ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

法然

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

集中の魔力

人類の中の4パーセントほどが、高い集中力を持っている。
この4パーセントの者がなぜ集中力を持っているかというと、訓練したからだ。
この訓練とは、幼い頃から毎日、決まった時刻に、親と一緒にお祈りをしたとか、武道の稽古をするとかで、これを、嫌々ではなく、肯定的、積極的に行ってきたのである。
親に集中力がないのに、子供に強要しても、子供は真面目にやる気が起こらないので、集中力は身に付かない。
集中力とは、スポーツや勉強で要求されるものと基本的には似ているが、これらでは、根性とか忍耐が要求される傾向が強い。
しかし、本来の集中力とは、単に、「心が一方向に向いている」ことだ。
例えば、お腹が空いている時に食べ物があると、そこにだけ意識が向かうようなものだ。そんな時は集中力がある。
一方、嫌々勉強をさせられると、勉強に向かう意識は少なく、意識は他のものに向かう。そんな時は集中力がない。

集中力がある人間は優秀だ。
なぜなら、世界は心が作る幻想のようなものだが、集中力が高いほど、理想通りの世界を速やかに作ることが出来るからだ。
そんな訳で、我々は、集中力を身に付けないといけないし、それが身に付く訓練をしなければならない。
ところが、支配階級の者達は、自分達だけが楽しい思いをするためには、自分達以外の人類には集中力を持たせない仕組みを作っている。
勉強やスポーツを本当には楽しめないよう、歪んだ学校生活を送らせる奇妙な規則を作り、毎日長時間テレビを見せ、その中で興味をコロコロと変えさせ、また、下らない沢山のレジャーをテレビで宣伝して誘惑し、また、社会的に様々なことを強制して、それぞれに細切れの注意を向けさせる。
結局、庶民の心は安定せず、あっちに注意を向け、こっちに注意を向けといったことを繰り返す状態になる。
もう集中力なんて、あったものではない。
また、詳しくは述べないが、庶民の心自体を弱くするよう万全を期しているので、なおさら、庶民は「集中」に縁がない。

集中力を得れば巨大な力を得る。
好きなように世界を作ることが出来るのだから。
自然に集中出来る好きなものがあれば良いのだが、いろんな好きなものを用意して1つのものに集中させないのが闇の支配者の手だということを忘れてはならない。つまり、あまり「好き」にこだわらないことだ。
例えば、いくらアイドルが好きでも、それさえあれば、食べなくても良いとか、ホームレスでも良いという訳ではなく、アイドルみたいなものが好きな者ほど、いろんな小さなことにこだわるものだ。
で、集中を得るには、言葉を使うことが簡単だ。
いわゆる、呪文のようなものだ。
ある程度、好きな言葉が良いが、肯定的であれば何でも良い。
それを、なるべく多く繰り返す。
法然が1日6万回、念仏を唱えたように。
法然や親鸞というのは、元々、業の深い人間で、集中力がなくて散々な目に遭ったので、ある時期から、集中して念仏を唱えるようになったのだろうと思う。
人には見せなかったが、法然なんて、最後は相当な魔法使いだったはずだ。

集中すれば何でも出来る。
七田眞氏の『奇跡の超「右脳」開運法』に書かれているように、ホームレスになった最低の駄目男でも、1日中、「神様の奇跡が起こる」と唱えていたら、2~3週間ほどで1憶円手に入れたように。
黒住宗忠が、ハンセン氏病(らい病)に罹った武士に、1日1万回「ありがたい」と言わせたら、1週間で治ってしまったように。
極めて過酷な、特殊部隊ネイビーシールズの入隊試験に合格する者を調べたら、頭の中で「大丈夫」などの言葉を繰り返していたことが分かったように。
ジョセフ・マーフィーの『あなたも金持ちになれる』に書かれていたが、売れない女優が、いつでも出来るだけ多く「歓喜、成功、富」と唱えていたら、女優として成功したように。
般若心経の呪文や、「アジマリカン」に霊力があるかどうかは示し難いが、これらを多く繰り返せば、やはり無敵なのだ。
そんな訳で、何か前向きな言葉を1つ、いつでも唱えるようにすることをお薦めする。
呪文とか、自己暗示とか、アファーメーションとか、神の名とか、「大丈夫」「絶好調」などの肯定的つぶやきとか、「私とは?」といった哲学的だが興味深い命題とか・・・
何もなければ、「ありがたい」か「神様の奇跡が起こる」をお薦めする。








