ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

法華経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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イエスと釈迦の引き寄せの教えはそっくり(超重要)

人間は、引き寄せの能力を、誰でも標準的に持っている。
標準的なのだから、そのやり方は簡単で、特別な人しか知らなかったり、学問を積まないと分からないようなものではない。
だが、当たり前のこととして学ぶ必要がある。
たとえば、歩くこと、走ること、泳ぐことのようなものだ。
人間は、見て学ばない限り、2足歩行、ランニング、スイミングは出来ない。
狼に育てられた人間の子供には2足歩行が出来ない。
江戸時代までの日本人は、飛脚と忍者以外は走ることが出来なかった。
人間は、泳ぎは、誰かから学ばない限り出来ない。

引き寄せのやり方を、現代のほとんどの人が知らないのは、学校や社会やテレビによって、忘れさせられたからだ。
別に、学校は子供達に、特に引き寄せのやり方を忘れさせるのではないが、子供達の自然な思考能力を奪うのである。
斎藤一人さんがよく、引き寄せのやり方について「俺と他の人との違いは、俺はなぜか知っていたということだ」と言うが、斎藤さんが知ってるなら、誰でも知ってるはずなのだ。
けれども、確かに、斎藤さんだけがよく知っているように見える。
それはなぜか?
簡単なことだ。
斎藤さんは中学校しか出ていない上、元々、学校が嫌いで、小中学校だって、真面目に通わなかったり、先生の言うことなど信じなかったからだ。
だから、斎藤さんは、引き寄せのやり方を忘れなかったのである。

私の場合、変わった覚え方をしていたのだ。
だから、私は、子供の時から、満天の星空の中から、何の手がかりもなく土星を特定したり、以前見たテレビ番組を、好きな時に再放送させたりといった、確かに凄いが、あまり役に立たないことが出来たのだ。
もちろん、私も学校が大嫌いで、大嫌いになる理由があった(その理由は関係ないので言わないが)。

引き寄せのやり方は、イエスと釈迦で特に違いはない。
イエスは、「お前には、神という大金持ちの父親のようなものがいて、お前を超絶愛しているので、頼めば良い」と言う。
釈迦も、「お前には、仏という途方もない金持ちの父親がいる。そして、お前は、仏が超愛している仏の後継者なのだ」と言う。
これらは
◆『新約聖書』の「ルカ福音書」の「放蕩息子の譬」
◆『法華経』第4章「信解品(しんげぼん)」の「長者窮子の喩え」
である。

そして、面白いことに、上記の福音書と法華経の該当部分を読めば分かると思うが、これらの話を端的に統合した訓練が、これまで何度も取り上げた「神実現の呼吸法」である。
(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。

以下に、私が愛読する聖書と法華経をご紹介する。








皆、間違いなく頭は良い

生まれつき、特別に頭が良いという人もいるのかもしれないが、人間は、磨きさえすれば、十分に頭は良くなると思う。
なぜなら、誰もが、恐るべき性能を持った脳を持っているのだからだ。
脳について少し調べれば、脳がいかに凄いものであるか、十分に分かると思う。
とにかく、我々全員が持っている脳が、とんでもなく高性能なものであることだけは間違いのないことだ。
頭が良いとか天才とか言ったところで、それは単に、正しく方向付けされているだけのことだ。

南部陽一郎という物理学者が、あまり名を知られていないのは、天才過ぎたからかもしれない。
南部博士は、2008年にノーベル物理学賞を受賞した他、多くの権威ある賞を得ているが、それでも、彼が本当に評価されるのは未来だと思われる(南部博士は2015年に94歳で死去)。
その南部博士も、高校時代は物理学が苦手で単位を落としているし、東大時代に、湯川秀樹と朝永振一郎に素粒子を勉強したいと言ったら、「天才でないと無理」と言われたらしい。
誰もが南部博士になれるわけではないが、普通に言う頭の良い人という程度なら、脳をほんのわずか磨けば誰でもなれる。
だが、多くの人は、親や学校の教師に、頭を使えなくなるようにしつけられてしまったのだと思う。

