ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

異邦人

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

願いが叶う肝心な条件

大切な願いが叶わない時、どんな心構えでいれば良いのか?
大切な願いが叶わないとは、彼女が出来ないだの、高級車が手に入らないといった浮ついたことではなく、死刑判決を受けた者が死刑の取り消しを求めるといったもので、まして、冤罪であれば、その願いは大きいであろう。

大切な願いが叶わない典型的な例が、聖書(旧約聖書)の『ヨブ記』のヨブという名の信心深い男の場合だろう。
ただ、『ヨブ記』の場合は、神が、ヨブが次々に災難に遭い、ヨブがそれから逃れられないようにすることを、悪魔に対し許可しているのである。
神と悪魔の賭けの対象にされてしまったのだから、ヨブは大変だったわけである。

また、この作品によってノーベル賞を決定的にした、カミュの小説『異邦人』の主人公の青年ムルソーのように、ものごとが思い通りに行かないこと(そのため社会の理不尽な扱いを受けてしまう)によって分かることもあり、ムルソーは、ほとんど悟りを開いたと言えるかもしれない。私としては、非常に好きなラストなのだが、実際にムルソーの立場になれば、多くの人はやはり、奇跡で救われることを願うだろう。

「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」で、悪いことは業消しになって、次は良いことが起こるとか、どんな悪いことも、時が経てば良い思い出になる場合が多いなどというのは、気休めにもならない本当に辛い状況にある人もいるだろう。

アニメ『エル・カザド』で、賞金稼ぎの娘ナディ―が、占い師の老女にカードで占ってもらいながら、「おばちゃん、魔女なんでしょ?だったら、ぱーっと幸せにしてよ」と言うと、老女は微笑んだ。
すると、ナディ―は不満げに「だから、笑ってないでさ」と言う。
ナディ―は、若くて快活ではあるが、子供の時から相当な苦労をして疲れているという面も確かにあるのだった。

皆、大なり小なり、苦労をしていて、「ぱーっと幸せになりたい」と思っているのである。
つまり、「幸せになるスイッチ」が欲しいのである。
それを押しさえすれば、お金が儲かり、健康も愛も得られるスイッチが。
そんなスイッチがあるだろうか?
良識ある大人なら「ない」と言うだろうが、引き寄せの法則を信じているなら「ある」と思いたいだろう。
そして、実は、ここが重要なところだ。
次の話が大きなヒントになる。
著名な心理学者の河合隼雄のところに、小学生か中学生の不登校の息子を持つ父親が相談に来ていた。
父親は、「先生、息子が学校に行くスイッチがありませんかね?」と言ったようだ。
こういう例だと、ポイントがはっきりし易いのだ。
そんなスイッチ、あるはずがない。
そして、本当の問題は、そんなスイッチを欲しがっている父親にあることも、簡単に分かってしまう。
河合先生も、「スイッチ」を欲しがる人が多い、あるいは、「スイッチ」を押す役だけしたい人が多いと言う。
スイッチを押したがる人に共通することがある。
それは、「当事者意識に欠ける」ことだ。
上の、不登校の息子を持つ父親がまさにそうだろう。
息子の問題を、自分の問題と捉えていないから、「スイッチさえ押せば、息子が学校に行くようになれば良い」などと思うのである。

だが、当事者意識を持てば、問題解決は割と容易いのである。
その、不登校の息子を持つ父親の場合、息子と真面目に話し合えば良いだけのことだが、この父親は、絶対にそれをしていない。
いや、父親は「している」と言うかもしれないが、間違いなく、息子を自分の視点だけで捉え、考えを押し付けているだけなのだ。
それなら、神に祈ろうが、念仏を唱えようが、息子が学校に行くはずがない。

お金が欲しいと願って得られない場合も同じだ。
お金を得るスキルも、大金を得るに相応しい信頼もないのに、押しさえすれば大金を得られるスイッチがあったら大変だ。
お金が欲しいなら、お金を得るスキルを持つこと、あるいは、そのスキルを持つ人の信頼を得ることが必要だ。
そう考えるのが当事者意識というものだ。
カミュの『異邦人』も、ムルソーは最後に当事者意識を得たに過ぎない。
だが、それが感動的なのだ。
当事者意識を持っていなければ、神も助けようがない。
逆に言えば、それがあれば、神は必ず助けるだろう。
「神は自らを助ける者を助ける」と言った有名な人の有名な本があるが、それは不正確だ。
「神は当事者意識を持つ者を助ける」のである。