見かけ上異なる教えに迷わない

なぜ、アファーメーションを際限もなく繰り返さないと望む奇跡が起きないのかというと、そうでなければ、我々の自我意識がものごとを進めようとするからだ。
自我意識で実行して、うまくいく人間もいるのかもしれないが、それは、優れた王家で育てられた者か、未来の人類か、あるいは、進化した宇宙人の場合くらいと思う。
どういう意味かと言うと、現代の、我々普通の人間の自我意識は、すっかり変質させられているので、その自我意識で何をやっても、ロクな結果にならないということだ。
我々は、言葉も知らない頃から、親や周囲の大人やテレビに、その後、学校やテレビや本などに、大人になってからも、テレビや新聞、その他のメディアに自我意識を奴隷に相応しいものに洗脳され続けているのである。
アファーメーションを限りなく唱えることで、自我意識にとりつき、支配する悪魔を無力化した時に、「力」に通じる扉が開く。
それを、美しく言い表した言葉が、ラマナ・マハルシの教えを簡潔に示した小冊子『私は誰か?』の18章にある。
引用する。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をま
かせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか? われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。

この小冊子(PDFファイル)は、ラマナ・マハルシのWebサイトからダウンロード出来たのだが、最近は、サイトの管理状態が良くないのか、適当なダウンロードページが見つからない(存在するのかもしれないが)。
現時点で、「私は誰か PDF」で検索して出てる、同ファイルへの直接リンクは以下の通りだが、将来に渡って同じかどうかは分からない。
【PDF】私は誰か? - Sri Ramana Maharshi
下記に紹介した書籍『ラマナ・マハルシの教え』には、これが記載されている。

『荘子』の思想は全く同じと思えるし、おそらく、イエス・キリストや法然もそうなのだと思う。
ただ、彼らは、時代背景もあり、神にまかせてしまったからといって、良い結果になるとは言っていないし、特に、荘子の場合は、最悪の結果になる場合が語られている。ただし、そうではあっても、神にまかせきってしまえば、精神的には幸福であると述べているのだと思う。
そして、江戸末期の神道家であった黒住宗忠は、「神にまかせきれば、嬉しいことばかりになる」と、良い結果になることが示唆され、アメリカの芸術家で、今日で言う引き寄せの法則の優れた指導者であったフローレンス・スコーヴェル・シンは、アファーメーションにより、望む結果を得られることを教えている。

法然は念仏、ラマナ・マハルシは「私は誰か」という問いかけ、フローレンス・スコーヴェル・シンはアファーメーションという分かり易い手段を示した。一方、イエス、黒住宗忠は神への愛や信頼でことをなせと教えたが、それは難しいことである。
(ただ、黒住宗忠はハンセン氏病の武士に「ありがたい」と唱えさせて1週間ほどで完治させたこともある。これも一種のアファーメーションである)
荘子にいたっては哲学的に教え、それは最も難しく、やはり、多くの誤解を生んだ(逆に、哲学的理解には適しているが)。
とはいえ、教えていることは、皆、同じである。
ただし、イエスや、黒住宗忠が言うような、神への愛や信頼でもって事を行おうとしても、我々の歪んだ自我意識では、愛や信頼の概念自体が歪んでいるのである。
よって、念仏やアファーメーションといった手段を、何も考えずに使う方が安全である。
私としては、難しかったり、高尚であるアファーメーションより、「神様の奇跡が起こる」や「ありがたい」といった単純なもの、あるいは、ジョセフ・マーフィーが教えた「単語法」、即ち、「富」「成功」「富、成功」「歓喜、成功、富」といった言葉を唱えることをお薦めする。








