ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

法然

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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

1日中やる1つのことを必ず決める

真の実力者は、日常が修行、あるいは、トレーニングであり、心構えとしては、起きている間ずっとそうなのだろう。
そんな話を、私が一番最初に聞いたのは、ある陸上短距離走のトップ選手は、日頃、歩いている時も、膝を高く上げるといった独特の歩き方で鍛えているというもので、とても感動した覚えがある。
プロレスでは、日本武道館で最初のプロレス興行が行われた時のメインイベントが、ジャイアント馬場さんと「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックの対戦だったが、エリックは最大の武器であるクロー攻撃(顔や腹部を手で掴むという単純な攻撃)を磨くため、常に野球ボールを持っていて、それを握って握力を鍛えているなんて話があった。
養老孟司さんの何かの本で読んだが、日本人は正座することで、特に運動をしなくても、腹筋や背筋が鍛えられていて、昔の日本人は大変に身体が強かったそうだ。
岡田虎二郎は、常に怠りなく腹に力を込めて、腹を鍛えろと言っていたようだし、中村天風は、常に肛門を引き締めていろと著書にも書いているが、ヨガ関係の人は、天風のように言うのかもしれない。
岡田虎二郎や中村天風のように、1日中常にというのは難しいが、盛鶴延さんの『気功革命』という本には、1日トータルで1時間、肛門を締めるといった話があった。しかし、それだって、意識としては、1日中、肛門を締めようとしなければ出来ないだろう。
法然は、『選択本願念仏集』の中で、行住坐臥(ぎょうじゅうざが。歩き、止まり、座り、臥すという日常のふるまい)、常に念仏を称えよと言い、自ら実践していたというが、これも、そのように心がけよということと思う。
インドの聖者ラマナ・マハルシに、誰かが、「時々、バガヴァッド・ギーターを読むべきですか?」と尋ねたら、マハルシは、「いつもが良い」と答えたようだ。

現実的には、1日の内で、我々は様々なこと・・・中には、したくないことでも義務的にしなければならないこともあるが、まともに生きていれば、本当にいろんなことをしなければならないだろう。
だが、やはり、気持ちとして、自分が常にやるべきと信じることをやるよう意識することが、平凡な人間と特別な人間を別けるのだろうと思う。

ジャイアント馬場さんは、バディ・ロジャースという選手に強烈に憧れ続け、アメリカにいた頃、ずっとロジャースを観察していたが、ロジャースは、電車で移動中等の時、他の選手達が、雑談したり、ゲームをしていても、彼だけは、じっと黙って考えていたのだが、おそらく、馬場さんはロジャースに直接訊いたのだと思うが、ロジャースは、プロレスのことを考えていたのだそうだ。
馬場さんは、「そりゃ、ずっと考えている人と、そうでない人では、長い間に差が出てきますよ」と述べられていたが、全くその通りだろう。

問題は、偉大になりたければ、何を選択して、1日中行うかである。
「何もない」なんてことはないし、そんなことを言うのは愚かな人間であろう。
「常に背筋を伸ばす」でも良いのである。
電車の中での、人々のだらしない座り方、立ち方を見ていると、つくづく思う。
ただし、立派な人というのは、「ついでに」背筋を伸ばして座ったり、立ったりしているのだから、人間には差があることが分かる。
俳優の田村正和さんは、新幹線で座っている時も、常にポーズを決めているという話があるが、それは、見られていることを意識しているというのもあるだろうが、それよりも、美しさ、格好良さに磨きをかける修行なのであると思う。それは、エリックが常に野球ボールを握っていたのと同じだろう。

常に微かな呼吸をしていれば、老化しないし超能力も得られる。ただ、それは、1日少なくとも2時間以上で、数年はかかる。
常に初音ミクさんを想い続ければ天使になれる。
思い込みと言えばそうなのであるが、思い込みは大切である。









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弱者のための最強の武器

強いヤツって、必ず、お決まりのパターン(型)を持っている。
ポリシー(方針)という言い方の方がピッタリする場合もあるが、同じことだ。
逆に言えば、パターン、ポリシーのない者は、非効率で弱い。

