『青い鳥』で知られるメーテルリンクは、死後の世界の存在を信じるだけでなく、死後の世界が無いと考えることが非常に不合理だとまで言った。
彼は『死後の存続』という本を書いているが、非常に分かり難い本だと思う。少なくとも、霊界物語といったものではない。
死後の世界は存在するのだろうか?
主要な宗教では、全て死後の世界の存在を説いているが、キリスト教では、死後、すぐに死後の世界で活動するのではなく、審判の日まで眠り続けるようだ。
だが、キリスト教を根本に書かれたダンテの『神曲』や、エマニュエル・スウェーデンボルグの『霊界日記』などでは、人は死後、すぐに霊界での生活を始めるとしている。
死後の世界の実証は大変に難しい。
その中で、死後の世界の可能性を示すものが臨死体験と呼ばれるもので、事故や病気で死んだと見なされた者が蘇生した時、死後の世界に行った記憶を持っていることがあって、その内容が、ただの幻想のレベルを超えていると思われることから、なんらかの信憑性を感じさせることがある。
だが、やはりそれは脳が作り出した幻影と考える方が合理的だと言う者もいる。
ところで、死後の世界を信じる理由の1つに、この世での不公平ということがある。
善い人間が、この世で辛い目に遭っているのに、悪人が良い思いをしていることがよく見られる。
確かに、「奢れる者は久しからず」で、悪人が楽しくしていられるのは一時的で、やがては、普通の人よりずっと惨めな状況に陥る場合が多いように思えるが、中には、高齢で死ぬまで楽しく生きる悪人もいるように思える。
それなら、この世では不幸だった善人が天国で幸福になり、この世では良い思いをした悪人は、死後は地獄で苦しむべきだと考えたくもなるだろう。
量子物理学を基に、肉体が死滅した後も精神が活動することを説く者もおり、中には、非常に素晴らしいと思える説もあるが、正しいかどうかよりも、誰もが納得出来るとは言い難いのではないかと思う。
死後の世界は、あるともないとも言えない。
だが、あると考えた方が、生が充実するという考え方には良い点が多いかもしれない。
また、「生きているが死んでいる」という言い方を、肯定的な意味でも否定的な意味でも言うが、この考え方が重要であると思われることもある。
ところで、私が納得してしまった、常識を超えた考え方があった。
それは、そもそも、生が幻想であるという考え方で、死後の世界があるというよりは、死後の世界の方がスタンダードで、生きている状態なんてものは、実際にはないというものだ。
書で言えば、アラン・ワッツの『タブーの書』(および、その改訂版の『ラットレースを抜け出す方法』)が、そんなことを説いていると思う。
やや難しい感じはするが、D.H.ロレンスの『無意識の幻想』も、そんなことを描いている。
飯田史彦氏の『生き甲斐の想像』からも、そんなことが感じられる。
生きている間は、美味しいものを食べ、猫と遊んで楽しみ、自然に触れて良い気分になるなど、良いことが沢山ある。
しかし、楽しいことにうつつを抜かしていると、それを得られない状態の時に悲惨を感じる。
だが、大切なことを忘れている。
それは別に難しいことであるはずがない。
ちょっとしたヒントがあれば分かるし、それは幸福をもたらす。
例えば、河合隼雄氏の本にあったが、死んだら月に行き、先に死んだおばあちゃんにも会えるという自分のストーリーを持っている小学生の女の子のようにである。
ただの絵空事といえばそうだが、ストーリーには不思議な力がある。
彼は『死後の存続』という本を書いているが、非常に分かり難い本だと思う。少なくとも、霊界物語といったものではない。
死後の世界は存在するのだろうか?
主要な宗教では、全て死後の世界の存在を説いているが、キリスト教では、死後、すぐに死後の世界で活動するのではなく、審判の日まで眠り続けるようだ。
だが、キリスト教を根本に書かれたダンテの『神曲』や、エマニュエル・スウェーデンボルグの『霊界日記』などでは、人は死後、すぐに霊界での生活を始めるとしている。
死後の世界の実証は大変に難しい。
その中で、死後の世界の可能性を示すものが臨死体験と呼ばれるもので、事故や病気で死んだと見なされた者が蘇生した時、死後の世界に行った記憶を持っていることがあって、その内容が、ただの幻想のレベルを超えていると思われることから、なんらかの信憑性を感じさせることがある。
だが、やはりそれは脳が作り出した幻影と考える方が合理的だと言う者もいる。
ところで、死後の世界を信じる理由の1つに、この世での不公平ということがある。
善い人間が、この世で辛い目に遭っているのに、悪人が良い思いをしていることがよく見られる。
確かに、「奢れる者は久しからず」で、悪人が楽しくしていられるのは一時的で、やがては、普通の人よりずっと惨めな状況に陥る場合が多いように思えるが、中には、高齢で死ぬまで楽しく生きる悪人もいるように思える。
それなら、この世では不幸だった善人が天国で幸福になり、この世では良い思いをした悪人は、死後は地獄で苦しむべきだと考えたくもなるだろう。
量子物理学を基に、肉体が死滅した後も精神が活動することを説く者もおり、中には、非常に素晴らしいと思える説もあるが、正しいかどうかよりも、誰もが納得出来るとは言い難いのではないかと思う。
死後の世界は、あるともないとも言えない。
だが、あると考えた方が、生が充実するという考え方には良い点が多いかもしれない。
また、「生きているが死んでいる」という言い方を、肯定的な意味でも否定的な意味でも言うが、この考え方が重要であると思われることもある。
ところで、私が納得してしまった、常識を超えた考え方があった。
それは、そもそも、生が幻想であるという考え方で、死後の世界があるというよりは、死後の世界の方がスタンダードで、生きている状態なんてものは、実際にはないというものだ。
書で言えば、アラン・ワッツの『タブーの書』(および、その改訂版の『ラットレースを抜け出す方法』)が、そんなことを説いていると思う。
やや難しい感じはするが、D.H.ロレンスの『無意識の幻想』も、そんなことを描いている。
飯田史彦氏の『生き甲斐の想像』からも、そんなことが感じられる。
生きている間は、美味しいものを食べ、猫と遊んで楽しみ、自然に触れて良い気分になるなど、良いことが沢山ある。
しかし、楽しいことにうつつを抜かしていると、それを得られない状態の時に悲惨を感じる。
だが、大切なことを忘れている。
それは別に難しいことであるはずがない。
ちょっとしたヒントがあれば分かるし、それは幸福をもたらす。
例えば、河合隼雄氏の本にあったが、死んだら月に行き、先に死んだおばあちゃんにも会えるという自分のストーリーを持っている小学生の女の子のようにである。
ただの絵空事といえばそうだが、ストーリーには不思議な力がある。