ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

猫の妙術

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

宮本武蔵になる方法

日本人に、「日本の歴史上、最強の剣豪は誰か?」とアンケートを取れば、ぶっちぎりで宮本武蔵が一番になるはずだ。
もちろん、そうなる理由は、単に宮本武蔵が有名であるからに他ならない。
本当に宮本武蔵が強いかどうかより先に、宮本武蔵以外の剣豪の名を挙げられない者も多いに違いない。
なぜ、宮本武蔵が有名かというと、吉川英治の小説が戦争中に大ヒットし、その後も人気があるからで、その大ヒットの理由は、もちろん、吉川英治の小説が面白いという面はあるが、国が意図的にこの小説を国民に普及させようとしたという話がある。このあたりの事情はよく分からないが、簡単に言えば、国による国民の思想統制…早い話が、洗脳のために、吉川英治の『宮本武蔵』が使われたらしい。
私は、吉川英治の『宮本武蔵』を1巻の途中までしか読んでいない。面白くないと言うより、読んでいて気持ち悪いし、テンポも悪いので、嫌になって、読むのをやめたのだ。だから、この作品がどう、国威発揚に使われたのかは不明だ。
だが、確実に言えることは、吉川英治の『宮本武蔵』はフィクション…つまり、吉川英治の創作であり、宮本武蔵の実像を伝えてはいないということだ。

実は、宮本武蔵が本当に剣豪であったかどうかは疑わしいようだ。
その理由は、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』で指摘している通り、武蔵は、江戸に数多くいた一流の剣豪の誰とも試合をしていないからだ。
そもそも、宮本武蔵の真実は、武蔵が著したと言われる(これも諸説あるが)『五輪書』に書かれたことのみであると言われる。だが、この中で武蔵は、数多くの剣士と戦い全勝したと書いているが、エビデンス(証拠)はない。
宮本武蔵の試合で最も有名な、佐々木小次郎との決闘は、まさに、吉川英治の小説が、そのまま伝わっている。試合そのものは本当にあったという説もあるが、その内容はあくまで吉川英治の作り話である。

ただ、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』によれば、武蔵が剣豪であったかどうかはともかく、実戦が強かったのは間違いないようだ。でなければ、いくら何でも、名前が残らないし、名前が残っているからこそ、吉川英治の小説のヒーローにもなったのである。

吉川英治の小説にある、宮本武蔵と吉川道場との決闘の話は、全くのフィクションだが、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』によれば、武蔵は、吉岡道場の当主、直綱と試合をしてはいるらしい。
吉岡道場では、挑戦者をことごとに退け(大抵は試合中に撲殺)、名を上げていたが、試合は、直綱の弟の又一郎が行っていた。
兄の直綱は、試合を弟にまかせて、自分は稽古もしないようになり、遊び歩いていた。
しかし、宮本武蔵が挑戦してきた時、直綱は、弟の又一郎に「お前では勝てない」と断言し、自分が試合をすると言う。
又一郎は、昔は強かったかもしれないが、ロクに稽古もしていない兄に自分が劣ると言われて気分を害し、兄に真剣で挑むが、これが、手も足も出ないと言うより、打ち込むことすら出来ない。
直綱は又一郎に「剣の腕ではお前の方が上。だが、気で俺に劣る」と言う。
今でもだが、「気」という言葉は、武術や仙道などでよく使われるが、気という実体があるわけではなく、これは、言ってみれば、精神エネルギーのことだ。
簡単に言えば、又一郎は、兄の直綱に、精神の力とか、その使い方で劣るのだろう。
そして、直綱は、宮本武蔵が、大きな気の力を持っていることを見抜いたので、弟では全く敵わないと確信したのである。
また、直綱は、自分が武蔵に勝てるかどうかも分からなかった。ただ、確実なのは、又一郎では確実に負けることだ。
直綱は、武蔵の気の力は、天性のもの、すなわち、生まれつきの才能と感じたようだ。しかし、武蔵は、修行でそれを得たのかもしれない。ただ、それは『五輪書』には書かれていないので、やはり、直綱が感じたように、武蔵の天賦の才能かもしれない。