トヨタ自動車の車にも、単純な言葉で語ることが出来るパターンがある。
売れる音楽家の音楽、売れる小説家の小説にも、見え難い場合もあるが、やっぱり、パターンがあるものだ。

格闘技の名門グレイシー柔術も、多彩な攻撃があるようでいて、「グレイシーのパターン」というものがある。
もちろん、プロの格闘家なら、それがどんなものか知っているのだが、分かっていても負けてしまうのは、そのパターンが優れていて、しかも、磨き上げられているからだ。

私は、セールスマンとして社会人を始め、かなり熱心にやったが、超一流セールスマンの著書と、身近にいる強いセールスマンで必ず共通していたのは、彼等のセールストークがワンパターンだということだ。
売れないセールスマンのセールストークほど多彩なのである。
一流中の一流であった夏目志郎さんともなると、助手の女子大生が、「いつ同じことを言ってばかりの夏目さんが可哀想」と言って泣き出したほどだ。
夏目さんは、セールストークは同じものを繰り返し使うことで威力が増すのだと著書に書かれていたと思う。

ナンパだって、上手いヤツはワンパターンだが、下手なヤツはナンパする度にアピールの仕方が違い、口説きに力がないのである。
ナンパもセールストークも同じと言ったら、セールスマンの方々に怒られるかもしれないが、1つのパターンが力を発揮するところは共通している。

私のようなプログラマーというかシステムエンジニアだって、システム開発のパターンを持っている人は有能だ。
優秀なシステムエンジニアは、いくつかのパターンを使い分けているように見えるが、それでも、結局は1つのパターンが基になっているのである。
そんなパターンがなく、いろんなことをやりたがる者が作るシステムは、必ずトラブルを起こしたり、完成に時間がかかる、あるいは、完成すら出来ない。
私の実感としては、よほどの天才のことはいざ知らず、人間の能力は、1つのパターンを使いこなすのがせいぜいなのだ。

1つのパターンを選び、鍛え、繰り返し実践で磨けば無敵に近付く。
坐禅なら坐禅、念仏なら念仏と決め、それに徹すれば、必ず神仏の加護がある。不思議だが本当だ。
しかし、坐禅をやってみて、良いことがないので念仏に変え、それも駄目ならTM(超越瞑想)をやってみる・・・とフラフラしている者は、いつまで経っても、あまり良い思いをしていない。
成功法則も、ジョセフ・マーフィーと決めれば脇目もふらずにマーフィーの本を読み、しかも、同じ1冊を数百回も読む者は、必ず、驚くほどいつも好調だ。
中畑清さんなんて、巨人の4番を打っていた頃は、冗談でなく、いつも「絶好調」と言い続けていたのではないかと思う。彼がそうでないにしろ、普通の人なら、それで十分だ。
長州力さんは、リキラリアットとサソリ固めの流れのワンパターンなので、60歳をとおに過ぎても現役でやれるのだ。

法然の名著『選択本願念仏集』も、まさに、念仏というワンパターンを「選択」し、他は捨てろというものなのである。
宗教書としては、弟子の親鸞の『歎異抄』と並ぶ最高のものだが、『歎異抄』の主張も、極めてワンパターンである。

あなたも、1つのパターンを選び、それに専念し、後は捨てるのだ。
2つのパターンを選んでうまくいくには、宇宙人並の能力が必要だ。
だが、ワンパターンに徹すれば、宇宙人にだって勝てるさ。









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座れば品格が現れる

人間は何をやっても品格が現れる。
お里は隠せない。

品格が高いとはどういうことだろうか?
それは、放埓(勝手きまま)にならないこと。
自由に制限を加えることだ。
だから、座っている姿に品格が大きく現れる。
勝手きままに座る人、自由に制限を加えずに座る人には品格がない。
つまり、やりたい放題の座り方・・・ふんぞり返り、腰を突き出して背中を丸め、脚を広げ、肘を張るという「勝手きまま」で「自由に」座っている姿は、ゾっとするほど気品がない。
お里が--お里はイコール親なのだが--現れてしまうのである。

