「正義は必ず勝つ」とか「悪が栄えた試しはない」と言うが、本当だろうか?
それは本当であり、ただ、正義が勝ち、悪が滅びるのに多少の時間がかかるだけだ。
だが、要するのは「多少の時間」に過ぎない。
だから、真理を言うなら、平家物語の冒頭にある通り、
「奢れる者は久しからず。ただ春の夜の夢のごとし」
である。

少しの間なら、悪いことをしても愉快に過ごせることはある。
だが、人間というのは、「本当の喜び」を欲しがるものだ。
それは悪人も同じである。
悪人であっても、自分の子供が可愛いと思うところを見ても、そんなことが分かる。
あるいは、悪人であっても、親友や恋人や妻や夫を愛するところは同じなのである。
だが、悪人は、それらを奪い去られる。
その惨めさは地獄のようである。

あるいは、悪人であろうと、健康を望まないはずがない。
大抵の悪人は、それを容赦なく奪われるし、仮にそうでないとしたら、数倍化した精神的苦痛が与えられる。
そして、やがては健康も完全に奪われる。
つくづく、悪にメリットはない。
少し長い目で見ればね。

テレビや新聞しか見ない、あるいは、ネットでも大手のポータルサイトしか見ない人は知らないと思うが、アメリカ大統領選挙は、今も続いているし、それどころか、ますます戦いは激しさを増している。
どちらが善で、どちらが悪とは言わないが、善と悪との戦いであることは間違いない。
バイデン側から見れば、トランプ側が悪であり、トランプ側から見れば、バイデン側が悪である。
主要メディア(CNNやニューヨークタイムズ等)はバイデン側であり、一部のオンラインメディア(エポックタイムズ等)がトランプ側であると言えるかもしれない。

バイデン側から言えば、選挙で負けたのに、敗北を認めず、アメリカを混乱されるトランプ側は悪である。
トランプ側から言えば、選挙で不正を働き、民主主義を奪うバイデン側や主要メディアは悪である。

だが、上に述べた通り、悪にメリットはないのだ。
少しの間は、悪いことをしても、贅沢で快楽に満ちた愉快な時間を送ることが出来る。
だが、末路の哀れさを考えれば、私なら、それほどの悪に手を染める気はない。

キリスト教、ユダヤ教、それに、イスラム教では、神や神の代弁者の教えに背くことが悪であり、神は必ず悪を罰する。
それは、善人も悪人も知っているはずなのだ。
そのせいか、神を畏れない振る舞いを続けていると、これらの宗教を信仰する悪人は、人相が悪くなる。魂の苦しさが顔に出てしまうのだ。

仏教の中でも、浄土仏教では、仏は悪人も救う。
ところが、キリスト教でも、深くイエスの教えを理解する者は、同じ結論に達するらしい。
神といい、仏といっても、本質は愛なのだから、どんな人間も憎まない。
だが、魂自体が神であり仏なのであるから、神仏の性質とあまりに違うことを続ければ、自分で悲惨を作ってしまうことは、逆に、神が人を罰する、一般的なキリスト教やユダヤ教の教えと一致してくるのである。
だが、浄土仏教を知る者には、念仏という手段があり、素早く悪の報いを免れることが出来る。
だから、海外でも、やむなく悪に加担し、魂を傷付けている者には、念仏の教えである『歎異抄』を愛読する者は多いのである。

いずれにしろ、イエスが言ったように、「隠されたものは、必ず明るみに出る」。
念仏を知らない悪人は、神の罰を免れることはなく、必ず悲惨に遭う。
「悔い改めよ」とか「神を畏れよ」という言葉は、快楽に目が眩んだ愚か者に対して効果がないことは、だいたい分かっている。
「念仏を唱えよ」が、最後の救いである。
ただし、「神よ、哀れみたまえ」も同じである。
悪人であることを止められないなら、「南無阿弥陀仏」あるいは「神よ哀れみたまえ」「主イエスよ、哀れみたまえ」と常に唱えるが良い。
それで、早くに悪を捨てる気になれば、痛みは少なくて済むかもしれない。