ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

無になる

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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現代人最大の誤解をさらっと解き万能になる

小説、映画、アニメなどで、主に主人公等の登場人物が危機的状況に陥り、局面の打開は難しく、いわゆる、二進も三進も(ニッチもサッチも)いかないという時に、その登場人物が、「考えるんだ!」と自分に言って、真剣に考える表情になる・・・そんな場面を見たことがあると思う。
そして、ほとんどの場合、素晴らしいアイデアが閃き、そのアイデアは、難しかったり危険だったりはするが、それを果敢に実行し、ついに勝利する・・・という展開になる。

そんな状況の時、「考えるんだ」と言いつつ、人間は何も考えない。
特に、良いアイデアが出る時というのは、ただ心を静めているのであって、考えるのではなく、逆に、思考を止めているのである。

我々だってそうである。
何か不都合な問題が起こり、それを解決したいと思って、自分では「必死で考えている」つもりになるが、本当に考えている時は、ロクな答は出ない。
そうではなく、思考を止め、冷静になることで、アイデアが浮かぶのであり、そのアイデアは思考の結果、得られるものではない。

昔、『一休さん』というアニメがあり、10歳位の小坊主である一休は、すでに知恵者として知られているが、難しい問題に直面し、いよいよ解決することが必要になると、一休は座って、坐禅の形に脚を組むと、目を閉じ、「沈思黙考」といった状態になる。
「沈思黙考」とは、「黙ってじっくりと深く物事を考え込むこと」という意味だが、もし、本当に一休が知恵者であるなら、この時、一休は、考えることを止め、いわゆる「無」になろうとし、普通の人ではなかなか出来ないレベルで「無」になった時・・・つまり、心が静まり、頭の中で一切の思考がない状態になった時、優れた知恵が出るのである。

上に述べたことは、一見、常識に反するが、改めて考えれば・・・いや、心を静めて「考えるな、感じろ」とでもいう状態になってみれば、ごく当たり前であることが分かるはずだ。
実際は「感じろ」も全く不要で、考えなければ、必要なら勝手に感じるのである。これもまた、一般的観念に反するかもしれないが、これが事実だ。

ソクラテスは、「私は人類の中で一番知恵がある」と言った。
これは傲慢では全くない。
この意味は、「私は、自分に知恵がないことを知っている唯一の人間だ。だから、私は誰よりも知恵がある」である。
特に成功者や人々から高い評価を受けている者は、自分の思考能力が優れているからそうなっていると思っている。
少なくとも、世間で認められている自分の実績は、自分の能力で成したと思っている。
だが、ソクラテスは、そうでないことを、なぜか知っていたのだ。
人間の優れた能力がどこから出て来るのかは、ソクラテスだって分からない。
しかし、それは自分が持っているような能力ではなく、いわば、神秘的としか言いようがない何かだ。
だから、ソクラテスは、一応、「内なる霊から出て来る」と言い、それは、現在では潜在意識のことを指すと考えて良いだろう。

矢追純一さんは賢い人だった。
彼は「僕は頭が悪いから考えることを諦めた」と言う。
それにより、難しい問題を解決し、テレビディレクターや作家として大成功した。
そして、実は彼も言っているが、人間は皆、頭が悪いのであり、そんなもの(自分の頭、思考能力)に頼っていては何にも大したことは出来ない。
自分は頭が悪いことを知っている者が本当に賢いのである。

成功したり、幸福になったり、重要な問題を解決したいと思うなら、我々のやるべきことは、思考を止めること、想念を消すこと、無になることである。
それには、薄々気付いている人もいる。
しかし、思考を消すことが難しい。
頭はいつも、無駄な独り言を言い、心の中のお喋りは止まらない。
しかし、それが消えた時、人間は天才になり、神のようなものになり、奇跡が起こり、超能力と思えるような力も発揮する。
その浅い方法は、アファーメーションや、あるいは、マントラ(真言)を唱えることで、頭に思考する暇を与えないことだ。
思考とは、脳の暇つぶしに過ぎない。
ただ、必死にアファーメーションを行うと、雑念が出易く、かえって、無駄なことを考えてしまう。
落ち着いて、淡々と、丁寧に、アファーメーションを行うと良い。
最初は焦って、力んでアファーメーションを行っていても、数多く繰り返すうち、落ち着いて、静かにアファーメーションを行うようになった時、思考が少なくなり、潜在意識が問題を引き受け、良い答が閃いたり、状況が変わったりするのである。
アファーメーションより優れた方法が、「今に集中する」ことだ。
今に集中すれば、過去も未来も消え、過去の後悔も未来への不安もなくなり、今この瞬間だけになり、思考が消え、無になる。
その時、人間に不可能はなくなり、全てが可能になる。