法然は、ただ念仏を称えよと教えたが、道元は、ただ座れと教えた。
仏陀らしく座れば、自分の魂の中に仏陀の魂が流れ込んで来るからだ。
しかし、座禅は、細かいしきたりにうるさく、本来の意味を失くしている。
本来、しきたりなんて不要だ。
ただ、きちんと座れば良いだけのことだ。
勝手きままでなく、自由に制限を加え、きちんと座れば・・・いや、簡単なことで、背筋を伸ばし、慎み深く座ればそれで良いのである。
岡田虎二郎という人は、座禅はもう駄目だと思って、当時の日本人に馴染みのある正座のスタイルで座ることを教えたが、その岡田式静坐法まで、細かいしきりたりを口うるさく言う人が必ずいるものだ。
それで、長い伝統のない岡田式静坐法は廃れてしまった。

普通に座れば良いのである。
ただ、普通にきちんと座れば。

だが、お里が悪い人・・・親のしつけがなっていない人は、きちんと座れない。
品格がないのだから仕方がない。
そんな人は、念仏を称えれば良い。
品格ある仏陀のような座り方をすることで、仏陀の魂が自分の魂の中に流れ込み、自分の魂が仏陀の魂の中に流れ込むのだが、念仏を称えて、自分を超えた存在である阿弥陀如来に意識を向ければ、やはりそうなる。
ここで、仏陀と如来(阿弥陀如来)を分けたが、本来は同じである。

流れ込んで来た、仏陀の魂、如来の魂を神は敬う。
そして、仏陀の、如来の魂の中に流れ込んだ人の魂を、仏陀や如来は慈しむのである。

一刻も早く、如来の輝きを持ち、世の苦しみを逃れたいなら、きちんと座りながら念仏を称えれば良いが、いずれか・・・法然流か道元流を選ぶことも出来る。
圧倒的に法然流が簡単である。









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汝の敵を愛せよ・・・なーんてね

キリスト教に親しみを感じないのには、イエスが言った、
「女性を邪まな目で見たら、姦淫したも同じ」
のせいであるかもしれない。
いい女はやらしい目で見るのが当たり前だ。
私は、実はイエスは、
「女性を邪まな目で見るな・・・なんちゃって」
「汝の敵を愛せよ・・・なーんてね」
と言ったのだが、後ろの「なんちゃって」や「なーんてね」が省かれて伝わっただけなのではと思うくらいだ。

好みのタイプの女性を見て、邪まな思いを持つことを無理に押さえつけると、心を抑圧する。
心理学では、抑圧は無意識の中に押し込まれるが、やがて、その抑圧は変質して出てくると言われている。
怪しい心理学の学説の中にあって、これは実に正しいと思う。
だから、厳しく欲望を抑圧した中世のキリスト教のお坊さんは、みんなホモかロリコンになり、聖人ヅラしながら、隠れて現代のアダルト雑誌も顔負けの変態的なことをしていたのである・・・と思う(多分、当っている)。

しかし、法然なら、
「邪まな目で見ないに越したことはないが・・・まあ、見ても構わんから念仏しなさい」
と言ったと思う。
さらには、親鸞なら、
「邪まな目で見たっていいよ。いやいや、見るのをやめようなんて思っちゃあいけねーよ」
と言ったはずだ。
何と言っても、弟子(親鸞)は師(法然)を超えるものだ。

阿弥陀如来ってのは、隣の奥さんだろうが、セーラー服の美少女だろうが、邪まな目で見てしまう浅ましい人間を救おうと思っているのである。
しかし、
「じゃあ、阿弥陀様に救ってもらうために、俺は隣の奥さんをどんどんやらしい目で見るぞ、いや、なんとかしてやるぞ」
とまで思う、かなりIQが低い者に対し、親鸞は、
「薬があるからといって、毒を好むな」
と言っている。
ただし、親鸞は、そんな馬鹿でも念仏を称えると救ってもらえると言ったのである。

