ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

法華経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

常識を消せば超能力は発現する

神仏に、願いが叶うことをお祈りをした時、どんな人の願いが叶うのだろうか?
それは、祈る人が、祈りを捧げる神仏について、
「どれだけ大きな力を持っているか?」
「どれだけ自分を愛してくれているか?」
と考えているかで決まる。
「愛してくれているか」について言えば、こんな問題がある。
特に、イスラム教徒がそうで、キリスト教徒やユダヤ教徒もだが、彼らは、神様に対して「天上にいる気難しくて怖い老人」というイメージを持っている。
彼ら(イスラム教徒など)にとって神様は、自分が悪いことをしたり、神が決めた掟を守らなかったり、神への供え物を怠ったら罰を与える恐ろしい存在だ。
しかし、どうしたって、人間は悪いことをするのだし、なかなか掟を守れないし、供え物をするのも面倒臭い。
それで、人間は、罪の意識を持ったり、自分は神に愛される資格がないなどと思ってしまうのである。
そういったところを権力者が利用して人民を支配することについてはよく分かっているが、そのことは今回は触れない。
本題はあくまで、どうすれば願いが叶うかだ。
上に述べたような気難しい神を信仰している者の願いは、あまり叶わない。
どうしても、そんな恐い神様が自分の願いを叶えてくれるとは思えないからだ。

ところが、仏教の仏は、本来、決して人間を罰しない。
特に、阿弥陀如来はそうで、どんな悪人でも慈悲をかけ、全面的な愛を注ぐのである。
だが、やはり多くの人々は、仏だって、悪い人は罰すると思い込んでびくびくしているのである。これは、親が子を、権力者が人民を支配するために、そう思い込ませたからだ。
だが親鸞は、「阿弥陀仏は、掟を守れず、善いことが出来ず、悪いことをしてしまう我々凡人を哀れんで救ってくれるのだから、我々駄目人間でも全然OKなんだ」と言ったのである。
それは非常に正しい。
なぜなら、理解は難しいのだが、実のところ、自分の心が仏で、それゆえ心は無限の力を持っているのだからだ。
自分の心が仏であるということが分かり難ければ、心の中の深いところに仏がいると思えば良い。
そして、阿弥陀仏に関して言えば、「南無阿弥陀仏」とか「阿弥陀仏」と唱えれば、即ち、念仏を唱えれば、心の中の阿弥陀仏が表に出てくるのである。
つまり、表面の心が悪くても、内なる仏は全く関係なく、無限の愛と力に満ちている。
これは、宗教というよりは、心の科学で、未来の科学であり、宇宙科学である。
現在は、精神科学や量子物理学が、ようやくその入り口に達した程度だが、いずれ明晰に分かるようになるだろう。

そして、どれだけ簡単に速く願いが叶うかは、祈る神仏が、どれほど大きな力を持っていると考えているかで決まる。
多くの人は、案外に神仏の力を見くびっているものだ。
イエスは「神に出来ないことはない」と何度も言い、『観無量寿経』では、阿弥陀仏や観世音菩薩が、想像を絶するという言葉では全然足りないほど凄い存在であることを壮大に語っている。
また、『観音経』(『法華経』25章)では、観世音菩薩の偉大さ、観世音菩薩が持つ力の大きさ凄さを、釈迦が大いに語ってくれている。
仏教の経典は、宇宙人が書いたと思われるほど(もちろん、人間のために、比喩的・象徴的に書かれているが)、思考の限界を叩き壊し、イメージが無限に広がるよう工夫されている。
それは、数ある経典の中でも、特に『法華経』や『浄土三部経』について言えるが、超能力というのは、世間的常識を壊せば(あるいは消せば)出てくるのだから、これらの経典を熱心に読めば超能力だって得られる。
中国の『荘子』は、『法華経』や『浄土三部経』ほどの破壊力(常識の破壊力)はないが、その分、分かり易い。とはいえ、『荘子』でも、なかなかついていける人は少ないのだが。

