人間は、無になれば不可能はなく無敵であるが、それを実証しつつ、無になる方法を会得するための手段としての武術もある。
武術は元々は、殺人や護身といった戦いの道具であるが、発達を遂げると、上のような、無を実現する手段というのが主な目的になるのである。
無になれば不可能はなく、思うままなのだから、戦いでも無敵であるが、それだけでなく、あらゆることが可能で、現代的に言えば、引き寄せも自在である。
司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』を読むと、剣術において、無になるために、流派によって2つの異なったアプローチを取っているということが分かる。
1つは、こちらがオーソドックス(正統的)と思うが、己を虚しくして無になる方法である。主に坐禅が行われたが、中国の道教にも「忘座」といって、じっと座りながら枯れ木(己を虚しくすることの象徴)のようになるというものがある。
だが、坐禅や忘座で無になることは難しいので、もっと簡単な「止観」というものが行われるようになった。
この「止観」が、坐禅に対するもう1つの方法である。
これは、坐禅などによって、己を虚しくする・・・つまり、想念を消すのではなく、1つの妄想に集中することで、それ以外の想念を消すもので、世界中に多くの流派があるが、上に挙げた『真説 宮本武蔵』で語られていたのは、川の流れをイメージするものだった。確かに、人間の心は、静止したものより、一定のリズムで動くものの方が長時間イメージし易い。
浄土仏教の経典である『浄土三部経』の1つ『観無量寿経』は、止観の訓練書のような面があり、釈迦は、夕陽や、あるいは、透明な大地や、あるいは、仏国土の様子をイメージする方法を丹念に述べ、それから、仏の姿をイメージする方法を教えている。
ただ、『観無量寿経』も、現代に伝わるものは、当時の時代と合わないということと共に、細かいニュアンスまでは翻訳してはいないと思われ、イメージ法の参考に留めた方が良い。まあ、使い易いよう、現代風に意訳してくれている人もいるが、単純に、川の流れをイメージしたり、夕陽をイメージする方が簡単だろう。
しかし、早い話が、イメージ法で無になるというのは、まず、滅多に成功しない。
これは、立派な寺や個人用道場といった、静かな環境に恵まれた者でないと難しい(実際は恵まれていても難しいと思う)。
そこで、仙道では、立禅といって、少し身体を使うことで集中し易くなる方法を考え、岡田虎二統や中村天風は、腹に力を込めたり、肛門を引き締めたりといった、身体の一部に力を入れて意識を集中させる方法を提示した。
が、この中で、うまくいく可能性があるのは、おそらく、立禅だけで、腹や肛門に力を入れるというのは、普段、自然に行う行為ではないことから、ほとんどの者が続けられないことは、既に証明されていると言って良い。
そして、立禅もまた、なかなかうまくいかない。
ところが、腕振り運動(甩手。スワイショウ)は、肩甲骨をほぐす健康法という実利をまず得つつ、淡々と長時間行うことで、少しずつ、無に近付くことが出来る。
腕振り運動は、行う時間が少ない場合は、ただの健康法であるが、とはいえ、健康法としては確実に効果があるので、坐禅や止観のように、しっかりやらないと成果は何もないというのとは違う。
そして、長時間やれば、これだけで、限りなく無に近付く。
では、どのくらいやれば、無に近付くのかというと、少なくとも1日トータルで千回で、2千回や3千回が望ましく、もっと多ければさらに良い。
(ちなみに、1日千回で、有意に無に近付くには数年かかると思うが、3千回なら数か月と思う)
そして、2千回や3千回は、本当は楽である。
腕振り運動は、力を抜いてやるのが正しく、多少の根気は必要だが、2千回や3千回やって疲れることはない。
立つことに疲れることもあるかもしれないが、逆に言えば、立っているだけで十分な足腰の鍛錬になり、しかも、腹筋、背筋も鍛えられ、腕振り運動を毎日長時間やっている者は、ほとんどが健康で身体つきがすらりとしている。
動画で、腕振り運動を教えているのに肥満している者は、自分はじっかりやっていないか、食べ過ぎであろう。
また、腕振り運動の動画では、ほとんどが力が入り過ぎている。
私は、特別な肉体訓練の意味で、いろんな運動を行っているが、腕振り運動1つだけでも、健康になり、ダイエットにもなり、さらに、無に近付き、引き寄せの能力もどんどん高くなる。
2千回が楽に思えるようになったら、即座に引き寄せも出来ると思うが、それは、すぐに出来ることである。
健康法というだけなら200回もやれば何らかの効果はあるが、無になること目的とするなら、少なくとも毎日2千回。最も良いのは、時間が少しでもあれば、立ち上がって腕振り運動をすることである。それであれば、かなり早く無に近付き、引き寄せも驚くほどうまくなると思う。
