ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

法華経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

我々は法華経や新約聖書に登場する転落した息子である

新約聖書の福音書と、仏教の最も有名な経典である法華経に似たお話があって面白い。
イエスと釈迦が語ったことになっている。
いずれも、金持ちの息子の転落と復活のお話だ。
「俺、金持ちの家の出じゃなから関係ない」なんて思わないで欲しい。釈迦もイエスも、「これはあなたのお話」と言っているのである。

イエスの方のお話はこうだ。
金持ちの地主に、2人の息子がいた。
うち1人の息子が父に、家を出るから財産を分けてくれと願い、父はその通りにしてやった。
だが、出て行った息子は遊び暮らして財産を失くし、貧乏のどん底に陥る。
そこで、父に下僕として雇ってもらおうと思って家に戻ると、父は大歓迎し、盛大なお帰りなさいパーティーまで開いてくれた。
面白くないのは、長年、真面目に働いてきたもう1人の息子だが、父は、その息子の機嫌も取る。

釈迦の方の話はこうだ。
途方もない金持ちがいたが、その息子が幼い時に行方不明になってしまう。
金持ちは必死に探すが見つからなかった。しかし、50年後、遂に息子を見つける。
しかし、貧しい息子は、すっかり貧乏根性が身に付き、父親が近付くとビビってしまい、話が出来そうにない。
そこで、父親は、自分が父であるとは言わず、息子を下僕に雇い、自分も下僕のふりをして一緒に働きながら息子を導く。
20年かかったが、なんとか息子は立派になり、死が迫った父は、有力者達と共に息子を呼び、「お前は私の息子で、私の全財産の相続者である」と皆の前で宣言し、息子もそれを受け入れる。

イエスの話の金持ちの地主は神であり、一度出て行った息子は、我々のことだ。
そして、釈迦の話の大金持ちは仏であり、貧しくなった息子は、我々のことだ。

つまり、人間というのは、宇宙最大の富と権力のある親がいて、その親と一緒に居れば良いのに、(精神的に)離れてしまうことで不幸になるということを言っている。
だが、親の元に戻りさえすれば、欠けているものは何もないのである。
ここまでは、それぞれの宗教の信者は分かっていることであるが、どうすれば親の元に戻れるか、はっきり教えていない。
いや、妙好人(在家の優れた念仏信者)として知られる因幡の源左という教育のない明治時代の農民や、江戸末期の神道家、黒住宗忠らが、苦労の末、それは、神や仏にまかせきることであると教えていて、その通りなのであるが、肝心のところが隠されたままだ。
その最も肝心なことは「気分を良くする」こである。
イエスの話の息子は、家の仕事が嫌で気分が悪かったから、大金を持っても、心の隙間を埋めるために遊び狂って全財産を潰し、気分が悪いので何をやってもうまくいかなかった。
しかし、どん底の中で、わが身を振り返り、少し気分が良くなったので、父の元に帰るというアイデアが浮かび、自分は愚か者だから下僕で良いと覚悟したので、気分爽やか・・・つまり、気分は良かった。
そして、家に帰ると、神である父は「私のものは全部お前のもの」と言ったのである。
けれども、家に残って真面目に働いていた息子が「なんであんなアホが僕と平等以上の扱いを受けるのですか」と文句を言うが、父は、「そんなこと考えちゃいけないよ。私のものは全部、お前のものじゃないか」と言うが、おそらく、その後、「だから気分良くいなさい」と言ったことは削られているのだ。
父が両方の息子に「私のものは全部お前のもの」と言ったことに引っかかる必要はない。神の財産は無限なのだからだ。
釈迦の話の息子は、長い貧乏生活の中で、すっかり、気分を悪くする習慣が身についていたので、どんどん駄目になっていた。
息子は、気分さえ良ければ、父は「私はお前の息子。私のものは全部、お前のもの」と言って、息子もそれを簡単に受け入れ、すぐに幸せになれたのに、父があの手この手で、息子に、気分が良くなることを教えるまで、それが出来なかった。