引き寄せの陰謀論

いつも述べる、アファーメーション、自己暗示、呪文などによる引き寄せについて、世の中の現状と、簡単な歴史を述べる。
熱心に取り組む動機になればと思う。

世の中には、本当に駄目なやつがいる。
身体や知能の欠陥ではなく、精神的な原因で駄目なやつだ。
そもそも、身体や知能に欠陥があっても駄目でない人は沢山いる。
だが、小学校の時は超秀才であった者や、身体は非常に丈夫なのに、どうしようもなく駄目な者達が大勢いる。
いったい、どんな育ち方、生き方をすれば、ここまで駄目になるのかと驚くような駄目な者達。
なぜ、そんな者達が生まれたのかというと、間違った教育が、極端な形で作用してしまったのだと思う。
そんな者達は、社会でうまくやっていけないので、極端な場合、完全な引きこもりになり、そのまま、40代にもなれば、もうどうしようもなくなる。
時々、引きこもりの更生の訓練を実施する活動を見るが、うまくいかないと思う。

全く駄目な者達について書いたが、実は、ほとんどの人達が、そんな者達に似ているのである。
なぜなら、上にも述べたが、全く駄目な者達というのは、間違った教育が極端な形で作用してしまったのであるが、全員が同じ教育を受けているからである。

その中で、ポジティブ・シンキング(積極思考)、潜在意識による成功法則、引き寄せの法則は、人々を奴隷状態から解放する目的を持っていた。
いや、それ以前の、魔法結社、ニューソート(新しいタイプの宗教)、光明思想等もそうなのではと思う。
これらは、エリートだけを集めたのではなく、社会の底辺の者達も受け入れたのだ。
ところが、こんな話がある。
ある有名な引き寄せの法則の本は、全く役に立たない形に改変されてしまっているのである。
肝心な部分を削除し、余計な文章を加えることにより、それを読んでも、引き寄せが出来ないようになってしまった。
そういった、「元々は優れた引き寄せ書」の特徴は、その本の中に、矛盾し合う箇所が複数あり、読者を騙し、特に頭の良い読者は混乱するのである。
なぜ、そんなことが行われたのかは、あまりはっきり言えないが、まあ、どうでも良いことである。
我々は、正しいやり方を知れば良いだけだ。

宗教というのは、それが全て引き寄せの法則であるとは言わないが、引き寄せのようなものは十分に含んでいたのであるが、そこはだいたい省かれている。
聖書や仏典も、かなり書き換えられていると言われているが、そうなのかもしれない。

とはいえ、引き寄せの法則の本や、宗教書の中には、真理の欠片が残っている。
だが、それを調べることは、暗号解きのようなものになってしまうので、時間がかかり過ぎるし、無駄なことだ。
単に、正しい部分を見つければ良い。
その正しいものは「単語法」というもので、力ある言葉、あるいは、ごく短い文を、ひたすら反復するものである。
法然も、従来の仏教の教えを否定し、お釈迦様は念仏だけを残したとバラした。
まあ、法然はそれで酷い目にあったのだが、そこは真理を掴んでいた法然なので、なんだかんだで復活し、80歳で亡くなるまで活躍した。
彼の教えは、ひたすら念仏である。
日本で、明治から昭和初期に、ひたすら念仏で神秘的な力を持った妙好人という人々がいたが、こんな人達は消されて今はいない。
また、同じ時期に、岡田虎二郎という人が「岡田式静坐法」を広めたが、虎二郎は、静坐というよりは、別の凄いことを教えたのだと思う。
虎二郎は、死の直前、書いたものを全部燃やしたと言われるが、本当は、奪われたのかもしれない。