確かに、こういう俗っぽい言い方はどうかとも思うが、超能力を得たければ『法華経』(『観音経』だけでも良い)や『浄土三部経』(『観無量寿経』だけでも良い)を読むと良い根拠はこうである。
そして、超能力(極めて広い意味で願望達成能力も含む)を発するコマンドが真言である。
『観無量寿経』や『観音経』で言えば、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」がそうである(「阿弥陀仏」「観世音菩薩」でも良い)。
もちろん、経典を読まなくても、集合無意識の中にパワーが充満しているので、真言を唱えるだけで十分である。
ただ、若干、力の出方が弱いだけである。
そして、昔と違い、経典が簡単に手に入る時代なのだし、我々は支配者に思想統制や情報統制を強力にされているので(早い話が重い洗脳を受けているので)、万全を尽くした方が良いかもしれない。








真言を声でなく心で唱えるべき理由

人間は、真言を数多く唱えれば、頭が良くなり、能力が上がり、幸運になり、世界は好ましいものになり、善い人になれるかどうかはともかく、世界や他人に害を与える可能性が少なくなる。
真言とは、念仏、高貴な呪文、神の名、祝詞、祓詞、想念を起こさせない特別な言葉・・・などである。

ところが、真言を唱えることを勧める者の多くが、「真言(念仏など)は声に出して唱えよ」とか、「声に出した方が良い」と言う。
それは間違いである。
真言は、無声で、心の中で唱えるべきである。
確かに、真言を教える、あるいは、指導する立場の僧侶などの場合は、手本の意味で、声に出して唱える必要がある。
また、僧侶や修行者の修行において、真言を声に出して唱えることが必要だということもあるだろう。
しかし、我々は、山の中や寺で修行するのでもない限り、真言は心の中で唱えなければならない。
これは、どんな偉い僧が反対の見解を述べていても、譲るわけにはいかない。
以下に、その理由を挙げる。

・周囲に迷惑をかける
声に出して真言を唱えると、周囲に居る人達が、強制的にあなたの真言を聞かされることになる。
あなたにとって、いかに高貴な素晴らしい真言であっても、それは、他人にとっては騒音に過ぎないのである。
自分の声が、他人を魅了するカナリアの声か、豚の鳴き声か、冷静に考えるべきである。いや、豚の声はまだ良いものだが、自我の雑味の入った声は、たとえ子供のものであっても耳障りなものである。ましてや、特にオッサンの声であれば。
他人の迷惑も顧みず唱えた真言に効能があるか、疑問にすら感じるほどである。

・疲れる
声に出して、ましてや、大きな声で唱えると疲れるものである。
人によっては、始終、大きな声を出すことに慣れていて、1日中、大声でしゃべり、ことによっては迷惑をかけている者もいる。友達にとっては、そんな者の声は楽しい場合もあるだろうが、赤の他人にとっては、やっぱり騒音なのである。
それはともかく、やはり、喋ることはエネルギーを使うので疲れる。
すると、真言を長時間唱えることが出来ず、また、真言を唱えることをしなくなる可能性が高くなる。
普段あまり喋らない人や、身体の弱い人の場合は、特にその危険が大きい。
真言は、可能な限り、いつでも、どこでも唱えることが好ましく、数が多ければ多いほど効果がある。
「声に出せ」と言われて、唱える前からおっくうに感じ、それで、やらなくなってしまった人も少なくないと思う。
私だって、「声に出して唱えよ」と言われたら、きっと、やらなかったと思う。

・神聖な存在は内にある
よく、観世音菩薩は、その名の通り「音を観る菩薩」であるので、声に出して真言を唱えた方が聴いてもらい易い、あるいは、聞いてもらえない・・・などは、もう言語道断である。
観世音菩薩ほどの方が、人の心を観ることが出来ないと言うのだろうか?
人の心が分からない仏に、どんな力があると言うのだろう?
イエスは「神は隠れたものを見たもう」と言ったではないか?部屋の中で、誰にも知られず、静かに祈ることを神は喜ばれるのである。
そもそも、神や仏は、我々の内にも外にも居る存在で、本当は内側にこそ居るというべきなのである。
一休さんは、心そのものが仏であると言い、『浄土三部経』の『大無量寿経』にも、「心が仏である」と書いてある。
そして、本来の心が、宇宙全体に広がっているのである。
それなら、心で真言を唱えれば、それが、心の中の神仏に届かないはずがないではないか?
心で真言を唱えることで、内なる神や仏と共鳴し、必要ならば不思議も起こるのである。