我々は、気分を良くしさえすれば、すぐに神や仏の財産を与えられる。
宇宙は、人間の気分に同調し、気分が良い者には、さらに気分が良くなる出来事を、気分が悪い者には、さらに気分が悪くなる出来事を起こすのである。
ある意味、我々は、笑顔やガッツポーズで、気分を良くする訓練をすると良いと思う。
訓練とは楽しいものであり、イチローのように、多くやればやるほど上手くなる。
イチローも、トレーニングが楽しいので、毎日長時間やりたいと言っていたはずだ。
仏典も聖書も、「気分を良くすればOK」という最も肝心なことは隠されてしまった。
今、こう言われても「そんな馬鹿な話は信じません」と言う人が多いのである。
ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』の本やDVDを見ると、『ザ・シークレット』が出る前から金持ちで、バーンの手下でも何でもない成功者達が、気分の秘法をあっけらかんと明かしているので、一度見てみると良いと思う。
だが、この本も、こう言ってやらないと解らない人は多いと思うのだ。








本当の念仏とは何か?

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の念仏は、およそ日本人なら、誰でも知っていると思う。
ただし、今日では、葬式専用だと思っている人も多いだろう。
しかし、本来は、いろいろな意味で重要なものである。
その詳細は省くが、あの大数学者の岡潔が、毎朝、欠かさず唱えていたという話がある。
良寛も一休も、宗派は違うのに、最後は念仏を唱えていたという話もある。

ところで、長年、少しずつ調べているのだが、念仏というのは、中国で行われるようになり、それが日本に伝わったのだと思う。
つまり、インドには、中国や日本で言うところの念仏はないと思う。
中国、日本での、念仏の重要性の根拠は、『無量寿経(大無量寿経)』にある、弥陀の誓願と呼ばれる、阿弥陀如来が人間であった時に立てた48の願いの中の、最も有名な18番目の誓願が、「誰でも念仏すれば、(死後)極楽浄土に生まれることが出来る」とあることだろう。
しかし、ここでの「念仏」が、「南無阿弥陀仏」と唱えることだというのは、中国の僧の解釈に過ぎない。
念仏とは、文字通り、仏を念じるという意味であり、経典のどこにも、南無阿弥陀仏と唱えることが念仏であるとは書かれていないのである。
そう書かれている日本語の経典もあるが、それは、翻訳者による意訳だと思う。
確かに、『観無量寿経』の中に、「無量寿仏(阿弥陀如来の別名)の名を心に留めよ」という記述はあるようだが(これも意訳かもしれない)、これを念仏の根拠とするのは、あまりにこじつけであると思う。

よって、本当は、経典には「南無阿弥陀仏と唱えよ」とは書かれていない。
こんなこと、私のような素人だから良いが、宗教関係者が言ったら問題かもしれない(笑)。

ただし、『法華経』の第25品『観音経』には、観世音菩薩の名を唱えることには、大きな力があるとは、繰り返し書かれている。
これも、日本語の訳では、「南無観世音菩薩と唱えよ」とか書かれていることが多いが、本当は単に、「観世音菩薩の名を唱えよ」と書かれているだけである。
また、観世音菩薩というのも、中国の僧が付けた名で、それが日本でも、そのまま使われているだけである。
本来の観世音菩薩の名は、アヴァローキテーシュヴァラ(サンスクリット語)という。
これを、玄奘という有名な僧が、その意味を「観察された自在者」であると解釈し、「観自在菩薩」と名付けたのだそうだ(Wikipediaによる)。
この解釈が正しいかどうかは分からない。
『法華経』の原文では、観世音菩薩のサンスクリット語の名は、アヴァローキタスヴァラであるが、これは、Wikipediaによれば「観察された音」という意味で、そこから、別の僧が、「観世音菩薩」と訳した。
そこで、『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』((角川ソフィア文庫)では、観自在菩薩のことを、「“自在に観るもの”(観世音)」と訳されているが、これが最も賢明な訳し方と思う。
とはいえ、この訳も、絶対に正しいかどうかは分からない。
そこで思うのだが、言葉の神秘の効果を期待するなら、観世音菩薩のサンスクリット語の「アヴァローキテーシュヴァラー」と唱えれば良いと思うのだ。
あるいは、こちらが良いと思えば、「アヴァローキタスヴァラ」でも良い。
実は私は、初めて「アヴァローキテーシュヴァラー」の名を知った時、これを非常に気に入ったのだ。
少なくとも、この名を唱えれば、何も考えられず、余計な思考を消すのに丁度良い。
あるいは、「般若心経」で、観世音菩薩が行って悟りを得た「般若波羅蜜多」という修行は、この経の最後の呪文を唱えることであるという解釈もあり、伝説によれば、玄奘三蔵もこれを唱えていたと言われる。
これもまた、サンスクリット原文で唱えると良いかもしれない。
それは、
「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。
これだと、さらに思考が消える。
叡智(神仏そのものとも言える)と通じる方法は、思考を消し、無になることと思う。
そのために、観世音菩薩の名を唱えたり、般若心経の呪文を唱えることは有効かもしれない。













