ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

湯川秀樹

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

解答>惚れ込むことの魔力

今朝書いた重要問題の答が出た。

能力的には平凡なシーモア・パパートがなぜ、世界的数学者、コンピューター科学者、心理学者、教育学者、AI研究者になれたのか?
それは、パパートが4歳の時、自動車の機械の中の歯車に惚れ込み、それ以来、あらゆることを歯車で考えるようになったからだ。
しかし、歯車はあくまで、パパートが惚れ込んだものであり、各自、自分が好きなものを見つけないといけない。
そして、パパートの場合は歯車だったが、その好きなものを、どのように使えば良いかの具体的なことを、パパートは言っていない。

では、あなたが何かを好きだとして、それをどのようにすれば、あなたは宇宙人的能力を発揮出来るのだろうか?
それはこうだ。
その好きなものを使おうなんて思ってはならない。
そうではなく、その好きなものが、頭の中で自由に振舞うのを許すのだ。
パパートの頭の中では、歯車はパパートの意思に関係なく、自由に動いたはずなのだ。
それを見てパパートは、何でも分かってしまったし、何でも出来たのだ。
しかし、「人類最高の数学教師」とまで言われたパパートが、このことをちゃんと言わなかったとは意外だ。
いや、言ってはいたが、心理学の微妙な言い回しをしていたため、うまく翻訳出来なかったのかもしれないと思う。
だが、真相は、この通りだ。
好きなものを自由にさせれば良いのである。
これは、こうも言えるのだ。
それは、あなたの好きなものが、あなたが自由を与え、自由に動き出すほど、あなたは好きでなくてはならない。
自由に動くなら、もちろん、初音ミクさんでも良いのである。
きっと、優れたボカロPさんというのは、頭の中で、初音ミクさん(あるいはお気に入りのボーカロイド)が歌ってくれるのである。
化学のベンゼン環は、ケクレが、イメージの中の蛇を自由にさせたら、蛇が動いて、自分の尻尾に噛み付くのを見て、ヒントを得て発見したものなのだ。
湯川秀樹の中間子理論も、夢の中で、子供達がボールを投げ合っているのを見て、そのボールから中間子を着想したのだ。
きっと、ケクレは蛇・・・と言うより、古代からある象徴図形であるウロボロス(尻尾を噛む蛇、あるいは、竜)が好きだったのだろう。
ケクレのウロボロスが、パパートの歯車だったのだ。

さあ、私も、これからは、大好きな○○に、頭の中で自由に振舞っていただこう。













当ブログ著者、KayのAI書。
次のような人は、本書が向いていると思います。
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「南無阿弥陀仏」と「アジマリカン」

このブログで度々推奨している、「南無阿弥陀仏」の念仏と、「アジマリカン」の呪文は、どちらが良いのだろうか?
もちろん、これは、あまり、あるいは、ほとんど、あるいは、何の意味もない疑問かもしれないが、気になる向きもあると思う。いや、私が気にしている。
※「アジマリカン」は「神呪」と言うのが正しいらしいが、そのような言葉を使う人はいないので、不遜かもしれないが、「呪文」とした。

「アジマリカン」の呪文に関しては、山蔭基央氏に聞くしかない。
というのは、この呪文は、山蔭神道に伝えられる秘法であり、山蔭基央氏は、山蔭神道の最高位であるからだ。
しかし、山蔭基央氏は2017年3月に亡くなっておられる。
そこで、山蔭氏の著書『神道の神秘』を見ると、この呪文は、「意味は不明」「天地初元の時からある言霊」と説明している。
そして、山蔭氏は、よく知られている祝詞である「大祓詞」に強大な神秘力があると説きながらも、「アジマリカン」は、それに勝ると述べてる。
山蔭氏自身が18歳の時に肺結核に罹り、瀕死の状態(仮死状態にもなったらしい)にあったのを、「大祓詞」を唱えることで治したに関わらず、そう言うのである。
「アジマリカン」を百万回唱えることで神通力を得るとされているようだ。