他にもいくらでも挙げられるが、このくらいにしておく。
折口信夫の『死者の書』のヒロインのモデルである中将姫のように、お経(彼女の場合は阿弥陀経)を唱える声が神聖で気高く美しく、聞く人々の心を清め癒すという人も確かに存在するのかもしれない。
しかし、自分がそれであると己惚れたら、愚か者の馬鹿である。
中将姫のような人は、神仏が、声に出してお経などを唱えるよう願っており、それが中将姫に届いているのだろう。
そして、本来は、僧侶であれば、声に出してお経を唱えれば、それが、聞く人の心を清め、安らがせるものでないといけないだろう。
しかし、近年の葬式のために唱えるお経や念仏の中には、言っては悪いが、聞いていて不快なものもあるように思う。
そもそもが、念仏は葬式のためのものではない。
私は、ある、浄土真宗のお葬式の中で、お坊様が「私に続けて念仏を唱えて下さい」と言われるので、参列者と共にそれに従った。
葬式で声を揃えて念仏を唱えるというのは、個人的には気持ち良くないが、そうは思わないことにした。
しかし、お坊様の暗い声の「南無阿弥陀仏」の後、それと似た調子で念仏を唱えるのは苦痛であった。
そして、それを、延々と長時間やらされ、すっかり、念仏に対するイメージが悪くなった。
お葬式は、もっと心安らかに行われるよう工夫しなければならない。

本来は、「南無阿弥陀仏」の念仏は、良いものであり、絶対に霊験あらたかでもある。
真言宗のある偉いお坊様すら、それを言っていたこともある。
私は、上の件で、念仏のイメージが悪くなったが、幸い、昔から、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱える習慣があったので、こちらを使えば問題ない。
また、『法華経』の25章『観音経』にある通り、観世音菩薩の名を唱えることは良いことで、翻訳書の多くに書かれている通り「南無観世音菩薩」と唱えても良いし、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱えても良い。
あまり、こういうことにこだわるのは良くないのだが、私は、斎藤敏一氏の本のおかげで「アジマリカン」のイメージが悪くなってしまい、大野靖志のある本のおかげで「トホカミエミタメ」のイメージが悪くなってしまった。しかし、これらの真言は本当は良いものであるので残念である。
しかし、真言は沢山あり、どれの効果も等しい。
「われの勧める真言がダントツ一番じゃ」などと言う者は、別に疑う必要はないが、信用も出来ないと思う。








『歎異抄』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むと良い理由

人間の能力は、固定観念を壊せば壊すほど大きくなる。
ある意味、純真無垢な子供のようであるほど、能力が高いのである。
子供は、知識と経験がなく、いわゆる「やり方」というものを知らないので出来ないことが多いが、ご存じのように、物覚えが速く、場合によっては、あっという間に大人と互角以上になる。
(だが、子供が高い学習能力を発揮するのは、あくまで興味がある場合で、学習を強要すると学習能力自体に障害をきたし、学べない子になる)

固定観念を壊すには、馴染んだものから離れる必要がある。
しかし、普通の大人は、馴染んだことばかり見たがり、聞きたがり、やりたがるので、一般に、歳を取るほど馬鹿になるのである。
だから、新しいことを始めないといけない。
固定観念を壊すために、いわゆる「ビックリ体験」をすることは良いことだが、金持ちの中には、金を出して、受け身のビックリ体験ばかりしたがる者も多いが、そんなものでは、単に面白いだけで、向上することはない。
新しい体験で自分を良い方向に変えるには、「自分が否定される」ことが必要だからだ。
だから、純粋に向上心のある一流・・・例えば、大経営者、トップのスポーツ選手や音楽家や画家などの芸術家は、自分を若い人に否定してもらいたいと本当に思っているが、やがて、口では「私を否定してくれる者を歓迎する」と格好の良いことを言いながら、今の自分を称賛してくれる崇拝者を求める。
つまり、崇められてニコニコするようになったら、もうすっかり下り坂なのである。

