それは、魂にとっては苦しいことなのだ。
だが、(繰り返しになるが)念仏は、いかなる悪も十分以上に埋め合わせるので、念仏を唱えれば良い。
悪を埋め合わせるために、自分で善いことをする必要はない。
なぜなら、どんな善も、念仏の善に全く及ばないからだ。

とはいえ、今の時代、念仏でもあるまい。
ある程度の年齢であれば、それで納得出来るかもしれないが、この理屈が重視される時代に、念仏の力を信じることは、なかなか出来まい。
だが、ここで、とはいえ・・・ともう一回、ひっくり返す。
たとえ時代遅れで、理屈に合わなくても、念仏を唱え続けながら、善と反対の方向にずっと進める者などいないのだ。
これは、ひょっとしたら、法然や親鸞の教えに反するかもしれないがね(とはいえ、根本は合っていると思う)。
特に、『歎異抄』を1回でも読めばそうなのだ。
ちなみに・・・念仏を唱えれば、現世利益(つまるところ引き寄せ)も思いのままだ。
親鸞は『現世利益和讃』に、そう書いている。
また、法然も、『選択本願念仏集』に、それを示唆することを書いているのである。