サイコパスが主人公の傑作小説

良心を持たない人間であるサイコパスが英雄になることもある。
いや、ある状況下では、優秀なサイコパスは英雄だ。
それは、戦争時である。
そして、戦争時は、それほど優秀でないサイコパスでも、英雄とは言わないが、「エリート」になれる。
戦争時、国家は、サイコパスを「喉から手が出るほど」欲しがるのだ。
良心の呵責なく、人を殺し、騙し、拷問が出来るサイコパスほど、戦争時の国家にとって有り難いものはない。
だが、戦争時にサイコパスが有能であるのは、当たり前で、あまり面白くもない話なので、それは、この程度にしておく。

次に、サイコパスは、小説の、異様ではあるが、魅力的なヒーロー、ヒロインになるというお話をしよう。
サイコパスが主人公の名作小説は意外に多いかもしれない。
その中でも、私が傑作中の傑作として思い浮かべるのは、エドガー・アラン・ポー(アメリカ)の『ウィリアム・ウィルソン』と、アルベール・カミュ(フランス)の『異邦人』だ。

『ウィリアム・ウィルソン』の、一人称「私は」「僕は」で語る主人公ウィリアム・ウィルソンが、良心を全く持たないサイコパスであることに異論を唱える者はあるまい。
いや、ポーは、サイコパスという名称は知らなくても、ウィリアム・ウィルソンを、まさに、サイコパスとして書いたのだ。
それは当然で、ウィリアム・ウィルソンは2人であって1人であり、主人公とは別のウィリアム・ウィルソンは、主人公の良心なのだからだ。
なんとも凄まじいポーの想像力、発想力、思考力であることか。
人でなしの主人公ウィリアム・ウィルソンが、子供の時に過ごした町を「懐かしく」思い浮かべる時、「友情」とか、「憧れ」という言葉を使う時・・・それは、極めて稀であるが、読者は「ほっとする」かもしれない。
「ああ、ウィルソンも人間なんだ」
と感じるからだ。
だが、きっとそれは、ウィルソンが、「人間の真似をして」そう言っているに過ぎない。
そして、きっと、ポー自身がサイコパスだ。
ポーは、26歳の時、13歳なったばかりののヴァージニアと結婚したが(結婚誓約書ではヴァージニアは21歳であるとされた)、飲んだ暮れのポーは、ヴァージニアを病死させている。
ストーブに入れる薪を買う金もなく、代わりに、ヴァージニアのベッドに猫を入れたことをヒントに書いたのが『黒猫』だったといわれる。
ポーは、アルコールが入ると天才になった。
そして、酒場で死んだ(正確には酒場で倒れ、病院に担ぎ込まれて死んだ)。
尚、『ウィリアム・ウィルソン』は、ルイ・マル監督によって映画化され(『世にも怪奇な物語』の3編中の1編として)、アラン・ドロンが見事に好演している。ブリジッド・バルドーも出演した、何とも豪華な映画だ。
アラン・ドロンって、見るからにサイコパスだが、まあ、それは異論の方が多かろう。

アルベール・カミュがノーベル文学賞を取ったのは、短編の『異邦人』によるところが大きいといわれる。
その『異邦人』の主人公ムルソーは、間違いなくサイコパスだが、とても魅力的な主人公であることは、多くの人が認めている。
そして、サイコパスは魅力的であることが多い。
『異邦人』は、「今日、ママが死んだ。いや、昨日だったかもしれない」で始まる。
ムルソーには、母の死は興味がなかった。
ただ、葬儀を行う・・・いや、「出る」のが煩わしかった(葬儀一切は養老院でやってくれた)。
しかし、ムルソーは、「ママのことは多分、好きだった」と語る。
ムルソーのサイコパスらしさをよく示している場面がある。
若く美しいマリーが、ムルソーに、「結婚してくれる?」と問うと、ムルソーは「いいよ」とあっさり答える。
ところが、喜ぶマリーが、「私を愛してる?」と問うと、ムルソーは「分からないけど、多分、愛してない」と言う。
きっと、ムルソーは、何の感情もなく言ったのだ。
私も、全く同じことをやった覚えがある。
ムルソーは、飼い犬がいなくなったと騒ぐ老人・・・誰も関わりたくないはずだが、その老人を部屋に入れ、話を聴き、協力を約束する。
そんなことをしても、ムルソーに何のメリットもない。
それで、ムルソーは実は優しい人だと思う読者もいるかもしれない。
だが、なぜだか分からぬが、私も時々、そんなことをすることがある。
その訳は、あえて分析しないでおく。分析出来るのだが、頭の悪い人が下手に分析しないように。