本を読む時も、心地良く感じるもの・・・つまり、自分の思想性に合ったものを読んでも仕方がない。
そんな本は、沢山読めば読むほど、自分の固定観念を強化するだけで、本人は、「私は沢山読んでいる。それで賢くなっている」とでも思っているのだろうが、単なる物知りの馬鹿になっているのである。
世間的常識に染まることを、悪い意味で「大人になった」と言う。
『涼宮ハルヒの憂鬱』で、涼宮ハルヒは美少女なので、中学生の時から、沢山の男子が彼女に交際を求めたが、ハルヒは、「ただの人間には興味ないの」と片っ端から振っていく。
つまり、普通の人間は、中学生にもなれば、世間的常識・・・つまり、固定観念が多くなってしまっていて、ハルヒに嫌われるのである。
キョン(高1男子)もハルヒに「普通になること」を求めたが、ハルヒはそのことについてはキョンを受け入れず、ハルヒはキョンの扱いに困って、精神を乱してしまうのである。
私は、そこそこ大きな会社の新しく社長になる人に『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むよう勧めた。面白いことに、その会社の若い女子社員の中にも、彼にこれを勧めた人がいたらしい。しかし、結局、彼は、「俺には無理」と読まないことに決めた。その会社は、彼が社長になってからも、どんどんつまらない会社になり、業績は低下していった。彼は早々に社長をやめたが、そんな者ばかり社長にするその会社は、そろそろ終わりかもしれない。
そんな訳で、『涼宮ハルヒの憂鬱』を是非読みなさい。

固定観念を壊してくれる本には、中国の『荘子』がある。
大人の固定観念に馴染まない本なので、当然、『論語』に比べれば人気がなく、『荘子』を読んでいる大人は少ない。
固定観念の多い大人から見れば、『荘子』は、子供向けのおとぎ話のように感じるのである。
そして、『荘子』は、世間的常識に凝り固まった人間を笑うが、これを読んで一緒に笑えるのは、その世間的常識という固定観念を壊せた者だけである。
一方、最初から固定観念を持たない者にとっては、ちょっと面白いおとぎ話程度に感じるかもしれない。
そんな訳で、面白く感じるまで『荘子』を読みなさい。

おそらく・・・と言うより、確実に私も固定観念を強く持っていたのだが、そんな私に衝撃を与えてくれたのは『歎異抄』だった。
『歎異抄』は、親鸞聖人の弟子だった唯円が、親鸞聖人の教えを思い出して綴ったものである。
短い本だが、どんどん私の「常識」を裏切り、そして、幸い、壊してくれたと思う。
ところが、『歎異抄』の解説本となると、これが、下らないものが多い。
『私の歎異抄』『歎異抄を読む』みたいなタイトルの本の大半がそうで、そんな本は、著者が一度は『歎異抄』で固定観念を壊された経験があるのだろうが、彼らは、今度は、『歎異抄』で作った固定観念をダラダラ書いているのである。
つまり、『荘子』も『歎異抄』も、永遠の聖典であってはくれない。
これらの本に、内容自体の解説は必要ない。
だから、解説本は読まない方が良い。そんな本を読んで、気持ち悪いと思ったら、まだ救いがある。
『荘子』や『歎異抄』で腐ってしまった人は、科学や数学の本を読んだり、コンピューターの勉強でもすると良いかもしれない。あくまで興味があればだが。

宮沢賢治が、『法華経』を読んで感動したのは、彼がまだ厚い固定観念を持っておらず、『法華経』で固定観念を壊せたからだろう。
そこらは、彼がおぼっちゃんで、あまり苦労をしていないことの、良い面だったかもしれない。
しかし、彼は、別の面の固定観念が強く、浄土仏教(法然や親鸞の教え)の方は、受付けなかった。
だから、彼の能力はどこか歪(いびつ)で、精神的、肉体的にも健康でなかった。
ここらは、秀才であったことの悪い面だったのだと思う。

『法華経』や『聖書』は、固定観念の強い大人から見れば、特に、大人になってから初めて読もうとしたら、とても読めたものではない。
子供騙しの馬鹿げたおとぎ話としか感じないだろう。
また、子供の時から、これらに馴染んでいたとしても、固定観念が増えてくると、読むのが苦痛になる。
よって、『法華経』や『聖書』を大人になってからも熱心に読める人には、天才が多い。
『聖書』全体は長くて大変だから、『福音書』を読んでみると良いと思う。普通の大人には、おそろしくつまらないだろうが。