そして、世の中には、次のような人間が多くいる。
ちゃんと頭は付いているし、十分に善良なのだが、考え方がおかしくて、さっぱりうだつが上がらないという人間である。
ひょっとしたら、ほとんどの人がそうなのかもしれない。つまり、私やあなたもそうなのではないかと思う。
自分のことはよく分らないものだが、他人を見ていると、本当につくづくそう思う。
なぜ、肝心なところで、そんな変な判断をするのか、馬鹿な方向に行ってしまうのかと思う人が、やたら多い(ほぼ全員かもしれない)のである。
彼らは、時に優れたこともするのに、怠惰になってしまうことが多く、長い時間、つまらないことばかりやっている。
そして、ロクでもない目標を持ってしまい、エネルギーを無駄遣いするし、望ましい鍛えられ方をしない。
そんな人間だらけだし、私も、他人から見ればそうなのだろう。
なぜ、そうなってしまったのかというと、直接的には、やはり、家庭や学校の教育や、そして、テレビの影響が大きい。
だが、その裏側で、そうなるよう意図的に画策した者達がいるのかもしれない。これは陰謀論のような説ではなく、そう考える方が納得し易いからであるが、まあ、それはどうでも良い。そんなものに構っても仕方がなく、何より、自分の脳や考え方を、少しはマシに導かないといけない。

そして、人々や、何より、自分を良い方向に導いてくれそうに思えるスターやインフルエンサーなどが、今やYouTubeに沢山いるが、彼らのほとんどは偽物であり、言っていることも嘘である。
もし、本物がいるとしたら、おかしくなってしまった我々から見れば、決して、コカ・コーラのような爽やかさを感じないはずだ。
逆に言えば、「これは本物だ!」と心が(コカ・コーラのような)爽快感を感じるような人物は、まず偽物なのだ。
つまり、人に頼っちゃいけないということだ。
カリスマの言うことを聞いていれば幸せになれるなんて妄想を持ってはいけない・・・と、つくづく思う(笑)。

1つには、中山正和を読むと良いと思う。
また、彼は、『正法眼蔵』で賢くなり、『法華経』で磨いたということも参考にすれば良いだろう。












信じられなくても願ってみる

思考する心より深い心は途方もなく巨大で、その中に、世界をどのようにでも作り変えることが出来る万能の力が秘められている。
その深い心を潜在意識と呼ぶ。
潜在意識は、思考する心が信じている通りに世界を作る。
自分が無力だと思っていれば、潜在意識の力によって無力になるが、多くの人は、幼い時に、親から、自分は無力だと教えられている。親だけでなく、学校やテレビや新聞は、直接的にではないかもしれないが、人々が、自分を無力だと思うような情報を流している。
あなたが無力だとあなたに教えた親だって、その親や学校やテレビや新聞等に、やはり自分は無力だと教えられたのである。
しかし、実際は、潜在意識の中には、万能の力が秘められており、思考する心が信じている通りに世界を作るのであるから、実際のあなたは無限とも言える力を持っている。
そして、どうやって、潜在意識の力を使うも何も、あなたは今すでに、その力を使っており、あなたが思う通りに世界は出来ている。

問題は、あなたが、自分の潜在意識の中に神のごとき力があることを知らないことだ。
だが、潜在意識の力について分かり易く書かれた本が沢山あるので、それを読めば、潜在意識の力について知ることが出来るだろう。
とはいえ、そんな本を読みながら、潜在意識の力があることを無理に信じようとしてはならない。
無理に信じようとしてはならないが、一方、頭から否定すべきではない。
だが、多くの人は、疑ったり、否定したりする。なぜなら、それが、親や学校やテレビの教育なのだからだ。
しかし、ただ淡々と読めば、それは真実であるのだから、自然に信じるようになる。
そして、うまくいく秘訣は、たとえ信じられなくても「そうであればいいなあ」と思うこと、つまり、自分の中に万能の力があることを願うことだ。
誰だって、そう願うはずである。
願うことすら出来ない人というのは、偽の力を信じてしまっている人なのである。
偽の力とは、世間の力のことで、例えば、権力とか、学歴とか、地位とか、お金などである。
それらは、刹那ではあるが、力や幸福を感じさせてくれる。しかし、偽の力は、所詮、悪魔の力、幻想の力で、いつかこっぴどく対価を支払わされる。
そんなものより、真実の力、潜在意識の力を願い、期待することだ。
そうすれば、やがて、信じられるようになり、信じれば、正しく考えるようになる。
正しく考えれば、望まなくとも幸運に恵まれる。

