ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

涼宮ハルヒの憂鬱

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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子供の自信

子供の引き世せなんて、その原動力は「決めつけ」しかない。
たとえば、旅行に行く時、「面白いに決まってる」と決めつけ、実際に面白い旅行になる。まあ、何が起こっても、そんな子にとっては大抵面白いのだが・・・。
「決めつけ」とは何かというと、「無理矢理の予想」「強い期待を伴った根拠のない自信」といったところだ。
これこそ、生命力に満ちた強い意思であり、子供が持っていて、大人が失い勝ちなものだ。
「決めつけ」が出来る子供は、時に、極めて強い。
大人なら、気後れしてしまうことにも、そんな子供は大胆に飛び込み、そして、奇跡のようにやり遂げてしまう。
言い換えれば、子供はゴールからスタートしてしまうのだ。
全く手におえない(笑)。
だから、生命力を取り戻し、不可能を可能にしたいなら、子供らしい子供がやることを見ると良い。

『涼宮ハルヒの憂鬱』で始まる『涼宮ハルヒ』シリーズが面白いのも、ヒロインの涼宮ハルヒが子供っぽいからだ。
「面白い」を予想し、それが「間違いない」と決めつける、ある意味、幼稚な単純思考だ。
この「間違いない」は、根拠のない自信で、そんな自信を持つ者は、馬鹿だと考えられる。
しかし、アメリカ最大の賢者エマーソンは、この根拠のない自信が何より大切だと言ったのだ。

子供が、根拠のない自信を持てる理由は、脳の何かが未発達だからだと思うのだ。
不安とか心配とか疑いに関わる脳の思考回路が完成していないのだと思う。
もちろん、子供でも、ある程度の年齢になれば、「もしかしたら、うまくいかないかもしれない」と思うようになる。
しかし、そんな疑いの思考回路が未熟なので、何かのはずみで、その疑いの思考回路がOFFになってしまうのだ。
私が、小学4年生の時、こんなことがあった。
学校のクラスの席替えの時、男子の9割以上が狙う席は、クラス1の美少女である「あの子」の隣の席だった。
その日、私の頭の「否定回路」のスイッチが入っていなくて、私は「彼女の隣は僕になるに決まっている」という自信に満ちていた。
もちろん、私は、その通りの席を引き当てた(ただし、彼女にサービスする能力に欠けていたので、その後は大変だったが・・・)。
昨日も書いたが、体育の授業で走り高跳びをやった時、なぜか私は、どんな高さでも飛べることに、根拠のない絶対の自信を持っていたので、私は特に長身でもなく、運動神経が良いわけでもなかったが、他の誰も飛べない高さでも、私は楽々飛べた。

根拠のない自信を持った子供や、そんな子供の物語を見ると、強い引き寄せの力を得られる。
『ロケットガール』という、SF作家の野尻抱介さん原作のアニメがある。
普通の女子高生の森田ゆかりが、宇宙飛行士になって宇宙に行くのだが、ゆかりは、良い意味でも悪い意味でも、とても子供っぽいところのある少女だった。。
ゆかりは、初めはロケットに乗ることに、不安や恐怖があって抵抗するが、いざ乗る段になると大変な度胸を見せるのは、若いからというより、子供らしさを感じた。
それでも、ゆかりは、日本という文明国で育ったので、全くの子供というわけではない。それで、緊急事態になると「大人っぽい」不安に襲われた。
ところが、未開民族の中で育った、ゆかりと同い年の異母妹マツリは、最初から何の不安も感じておらず、それはロケットに乗ってからも全く変わらなかった。
マツリは、全く子供らしさを失っていないのだ。
このアニメを見て、私も、かなり根拠のない自信を取り戻した感じだ。
尚、原作者の野尻抱介さんは、ニコニコ動画を消滅危機から救った超ミク廃として知られている。