次に、念仏である。
念仏の効能に関しては、法然が『選択本願念仏集』の中で、自信たっぷりに書いているのであるが、その根拠は、根本的には「経典に書いてある」のみである。
その経典とは、「浄土三部経」と呼ばれる「無量寿経(大無量寿経)」「観無量寿経」「阿弥陀経」である。
ところで、これらの経典のいくつかの翻訳を読んだが、実際には、「南無阿弥陀仏と唱えよ」と書かれているのではなく、「阿弥陀仏(阿弥陀如来)の名を唱えよ」と書いてあるのだと思う。
阿弥陀仏は、本来の言葉では、アミターバ、あるいは、アミターユスである。
しかし、そこらは、こだわる必要はあるまい。
念仏の効能に関しては、特に、「観無量寿経」に書かれており、それは「何世にも渡る長い罪が消える」ことと「観世音菩薩、勢至菩薩が友になってくれる」である。
結果、悪運が除かれ、幸運に恵まれると思って良いだろう。
このことは、「観無量寿経」の3種類の翻訳書で確認した。
ただ、それはあくまで経典の話であり、客観的な証拠はない。
だが、世界的にも最高の数学者であった岡潔は、ある高僧の教えによって念仏を唱えるようになり、物理学者で湯川秀樹の弟子でもあった保江邦夫氏の著書によれば、湯川秀樹も同じ高僧の弟子であったらしいことから、湯川秀樹も念仏を唱えていたのかもしれない。
別に、偉い学者だからというのではないが、疑うことが重要な仕事である科学者の中でもトップレベルの人達が、少なくとも、念仏の信仰を肯定していたことには意味があると思われる。

一番良いのは、これらの言葉を唱える本物の大師に会い、教えを受けることであるが、なかなかそうはいかないだろう。
だが、いずれも間違いのないものだと言って差し支えないと思う。
なぜなら、商業的な宣伝が一切行われないながら、両者とも確実に生命を保っているからだ。
特に念仏に関しては、国家の権威に拠っている部分もあるには違いないが、それによって、何かを強制されたことがある人も滅多にいないだろう。
他にも、これらを信頼すべき沢山のことが言えるが、以上のことで十分と思う。








セレンディピティと天の羽衣

私がまだ「セレンディピティ」なんて言葉を知らなかった時、ある科学者に、「今どき、セレンディピティを知らないと文化人とは言えない」と言われたものだ。
まあ、私は別に文化人ではない。

その科学者は某大学の学長で工学博士だったが、彼に教えてもらったセレンディピティの意味は「幸運な偶然を引き寄せる能力」だった。
実は、セレンディピティという言葉に正式な定義がある訳でもないのだが、だいたいこれで良いのではと思う。
科学の分野でもよく言われる言葉で、例えば、何かの研究をしていたら、その研究とは違うことで大発明をしたといった時に、セレンディピティが発揮されて「幸運な偶然」を得たと言うのだ。

科学史上の歴史的な発明、発見には、偶然の産物と思われるものは大変に多いと言われる。
それらを、セレンディピティによるものだと言っても構わないと思う。

だが、あえて言うなら、全ての発明、発見は、1つ残らず偶然なのだ。
ただし、それは、人の立場から言えば偶然だということである。
人を超えた視点から見れば、きっとそれは、起こるべくして起こった必然だろう。

例えば、別に科学者でなくても、閃きや直感で何かを思い浮かべ、それが良いアイディアであったということは誰にでもあると思う。
それは、我々の感覚では、偶然閃いたということになるのだが、本当は必然であったに違いない。
大発明、大発見というのも、単にセンセーショナルだというだけで、本質ではそんなものと変わらない。