『法華経』の第25章の『観音経』に、万能の力を持つ観世音菩薩が登場する。
観世音菩薩は、本当は、外部にいる存在ではなく、我々の内部にいる力だ。
つまり、潜在意識の無限の力を観世音菩薩と呼んでいるのである。
そうであれば、観世音菩薩は確実に存在し、いかなる願いも叶う。
それを、誰にでも(子供にでも)分かるように書いたものが観音経である。








常識を消せば超能力は発現する

神仏に、願いが叶うことをお祈りをした時、どんな人の願いが叶うのだろうか?
それは、祈る人が、祈りを捧げる神仏について、
「どれだけ大きな力を持っているか?」
「どれだけ自分を愛してくれているか?」
と考えているかで決まる。
「愛してくれているか」について言えば、こんな問題がある。
特に、イスラム教徒がそうで、キリスト教徒やユダヤ教徒もだが、彼らは、神様に対して「天上にいる気難しくて怖い老人」というイメージを持っている。
彼ら(イスラム教徒など)にとって神様は、自分が悪いことをしたり、神が決めた掟を守らなかったり、神への供え物を怠ったら罰を与える恐ろしい存在だ。
しかし、どうしたって、人間は悪いことをするのだし、なかなか掟を守れないし、供え物をするのも面倒臭い。
それで、人間は、罪の意識を持ったり、自分は神に愛される資格がないなどと思ってしまうのである。
そういったところを権力者が利用して人民を支配することについてはよく分かっているが、そのことは今回は触れない。
本題はあくまで、どうすれば願いが叶うかだ。
上に述べたような気難しい神を信仰している者の願いは、あまり叶わない。
どうしても、そんな恐い神様が自分の願いを叶えてくれるとは思えないからだ。

ところが、仏教の仏は、本来、決して人間を罰しない。
特に、阿弥陀如来はそうで、どんな悪人でも慈悲をかけ、全面的な愛を注ぐのである。
だが、やはり多くの人々は、仏だって、悪い人は罰すると思い込んでびくびくしているのである。これは、親が子を、権力者が人民を支配するために、そう思い込ませたからだ。
だが親鸞は、「阿弥陀仏は、掟を守れず、善いことが出来ず、悪いことをしてしまう我々凡人を哀れんで救ってくれるのだから、我々駄目人間でも全然OKなんだ」と言ったのである。
それは非常に正しい。
なぜなら、理解は難しいのだが、実のところ、自分の心が仏で、それゆえ心は無限の力を持っているのだからだ。
自分の心が仏であるということが分かり難ければ、心の中の深いところに仏がいると思えば良い。
そして、阿弥陀仏に関して言えば、「南無阿弥陀仏」とか「阿弥陀仏」と唱えれば、即ち、念仏を唱えれば、心の中の阿弥陀仏が表に出てくるのである。
つまり、表面の心が悪くても、内なる仏は全く関係なく、無限の愛と力に満ちている。
これは、宗教というよりは、心の科学で、未来の科学であり、宇宙科学である。
現在は、精神科学や量子物理学が、ようやくその入り口に達した程度だが、いずれ明晰に分かるようになるだろう。

そして、どれだけ簡単に速く願いが叶うかは、祈る神仏が、どれほど大きな力を持っていると考えているかで決まる。
多くの人は、案外に神仏の力を見くびっているものだ。
イエスは「神に出来ないことはない」と何度も言い、『観無量寿経』では、阿弥陀仏や観世音菩薩が、想像を絶するという言葉では全然足りないほど凄い存在であることを壮大に語っている。
また、『観音経』(『法華経』25章)では、観世音菩薩の偉大さ、観世音菩薩が持つ力の大きさ凄さを、釈迦が大いに語ってくれている。
仏教の経典は、宇宙人が書いたと思われるほど(もちろん、人間のために、比喩的・象徴的に書かれているが)、思考の限界を叩き壊し、イメージが無限に広がるよう工夫されている。
それは、数ある経典の中でも、特に『法華経』や『浄土三部経』について言えるが、超能力というのは、世間的常識を壊せば(あるいは消せば)出てくるのだから、これらの経典を熱心に読めば超能力だって得られる。
中国の『荘子』は、『法華経』や『浄土三部経』ほどの破壊力(常識の破壊力)はないが、その分、分かり易い。とはいえ、『荘子』でも、なかなかついていける人は少ないのだが。

確かに、こういう俗っぽい言い方はどうかとも思うが、超能力を得たければ『法華経』(『観音経』だけでも良い)や『浄土三部経』(『観無量寿経』だけでも良い)を読むと良い根拠はこうである。
そして、超能力(極めて広い意味で願望達成能力も含む)を発するコマンドが真言である。
『観無量寿経』や『観音経』で言えば、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」がそうである(「阿弥陀仏」「観世音菩薩」でも良い)。
もちろん、経典を読まなくても、集合無意識の中にパワーが充満しているので、真言を唱えるだけで十分である。
ただ、若干、力の出方が弱いだけである。
そして、昔と違い、経典が簡単に手に入る時代なのだし、我々は支配者に思想統制や情報統制を強力にされているので(早い話が重い洗脳を受けているので)、万全を尽くした方が良いかもしれない。








真言を声でなく心で唱えるべき理由

人間は、真言を数多く唱えれば、頭が良くなり、能力が上がり、幸運になり、世界は好ましいものになり、善い人になれるかどうかはともかく、世界や他人に害を与える可能性が少なくなる。
真言とは、念仏、高貴な呪文、神の名、祝詞、祓詞、想念を起こさせない特別な言葉・・・などである。

ところが、真言を唱えることを勧める者の多くが、「真言(念仏など)は声に出して唱えよ」とか、「声に出した方が良い」と言う。
それは間違いである。
真言は、無声で、心の中で唱えるべきである。
確かに、真言を教える、あるいは、指導する立場の僧侶などの場合は、手本の意味で、声に出して唱える必要がある。
また、僧侶や修行者の修行において、真言を声に出して唱えることが必要だということもあるだろう。
しかし、我々は、山の中や寺で修行するのでもない限り、真言は心の中で唱えなければならない。
これは、どんな偉い僧が反対の見解を述べていても、譲るわけにはいかない。
以下に、その理由を挙げる。

・周囲に迷惑をかける
声に出して真言を唱えると、周囲に居る人達が、強制的にあなたの真言を聞かされることになる。
あなたにとって、いかに高貴な素晴らしい真言であっても、それは、他人にとっては騒音に過ぎないのである。
自分の声が、他人を魅了するカナリアの声か、豚の鳴き声か、冷静に考えるべきである。いや、豚の声はまだ良いものだが、自我の雑味の入った声は、たとえ子供のものであっても耳障りなものである。ましてや、特にオッサンの声であれば。
他人の迷惑も顧みず唱えた真言に効能があるか、疑問にすら感じるほどである。