真言の奇跡

キリスト教でも仏教でも、あるいは、他のいかなる宗教でも、困難があれば神や仏に祈ることは勧めても、それで実際に、問題が解決する・・・つまり、病気が治るとか、お金が儲かるとかいったことは言わない。
言ったら、お祈りが効かなかった時に文句を言われるし、病気が治るなんて言ったら、それこそ薬事法に違反するかもしれない。
それに、世間では、そういった「現世利益」があることを謳うのは、怪しい新興宗教であるという観念があるようにも思う。
だが、ジョセフ・マーフィーは、キリスト教の牧師であることは確かだが、既存のキリスト教とは異なる考え方を明確にし、あらゆる現世利益が得られる方法を教えながら、宗教家としても成功した。
しかし、そういったことは、アメリカでもだろうが、特に、日本の宗教界では、なかなかやれないだろう。
日本の仏教は、葬式仏教と言われるように、お葬式のためにあるようなもので、その職分を失うようなことは出来ないのだと思う。

ところが、織田隆弘(おだりゅうこう。1913~1993)氏という真言宗の僧は、実際は、戦後間もない頃からだと思うが、1970年代には、奇跡や現世利益をかなり表に出し、織田氏の著書は今でもロングセラーを続けている。実際、奇跡の実績も凄いらしい。
ただ、私は、宗教自体のことは知らないし、織田氏についても、昔、本を1冊読んだ程度なので、正確な引用ではなく、私の理解を述べるが、根本的には間違っていないと思う。
織田氏の宗派である真言密教は、空海が伝えたもので、手で印を結んだり、正式な座り方で座ったりするが、主には、真言(マントラ)を唱えることで、仏に通じ、結果、不思議なことも起こるというものだ。
織田氏の教えは、一般の人にも分かり易く、織田氏はとても偉い僧ながら専門馬鹿ではないことが分かる。
例えば、織田氏は、『観音経』を「法華経の25章」といった一般に分かり易い書き方をしてくれている。普通の専門家は「25章」ではなく「25品」と当たり前に書くが、いったい誰が「25品」なんて分かるだろうか?専門家は、そんなことが分からないのだろう。
で、『観音経』では、「観世音菩薩の名を呼べば、いかなる奇跡も起こる」と書かれているが、専門家の多くは、「それはあくまで方便じゃ。まさか、本当にそんなことがあるわけがない」といったことを言うが、織田氏は、そのままで良いと述べる。
つまり、「南無観世音菩薩」「観音様」「観世音菩薩」と一心に唱えれば、願いは叶うし、おそらく、「オン、アロリキャ、ソワカ」ならさらに良いのだろう。
これらの言葉は全て真言であり、 「オン、アロリキャ、ソワカ」は特に正統な真言なのである。
大日如来の真言なども勧めているようであるが、そのあたりは私は分からない。

ところで、織田氏は、浄土真宗の親鸞聖人について、よく取り上げておられたと思う。
親鸞といえば、師の法然と共に、「南無阿弥陀仏」の念仏だけを勧めたことで知られている。
そして、これは私の理解だが、織田氏の教えでは、「南無阿弥陀仏」だって真言なのである。
だから、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、病気が治るなんて当たり前なのである。
もちろん、病気だけでなく、あらゆることに効果があるが、浄土真宗や浄土宗では、まさか、そんなことは言わない。
だが、実は、親鸞自体が、『現世利益和讃』として、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、あらゆる現世利益があることを15の歌に詠んでいる。
まさに、念仏のスーパーパワー振りを堂々宣言している。
実際、念仏により奇跡が起こったという話はいくらでもある。
だいたい、現実の問題に効果がないとしたら、仏に力がないということになってしまうじゃないか。

私は、宗教とは関係なく、真言でうまくやってきたので、真言をお勧めはするが、具体的に、どの真言をというのはない。
言ってはなんだが、どれを唱えても同じと思っている。
ただ、肯定的に感じるものが良いだろう。
「南無阿弥陀仏」や、それこそ「南無妙法蓮華経」でも全然構わない。
ただ、私の場合だが、何度か葬式に出るうちに、「南無阿弥陀仏」の念仏のイメージがすっかり悪くなってしまった。
それもあって、昔から、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えている。
とはいえ、この真言も「南無阿弥陀仏」の念仏も、同じなのである(専門家は細かいことを言うだろうが)。
一般的なことを言えば、『法華経』の「25章」の『観音経』を読んで、観世音菩薩の驚くべき力を知った上で、「オン、アロリキャ、ソワカ」、あるいは、「南無観世音菩薩」と唱えることをお勧めする。
ただ、あくまで、自分の好きなやり方でやるのが一番である。
数をこなせば奇跡も起こるだろう。
「数ではない。信仰が大切じゃ」と言う方もいるだろうが、私は、数こそ信仰と思っている。
いつも言うが、野球のバッターの実力は素振りの数で決まる。
真言は、人生の素振りのようなもので、数が多いほどうまくいくのだと私は思う。