狂気なき正義は無能。芸術は狂気だ。

あなたが、うまくいかなかったのは、狂気がなかったからかもしれない。
成功して金持ちになれなかったのも、モテなかったのも、優勝出来なかったのも、絵が上手くならなかったのも、結婚出来なかったのも、プログラミングが出来るようになれなかったのも、漫画家になれなかったのも、注文を取れなかったのも、彼を落とせなかったのも・・・狂気がなかったからに違いないのだ。
室町時代の小歌の歌謡集として有名な『閑吟集(かんぎんしゅう)』の中にある1つの歌の、このフレーズを一度は聞いたことがあると思う。
「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
(何になろうか、まじめくさって、人間の一生なんて夢でしかない。ひたすら狂え。)
昔のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で、伊達政宗の父、伊達輝宗は、19歳の政宗に言う。
「わしには天下は取れなかったが、お前ならと思う。お前には、恐ろしさ、狂おしさがある」
つまり、現代的に言えば、政宗には、狂気の極みがある・・・つまり、徹底的に狂っている、ぶっ飛んでいるといった感じだ。
まじめくさった…保身に気を使う人間に大きなことは出来ない。

まあ、上に書いたようなことは、分からないわけではないと思うのではないだろうか?
だが、「では、どうやれば狂えるか」に関し、「狂い方が書かれた教科書はどこですか?」と言う、どうしようもない者が多いのだ。
教科書を否定してこそ狂いなのに(笑)。

『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流著)で、高校1年生になった美少女、涼宮ハルヒが、入学式の後の、クラスでの自己紹介で言った言葉がよく知られている。
「ただの人間には興味がありません。この中に、宇宙人、未来人、超能力者、異世界人がいたら、私のところに来なさい」
なぜ、覚えられているかというと、ハルヒがぶっ飛んでいる…つまり、狂気を持っているからだ。
狂気を持った者は魅力的で、本当は皆、こんなふうに狂いたいのだ。だが、まじめくさって、面白くない人生を送ってしまうのである。

言うまでもなく、狂気にはリスクがある。
下手な狂気の果ては刑務所か精神病院と相場が決まっている。まあ、昔のように、いきなり消されることは少ないが(笑)。
小さく狂っただけで、つまはじき者、仲間外れ、弾圧の標的だ。
それを恐れて、皆、まじめくさるのだ。
確かに、狂気に飲まれてはならない。
溢れる狂気を持つなら、自分を捨て、命を捨てないといけない。でなければ、大物か小物かの違いはあるが、本質的にはヒトラーやスターリンだ。彼らは大きな狂気を持っていたが、その狂気に飲まれてしまった。
自分を握ったまま、命を握ったまま、大きな狂気を持ったので、狂気に負け、狂気に食われてしまったのだ。
自分を握っている、命を握っているとは、欲望に憑りつかれているということだ。
政木和三さんは私に、「人を超えたければ、欲望をぽーんと捨てなさい」と言った。
より丁寧に言うなら、「欲望をぽーんと捨てて狂いなさい」だ。
欲望を捨てても、狂いがなければ幽霊だ。
狂いがあっても、欲望を握っていたら独裁者にしかなれない。
パスカルの『パンセ』の中の有名な言葉、
「カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」
の「力」は「狂気」と言い換えた方が現実的である。すなわち、
「狂気なき正義は無能であり、正義なき狂気は圧制である」
とした方が、真理が明瞭になる。
力とは狂気である。
スティーヴンソンの傑作『ジキル博士とハイド氏』は、世間で言われるような二重人格の悲劇ではない。
ハイド氏が正義なき狂気、ジキル博士は狂気なき正義だ。両方、良くない・・・そんな理解がないと、何のためにスティーヴンソンがこれを書いたのか分からない。

そして、正義とは、自分を捨てること、命を捨てることであることを、口だけ達者な文化人には分からない。

芸術は爆発?
岡本太郎の、なんというセンスのなさ。
芸術とは狂気だ。
命を捨てて狂うことが芸術だ。
岡本太郎を立てるなら、命を捨てて狂うことが爆発だが・・・やっぱり、ものごとはちゃんと分かるように言わないといけない。
まあ、コロンブスの卵と同じで、後から言うのは易しいが(笑)。