当ブログオーナー、KayのAI書。
普通の人にとって、機械学習・ディープラーニング型AIの本が面白くない理由は、次の2つと思います。

(1)そもそも難しい。数学やAIの専門用語が、解る以前に抵抗がある。Pythonプログラムが出来ない。
(2)扱う問題がとんでもなくつまらない。あるいは、特定の業務に特化し過ぎてピンとこない。

そこで、私の本では、次のことを目指しました。

(1)数学、プログラミング、AI理論不要で、ちゃんとAIを作れる。
(2)他書にない面白い問題を、学術的な難解で回りくどい言い方を避け、普通の言葉で扱った。

ほぼ全ての実習のためのデータを作れるシミュレーションプラム(Excel VBAで記述)を無料でダウンロード出来ます。シミュレーションプログラムの理解は不要ですが、興味のある方のため、なるべく簡単に書きました。

さりげない奇跡を味方にする秘法

荘子が『荘子』(約2400年前の中国の古典)で書いた教えは、一言で言えば、「無為自然」だが、もっと普通に言えば、「全て、なりゆきにまかせろ」だと言って良いと思う。
荘子は、そうした結果、儲かるとも、モテるとも書いていないし、時には、わざと悲惨なことになるようなことも書いたが、少なくとも、安らぎは得られるし、実際は、かなり恵まれるようなこともほのめかしているのだと思う。
言い切ってしまえば、余計なことを考えたり行ったりせず、自然のなりゆきにまかせれば、そうでない場合より千倍も上手くいく。
だが、人間はいつも、下らないことを考え、しなくていことをして墓穴を掘るものだ。

では、なりゆきにまかせるとは、本当のところ、どういうことだろう?
山岸凉子さんの1980年から1984年の作品ながら、いまだ人気が高く、ロングセラーを続ける漫画『日出処の天子(ひいづるところのてんし)』に、良い話がある。
都に干ばつが続いていた時、厩戸王子(うまやどのおうじ。後の聖徳太子)が祈祷を行い、見事、雨を降らせる。
ところが、いったん降り出した雨が止まず、今度は水害が起こり、厩戸王子の責任が問われ、朝廷は、大臣達を集合させた中に、厩戸王子を呼びつける。
厩戸王子は、なかなか現れず、天皇もしびれを切らすが、ようやく厩戸王子が現れた時、雨はぴたりと止んで陽が差し、大臣達は思わず厩戸王子にひれ伏す。
厩戸王子は何をしたのかというと、実は、何もしなかった。
自分の責任が問われ、マズい事態になっていることは理解しながら、では、何をしようかとか、どう申し開きをしようとか、全く、何も考えていなかったのだ。
それで、気が向いたところで、屋敷を出て朝廷に向かったのだが、空を見ると、心なしか明るくなりかけたように思ったので、到着と同時に止むことを期待したら、その通りになったのだった。
いうならば、厩戸王子が朝廷に着いた時に雨が止んだのは、全くの偶然である。
だが、そんなことは、よくあるのだ。
「こうなればいいなあ」と思い、少し期待はするが、それほど強く願う訳でもなく、特に何もせずにいたら、期待通りになってしまう。
そういったようにやれば、そうそう期待を裏切られることはない。大切なことは、渇望しないこと、よって、焦らないこと、余計なことはしないこと、だが、ごく自然なことだけはやること。
それが本当に出来た時、奇跡も起こる。
そんな経験がない・・・いや、最近ないと思っている人は、単に、見過ごしているだけで、結構ありふれたことなのだ。
厩戸王子は、法華経、維摩経(ゆいまきょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)まどを仏教の経典を取り寄せて読み、注釈書を書いている。
維摩経や勝鬘経のことは知らないが、法華経の、あの気が遠くなるほどスケールの大きな話を読んでいるうちに、一切の作為を捨ててしまえるに違いない。
そうすれば、気付かないうちに、奇跡体質になってしまうような気がする。
もちろん、『荘子』を読んでも良い。中国では、『荘子』が仏典の中に入れられてしまっていることもあるが、やはり、仏教と通じるところがあるのだろう。