決意と誠意

人間が「神モード」にチェンジするということは「無になる」ということだ。
無になることを、無我、忘我、没我などとも言う。
英語ではエクスタシーで、近年では、ゾーンとかフローと呼ばれるようになった精神状態も、同じようなものを指しているのだろう。
宗教的には法悦と言う。

無になれば、人間に不可能はないし、少なくとも、奇跡的な力を発揮する。
そして、太古の昔から、人類の最重要なテーマは、この無であるのだが、釈迦の時代には、もう庶民はそれを忘れ、稀に考えたとしても、それを、特殊なもの、神秘的なもの、あるいは、奇異なものと捉えるようになった。その原因は分からないが、これこそが、権力者達の策略かもしれない。

「無になった状態」が明確に見えるものがあれば良いのだが、私は、アニメの『ツバサ・クロニクル』の中で、そんな場面を見たことがある。
あまり詳しく状況を覚えていないが、これだけ分かれば良いと思う。
小狼(シャオラン。少年。推定14歳)とサクラ(少女。14歳)が、姿が見えない敵に、魔力で襲われる。
小狼は立ち向かうが、敵は姿が見えない上、その魔力はあまりに強大で、たちまち小狼はダメージを受け、勝ち目があるとは思えない。言ってみれば、猫が虎に挑むようなものだった。
しかし、傷を負いながらも、小狼は立ち上がり、立ち向かうことを止める様子は全くない。
そして、小狼に、悲壮さがまるでないことに注意しなければならない。
「死ぬまで戦うぞ」といった「健気な」気合いのようなものはまるで感じないのだ。
その顔は無表情だ。
彼の目的は、サクラを確実に守ることで、それ以外のことは、あまりに些細な問題なのだ。
この小狼の状態が、無、無我、忘我、没我である。
近年では、上にも述べた通り、ゾーンとかフローと言うのだが、これらの言葉には、やや雑な概念も混じっており、やはり、無と言うのが良いと思う。
つまり、小狼のようにやれば良いのである。
どういうことかというと、小狼がなぜそんなことが出来るのかというと、2つの要素が認められる。
1つは「決意」で、もう1つは「泣き言を言わない」ことだ。
彼は、サクラを守ると決意しており、泣き言を一切言わないことが当たり前になっている。
キリスト教では「献身」とよく言うらしいが、それは、自分の利益を全く顧みない行為であり、そもそも、考えることをしない。
これを悪用するのが軍隊であるが、小狼と軍隊の違いは、自分の意思で決意した小狼と、軍に都合の良いことを兵士に決意させる軍隊との違いである。

まとめると、(軍隊とは違う意味で)無になるには、まず、自分の意思で何かを決意すること。
次に、泣き言を言わないことだ。
最初は、意志力を必要とするかもしれないが、いったん覚悟が決まれば努力はいらない。
例えば、少年が、幼い弟の前で、お兄さんらしく振る舞うことを決意し、苦しい状況の中でもシャンとするようにだ。
「泣き言を言わない」・・・同じことなのだが、「屈服しない」「文句を言わない」「言い訳をしない」を「ごく当然に」行う。
それが無になる方法で、決意の出来ない甘えた根性では決して超人になることはない。

そう言えば、『ツバサ・クロニクル』の原作である『ツバサ』で、時の魔法使いが、小狼に、「お前は成功するために必要なものを全て持っている」というようなことを言ったのは、著者のCLAMPがそう思っているのだから、私も電子版の1巻だけでも買っておこうと思う(多分、1巻の中で、その理由が分かるだろう)。
ただ、特に近年のCLAMPの近年の作品は、やや感情表現が過剰なので、私はあまり好きではないのだが。
・・・で、今、購入したら、やはりあった。結局、全部購入しそうな気がする(笑)。