以上が、正しい引き寄せの方法が伝わっていない理由の陰謀論である(笑)。
どんな駄目人間でも、人間本来が持つ能力を取り戻し、駄目でなくなるのが、いつも述べているアファーメーション、自己暗示の、ひたすら反復なのである。
基本は、法然のやり方なのであるが、それを、自分の好きなアファーメーションや自己暗示でやれば良いと思う。








人間は簡単なことしか続かない

親鸞(1173~1263)は、余計なことをしたと私には感じられる。
親鸞は法然(1133~1212)の弟子だが、法然が言った通りには人々に教えなかった。
法然の教えはシンプルである。
ただ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば良い。
実際、法然は、遺言でもある『一枚起請文』(いちまいきしょうもん)に、「私は極楽浄土に行く方法は、念仏以外に何も知らない」という意味のことを書いている。
また、現在も読まれている法然の著書『選択本願念仏集』には、全編に渡り、「念仏を唱えることだけせよ。他は必要ない」と書かれている。
そして、念仏は、立っていようが座っていようが寝ていようが歩いていようが、いついかなる時も唱えよとも書かれている。
法然自身も、起きている間中、念仏を唱えていたようで、1日に6万回、あるいは、7万回、念仏を唱えていたと言われている。

ところが、親鸞は、「念仏は1回唱えれば良いし、唱えようと思いさえすれば、1回も唱えなくても良い」といったことを教えたようだ。
実際、そうだったらしく、それを伝え聞いた法然(離れた場所に住んでいた)は苦言を呈した・・・早い話が、親鸞を怒ったという。
確かに、親鸞は、念仏が1回でも、あるいは、唱えなくても良い理由を述べ、それは、実に深い、優れたものであったかもしれないが(経典にも実際にそんなことが書かれている)、そんなもの、一般庶民が理解出来るはずがない。
庶民には、法然が教えたように、「ひたすら念仏を唱えよ」の方が、圧倒的に分かり易い・・・いや、これしか分からない。

ところで、念仏には、極楽往生、即ち、死後、極楽浄土に生まれて永遠に平和に暮らすことを実現する手段であるという以外に、まじない的な威力があるとも言われている。
この点、親鸞は、『現世利益和讃』として15首の歌にしている。
これには、念仏を唱えれば、仏や菩薩、神鬼すら守ってくれること、過去の罪が消えること、限りなき現世の利益があることなどが壮大に語られている。
こんなこと、法然が聞いたらまた怒るかと言うと、実は、法然も『選択本願念仏集』で、念仏を唱える者は、大勢の仏が取り巻いて守ると書いているのである。
では、実際に念仏に現実的な効果があるかというと、凄くあると思う。
「南無阿弥陀仏」というのは、難しく言えば、阿弥陀如来(高位の仏様)に帰依(完全に従うといった意味)するという意味であるが、簡単に言えば、敬意と親しみを持って、阿弥陀如来に呼びかけているのである。
敢えて現代語で言うなら、「阿弥陀様、一切をあなたにおまかせします」という意味と思って間違いないだろう。
そして、神仏というものは、そのように、信頼して全てをまかせる者を決して見捨てず、世話をするのである。
そして、それは、現代の引き寄せの法則の原理と全く同じなのだ。
引き寄せの法則では、願いの実現を引き寄せる力は、無意識の中のパワーとか、宇宙エネルギーと言う場合が多いが、神仏と言うの少しも間違いではない(むしろ正しいかもしれない)。
また、「ナムアミダブツ」というのは、音があまりに良い。それは、あらゆる意味・・・宗教的、脳科学的、心理学的、あるいはその他の理論からも、極めて良く出来ていると考えられるし、未来科学では、さらに良さが分かるのではないかと思う。
単に信念の力によるのかもしれないが、念仏で霊験のようなものが起こったことは珍しくはない。
また、どんな理由であったかは知らないが、世界的な大数学者であった岡潔氏が念仏を熱心に唱えていたことはよく知られているし、湯川秀樹氏もそうだったのではないかと思う。
念仏は、ただならぬものであるという話は少なくない。
そして、何より、このくらい簡単でないと、普通の人間には続けられないのだと私は痛感するのである。