当ブログオーナー、KayのAI書。
Kindle版は発売中。紙の本は30日発売。
全体が長過ぎると思われた場合、まず、Chapter.1の算数問題だけをやっても良いと思います。
それで、現代のAIの考え方について、見当が付くのではないかと思います。
Chapter.2、Chapter.3は、ある意味、遊びです。その遊びをAIと一緒にやることで、AIと仲良くなり、自然に、自分とAIで1ユニットになるコツを掴めるのではないかと期待しています。
最初は難しいと思っても、実は、簡単なことを書いています。むしろ、解り易くするために、多少、正統的でないやり方も採用しましたが、その点は本書内で注意しています。

パチンコ店を喜んで休業させる方法

「方便(ほうべん)」という言葉は「巧妙な手段」といった意味で、「嘘も方便」とか言われるが、これは本来は「相手のためを深く思った本当に良い嘘」のはずだったが、それとは違う意味で使われることが多い。
仏教は、ある意味、方便の宗教である。
その代表的なものが『法華経』の初めのあたりにある、火事になった屋敷のお話だ。
大きな屋敷が火事になったが、子供達は遊びに夢中でそれに気付かない。
どうやって外に連れ出せば良いかだが、子供達に、「超立派な牛車がある。一人に一台だ。早く出て来い」と言うのだ。
それで子供達は、「そりゃすげー!」と喜んで屋敷から出て来て、無事に助かる。
仏教では、人を教え導くには、このような上手い言い方を重視する。
この『法華経』の話では、外にあるのは、子供達に説明した通りの牛車ではなく、もっとはるかに立派な牛車だったというものである。
つまり、普通の人に対し、「お金が沢山入ってくるよ」「いい女(男)が寄って来るよ」と言って教えに誘い、実は、安らぎを与えるといった感じだ。
しかし、悪徳宗教では、「金が儲かるよ」と言って金を巻き上げるのであるが(笑)。

方便というのは必要なものだ。それは確かに相手が凡人の場合であるが、人間の99パーセントは凡人だ。
子供に、ただ「勉強しろ」と言ってもなかなか勉強しないが、「勉強したらディズニーランドに連れて行ってやる」と言えば、喜んで勉強するかもしれない。
ただ、くれぐれも間違えてはならないのは、この場合、ディズニーランドは「エサ」に過ぎないということで、本当の目的は、勉強して賢くなることだ。
ところが、今は、勉強して、試験で良い点を取るとか、受験に合格するといった、つまらないことが目的になったので、子供も社会も歪んでしまったのである。
それはともかく、やはり、人間には「エサ」が必要なのだ。

パチンコ店に「コロナ感染を防ぐために休業しろ」というのは、法華経の話で言えば、「火事だからさっさと出て来い、バカヤロウ!」と言うようなもので、馬鹿なやり方である。
そして、休業しないと、「店の名前を晒すぞ!」「それでもやめないと、法律作って店を差し押さえるぞ!」と、法華経の話で言えば、「出てこないと殴るぞ!」といった、サルでも出来ることしかしない。
さすがに、「収益の倍やるぞ」とは言えないだろうが、なぜ、「即座に協力してくれた、お客様を大切にする素晴らしいパチンコ店だと政府が大いに宣伝してやる」と言わないのだろうか?
宣伝が無理でも、表彰するなどの「事実上の宣伝」でも良いだろう。
お店に張る政府のきらびやかな感謝状も作ってあげると良い。そんな税金の使い方なら、誰も文句は言うまい。
あるいは、安室奈美恵クラスのビッグネームを連れて来て「ありがとう」と言っていただき、それをネット動画で見せれば良い。
アンタ(知事や大臣)が口で「感謝します」なんて言っても、全然、意味がないことが、なぜ解らないのか?
まあ、「なぜ」と言うなら、単に馬鹿なのであるが・・・