『臨済録』の、「仏に逢うては仏を斬る」がぶっ飛んでいて、とても良い。こんな感じだ。
禅も、その根本の仏教も、本当は、よく狂っていて、ぶっ飛んでいるのである。
でなければ、人を殺させないし、ましてや、生かすことは出来ない・・・一休の真似だが(笑)。
狂いの師匠に弟子入りしようなんてやつは駄目だ。
自分が狂いの開祖たらねばならない。








奇跡のコースター

懐かしいものが出てきた。
アニメDVD『涼宮ハルヒの憂鬱4 笹の葉ラプソディ』の付録の1つであるコースター(コップ受け)だ(もう1つの付録は、中学1年生のハルヒのイラスト)。

haruhi coaster.png2

これには、面白い思い出がある。
それは、旧ブログに書いたが、上のDVDを購入したのと同じ時期に、英国の作家コリン・ウィルソンが、ルドルフ・シュタイナーについて書いた『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』を購入したことで起こる。

haruhisteiner_2

購入日は、
『涼宮ハルヒの憂鬱4 笹の葉ラプソディ』2010年3月24日
『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』2010年4月15日
で、こういったことが、Amazonの「購入履歴」で簡単に調べられるのだから便利だ。

その、『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』の表紙の赤い正方形部分と、そのコースターがぴったり一致するのである。

stach_1

stach_2

まあ、なかなかないことだ。

その時、私は「面白い」とは思ったが、それほど驚かなかった。
このようなこと(偶然の一致としては極めて珍しいこと)は、私には、子供の時からよくあることだった。
そんな話は、時々、このブログで紹介しているが、例えば、私が小学4年生の時、天文の知識は全く無かったが、いつも、満天の星の中から、土星を一発で特定したことや、中学1年生の時、以前見たテレビドラマを録画したくて、テレビを付けて録画装置のリモコンを持ち、放送されることを期待したら、しばらくしたら、まさに、その放送が始まり、希望通り録画することが出来た。
奇跡と言えば奇跡である。

また、こんなことを思い出した。
ローラ・インガルス・ワイルダーの自伝の1冊目である『大きな森の小さな家』で、ローラがまだ小さい子供だった時、彼女の父親のチャールズが、彼女に、こんなお話をしてくれる場面がある。
「昔、ある男が、大きな猫と小さな猫を飼っていた。男は、壁に、猫たちの出入り口として、大きな猫のために大きな穴を、小さな猫のために小さな穴を空けた・・・」
その時、ローラが、
「え?でも・・・」
と口を挟むと、ローラは、母親か姉に、「人の話を途中で遮るのは良くない」と注意された。
実は、私は、この話のおかしさを、少し考えなければ分からなかったので、小さいローラより頭が悪いのかもしれなかった(笑)。
しかし、そんな間抜けなこと(2匹の猫のために2つの穴を空ける)を素でやる、その男の馬鹿さよりはマシだと思って、気を取り直した。
まあ、そんな馬鹿が実在するとも思えなかったが。
その後、しばらくして、数学者の矢野健太郎の『すばらしい数学者たち(新潮文庫)』を読んだ。
その中に、人類で最も有名な数学者・物理学者と言えるかもしれない、アイザック・ニュートンの章があった。
雰囲気的に、こんなことが、ニュートンについて書かれていたと思う。
「ニュートンは、時々おかしなことをする人だった。猫を2匹飼っていたが、大きな猫の出入り口用に大きな穴を、小さな猫の出入り口用に小さな穴を空けた」
つまり、「そんな馬鹿、本当にいるわけがない」と思った馬鹿は、
「世界は暗かった。そこで神は言った。『ニュートンをこれへ』。すると世界は明るくなった」
とまで言われた、人類最高の天才アイザック・ニュートンであった。
天才とは、少々変わっているものかもしれない。

私は、自分にはありふれていた奇跡を再現する原理と起こし方を探求し、少しは分かったので、なんとか伝えようとしているのである。








本当の信頼

人間の幸福度は、何をどれだけ信頼しているかにかかっているのかもしれない。
究極的には、自分や神を信頼しているかだが、こんな疑問が浮かぶ。
それは、「信頼とは何か?そもそも、信頼というものが本当に存在するのか?」である。
政府や大企業は、すぐに信頼という言葉を使い、いかにも自分達が信頼ある存在であるかのように言うが、それらのものに裏切られ続けた人々がそれらのものを信頼しているかは疑問だ。
親はともかく、教師への信頼も低いのではないかと思う。

たとえ架空の世界の話でも信頼を描くのは難しいが、それが出来れば、その作品はヒットする。
例えば、『涼宮ハルヒの憂鬱』から始まる『涼宮ハルヒ』シリーズは、それに成功していると思う。
涼宮ハルヒという高校1年生の少女は、相当な美少女で性格は風変わりとはいえ、その他はいたって普通に見える。
だが、本人は気付いていないが、気分次第で世界を消滅させることが出来るだけの力を持っている。
それで、ハルヒやキョン(主人公の1人。ハルヒのクラスメイトの男子)達SOS団(ハルヒが作った同好会)が選手として参加している野球チームが負けそうになるだけで、世界はマジな危機になり、キョンや長門有希や古泉一樹らが宇宙的反則技を使って試合に勝ち、世界を救うという、とんでもないことをやるハメになる。
だが、その後、SOS団が、今度は、コンピューター研究会(ハルヒの高校の部活)とパソコンゲームの勝負をすることになり、敗北の可能性が高かったが、キョンはそれほどあせっていなかった。
ここで、古泉一樹(見かけは普通のイケメン男子高校生。実はハルヒを監視する「機関」のメンバー)は、キョンに、ハルヒとキョンの間にある信頼関係を指摘する(キョンは反発したが)。
その「信頼関係」が見事で、私は感動する。
まず、キョンのハルヒに対する信頼だが、「ハルヒも精神的に成長しており、もうゲームに負けるくらいのことで、世界を危機に陥れることはない」で、キョンは、その信頼を持っているからこそ、その状況で落ち着いているのだ。
一方、ハルヒのキョンに対する信頼は、「キョンなら何とかしてくれる(今回のゲームでも負けない)」で、その信頼もまた、揺るぎなく強いものだ。
何だか、初めて、信頼というものを見た気がする。

ところが、私は最近、もっとくだけた漫画・アニメで、素晴らしい信頼を見た。
『からかい上手の高木さん』という、非常に人気がある作品だ。
中学1年生の高木さん(女子)と西片(男子)というクラスメイトのドタバタ劇だ。
ことあるごろに高木さんは西片をからかい、西片があせったり、恥ずかしがったりする様を見て高木さんが楽しむという構図で、西片はなんとかやり返そうとするが、全く高木さんに歯が立たない。
中学1年生では、女の子の方がずっと大人だが、確かに子供っぽい西片に対し、高木さんは本来は大人っぽく落ち着きがある。
その上、高木さんは、かなり頭が良い少女ということもあり、いともたやすく西片を手玉に取りスキがない。
さらに、高木さんは、明らかに、自分が美少女だというアドバンテージ(優位性)も利用するのだから、どう考えても西片に勝ち目はない。
それで、いつも一方的に西片が高木さんにからかわれ、悔しい思いをし、高木さんが喜ぶのだが、2人の間に大きな信頼があることに気付く。
まず、西片の高木さんへの信頼であるが、「いくらからかっていても、高木さんに悪意はなく、限度も超えない(加減してくれている)」である。
そして、高木さんの西片への信頼は、「いくら私にからかわれて悔しい想いをしても、西片は許してくれる」である。
もちろん、2人は、そんなことを理屈で考えているわけではないが、この信頼関係は揺るぎなく、しっかりと成り立っている。

上でも述べたが、この信頼関係があるからこそ、作品が大ヒットするのであり、単に面白い作品が成功するのではない。
この2作品で信頼を学べば、友人、恋人、夫婦、仲間と良い関係を築き、さらに、自分や神を信頼するコツが分かると思う。