観音様への救いの求め方

『観音経』は、『法華経』の25品目で、『法華経』の中でも特に人気があり、『観音経』が単独で本になっていることも多い。
丁度、ベドルジフ・スメタナの『わが祖国』の第2曲『ヴルタヴァ』(モルダウ、バルタバ)が特に人気があって、単独で演奏されることも多いようなものだ。

ただ、『観音経』の本には、デタラメな・・・と言うのではないが、独断的な解説をする者が多くて困る。
なるべく素直に和訳してくれれば良いが、元々がサンスクリット語で、これに通じた人は少なく、日本語訳は大抵、中国語訳からの和訳である。
そうなると、どうも、中国風になってしまうのだろう。

『観音経』というのは、簡単に言えば、観音様こと観世音菩薩の凄い力(ほぼ万能)について書かれ、その力で救ってもらうにはどうすれば良いかが書かれている。
そして、大抵の日本語訳では、観音様に助けてもらうためには、観音様の名を呼べば良いと書かれ、その呼び方は「南無観世音菩薩」と唱えることだと書かれている場合が多い。
その、あまりの安直さに異を唱える人も多く、そんな人達は、独自の宗教観、道徳観などを厳しく説く傾向があるようだ。

確かに、『観音経』の原文には、「南無観世音菩薩と唱えよ」とは書かれていないだろうし、そもそも、観世音菩薩という名は、あくまで中国人がつけたもので、観音様の本当の名前は、アヴァロー・キテー・シュヴァラ―という。
アヴァロー・キテー・シュヴァラーが「自在に観る者」と言う意味らしいから、観世音菩薩、あるいは、観自在菩薩という名も、間違いとは言えない。
しかし、角川ソフィア文庫の『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』で、観音様の名前を、「”自在に観るもの”(観世音)」と記しているのが、とても良いと思う。
だから、観音様に助けを求める時には、「自在に観るものよ」と唱えても良いと思う。
観音様は、この世の全てを観、全ての音を聴く能力がある。それも、心の声も含めてである。
だから、口で、あるいは、心で、「自在に観るものよ」と唱えると良いだろう。
ただまあ、そこは凄い仏様なのだから、「南無観世音菩薩」でも「観世音菩薩よ」でも「観音様!」でも良いはずである。

ところで、私は、庭野日敬氏の『法華経の新しい解釈』に書かれていることがとても良いと思った。
『法華経の新しい解釈』は、「新釈」と略されることがあるが、昔、刑務所に入れられていた男が、刑務所でこの「新釈」を繰り返して読み、心を入れ替え、出所後、経営者として成功した話を、私はどこかで見たことがあった。
この「新釈」の中で、庭野氏は、観音様の名を呼ぶというよりは、観音様を念ずるというのが正しく、どう念ずるかというと、観世音菩薩のようになりたいと憧れることであるといったことを書かれていた。
誰しも、本当に憧れている相手は敬うものである。
これは、イエスであろうが、クリシュナであろうが、阿弥陀如来であろうが、天照大御神であろうが同じであると思う。
イエスのようでありたいと憧れることが、イエスに対する最もよい祈りであるのだと思う。
そして、本当に憧れるなら、それを敬い、そして、人は、憧れ、敬うものになるのである。

ただ、心を向ける言葉がなくては不便なので、私なら、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱える。
また、阿弥陀如来なら、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」である。
サンスクリット語が脳に良い影響を与えるという脳科学の研究もあるそうだが、私もそのように感じる。
「南無観世音菩薩」でも全然悪くないが、個人的には、宗教とか、いろんな俗書の手垢が付き過ぎていて、やや抵抗がある。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード