ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

猫の妙術

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

通知表の性格欄に書かれたら成功すること

小学校から高校までの通知表(通信簿)には、成績とは別に、性格欄みたいな項目(以下、「性格欄」と書く)があり、その子の特筆すべき特徴が書かれているのだろうと思う。
「書かれているのだろうと思う」とは、まるで学校に行ったことがないような物言いであるが、そうではなく、私は、自分の通知表の性格欄に何が書かれていたか、全く覚えていないのだ。
そもそも、性格欄は、子供にではなく、親に伝えるものだと思っていたので、興味がなかったのかもしれない。しかし、子供も見ることが出来るのだから、普通は子供も興味を持つような気もするが、思い返すと、やはり、私は全く興味がなかったのだ。つまり、教師が自分をどう評価しているかなど、全くどうでも良かったのだ。
ところで、作家、評論家、大学教授…というより、今はYouTuberとして人気がある岡田斗司夫さんが、YouTubeで、自分は小学生の時、通知表の性格欄に「協調性がない」とずっと書かれていたと言っていた。本人が言うには、「協調性に欠ける」ならあり得るが、「協調性がない」とまで書かれることは、あり得ないのだそうだ。知らんけど(笑)。
まあ、子供の時の岡田斗司夫さんに協調性が全くなかったのは、彼の、特殊な健康状態や家庭環境の影響もあったらしい。
ただ、私が、それを聞いて思ったのは、私が、通知表の性格欄を覚えていない大きな理由は、書かれている意味が理解出来なかったからだという可能性がある。
私は、小学生の時は「協調性」なんて言葉は知らなかったと思うし、さすがに高校生になれば、「協調性」という言葉くらいは知っていたが、せいぜい、辞書的な意味がぼんやり分かる程度で、自分が協調性があるかどうか、全く関心がない…あるいは、理解出来なかったと思う。
そもそも、協調性というものが実際はどんなものかということは、本当のことを言えば、今でも分からないのだ。
これは、よほど協調性がないのだと思う。
つまり、引き寄せ自在な私が、世の中で大成功しない理由はそれである。協調性がなければ、成功することは難しい。
そもそも、初音ミクという存在は、クリエーション(創造性)とシンパシー(共感)から出来ているが、私は共感を感じないわけではないが、おそらく、普通の人の3パーセントも感じないと思う。
そんな私が、ミク廃(初音ミクの熱狂的ファン)である理由は謎である(笑)。
私も、通知表に「協調性に欠ける」「協調性がない」と書かれていた可能性が高いと思うが、そのような理由で、とにかく、全く覚えていない。
4や5がほぼない通知表を保管しているはずもないし(笑)。

ところで、私は、岡田斗司夫さんの他に、2人の有名人の通知表の性格欄の話を覚えている。
1人は、元総理大臣の野田佳彦(のだよしひこ)さんで、国会か何かで、自分の通知表の性格欄に、
「野田君は、褒めるところは何もないが、嘘をつかない」
と書かれていたという話を披露したらしい。
まあ、あまりにどうでもいい話なので、スルーする(笑)。
もう1人は、俳優で、私がこよなく敬愛する丹波哲郎さんだ。
彼も、教師は、良いことで何も書くことがないので仕方なく書いたのかもしれないと前置きしつつ、「丹波君はこだわりがない」と書かれていたらしい。
そして、丹波さんは、この「こだわりがない」ことこそ、自分が、戦争下で生き延び(しかも楽々と)、いつも良い想いをし(戦争下でも)、成功した理由だと断言している。
もちろん、料理人が料理にこだわるということは大事である。
しかし、自分が食べる料理にこだわるのは、あっても良いが限度がある。
そんなわけで、あなたもこだわりがなければ、成功するかどうかはともかく、良い想いが出来る。
では、こだわりのなさとは何だろう?
いろいろあるかもしれないが、まず「面子がない」ことであると思う。
ところで、こういったことに関し、非常に重要なことが書かれている本がある。
私の座右の書『猫の妙術』では、古猫が、若い猫達に、丁寧に易しく、優れた教えを授ける。
実力が凄いので、どんな優秀な猫も、その古猫の教えに真摯に耳を傾ける。
いや、猫だけではない。人間の武士すらそうだった。
だが、その古猫が、自分が全く及ばない老猫がいると言う。
もう、神のような猫だろう。
その、神人…いや神猫の特徴こそ、こだわりがないことだと思う。
ちなみに、『猫の妙術』が私の座右の書になったのは、最近のことだ(笑)。
良ければ、皆さんも読まれ、私と一緒に神になろう(笑)。








荘子のありがたさ

仏教の目的は「大安心」だと思う。
他の目標があったって、大安心がなければ何の意味もないからだ。
神道にしろ、キリスト教にしろ、同じであるはずなのだが、小難しいことを言う者が多く、そう思えない気もする。まあ、仏教にだって、そんなところはあるが。
宗教のようで宗教ではないもの・・・というなら、神道もそうなのだが、道教(主には老子と荘子の教え)も、やはり、目的は「大安心」であると思う。

人間というのは、「大安心」が欲しいのだ。
しかし、「いや、若い俺達が求めるにはパッション(情熱)だ」と言う者は多く、ビートルズの「人生は辛いが、激しく生きるべきだ」という歌が若者を熱狂させた。
だが、隠してはいたが、ビートルズの人達も疲れていった。
「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドの詩人W.B.イェイツは、死の直前でも安らぎを求めず、不良老人・・・つまり、激しくあることを望んだが、さあ、それが幸せだったろうか?
実を言うと、イェイツは、ある時期は円熟に向かっていたが、老いる恐ろしさに反発して、不良老人になったようにも思える。まあ、本人からすれば、そうは言って欲しくないだろうが(笑)。
イェイツは、「老人は皆、本当は、もう一度若くなって、あの娘を抱きたいと思っているのだ」と言うが、まあ、それはそうだろうが(笑)、それに飲まれると苦しいのだと思う。

そこで、やはり、仏教と道教の目的は大安心だとする。
大安心とは、老熟ではあっても、老衰ではない。
そして、何と、そのエネルギーは、若者が願うパッションの比ではない。
それで、どうやれば大安心を得られるのかと言うと、仏教では宗派により異なり、念仏を唱えろとか、坐禅をしろとかあるが、真言密教では、身口意の三密、即ち、手は印を結び、口は真言を唱え、意(心)は仏をイメージしなさいと言う。まあ、真言密教は専門家向きだから難しいせいもあり、一般の人の修行は、専門家ごとに言うことが違い、それが一番困る。だから、流行らないのだと思う。
また、ひたすら坐禅をしろというのも、結果的には難しかった。
とはいえ、ひたすら念仏を唱えろというのは、テレビもネットもない時代では、それで大安心に達した人達もいたが、それでも、ごくわずかだったのである。

私は、『荘子』の教えが最後の希望と思うことがある。
理由は、単純に「分かり易い」からで、また、荘子は相当に頭が良いらしく、2400年も前の人なのに、思考パターンが現代でも全然古くない。
ただし、荘子の時代は、社会が不穏で、圧制の時代でもあったから、「俺の言う通りすれば、引き寄せが出来るよ」みたいなことは言わなかった。当時の庶民が希望を持つことは難しかったからだ。
とはいえ、明らかに、荘子は、「人間は引き寄せが出来る」と知っていたのだろう。それは、書いてあることから想像出来る。
よって、荘子の教えを生かせば、引き寄せは楽々である。
ところが、荘子の教えとは、「差別するな」だけである。
本当は、差別どころか、区別すら駄目なのだが、それは上級編である。
差別とは、「優と劣」「好きと嫌い」「是と非」「大と小」「美と醜」であるが・・・それなら、我々は、差別しまくりで、「差別するのが私」と言うようなものだ(笑)。
だって、「あれは素晴らしくて、あれは駄目」「あれは好きで、あれは嫌い」「あれは大きいが、あれは小さい」「ミクは可愛いが、あんたはブス」とか言ってばかりだ(笑)。
つまりね、これで、我々が大安心と真逆に突っ走っていることが明白なのである。
だからね、せめて、「優れている」「好き」「正しい」「美しい」を、考えなくて済むなら考えないようにすれば、大安心に近付き、引き寄せもバリバリになり、若くもなるのである。
分かるようになるために、『荘子』『猫の妙術』をお勧めする。
『猫の妙術』は、『荘子』のエッセンスをニャンコに語らせたものだ(笑)。
尚、『荘子』は、小難しい解説書を読むと、大安心から遠ざかるのでご注意を。








無敵の存在とは

アメリカの高名な作家、オグ・マンディーノ(1923~1996)自身の話だったように思うが、そうではなくても、彼の時代の話だろうから、そう昔のことではない。
彼が子供の時、当時のアメリカでは珍しくはなかったと思うが、息子が学校でいじめられて泣いて帰ってきら、父親は、息子を慰めるどころか𠮟り飛ばし、「殴り返してくるまで家には入れん」と言ったものだった。
日本でも、やはり昔は、そんな父親は多かったのではないかと思う。
だが、今は、アメリカでも日本でも、そんな父親はまずいない。
暴力の否定と言うよりも、今、そんなことを息子に言ったら、変人奇人、あるいは、狂人扱いだし、また、息子が真に受けて仕返しに行ったら、相手の子供達(今のいじめは大抵が集団で行う)に殺されかねない。
つまり、昔は、「やり返せ」と言う父親は、相手の子供やその親が、人間の心を持っていることを信じていたのだ。
言ってみれば、アメリカでは、ヤンキー魂、日本では大和魂を、誰もが持っていると疑っていなかった。
そして、それは、アメリカ人や日本人がモラルを持っていたということだ。
今の、日本の陰湿ないじめは、子供達がモラルを持っておらず、それは、親がモラルを持っていないということなのである。
モラルと言ったが、道徳でも良いだろう。
モラルがなければ、人間は正しい思考や判断が出来ないことは当たり前なのに、それが言われることすらなくなった。
最も重要なはずのモラルの価値が下がってしまったのだ。今や、俗人の間では、モラルより、試験の点数や親の職業、住んでいる家や家にある自動車の値段の方が重要で価値があるのである。

モラルがなければ、引き寄せも出来ない。
いや、正確には、人間には常に引き寄せの力があるが、モラルのない心は悲惨なものしか引き寄せることが出来ない。
自分が辛い状況にある時、それは、モラルのない他人のせいだと思っていることが多いと思うが、それは疑わしい。
私に関して言えば、苦しいと言うよりは、嫌な、気分が悪くなる状況が多かったが、それは、自分にモラルが欠けていたからだった。

モラルとは、勝手きままに振る舞いたい気持ちに制限をかけること、つまり、自制であり、一番分かり易い言葉で言えば、慎みだ。
たとえば、50の慎みを持つことが、人間として最低必要なモラルであるとすれば、60~70の慎みがあれば優れた人間だし、80なら聖人だろう。
しかし、自分は90以上持っていると主張するなら、全く慎みがないか馬鹿である。
慎みを持ちたがらず、勝手きままに、やりたい放題したがるのは、自我の働きだ。
よって、自我をてなずけた人間がモラルのある人間であり、その度合いが高ければ、自我がないように見え、そうであれば、無敵であり、引き寄せも自在だ。
昨日、『猫の妙術』の話をしたが、あれに出て来る、一見、優れているように見えない、動きも鈍そうな古猫が、理想の姿である。
『猫の妙術』は、『田舎荘子』という本の中の話であり、『田舎荘子』は『荘子』を参考にしている。
特に、この『猫の妙術』は『荘子』の木鶏の話にヒントを得たものだ。
木鶏の話は、『荘子』外編にある。
ある闘鶏(鶏同士で戦わせる競技用の鶏、あるいは、その競技名)を育てる名人が一羽の闘鶏の訓練をするのだが、十日訓練をしたら、その闘鶏は殺気立ち、しきりに敵を求め、さらに十日経てば、その闘鶏は闘志をみなぎらせていた。
これでは、そこそこには強くても、もっと強い闘鶏はいくらでもいる。
しかし、さらに十日が経つと、その闘鶏はこうなった。
そばで他の鶏がいくら鳴いても挑んでも、いっこう動ずる気配もない。まるで木鶏である。
こうなれば、どんな闘鶏も全く敵ではない。その闘鶏の姿を見ただけで逃げ出してしまう。
『荘子』では、その訓練の様子は描かれていないが、『猫の妙術』では、その古猫自身が、そのようになれるヒントを、他の猫に親切に教えるのである。
モラルのない世界であっても、あなたが高いモラルを持てば・・・上の古猫や木鶏のようであれば、何も恐れることはないだろう。








古猫の教え『猫の妙術』

『猫の妙術』という、江戸中期に書かかれた談義本がある。
談義本とは、単に通俗的な読み物のことで、「滑稽物語」とも言われる、庶民の娯楽である。
ところが、このとても短い『猫の妙術』を読むと驚愕する。
おそるべき真理が、読み易く、面白く書かれている。
私は、中味(中身)そのものは、『荘子』と全く同じだと思ったが、実は、『猫の妙術』は、『田舎荘子』という書の一部で、確かに、『荘子』の有名な木鶏(木彫りの闘鶏)の話を参考にしているらしい。しかし、『猫の妙術』の方が、はるかに分かり易く、丁寧に書かれている。
また、『荘子』というのは、あくまで、無為、無用、無益を説く書で、役立たずで何もしないことを究極とするが、『猫の妙術』は、万能の教えだ。
もちろん、『荘子』も、本当のところは、神のようなものになることが書かれているが、それは隠されている。
だから、二宮金次郎(二宮尊徳)は、『荘子』と同じ無為自然を説く『老子』を馬鹿にし、否定した。金次郎には、老子、荘子に隠された魔力を見抜けなかったのかもしれない(分かっていて、わざと否定してみせたとも考えられるが)。

『猫の妙術』は、ストーリーそのものが重要なのではないと思う。
それは、『荘子』の木鶏の話が、木鶏のごとく静かな闘鶏が無敵だというだけのストーリーであるのと同じだ。
ある屋敷にネズミが現れ、ネズミ捕りの名人猫が次々、投入されるが、修行を積んだ優れた猫達が、このネズミに全く敵わず、逆にネズミに噛みつかれる始末だった。
それほど凄いネズミで、なす術がなかった。
そして、ついに、噂に聞こえた古猫が連れて来られた。
見栄えのしない、動きも鈍い古猫であったが、ノロノロとネズミに近付くと、パクっとネズミを咥えて出てきた。
その神技に驚愕した、このネズミに手も足も出なかった名人猫達は、うやうやしく古猫に教えを乞う。
すると、その古猫は、対話形式で、親切に名人猫達に教えを授けるが、その内容が実に良く、その対話を聞いていた武士も感服する。
『荘子』では、抽象的に語られていた宇宙の真理とも言うべきことを、ネズミを捕らえるということを題材に、分かり易く語るのだから有り難い。
『荘子』の木鶏の話の中に真理があることに気付く者は多いが、やはり、『荘子』は不親切過ぎるのである。なぜ、木鶏のような不動の闘鶏が無敵なのか、実質的には全く説明していないのだから。

あのロジャー・ムーア(2代目007俳優として有名)とトニー・カーチス(アメリカの名優)が共演した、『ダンディ2 華麗な冒険』というイギリスのテレビドラマがある。
その中で、ムーア演じるイギリスの貴族シンクレア卿が、こんなことを言っている。
「私の祖父の教えだ。攻撃こそ最大の防御なり、最大の攻撃とは無抵抗なり。つまり、何もしない者が一番強いのさ」
私は、子供の時、これを聞き、これこそ、この世の真理と思ったが、悟り切らなかったようで、全く生かせなかった。
『荘子』も『猫の妙術』も、それ(シンクレア卿の祖父の教え)と同じことを言っているのだが、『猫の妙術』は、お馬鹿な面白いお話として、分かり易く語ってくれているのである。
私は、講談社学術文庫の『天狗芸術論・猫の妙術』のみ読んだが、他にもいろいろ出ていると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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