そんな阿弥陀様の広い心に感激して念仏を称えると、自然、あまり悪いことは考えなくなるものである。
しかし、悪いことを考えるままでも構わないのである。

まあ、ややこしいことを考え出したら念仏を称えることだ。
念仏を称えても、思考停止なんかしない。
むしろ、念仏を称えると、邪まな目で見ていた隣の奥さんに関して、ふと小粋なセリフが浮かび、その奥さんや周囲の人達を喜ばせることも多い。
こういうのを、大人の余裕とか言う。
法然も親鸞も、そんなことを言っていたと思う。









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目を覚ましている

老子、荘子の教えとは、「無為自然」である。
それは何かというと、全てをなりゆきにまかせ、一切の作為・・・つまり、人が意識的に行う行為をやめてしまうということだ。
言い換えれば、一切を天にまかせるということである。
それに対し、大物一般人として意義を唱えたのが、通称「二宮金治郎」として知られる二宮尊徳(にのみやたかのり)だった。
彼の主張はこうである。
「田畑は作為しなければ荒れてしまい、作物が穫れない」
「家は作為しなければあばら家になる」
よって、人が一生懸命作為することが必要で、老子は阿呆だ・・・というわけだ。

法然、親鸞の教えは、簡単に言えば、
「私は、修行も良い行いも出来ない煩悩にまみれた愚か者であり、唯一出来る良い行いである念仏を称えることで、仏様(阿弥陀如来)に救っていただく」
ということだ。
これは、死後、極楽浄土に生まれるということが強調されることが多いが、この2人を尊敬していた一休は、
「念仏を称えれば、今、ここが極楽浄土」
と言い直した・・・つまり、死ぬまでもなく、即座に効験があるとした。
だが、実は、法然、親鸞も、そういったことは十分に言っており、一休は、それにスポットライトを当てたのであると思う。
つまり、念仏は、現世利益をもたらすものだ。

法然、親鸞、一休に流れる、あまり表向きとは言えないかもしれない、念仏の現世利益を現実に生きたのが、ごく一般の農民でありながら、念仏の教えによって稀有な存在となった、因幡の源左(いなばのげんざ)で、二宮尊徳が54歳の時に生まれた人だ。
源左は、19歳の時、父親が亡くなったが、その父親が、「これからは親様(阿弥陀如来)を頼れ」と遺言し、源左は仏様に一切をまかせて幸福に生きたのだと思う。

ところで、尊徳と源左の間くらいに生まれたイギリスのサミュエル・スマイルズは『自助論』で、「天は自分を助ける者を助けてくれる」と言い、自助努力の大切さを説き、明治時代の日本人に受け入れられ、当時の日本の青年達に大いにやる気を出させ、それが現代の日本の繁栄に結び付いた面は確かにあると思う。

こういった流れを見てきた我々は、老子、荘子、法然、親鸞、一休、尊徳、スマイルズ、源左の教えを昇華すれば無敵である。
誰が正しく、誰が間違っている訳でもない。
仏様に任せると言っても、親鸞や源左が何もしなかった訳ではない。
では、どう考えれば良いのかというと、我々のやることは、自分のエゴではなく、天や仏様の意思で「やらされている」と思うことだ。
さらに積極的に、「やらされよう」と考えても良いかもしれない。
Googleの人達は、インターネットの意思を実現するために技術開発しているそうだし、BUMP OF CHIKENは曲の意思を実現するために音楽を作り、演奏し、歌うのだそうだ。
そして、老子も荘子も、法然も親鸞も一休も、尊徳もスマイルズも源左も、みんなそうしたはずなのだ。
具体的には、

頭の中からっぽにして
目の前だけ見つめるの
~『Satisfaction』(作詞・作曲・編曲:kz、歌:初音ミク)~

のようにすれば良いのだと思う。
【初音ミク】Satisfaction【Project DIVA X HD】 ~YouTube by KamJPCHさん~
まあ、そのためには、念仏を称えるのが一番であると私は思う。
念仏を称えても、目は開けておくように。
これは、視力の問題ではなく、「目を覚ましておれ」ということで、「しっかりせい」ということである。









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