ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

法然

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

悲壮感のある人が呪文で輝く

呪文を唱えずとも、うまくいく人がいる。
それは、生まれつき恵まれている人だ。
両親はお金持ちの教養人。
自身も美男美女で、頭が良かったり、運動神経が良い、あるいは、特別な才能があり、早くからそんな天分を生かして称賛され、自信を持ち、さらに飛躍する。
人間は、意識してはいなくても、頭の中で沢山の言葉をつぶやいているのだが、そんな人間は、「私は特別」「誰にも負けない」「偉大なり、私」「私が一番」という言葉が頭の中に定着し、自動的にうまくいく。

そんな人間には、呪文は不要だ。
呪文を必要とするのは、「持たざる者」だ。
放っておいたら、頭の中はマイナスの言葉だらけになって自滅するような者だ。
呪文以外に頼るものがない場合も多い。
しかし、それで良い。
呪文しかなくても、呪文を唱え続けると、「持っている者」をはるかに超える。
「持っている者」というのは、初めから高いところにいて崇められるが、どこか「いけすかない」もので、若い間は良いが、やがて色褪せていく。

人間は、悲壮感があった方が輝く。
ジャズ音楽で最高の売上を上げているライブ演奏『ザ・ケルン・コンサート』は、キース・ジャレットの即興演奏のピアノ・ソロコンサートだ。
ところが、この時、ジャレットは24時間眠っておらず、車を長時間運転して疲れていて、時間は夜の11時半。
用意されたピアノは小さ過ぎる上に壊れていて、ペダルも黒盤も高音域も使い物にならない。
ジャレットは悲壮感を持って挑んだはずだ。
しかし、演奏が開始されると同時に奇跡が起こっていることは誰にも分かった。
まさに、神の演奏だった。
1974年のこの演奏のレコード、CDは今も売れ続けている。

ジャレットは何か言葉をつぶやき続けていたはずだ。
それも、アメリカ人だから、「オールライト(大丈夫)」という単純な言葉だったに違いない。
恵まれた条件なら、そんなことはせず、上手い演奏にはなっても、魂に届くものにはならない。
ウィーンフィルやベルリンフィルも、エリート集団になってからは、恐ろしく上手くても全然良くなくなってしまった。

念仏も、呪文と同じ原理であるが、法然はまさに、何も持たない悲壮な人々を見て、僧としての自分の悲壮を感じた。
その時、まさに仏が入り、「念仏さえあれば良い」「念仏以外にない」と確信したのだろう。

プロレスの話だが、日本のプロレス史には、ジャンボ鶴田という、とんでもない天才レスラーがいた。
素材は、プロレス史上最強のルー・テーズ以上だった。
大学からレスリングを始めてもオリンピックに出てしまう。
2メートル近い長身で、体力、運動神経は生まれつき超人的という、あらゆるものを持った天才だった。
ジャイアント馬場の全日本プロレスでは、若い時から、馬場に次ぐナンバー2が確約され、馬場は超一流の外人レスラーをいくらでも呼べるので、鶴田はそれらの選手と伸び伸び戦っていれば良かった。
だが、その凄まじい才能の半分も生かせなかったと思う。
名著『1964年のジャイアント馬場』に、こんな非常に印象に残ることが書かれていた。
ある、実に鋭い洞察をする人が鶴田に言う。
「アントニオ猪木にあって、お前にないのは悲壮感だ。お前はいくらでも一流の外人レスラーと戦えるが、猪木のところにはタイガー・ジェット・シンしか来ない。しかし、猪木はシンと一生懸命戦っている。そこに悲壮感があるが、お前にはそれがなく、一生懸命戦えない」
猪木さんは、まさに悲壮を絵に描いたような人だが、あの存在感は凄い。
猪木さんも、絶対に何かの言葉を持っているのだと思う。

「持たざる者」である我々は、呪文を唱えなければならない。
努力をしても悪い方にしかいかない。
頭の中で悪いヘビがささやき続けているのだから、努力すればするほど悪くなる。
いわゆる、「がんばったのが裏目に出る」のだ。
ある程度、歳を取っている人なら実感していることだろう。
恵まれた人に言うことはない。
だが、そんな人も、すぐに落ちぶれるので、呪文を必要とする。
万能呪文、
「絶対、大丈夫だ」
「全て順調だ」
「世界は意のままだ」
の中から1つを選び(あるいは、同意の他の言葉でも良い)、常に心の中で、感情を込めずに淡々と唱える必要がある。
それで確実にうまくいくが、ほとんどの人が続かない。
頭の中のヘビに負けてしまうのだ。
だから、思い出す度に呪文を唱えていただきたいものである。