・疲れる
声に出して、ましてや、大きな声で唱えると疲れるものである。
人によっては、始終、大きな声を出すことに慣れていて、1日中、大声でしゃべり、ことによっては迷惑をかけている者もいる。友達にとっては、そんな者の声は楽しい場合もあるだろうが、赤の他人にとっては、やっぱり騒音なのである。
それはともかく、やはり、喋ることはエネルギーを使うので疲れる。
すると、真言を長時間唱えることが出来ず、また、真言を唱えることをしなくなる可能性が高くなる。
普段あまり喋らない人や、身体の弱い人の場合は、特にその危険が大きい。
真言は、可能な限り、いつでも、どこでも唱えることが好ましく、数が多ければ多いほど効果がある。
「声に出せ」と言われて、唱える前からおっくうに感じ、それで、やらなくなってしまった人も少なくないと思う。
私だって、「声に出して唱えよ」と言われたら、きっと、やらなかったと思う。

・神聖な存在は内にある
よく、観世音菩薩は、その名の通り「音を観る菩薩」であるので、声に出して真言を唱えた方が聴いてもらい易い、あるいは、聞いてもらえない・・・などは、もう言語道断である。
観世音菩薩ほどの方が、人の心を観ることが出来ないと言うのだろうか?
人の心が分からない仏に、どんな力があると言うのだろう?
イエスは「神は隠れたものを見たもう」と言ったではないか?部屋の中で、誰にも知られず、静かに祈ることを神は喜ばれるのである。
そもそも、神や仏は、我々の内にも外にも居る存在で、本当は内側にこそ居るというべきなのである。
一休さんは、心そのものが仏であると言い、『浄土三部経』の『大無量寿経』にも、「心が仏である」と書いてある。
そして、本来の心が、宇宙全体に広がっているのである。
それなら、心で真言を唱えれば、それが、心の中の神仏に届かないはずがないではないか?
心で真言を唱えることで、内なる神や仏と共鳴し、必要ならば不思議も起こるのである。

他にもいくらでも挙げられるが、このくらいにしておく。
折口信夫の『死者の書』のヒロインのモデルである中将姫のように、お経(彼女の場合は阿弥陀経)を唱える声が神聖で気高く美しく、聞く人々の心を清め癒すという人も確かに存在するのかもしれない。
しかし、自分がそれであると己惚れたら、愚か者の馬鹿である。
中将姫のような人は、神仏が、声に出してお経などを唱えるよう願っており、それが中将姫に届いているのだろう。
そして、本来は、僧侶であれば、声に出してお経を唱えれば、それが、聞く人の心を清め、安らがせるものでないといけないだろう。
しかし、近年の葬式のために唱えるお経や念仏の中には、言っては悪いが、聞いていて不快なものもあるように思う。
そもそもが、念仏は葬式のためのものではない。
私は、ある、浄土真宗のお葬式の中で、お坊様が「私に続けて念仏を唱えて下さい」と言われるので、参列者と共にそれに従った。
葬式で声を揃えて念仏を唱えるというのは、個人的には気持ち良くないが、そうは思わないことにした。
しかし、お坊様の暗い声の「南無阿弥陀仏」の後、それと似た調子で念仏を唱えるのは苦痛であった。
そして、それを、延々と長時間やらされ、すっかり、念仏に対するイメージが悪くなった。
お葬式は、もっと心安らかに行われるよう工夫しなければならない。

本来は、「南無阿弥陀仏」の念仏は、良いものであり、絶対に霊験あらたかでもある。
真言宗のある偉いお坊様すら、それを言っていたこともある。
私は、上の件で、念仏のイメージが悪くなったが、幸い、昔から、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱える習慣があったので、こちらを使えば問題ない。
また、『法華経』の25章『観音経』にある通り、観世音菩薩の名を唱えることは良いことで、翻訳書の多くに書かれている通り「南無観世音菩薩」と唱えても良いし、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱えても良い。
あまり、こういうことにこだわるのは良くないのだが、私は、斎藤敏一氏の本のおかげで「アジマリカン」のイメージが悪くなってしまい、大野靖志のある本のおかげで「トホカミエミタメ」のイメージが悪くなってしまった。しかし、これらの真言は本当は良いものであるので残念である。
しかし、真言は沢山あり、どれの効果も等しい。
「われの勧める真言がダントツ一番じゃ」などと言う者は、別に疑う必要はないが、信用も出来ないと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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