武術は元々は、殺人や護身といった戦いの道具であるが、発達を遂げると、上のような、無を実現する手段というのが主な目的になるのである。
無になれば不可能はなく、思うままなのだから、戦いでも無敵であるが、それだけでなく、あらゆることが可能で、現代的に言えば、引き寄せも自在である。
司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』を読むと、剣術において、無になるために、流派によって2つの異なったアプローチを取っているということが分かる。
1つは、こちらがオーソドックス(正統的)と思うが、己を虚しくして無になる方法である。主に坐禅が行われたが、中国の道教にも「忘座」といって、じっと座りながら枯れ木(己を虚しくすることの象徴)のようになるというものがある。
だが、坐禅や忘座で無になることは難しいので、もっと簡単な「止観」というものが行われるようになった。
この「止観」が、坐禅に対するもう1つの方法である。
これは、坐禅などによって、己を虚しくする・・・つまり、想念を消すのではなく、1つの妄想に集中することで、それ以外の想念を消すもので、世界中に多くの流派があるが、上に挙げた『真説 宮本武蔵』で語られていたのは、川の流れをイメージするものだった。確かに、人間の心は、静止したものより、一定のリズムで動くものの方が長時間イメージし易い。
浄土仏教の経典である『浄土三部経』の1つ『観無量寿経』は、止観の訓練書のような面があり、釈迦は、夕陽や、あるいは、透明な大地や、あるいは、仏国土の様子をイメージする方法を丹念に述べ、それから、仏の姿をイメージする方法を教えている。
ただ、『観無量寿経』も、現代に伝わるものは、当時の時代と合わないということと共に、細かいニュアンスまでは翻訳してはいないと思われ、イメージ法の参考に留めた方が良い。まあ、使い易いよう、現代風に意訳してくれている人もいるが、単純に、川の流れをイメージしたり、夕陽をイメージする方が簡単だろう。
しかし、早い話が、イメージ法で無になるというのは、まず、滅多に成功しない。
これは、立派な寺や個人用道場といった、静かな環境に恵まれた者でないと難しい(実際は恵まれていても難しいと思う)。
そこで、仙道では、立禅といって、少し身体を使うことで集中し易くなる方法を考え、岡田虎二統や中村天風は、腹に力を込めたり、肛門を引き締めたりといった、身体の一部に力を入れて意識を集中させる方法を提示した。
が、この中で、うまくいく可能性があるのは、おそらく、立禅だけで、腹や肛門に力を入れるというのは、普段、自然に行う行為ではないことから、ほとんどの者が続けられないことは、既に証明されていると言って良い。
そして、立禅もまた、なかなかうまくいかない。
ところが、腕振り運動(甩手。スワイショウ)は、肩甲骨をほぐす健康法という実利をまず得つつ、淡々と長時間行うことで、少しずつ、無に近付くことが出来る。
腕振り運動は、行う時間が少ない場合は、ただの健康法であるが、とはいえ、健康法としては確実に効果があるので、坐禅や止観のように、しっかりやらないと成果は何もないというのとは違う。
そして、長時間やれば、これだけで、限りなく無に近付く。
では、どのくらいやれば、無に近付くのかというと、少なくとも1日トータルで千回で、2千回や3千回が望ましく、もっと多ければさらに良い。
(ちなみに、1日千回で、有意に無に近付くには数年かかると思うが、3千回なら数か月と思う)
そして、2千回や3千回は、本当は楽である。
腕振り運動は、力を抜いてやるのが正しく、多少の根気は必要だが、2千回や3千回やって疲れることはない。
立つことに疲れることもあるかもしれないが、逆に言えば、立っているだけで十分な足腰の鍛錬になり、しかも、腹筋、背筋も鍛えられ、腕振り運動を毎日長時間やっている者は、ほとんどが健康で身体つきがすらりとしている。
動画で、腕振り運動を教えているのに肥満している者は、自分はじっかりやっていないか、食べ過ぎであろう。
また、腕振り運動の動画では、ほとんどが力が入り過ぎている。
私は、特別な肉体訓練の意味で、いろんな運動を行っているが、腕振り運動1つだけでも、健康になり、ダイエットにもなり、さらに、無に近付き、引き寄せの能力もどんどん高くなる。
2千回が楽に思えるようになったら、即座に引き寄せも出来ると思うが、それは、すぐに出来ることである。
健康法というだけなら200回もやれば何らかの効果はあるが、無になること目的とするなら、少なくとも毎日2千回。最も良いのは、時間が少しでもあれば、立ち上がって腕振り運動をすることである。それであれば、かなり早く無に近付き、引き寄せも驚くほどうまくなると思う。