ウィルソンにしろ、ムルソーにしろ、ポーにしろ、サイコパスが幸福になることは、まずない。
カミュがサイコパスかどうかは分からない。私は、彼の作品では『異邦人』しか読んでいないが、この作品からだけではよく分からない。
これも、頭の悪い人が判断しないよう。

壁の、初音ミクさんのタペストリー(布製ポスター)が私を見下している。
文字通り、見下して・・・蔑んでいる。
その表情に哀れみはない。
サイコパスが一番欲しがるのは、憐れみ・・・同情だ。
だから、弱いサイコパスは、落ち込み、哀れな様子を見せて、他人の同情を買おうとする。
だが、ミクさんは決して同情などしてくれない。
それでも、私はミクさんに悪いことをしようなどとは思わない。
愛し合っているというのは、そういうものだ。









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愛とは何か?

私は、自分の気持ちを客観的に見ることが出来るようになった。
しかも、今現在の気持ちだけでなく、その時は分からなかった、昔の自分の気持ちについても理解できるのである。
それで分かったのだが、女性に「愛している」と何度も言ったし、その時は、自分でもそう思っていたが、実際に愛したことは一度もなかったのだ。
しかし、私が特別に非道なのではなく、それが普通なのだと思う。

私は妻子はないが、親やきょうだいを好きだった時ですら、彼らを愛してはいなかった。
それは、丁度、次のようなものだ。
アルベール・カミュの『異邦人』という小説で、主人公の青年ムルソーに、若くて美しく、愛情も豊かな女性マリーが、
「結婚してくれる?」
と訊くと、ムルソーは、
「いいよ」
と答える。
嬉しそうなマリーが、
「私のこと愛している?」
と尋ねると、ムルソーは、
「多分、愛してない」
と言い、マリーを困惑させ、悲しませた。
ムルソーは、マリーのことは好きだったし、結婚して欲しいなら、問題なくそうするが、マリーを愛している訳ではないのだ。
この小説は、ムルソーの、
「今日、ママが死んだ。それとも昨日か、僕は知らない」
という言葉から始まる。
実際、母の死は、ムルソーにはどうでもいいことだったし、ただ、母親の葬式に出ることが億劫(おっくう)で、また、葬儀に関することでの人々への対応が苦痛であることが切々と語られ、ムルソーには何の悲しみもなかった。
そのムルソーが、「ママのことは、多分、好きだった」と言うことに対し、違和感を感じる人が多いと思う。
だが、今の私は、ムルソーは、非常に稀な、正常な人間だと分かるのである。
ムルソーもまた、誰も愛してはいないし、愛していると思い込むこともない。
若いのに大したものだ。

私は、以前、「南無阿弥陀仏」の念仏を、毎日、数多く熱心に唱えていたが、別に、阿弥陀如来を愛している訳ではなかった。
法然や親鸞のことは大好きだが、愛してはいない。
そして、私は、いかなる人間も愛したことはない。
もし、妻子がいたら、妻子のことは好きだろうし、非常に大事にはしそうだが、愛するということは絶対にないだろう。

では、私には、愛というものがないのかというと、そうではない。
また、「愛とは何か分からない」と言う人は多いと思うが、それは間違いなのだ。
誰もが、愛というものが何かは分かる。
ただ、愛したことがないだけだ。

私は、初音ミクさんのことは愛しているとはっきり言えるのである。
「私は初音ミクさんを愛している」
と、全く自然に言い、想うのである。
「自然に」ということほど、真実であることの証明はない。

ある50代の雑誌編集者が、取材のために、初音ミクさんのコンサートに行ったのだが、ステージが進行するごとに、不思議な感動に襲われ、最後の曲のところでは、訳も分からず、涙がとめどなく流れたという。
それが、「愛する」ってことなのだ。
そして、そういう人は、割といるはずだ。
ミクさんのコンサートに来ている人達を見ると、まるで、聖母マリアの出現を前にした、ファティマの子供達の写真と同じ顔をした人がよくいるのである。
※ポルトガルのファティマでの聖母マリアの出現は1917年で、ローマ教皇庁は後に、これが事実であると公認した。