インドの聖者、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジ、あるいは、クリシュナムルティーらは、解脱の素晴らしさを説きはしても、やはり方便がないのは欠点であったと思う。
解脱の素晴らしさなんてものに興味を持つ人は、あまりいないことくらい知っているはずだが・・・
やはり、凡人相手には、現実的メリットもあることを言わないといけないのである。
そこらは、親鸞はもちろん、法然だって、ちゃんと、「念仏を唱えれば、実は、この世でもあれこれ良いことがあるぞ」と言っているのである。
そして、それは嘘ではない。
どうも、ラマナ・マハルシのような本物の聖者は、解脱の素晴らしさをよく知っているので、現世利益など、つまらないものとして、あまりに興味がないのかもしれない。
だから、よほど縁のある人しか救えない。
だが、本来、マハルシの言うようにやれば、お金も彼氏も彼女もちゃんと出来る。しかも、世間でいう「引き寄せの法則」の百倍も強力に。
確かに、後には、つまらない・・・というか、一時的なものに過ぎないことが解るのであろうが、人間、そんなものでもなければ向上しないのである。
ただし、お金や快楽を、あまりに売り物にしてはいけない。エサは悪いものではないが、エサはエサなのである。













KayのAI書。5月30日発売。
【特徴】
◆数学、プログラミング、難しいAI理論不要。
◆ExcelがインストールされたWindowsパソコンだけでOK。
◆高度ながら無償のAIアプリソニーNNCを使う。
◆実習データを作れるExcelマクロ無償ダウンロード特典付。
◆Excelマクロはシミュレーション型で、モンティ・ホール問題の正解が実感出来る。
※電子版は、価格は紙の本と同じですが、紙の本が2色刷なのに対し、NNC部分(ネットワーク図、学習曲線)がカラーになります。

これだけでお宝はあなたのもの

ネットで見たお話で、ご存知の方もいるのではないかと思う。
ある女性が、普通に学校を出て、普通にお勤めをしていた。
親は、彼女が子供の時から概ね厳しく、モノやお金を大切にするよう躾けたのだと思う。
そして、彼女が結婚する時、親が彼女に渡した預金通帳には、一生やっていけるほどの金額が入っていた。
彼女は、それまで、自分の親が金持ちだと知らなかった。
親は、「今ならあなたに渡しても大丈夫」と言う。
つまり、彼女は、普通の人間としての修行を立派にやったので、大金をもらっても破綻は起こさないようになっていたのだ。

『法華経』に、ちょっと似たお話がある。
国王並の資産を持つ長者が、長年、生き別れになって、長者が親であることを全く知らない極貧の息子に、長者は親だと名乗らずに長年修行をさせ、十分なところで自分が親だと名乗って、息子に財産を譲るというものだ。
『法華経』では、全ての人が、そのような長者である仏の息子や娘なのであると教える。

『新約聖書』の『福音書』では、イエスが有名な放蕩息子の話をしている。
こちらは、大金持ちの父親に財産を分与された息子が家を出て、自堕落になって財産を使い潰し、食べていくことも出来なくなって、父親に使用人に雇ってもらおうと家に戻ると、父親は温かく迎えて、良い服を着せ、立派な牛を屠って料理させるが、それを見た、長年父親に真面目に仕えてきた兄が不満を言う。
すると、父親はその兄に、「私のものは全部、お前のものなのだ」と、不満が的外れであることを教える。
もちろん、大金持ちの父親は神で、放蕩息子は我々のことである。

つまり、どんな生き方をすれば、仏や神である、潜在意識の中の無限の力を使えるようになるかということだ。
逆に言えば、生き方、そして、それを決める精神を、どのようにすれば良いのかということだ。
修行せい、修行を・・・である。
で、どんな修行をするかだ。
スーフィーの格言によれば大したことはしなくて良い。
「神を信頼しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
である。
世の中には、ラクダもつないでおかない者が多い。
だが、たったそれだけをやれば、お宝はあなたのものである。









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