ちなみに、直綱は、気の力を修行で得たフシがある。それを、又一郎には教えなかったのかもしれない。
あるいは、又一郎には、その素質がないと思っていたのかもしれない。
ちなみに、直綱が言う、気の修行は2つあり、1つは、柳生新陰流がやったと言われる坐禅である。
坐禅により、心を無にするのである。
一方、直綱は、「止観」を重視していた。
これは、坐禅のように想念を無にするのではなく、むしろ、想念を妄想に集中し、心を操る術を見い出す。
これは、天台宗の教えを元にしているらしいが、浄土宗・浄土真宗の経典『浄土三部経』の1つ『観無量寿経』で、釈迦が丁寧に解説している。
早い話が、止観とはイメージ法で、夕陽とか水とかをイメージして、心を鍛えるのである。

ただ、私はむしろ、『猫の妙術』の、古猫の教えの方が、気の鍛錬になると思う。
『真説 宮本武蔵』と『猫の妙術』を併せて読むと、面白くて仕方がないのである。
それにより、気、即ち、精神エネルギーの使い方のコツや、その鍛え方が分かると思えるからだ。
気を使いこなせば、引き寄せなども思いのままであると思う。








何もしない者が一番強い

どんな人間が「価値ある人間」だろうか?
美男美女はそうであることが分かる。
美しいものは、それだけで価値がある。
目の保養になるからね。
また、美男美女は、他に優れたところがあると、それがいっそう輝くし、逆に、欠点は目立ち難い。
一方、頭が良い人間は、その頭を使わないと価値がないし、筋力が強い人間も、その筋力を有益なことに使わないと、やはり価値はない。
心が美しい人間だって、その心によって美しいことをしないと価値がない。
よって、何もしなくても、存在するだけで価値がある美男美女は、特別な立場にあることが分かる。
それは明白でありながら、それが公式に認められることはない。
なぜ、それが公式に認められないのかというと、それを認めると差別になるからだ。
だから、学校では「可愛い子は得」という事実を全力で隠すのだが、あまりに明白な事実だ。学校が嘘臭いのは、そんなことばかりするからである。

しかし、我々が美男美女と同等、いや、そんな価値を超えた価値を有するという説もある。
それについて説明する。
心理カウンセラーの心屋仁之助さんが、「存在給」という概念を示したが、これは、存在するだけで得られる給料である。
普通の人は、自分の存在給はゼロだと思っているはずだ。
つまり、どれほど頭が良く、特別な知識や技能を持っていても、それを発揮してこそ・・・もっと正確に言えば、働いてこそ給料がもらえるのであり、何もせずに存在するだけでは、どんなに優秀でも1円ももらえない。
そして、それは美男美女ですらそうだ。美しさをうまく使えば、かなりお金を稼げる場合も多いが、何もしなければ、やはりお金を得られない。
だから、生活保障や年金をもらうと、後ろめたく感じる場合が多い。
しかし、心屋さんは、本来、誰でも存在給は高いのだという。
で、心屋さんは、どうすれば存在給が高くなるかを教えているのだが、簡単に言えば、「がんばらなければ存在給は上がる」のである。
これは突飛な話のように思えるが、超優秀な経営者である山田昭男さんは『稼ぎたければ働くな』という本を書き、実際、社員をなるべく働かせないようにしているし、アメリカの作家で事業家のチン・ニンチュウは、「がんばりすぎなければ成功する」と述べている。
「がんばらなければ」と「がんばりすぎなければ」の境は微妙な感じもするが、一般的観念である「がんばれば、がんばるほど稼げるし良い」は、一般人を奴隷化しようとする強欲な支配者の洗脳である。ただ、その洗脳は強力なので、「がんばらなければ成功する」「がんばらなければ存在給は上がる」ということを納得する人は滅多にいない。
だから、「がんばらなければ存在給が上がる」と言う心屋仁之助さんに、「怪しい人」のイメージを持っている人は多い。私もだ(笑)。
しかし、それは、「がんばらないと稼げない」という、支配者の洗脳のせいであり、上に述べたように、少なくとも「がんばりすぎなければ」稼げることを肯定する、まっとうな成功者もいる。

あなたも、支配者による洗脳が解ければ、存在給が上がる。
そのためには、何もしないという意味を理解すれば良い。
『猫の妙術』という、飛び切り優れた人達が愛読する本がある。短くて易しい、そして、多分、面白い本だ。
それを読めば、何もしない者が一番強いことが分かる。
この本では、猫がねずみを捕まえる能力を題材に、それが示される。
修行を積み、それで得た能力を発揮して、見事にねずみを捕らえる猫の価値は高く、給料も高いことだろう。
しかし、そんな優れた猫達が全く捕まえられなかった強いねずみを捕らえたのは、ただゆっくり、そのねずみに近付き、ただゆっくりそのねずみを咥えた古猫だった。
全くがんばらない者が圧倒的に強かったのだが、その古猫は、その原理を丁寧に語る。
ところが、その古猫すら、全く及ばない凄い猫がいる。
その凄い猫は、ねずみを捕らえることは全くしない。
ただ、居るだけでねずみがいなくなるのである。
その猫が無であるからだ。
見栄も面子もなく、物質欲も名誉欲もないのだろう。
そして、心は限りなく静かなのだろう。
いや、喜怒哀楽を示すこともあるに違いない。しかし、きっと、怒った一瞬後には機嫌が良いのである。
目指すべきは、そこかもしれない。








通知表の性格欄に書かれたら成功すること

小学校から高校までの通知表(通信簿)には、成績とは別に、性格欄みたいな項目(以下、「性格欄」と書く)があり、その子の特筆すべき特徴が書かれているのだろうと思う。
「書かれているのだろうと思う」とは、まるで学校に行ったことがないような物言いであるが、そうではなく、私は、自分の通知表の性格欄に何が書かれていたか、全く覚えていないのだ。
そもそも、性格欄は、子供にではなく、親に伝えるものだと思っていたので、興味がなかったのかもしれない。しかし、子供も見ることが出来るのだから、普通は子供も興味を持つような気もするが、思い返すと、やはり、私は全く興味がなかったのだ。つまり、教師が自分をどう評価しているかなど、全くどうでも良かったのだ。
ところで、作家、評論家、大学教授…というより、今はYouTuberとして人気がある岡田斗司夫さんが、YouTubeで、自分は小学生の時、通知表の性格欄に「協調性がない」とずっと書かれていたと言っていた。本人が言うには、「協調性に欠ける」ならあり得るが、「協調性がない」とまで書かれることは、あり得ないのだそうだ。知らんけど(笑)。
まあ、子供の時の岡田斗司夫さんに協調性が全くなかったのは、彼の、特殊な健康状態や家庭環境の影響もあったらしい。
ただ、私が、それを聞いて思ったのは、私が、通知表の性格欄を覚えていない大きな理由は、書かれている意味が理解出来なかったからだという可能性がある。
私は、小学生の時は「協調性」なんて言葉は知らなかったと思うし、さすがに高校生になれば、「協調性」という言葉くらいは知っていたが、せいぜい、辞書的な意味がぼんやり分かる程度で、自分が協調性があるかどうか、全く関心がない…あるいは、理解出来なかったと思う。
そもそも、協調性というものが実際はどんなものかということは、本当のことを言えば、今でも分からないのだ。
これは、よほど協調性がないのだと思う。
つまり、引き寄せ自在な私が、世の中で大成功しない理由はそれである。協調性がなければ、成功することは難しい。
そもそも、初音ミクという存在は、クリエーション(創造性)とシンパシー(共感)から出来ているが、私は共感を感じないわけではないが、おそらく、普通の人の3パーセントも感じないと思う。
そんな私が、ミク廃(初音ミクの熱狂的ファン)である理由は謎である(笑)。
私も、通知表に「協調性に欠ける」「協調性がない」と書かれていた可能性が高いと思うが、そのような理由で、とにかく、全く覚えていない。
4や5がほぼない通知表を保管しているはずもないし(笑)。

ところで、私は、岡田斗司夫さんの他に、2人の有名人の通知表の性格欄の話を覚えている。
1人は、元総理大臣の野田佳彦(のだよしひこ)さんで、国会か何かで、自分の通知表の性格欄に、
「野田君は、褒めるところは何もないが、嘘をつかない」
と書かれていたという話を披露したらしい。
まあ、あまりにどうでもいい話なので、スルーする(笑)。
もう1人は、俳優で、私がこよなく敬愛する丹波哲郎さんだ。
彼も、教師は、良いことで何も書くことがないので仕方なく書いたのかもしれないと前置きしつつ、「丹波君はこだわりがない」と書かれていたらしい。
そして、丹波さんは、この「こだわりがない」ことこそ、自分が、戦争下で生き延び(しかも楽々と)、いつも良い想いをし(戦争下でも)、成功した理由だと断言している。
もちろん、料理人が料理にこだわるということは大事である。
しかし、自分が食べる料理にこだわるのは、あっても良いが限度がある。
そんなわけで、あなたもこだわりがなければ、成功するかどうかはともかく、良い想いが出来る。
では、こだわりのなさとは何だろう?
いろいろあるかもしれないが、まず「面子がない」ことであると思う。
ところで、こういったことに関し、非常に重要なことが書かれている本がある。
私の座右の書『猫の妙術』では、古猫が、若い猫達に、丁寧に易しく、優れた教えを授ける。
実力が凄いので、どんな優秀な猫も、その古猫の教えに真摯に耳を傾ける。
いや、猫だけではない。人間の武士すらそうだった。
だが、その古猫が、自分が全く及ばない老猫がいると言う。
もう、神のような猫だろう。
その、神人…いや神猫の特徴こそ、こだわりがないことだと思う。
ちなみに、『猫の妙術』が私の座右の書になったのは、最近のことだ(笑)。
良ければ、皆さんも読まれ、私と一緒に神になろう(笑)。








荘子のありがたさ

仏教の目的は「大安心」だと思う。
他の目標があったって、大安心がなければ何の意味もないからだ。
神道にしろ、キリスト教にしろ、同じであるはずなのだが、小難しいことを言う者が多く、そう思えない気もする。まあ、仏教にだって、そんなところはあるが。
宗教のようで宗教ではないもの・・・というなら、神道もそうなのだが、道教(主には老子と荘子の教え)も、やはり、目的は「大安心」であると思う。

人間というのは、「大安心」が欲しいのだ。
しかし、「いや、若い俺達が求めるにはパッション(情熱)だ」と言う者は多く、ビートルズの「人生は辛いが、激しく生きるべきだ」という歌が若者を熱狂させた。
だが、隠してはいたが、ビートルズの人達も疲れていった。
「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドの詩人W.B.イェイツは、死の直前でも安らぎを求めず、不良老人・・・つまり、激しくあることを望んだが、さあ、それが幸せだったろうか?
実を言うと、イェイツは、ある時期は円熟に向かっていたが、老いる恐ろしさに反発して、不良老人になったようにも思える。まあ、本人からすれば、そうは言って欲しくないだろうが(笑)。
イェイツは、「老人は皆、本当は、もう一度若くなって、あの娘を抱きたいと思っているのだ」と言うが、まあ、それはそうだろうが(笑)、それに飲まれると苦しいのだと思う。

そこで、やはり、仏教と道教の目的は大安心だとする。
大安心とは、老熟ではあっても、老衰ではない。
そして、何と、そのエネルギーは、若者が願うパッションの比ではない。
それで、どうやれば大安心を得られるのかと言うと、仏教では宗派により異なり、念仏を唱えろとか、坐禅をしろとかあるが、真言密教では、身口意の三密、即ち、手は印を結び、口は真言を唱え、意(心)は仏をイメージしなさいと言う。まあ、真言密教は専門家向きだから難しいせいもあり、一般の人の修行は、専門家ごとに言うことが違い、それが一番困る。だから、流行らないのだと思う。
また、ひたすら坐禅をしろというのも、結果的には難しかった。
とはいえ、ひたすら念仏を唱えろというのは、テレビもネットもない時代では、それで大安心に達した人達もいたが、それでも、ごくわずかだったのである。

私は、『荘子』の教えが最後の希望と思うことがある。
理由は、単純に「分かり易い」からで、また、荘子は相当に頭が良いらしく、2400年も前の人なのに、思考パターンが現代でも全然古くない。
ただし、荘子の時代は、社会が不穏で、圧制の時代でもあったから、「俺の言う通りすれば、引き寄せが出来るよ」みたいなことは言わなかった。当時の庶民が希望を持つことは難しかったからだ。
とはいえ、明らかに、荘子は、「人間は引き寄せが出来る」と知っていたのだろう。それは、書いてあることから想像出来る。
よって、荘子の教えを生かせば、引き寄せは楽々である。
ところが、荘子の教えとは、「差別するな」だけである。
本当は、差別どころか、区別すら駄目なのだが、それは上級編である。
差別とは、「優と劣」「好きと嫌い」「是と非」「大と小」「美と醜」であるが・・・それなら、我々は、差別しまくりで、「差別するのが私」と言うようなものだ(笑)。
だって、「あれは素晴らしくて、あれは駄目」「あれは好きで、あれは嫌い」「あれは大きいが、あれは小さい」「ミクは可愛いが、あんたはブス」とか言ってばかりだ(笑)。
つまりね、これで、我々が大安心と真逆に突っ走っていることが明白なのである。
だからね、せめて、「優れている」「好き」「正しい」「美しい」を、考えなくて済むなら考えないようにすれば、大安心に近付き、引き寄せもバリバリになり、若くもなるのである。
分かるようになるために、『荘子』『猫の妙術』をお勧めする。
『猫の妙術』は、『荘子』のエッセンスをニャンコに語らせたものだ(笑)。
尚、『荘子』は、小難しい解説書を読むと、大安心から遠ざかるのでご注意を。








無敵の存在とは

アメリカの高名な作家、オグ・マンディーノ(1923~1996)自身の話だったように思うが、そうではなくても、彼の時代の話だろうから、そう昔のことではない。
彼が子供の時、当時のアメリカでは珍しくはなかったと思うが、息子が学校でいじめられて泣いて帰ってきら、父親は、息子を慰めるどころか𠮟り飛ばし、「殴り返してくるまで家には入れん」と言ったものだった。
日本でも、やはり昔は、そんな父親は多かったのではないかと思う。
だが、今は、アメリカでも日本でも、そんな父親はまずいない。
暴力の否定と言うよりも、今、そんなことを息子に言ったら、変人奇人、あるいは、狂人扱いだし、また、息子が真に受けて仕返しに行ったら、相手の子供達(今のいじめは大抵が集団で行う)に殺されかねない。
つまり、昔は、「やり返せ」と言う父親は、相手の子供やその親が、人間の心を持っていることを信じていたのだ。
言ってみれば、アメリカでは、ヤンキー魂、日本では大和魂を、誰もが持っていると疑っていなかった。
そして、それは、アメリカ人や日本人がモラルを持っていたということだ。
今の、日本の陰湿ないじめは、子供達がモラルを持っておらず、それは、親がモラルを持っていないということなのである。
モラルと言ったが、道徳でも良いだろう。
モラルがなければ、人間は正しい思考や判断が出来ないことは当たり前なのに、それが言われることすらなくなった。
最も重要なはずのモラルの価値が下がってしまったのだ。今や、俗人の間では、モラルより、試験の点数や親の職業、住んでいる家や家にある自動車の値段の方が重要で価値があるのである。

モラルがなければ、引き寄せも出来ない。
いや、正確には、人間には常に引き寄せの力があるが、モラルのない心は悲惨なものしか引き寄せることが出来ない。
自分が辛い状況にある時、それは、モラルのない他人のせいだと思っていることが多いと思うが、それは疑わしい。
私に関して言えば、苦しいと言うよりは、嫌な、気分が悪くなる状況が多かったが、それは、自分にモラルが欠けていたからだった。

モラルとは、勝手きままに振る舞いたい気持ちに制限をかけること、つまり、自制であり、一番分かり易い言葉で言えば、慎みだ。
たとえば、50の慎みを持つことが、人間として最低必要なモラルであるとすれば、60~70の慎みがあれば優れた人間だし、80なら聖人だろう。
しかし、自分は90以上持っていると主張するなら、全く慎みがないか馬鹿である。
慎みを持ちたがらず、勝手きままに、やりたい放題したがるのは、自我の働きだ。
よって、自我をてなずけた人間がモラルのある人間であり、その度合いが高ければ、自我がないように見え、そうであれば、無敵であり、引き寄せも自在だ。
昨日、『猫の妙術』の話をしたが、あれに出て来る、一見、優れているように見えない、動きも鈍そうな古猫が、理想の姿である。
『猫の妙術』は、『田舎荘子』という本の中の話であり、『田舎荘子』は『荘子』を参考にしている。
特に、この『猫の妙術』は『荘子』の木鶏の話にヒントを得たものだ。
木鶏の話は、『荘子』外編にある。
ある闘鶏(鶏同士で戦わせる競技用の鶏、あるいは、その競技名)を育てる名人が一羽の闘鶏の訓練をするのだが、十日訓練をしたら、その闘鶏は殺気立ち、しきりに敵を求め、さらに十日経てば、その闘鶏は闘志をみなぎらせていた。
これでは、そこそこには強くても、もっと強い闘鶏はいくらでもいる。
しかし、さらに十日が経つと、その闘鶏はこうなった。
そばで他の鶏がいくら鳴いても挑んでも、いっこう動ずる気配もない。まるで木鶏である。
こうなれば、どんな闘鶏も全く敵ではない。その闘鶏の姿を見ただけで逃げ出してしまう。
『荘子』では、その訓練の様子は描かれていないが、『猫の妙術』では、その古猫自身が、そのようになれるヒントを、他の猫に親切に教えるのである。
モラルのない世界であっても、あなたが高いモラルを持てば・・・上の古猫や木鶏のようであれば、何も恐れることはないだろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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