あなたはループする世界の中に居る

こう言うと、ほとんどの人に断固否定されるかもしれないが、神に願えば、何でも即座に叶えられる。
神に願えば叶うということを信じないという人には2通りある。
1つは、神に願ったことがない人だ。
そして、もう1つある。
それは、願いは叶ったが、キャンセルされたのだ。
この2つ目の「願いがキャンセルされる」ことについて述べる。

昔話で、神様が、3つの願いを叶えてくれるというものは、どこの国にもある。
だいたい、同じパターンで、具体例で言えば、こんなものだ。
お爺さんとお婆さんがいて、神様が、願い事を3つだけ、何でも叶えてあげるという。
そこで、お爺さんは「大きなソーセージ」と願うと、大きなソーセージが現れる。
すると、お婆さんは、「3つしか願えないのに、下らないものを願って」と怒り、ソーセージがお爺さんのほっぺたにくっつくよう願うと、その通りに、お爺さんのほっぺたにソーセージがくっついてしまう。
そして、ソーセージはどうやっても取れず、やむなく、3つ目の願いは「ソーセージを取って下さい」になる。
すると、ソーセージは消え去る。
こんなふうにして、大切な3つの願いを使い切ってしまう。
これは、愚かであってはならないという教訓だ。

しかし、これではまだ、実感に乏しいのだ。
そこで、世界最高のSF作家、H.G.ウェルズは『奇跡を起こせる男』という短編で、もっとしっかりとしたことを書いた。
内容は言わないが、上の、お爺さんとお婆さんのお話で言えば、ソーセージに関する一連の出来事が終わったあと、お爺さんとお婆さんは全て忘れてしまうというものだ。

あなたも同じなのだ。
願いは叶ったが、それはキャンセルされ、神の配慮で全て忘れさせられたのだ。
例えば、男であれば、愛しい女性と結ばれるよう祈り、めでたく、結ばれる。
しかし、その後、どうしようもなく不幸なことになり、男は、こんな女と結ばれなければ良かったと思う。
すると、神は「キャンセル可能だ」と言うので、男は願いをキャンセルし、世界は、男がその女性と結ばれるよう神に願う前まで戻り、男も全て忘れる。
ただ、当然ながら、その先がある。
全てを忘れた男は、再び、その女と結ばれることを願うのだ。

さて、では、どうすれば良いか?
良いヒントが、アニメ『涼宮ハルヒ』の伝説の全8話のシリーズ『エンドレスエイト』の中にある(原作小説では『涼宮ハルヒの暴走』に収録)。
キョンやハルヒ達は、同じ年の夏休みを15,532回(638年と110日)繰り返すが、リセットされるごとに記憶が消える。
ところが、記憶は消えるが、微かな印象は残るようで、デジャヴ(既視感)を感じ、不可思議な疲れもある。
結局、キョンが答を見つけない限り、いつまでも繰り返される。
この『エンドレスエイト』は視聴者に大不評で、これのおかげで、それまで好調だったDVDの売上げは激減したと言われる。
だが、この『エンドレスエイト』は、重要なことを教えてくれるのである。
それは、あなたもまた、答を見つけないといけないということだ。

「私は〇〇だ」と心で唱えれば、必ず〇〇になる。
しかし、ある時、なぜか、「私は〇〇だ」と唱えるのが、何か嫌になる。
それは、実は、あなたは本当に〇〇になったのだが、それで散々な目に遭い、結局、叶う前に戻り、全てを忘れたが、やはり、僅かな印象は覚えており、もう願う気にならなくなったのだ。
では、どうすれば良いか?
簡単だ。
自分が〇〇になっても大丈夫なように準備すれば良い。
そうすれば、再び「私は〇〇だ」と唱えたくなるかもしれないし、もっとレベルが上がった〇〇を思いつくはずだ。
いずれにしろ、「私は〇〇だ」は叶うのである。
良い例が、『シンデレラ』だ(『サンドリヨン』『灰かぶり姫』のタイトルになっている場合もある)。
本当は、シンデレラだって、同じことを数え切れないほど繰り返したのだ。
しかし、シンデレラが優しい心を持ち、姉達を許して良くしてあげた時に、物語は、あのよく知られるハッピーエンドになったのだ。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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