念仏、真言、マントラ、呪文・・・いろんな言い方があるが、同じ言葉を繰り返し唱えることには、想像も出来ない力がある。
そういったことが、あらゆる宗教、密教、魔法結社、その他、あらゆる、人間の高次な力や幸福を求める団体の教えの中にあり、やはり、信念や暗示の力かもしれないが、実際に効力を発揮したし、言い換えれば、信念や暗示の力を引き出す力があると言える。
その中で、長い歴史の中で研究、検証されてきた確実な方法として、「私はXXXXである」(XXXXは自分がなりたいと願う状態。例えば「金持ち」)と唱えることをお薦めする。
心の中で良いので、朝も昼も夜も唱えるなら、いずれ、その通りになることは確実であると思う。その原理も、だいたい、解って来ていると思う。








駄目なアンタを救う道

いかなる悪人も、「南無阿弥陀仏」の念仏さえ唱えれば、罪は消えると親鸞聖人は言ったようだ。
また、極楽浄土に行くためには、善いことをする必要は全くないとも言う。
なぜなら、念仏の力を妨げるほどの悪は存在しないし、念仏以上の善もないのだからということだ。

『方丈記』の著者として知られる鴨長明(かものちょうめい)が書いた『発心集』の中に、こんな話がある。
源大夫(げんだいふ)という名の極悪人がいた。
彼は、盗み、殺し、暴力、何でもやり、人々に恐れられていた。
その源大夫が、たまたま僧が、阿弥陀如来のことを話すのを聞き、
「俺が念仏を唱えても阿弥陀様は応えてくれるのか?」
と僧に問うと、僧は、その通りだと言う。
そこで、源大夫は、僧に頭を剃らせ、僧侶の服をもらうと(奪うと?)、西に向かって、大声で「南無阿弥陀仏」と唱えながら歩いた。
七日の後、源大夫は絶命し、その舌から蓮の花が咲いた。

この話を読んだ時、私はつくづく、法然も親鸞も、本音のところで源大夫と同じだったのだと思うのだ。
法然や親鸞は立派な僧だと思われているかもしれないが、彼らとて、所詮、自分は煩悩を捨てられない悪人であると知っていて、それに苦しんでいたのだろう。
実は、誰にも言わなかったが、法然はロリコンであったとか・・・って、信者に殺される(笑)。
そして、源大夫は、やりたい放題の大悪人だが、魂では、そんな自分が嫌で苦しんでいたのだと思う。
でなければ、念仏を唱えようなんて思うはずがない。
自覚はなかったかもしれないがね。

我々も同じで、人間の本性はおそらく善だと思うが、どうしても煩悩があって、悪いことをしたり考えたりする。
それは、魂にとっては苦しいことなのだ。
だが、(繰り返しになるが)念仏は、いかなる悪も十分以上に埋め合わせるので、念仏を唱えれば良い。
悪を埋め合わせるために、自分で善いことをする必要はない。
なぜなら、どんな善も、念仏の善に全く及ばないからだ。

とはいえ、今の時代、念仏でもあるまい。
ある程度の年齢であれば、それで納得出来るかもしれないが、この理屈が重視される時代に、念仏の力を信じることは、なかなか出来まい。
だが、ここで、とはいえ・・・ともう一回、ひっくり返す。
たとえ時代遅れで、理屈に合わなくても、念仏を唱え続けながら、善と反対の方向にずっと進める者などいないのだ。
これは、ひょっとしたら、法然や親鸞の教えに反するかもしれないがね(とはいえ、根本は合っていると思う)。
特に、『歎異抄』を1回でも読めばそうなのだ。
ちなみに・・・念仏を唱えれば、現世利益(つまるところ引き寄せ)も思いのままだ。
親鸞は『現世利益和讃』に、そう書いている。
また、法然も、『選択本願念仏集』に、それを示唆することを書いているのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。






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