実をいうと、人の知性が何かまともなものを作ったということは、人類史上、一度も無いのだ。意外に思うかもしれないが、それは確かだと思う。
コンピュータや宇宙ロケットなどでなくても、ビールのビンや鉛筆ですらそうだ。
あなたは、身の回りにあるものの1つでも、自分に作れると思うだろうか?
テレビ、ラジオ、スマートフォンはもちろん、自転車、窓、靴、ペンチ等々…。それらを作る仕事をしている人だって、単に作る手順を知っているというだけの話で、自分で発明できるかと言えば、それは疑問だろう。
確かに、我々は、火やナイフや自動車をもう一度発明する必要はない。しかし、しようたって出来ないのだ。何1つ。

『2001年宇宙の旅』という映画で、争っている猿人達の一匹が、1本の骨を拾ってそれを武器にするという場面がある。それにより、その猿人は強者になり、おそらく、その後、他の猿人も真似をしたはずだ。
ところで、最初に棒状の骨を武器にした猿人は、「何か強力な武器は無いかな?」などと考えた訳ではない。不意に、これを使えばいいと、ぱっと閃いたのだ。
全ての発明、発見もそれと同じだ。
エジソンが、「発明は空間の向こうからやって来る」と言ったのが、まさにそれを言い表している。
ただ、エジソンは、発明に必要なことは、「1パーセントの閃きと99パーセントの努力」と言ったと言われる。逆に、これは、99パーセントの努力が1パーセントの閃きをもたらすとも言われ、科学者の間では、むしろ後者がよく言われるように思う。
湯川秀樹博士は、漢文学の素養があったらしいのだが、「天の羽衣が来て撫でる」なんて美しい表現をしたものだった。

いずれにしろ、その閃きが無ければ、人類は何も生み出せなかった。
そして、閃きというのは、断じて人間の知性ではない。知性を超えた何かだ。
中国の賢者、荘子は、この知恵を超えた知恵を、とりあえず明と呼んだ。
ところで、その明を得るには、「99パーセントの努力」が必要なのかというと、実際はそうではない。荘子もそう言っていない。
ただ、結果として、大きな努力をした後の方が閃きが起こりやすいのは確かだ。
その訳は、欲望があると閃きは起こらないからなのだが、散々努力してうまくいかず、疲労困憊して諦めた時に欲望が消えるからだ。
確かにその意味で、現状の人類では、激しく努力でもしなければ発明は出来ないのかもしれない。
しかし、いずれにしても、人間の知性、いわゆる、アタマが何かを作ったことは一度もないのだ。
ミサイルや原発も含め、テクノロジーそのものは善でも悪でもない。本質においては、善というよりは美と言えるだろう。
それを悪にし、醜にするのが、人間の知性なのである。

さて、知性を超えた超知性である、荘子の言う明であるが、それをどう得るかは荘子自身が『荘子』でちゃんと語っている。
何のことはない。全てをあるがままに見、思慮分別を離れ、なりゆきに任せることだ。
これほど楽なことはない。
しかし、それを誰もできない。
そもそも、大発明をするためにそれをやろうとしても無駄だ。
発明をして儲けたい、賞賛されたいという欲望があれば、決して、荘子の言うようなことは出来ないからだ。
だが、諦めてはならない。
なぜなら、明は、我々から遠いものではなく、言ってみれば、我々の故郷であり、手足よりも近いものだ。
イエスが「求めよ、そうすれば与えられるだろう」と言った時の、その与えられるものとは聖霊であるらしいが、きっとそれは、明と同じものか、あるいは、聖霊の作用が明なのであろう。
得られないはずがないものである。
イエスのこの言葉は、こう解釈しなければならない。
「求めれば、得られる過程が始まっている」
超知性、明、至高の英知、エデン、楽園の乙女、神の火花…何と呼んでも構わないが、求めれば、それが得られるプロセスは自動的に開始され、進んでいく。
我々の運命は、神により全て完全に決められているが、これに関しては運命外のことである。
運命そのものは変わらなくても、ベートーヴェンがシラーの詩を基に『歓喜の歌』で表現したように、あるいは、『バガヴァッド・ギーター』で至高神クリシュナが言ったように、我々は崇高な聖なる所に入れるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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