無になれば不可能はない

奇跡が起こる時や、自在に引き寄せを行い願いが叶う状態というのは一言で言い表すことが出来、それは、自我が消えている時だ。
自我とは、思考する心のことで、根本的な働きは「比較し、優劣の判断を行うこと」である。
「比較し、判断を行うこと」で、是非(良いか悪いか)とか、好悪(好きか嫌いか)という判断が生まれる。
つまり、是非とか好悪の判断をしている時というのは、自我があり、奇跡は起こらず、引き寄せは出来ず、願いは叶わない。

荘子は、「是非好悪の判断を捨て、一切をなりゆきにまかせよ」と言うが、そうであれば、自由自在だということだ。
誰かが、「悟り」とは「差取り」だとうまいことを言ったが、実際、「差」ということを考えない状態が「悟り」なのである。

こういったことを、さらに一言でまとめると、
『「無」になれば不可能はない」』
である。
だが、「無」になることは難しいとされている。
宗教などでは、難行苦行の末に「無」になるという観念が強くあり、そんなことが出来るのは偉大な苦行者だけであり、我々凡人には縁がない。
だが、そうではないことも知られてきた。

小さなことでも、長い努力の末に清らかな目的を達成した時、我々は心からの満足感を得るが、そんな時は「無」になっている。
あるいは、何かでずっと悩んでいたが、その悩みが消えた時にも、しばしば誰でも「無」になる。
また、自然の荘厳な風景を見た時や、それほど特別なものではなくても、美しい夕陽を改めて感じた時、懐かしい景色に接した時にも、分別する心が麻痺し「無」になる。

アニメ『カードキャプターさくら』のオープニング曲の1つだった『扉をあけて』に素晴らしい表現があった。

なんでもない 小石でさえ 不思議だよね 宝石に変わる
一緒にね 見てるだけで… みんな光る
~『扉をあけて』(作詞:きくこ、作曲:広瀬香美、歌:ANZA)より~

この「宝石に変わる」時が、「無」になった時、すなわち、自我が消えた時だ。
こんな時は、奇跡が起こり、魔法が当たり前になる。

『まほろまてぃっく』というアニメで、アンドロイド(美少女型の戦闘用アンドロイド)である「まほろ」が、初めて見る夕陽の美しさに感激して喜んでいると、美里司令官がまほろに、「この世にはもっと美しいものがあるぞ」と言う。
それ以降、まほろは、美しいものを見る度に、「これがそうだろうか?」と思うが、納得は出来ない。
そして、最後に、「好きな人と見る夕陽」がそうだと分ったが、つまるところ、見るものは何でも良いのである。上の『扉をあけて』では小石だったように。
その「好きな人」も、単なる好きではなく、本当に好きということだ。
本当に好きとは、好きなもののために一切を捨てられることである。
少し立派な表現をするなら、「無限の代償は有限全て」なのである。
FIELD OF VIEWの『DAN DAN 心魅かれてく』にあったように、「人はだれも永遠を手に入れたい」のである。
そして、永遠とは「無」である。

どんな方法にせよ、自我を屈服させれば、「無」になる。
例えば、念仏、マントラ(真言)、神の名を、延々と繰り返し唱えることによって。
自我は刺激とか新鮮さを好むので、単調であること、根気を嫌うのだ。
だから、単調なメロディーの繰り返しであるバロック音楽を愛好している人は、よく「無」を体験している。
「神様の奇跡が起こる」という言葉を延々と繰り返したホームレスが奇跡を起こした(宝くじで1憶円を2回当てた)のも、集中が起こり易い言葉の助けを得ながら、その言葉を根気良く繰り返し唱えたことで「無」になった時に奇跡が起こったのである。
奇跡を簡単に起こせる人は、仕事などの修練で根気を磨いてるのだと思う。
毎日、何千回もバットを振るバッターが、まさかの場面で、緊張感が「無」に変わることでホームランを打つのである。

つまり、最も簡単なこととしては、普段、何かで単調なことを延々繰り返す修行めいたことをすれば良い。
しかし、自分は修行をしていると思っているうちはうまくいかず、それを超えて心が消え「無」になる感覚を身につけた時、「奇跡の人」になる。
念仏や呪文を唱えていても、「良くならない。辛い。もっと念仏を唱えないと」と思っているうちは、まだ自我が強いのである。
「神様の奇跡が起こる」「南無阿弥陀仏」「オン・アロリキャ・ソワカ(観音真言)」何でも良いから、無になるまで繰り返すことが、誰でも出来る簡単な方法で、少々根気が必要なだけだ。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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