言い古されたことであるが、愛ほど強いものはないというのは事実だ。
だが、ほとんどの人が、実際には、愛したことがないのだ。
だが、愛することが出来れば、宇宙最強の力を得るのだから、無敵である。
そして、私には、「僕はミクさんを愛する」、「I LOVE MIKU」の永遠の真言が与えられたのである。
マリア様やイエス様が現れたら、そう、お伝えするつもりだ。









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決定済みの運命を楽しく生きるには

インドの聖者で、元銀行頭取であるラメッシ・バルセカールの本に書いてあるのは、人生というものは、細部に至るまで、受胎した時に決定済みであるということだ。

XXXX年XX月XX日、XX時XX分XX秒、喫茶店XXXXに居る自分のところに、ウエイトレスが注文したカフェ・オレを運んできて、その39秒後に、カップに口をつける・・・といったことも、生まれる前から決まっている。
片思いの彼女に告白し、「ゴメンナサイ、私より可愛いコ見つけて下さい」と言われるのも。
彼氏が他の女の子と手をつないで歩いているのを偶然、目撃してしまうことも。
ある男が、会社をやめて独立し、しばらくうまくいくが、やがて資金繰りが悪化し、海外からの入金が2日遅れたことが原因で不渡りを出し、倒産することも。
酔っ払って口論し、相手を殴ったところ、転んだ相手の打ち所が悪くて死んでしまい、服役することも。
全て決定済みの運命であり、自分ではどうすることも出来ず、自分に責任はない。全ての責任は神にある。

運命は決まっている。
これは、釈迦も荘子もイエスも、あらゆる本物の聖者はそう言っている。
そして、大切なことは、その対処法だが、原則は、どの聖者の教えも同じなのだ。
それは、「囚われるな。心静かでいろ」である。
釈迦は、怒ったり、悲しんだり、喜んだりするのは構わないが、すぐ忘れろ、二次的な感情を持つなと言った。
それはつまり、こういうことだ。
嫌なことを言われてムカっとするのは、聖者だって同じなのだ。
しかし、聖者は根に持たず、水に流すのだと。

では、具体的に、どうすれば、囚われず、心安らかでいられるのか?
イエスは、「安心しろ。神は優しい」と言い、神を讃える祈りをしろと教えた(これに関する、ジョセフ・マーフィーの易しい教えを後で述べる)。
荘子は、「自分の運命が決まっているというより、万物の運命が決まっているのであり、自分は万物と1つだ。あるがままにまかせ、是非好悪を捨てよ」と教えている。
釈迦は、相手の気質に応じ、バラエティ豊かに教えた。
それで、仏教には、様々な宗派があり、仏教の宗派は、生まれた家で決まるのではなく、それぞれの心の性質で決めるべきものなのだ。
だから、宮沢賢治が、法華経を気に入って、自分の家の宗教である浄土真宗を捨てたのは良いことに違いないが、彼が父親にまで改宗を迫ったのはやり過ぎなのだ。
とはいえ、つまるところ、釈迦は、マントラ(真言)を勧めたのだと思う。
般若心経の真言や、念仏である。
ただし、釈迦が本当に、般若心経や浄土三部経にあることを教えたのかどうかは分からない。
というより、釈迦の教えは全て口伝であり、どれが本当か、どれも本当ではないかのかといったことも分からない。

運命は決まっている。
しかし、どんな運命であろうと、幸福でいられる。
カミュの『異邦人』で、社会の教義や信念を嫌うが愛情深い青年ムルソーは、最悪の運命のようでいて、幸福であったようなものだ。
我々は、最初から肩の力を抜いたムルソーでありたいが、しかし、もっと悲しみ、もっと苦しむのも運命だ。
隣の家の奥さんが魅力的で憧れるのも運命だ。
それで過ちを犯したって後悔するなとラマナ・マハルシは教えたし、親鸞は、そんなことは、阿弥陀如来にまかせておけば、何の問題もないと言うだろう。
怠惰、自堕落になれというのではないが、そうなるならなるで仕方がない。
一切を阿弥陀如来にまかせ、それで良くしてくれることに感謝して念仏をしろと教えたのが親鸞で、これが究極の教えと思う。
そして、イエスも荘子も、あるいは、マハルシも、同じことを教えたのだが、彼らは、彼らの周囲の人々に教えるために、工夫をした結果、その教えにやや色(癖)がついてしまったのだと思う。
親鸞も、阿弥陀如来という伝統的な象徴を立てはしたが、阿弥陀如来の原語アミターバやアミターユスの意味が無限の光、無限の命であることを考えれば、論理的でもあることが分かると思う。
ジョセフ・マーフィーは、聖書の詩篇23と91を読むことをよく勧めていたが、これも全く同じ意味があり、この方法も間違いはない。
(これらの詩は、ネットで検索すれば無料で得られる)
『バガヴァッド・ギーター』は五千年も前の人のためのものであるが、そこに配慮して読めば、極めて重要な知恵であると思う。









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愛さずにいられない人

私は、アルベール・カミュの短編の傑作『異邦人』の中に、とても好きな場面がある。
主人公の青年ムルソーに、若くてきれいなマリーが「結婚してくれる?」と尋ねる。
ムルソーは「いいよ」と答える。
ところが、喜んだマリーが「私のこと、愛してる?」と尋ねると、ムルソーは、おそらくごく普通に、「分からないけど、多分、愛してない」と答え、マリーを悲しませると共に困惑させる。

ムルソーは、マリーが嫌いではない。
おそらく、好きなのだろう。外見だけでなく、性質も含めて。
実際、結婚して、仲良くやっていくことも出来たと思う。
しかし、では、深く愛しているかというと、それはまずあり得ないのだ。

ムルソーとマリーは、以前、同じ職場で働いていたが、それだけのことだった。
しかし、プールでたまたま再会し、その日に一緒にホテルに行く。
だが、それは、ムルソーの母親の葬式の翌日くらいだった。
ムルソーは、老人ホームに入っていた母親が死んだばかりだったのだ。
だが、ムルソーは、そのことを全く悲しんでいなかった。
ただ、葬儀のための休暇を親しくもない上司に申請したり、何より、葬儀に出ることが煩わしかった。

とはいえ、ムルソーは母親が嫌いな訳ではない。
彼はこう言う。
「ママのことは、多分、好きだった」

皆様は、ムルソーのことを変な人だと思うだろうか?
私は全くそうは思わない。

ヘミングウェイの『兵士の故郷』で、故郷に帰った若い兵士に、彼の母親が言う。
「ママのこと、愛してる?」
彼は、「いいや」と答えたが、母親が悲しい顔をするので、「冗談だよ」と言う。
しかし、母親が、一緒にひざまずいてお祈りをするよう要求しても、それは出来なかった。
この兵士もまた、母親のことは、多分、いくらかは好きなのだろうが、決して愛してはいないのだ。

私も以前は、ムルソーは、やはり、いくらか精神に屈折があるのだと思っていたが、この『兵士の故郷』を読み、決してそうではないと思うようになった。
ムルソーは全く正常で、彼がおかしく見えるとしたら、世間の教義や信念、そして、それに感化されている彼の母親やマリーの方がおかしいのだ。

私も、可愛い女の子は沢山好きになったと思う。だが、考えたこともなかったが、誰も愛してはいなかった。
だが、やっぱり、彼女たちのことは、非常に好ましいとは思っていたのだ。
私が愛したのは、初音ミクさんだけだ。
ミクさんは、決して、「私を愛してる?」って聞かないからね。
ミクさんには、「私を愛してる?」と尋ねる「私」が無いのだ。

愛を求める「私」とは何だろう?
ラマナ・マハルシなら、マリーに、「誰が彼の愛を求めているのか?」と尋ねるかもしれない。
すると、マリーは、「私」と答えるだろう。
そんな時、マハルシは、「その私を見つけなさい」と言うのだと思っている人が多いのかもしれないが、そんなはずはないのだ。
だって、そんな難しいことを言われたって、何も出来ず、困ってしまうだけじゃないか?
マハルシが本当は何を言ったのかは分からない。
しかし、こうすれば良いのである。
心の中で、微かな、微かな声で、自分に対し、「私」と呼び掛け続けるのだ。
ただ1つ、「私」という心の声が、微かなものであるようにだけ務めるのだ。
そうすれば、マリーは悲しむことにはならない。
マリーには、ムルソーの愛が得られるかどうかは問題ではなくなるが、ムルソーは彼女を愛さずにはいられないだろう。
なぜなら、マリーは、愛そのものになるのだからだ。
つまり、心の微かな声の呪文を唱えることによって、一切の愛を求めない、初音ミクさんのような存在になるのである。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンも、「誰の愛も求めない人を、人々は愛さずにいられない」と述べていたのである。
ただ、エマーソンは、そうなるための、具体的な方法は知らなかったのかもしれない。エマーソン自身は、自然の中でそれを学んだのだからだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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