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呪文の初心者を待つ罠

十分に、「絶対大丈夫だ」、あるいは、「全て順調だ」という呪文を唱えていると、頭の中の悪魔が反撃を開始し、マイナスの言葉を出し易い状況を作って不安を刺激してくるかもしれない。
そこがこらえどころで、ますます、しかし、冷静に(感情を込めず)、淡々と呪文を唱えなければならない。
すると、驚くほど、心が安らいだり、ものごとが「恐いほど」好転し、円滑になり、順風満帆になることが多い。
だが、そこで油断をしてはならない。
実際、この時点で呪文をおろそかにし、そのまま駄目になる馬鹿(本当に愚かだ)は少なくないのだ。
うまくいっているのは自分の力ではないのだと謙虚になり、神、あるいは、潜在意識の偉大な力を有り難く思いながらも、ますます熱心に呪文を唱えれば、いよいよ、本物の幸運の波に乗り、約束の地へ誘われる。
だが、神様になるまで油断をしないことだ。
スーフィー(イスラム教神秘主義)には、「彼は神様を探しに行って神様になって戻ってきた」という言葉がある。
だが、悪魔に捕まって戻ってこない者も実際には多いのだ。
最後まで呪文を忘れないことである。

しくまれた間違いというものもあるかもしれない。
だが、それも必然である。
インドの聖者ラマナ・マハルシのところに、ある男が「美しい人妻と間違いを犯しそうだ」と相談に来たことがあった。
マハルシは、「そうなってしまっても後悔するな」と言った。
呪文を唱えても避けられないこともある。
それは、起こるべくして起こることだ。
そうであっても、呪文を唱え続ける限り、決して悪いようにはならない。
ただ、そんな時、葛藤や不安に駆られて呪文に感情を込めないことだ。
実際は、多少は感情が込もってしまっても効果がなくなったり、まして、マイナスになることはない。
しかし、感情を込めず、淡々と唱えた方がずっと良いのである。

ところで、呪文の価値を少しは分かっている者がよく、「ついでにこれをやれば効果はさらに上がる」などと言うことがある。
呪文に「ついでに」はない。
呪文だけで良い。
呪文は念仏と同じである。
法然は、「念仏のついでにこれもやりなさい」などとは決して言わず、ただ念仏だけをしろと言ったのだ。
呪文、念仏以外に価値のあるものはないのである。
ついでに何かやる暇があったたら呪文を唱えよ。
ついでのことの一千万倍の効果があるのだから。
ついでのことに0.1の値打ちがあっても、それには、マイナス100の罠があるかもしれない。
確かに、どんな罠も呪文で呼び起こされた力がなんとかしてくれる。
だが、どんなに高性能の地雷探知機があっても、好んで地雷があると分かっているところに行くこともあるまい。









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現代の念仏

法然や親鸞は、凡人に出来る修行は念仏だけであると認識した。
そして、この世に凡人でない人間など、1人もいない。
親鸞は「優れた御方は、どうぞ難しい方法で」と言いはしたが、その真意は「自分は優れていると自惚れている人間は救えない」である。
法然は、元々、いかなる優れた人間も、そして、神童と言われ、勢至菩薩の生まれ変わりと言われる名声ある自分も含め、念仏以外は出来ないと言い、自ら、もっぱら念仏に励んだ。
一休も良寛も、それに同意し、宗派が違うにも関わらず、最後は念仏を選んだ。

日蓮は、念仏を馬鹿にし、法然を非難したが、結局は自分も、「南無妙法蓮華経」という、念仏となんら変わらない唱え言葉を作った。
彼も、人間に出来る、そして、必要なものは、唱え続ける簡単な言葉であると理解したのだろうと私は思う。

そして、これは今も同じである。
もし、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」という言葉に本当に愛着が持てるなら、これらを・・・ただし、いずれかを選んで、常に唱えれば良い。
どちらが優れているということはない。
全く同じである。
そして、今の時代の人間は、これらの念仏に抵抗を感じる場合が多いはずである。
今の時代の念仏は、
「全てうまくいく」
「絶対大丈夫」
である。
この2つにも、違いはない。
好みでいずれか、あるいは別の自分の好きな言葉を選んでも良い。
とにかく1つの肯定的な言葉を、常に唱えるのである。

ところで、法然は、念仏を声に出して唱えよと言った。
一方、『ヒマラヤ聖者の生活探求』を書いたベアード.T.スポールディングは、「神」という言葉を最上としたが、有声、無声で効果に違いはないと言った。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、一応は呪文にしてはならないと言ったようだが、最強の言葉「私は誰か?」は心で唱えるよう教えている。
どちらが良いかというと、基本的には「好きなように」だが、心で唱えるのが良い。でないと続かない。

「全てうまくいく」「絶対大丈夫」のいずれかを念仏として、常に唱えることで、幸福は約束される。
他に適当な方法はない。
そして、これらも、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と同じなのであるから、念仏の入門書である、法然の『選択本願念仏集』や唯円が親鸞の教えを短くまとめた『歎異抄』が参考になる。
もちろん、現代は、法然がいた時のように、労働以外何もやることがなかった時代とは違うのだから、法然が言うように「まずは1日1万回」など現実的でないが、とにかく、思い出した時はいつでも唱えることだ。
特に、不安に陥った時や、心に嫌な思いが湧きあがってきたような時には、忘れずに唱えなければならない。
法然は、念仏の優れた効果の根拠については、仏典(浄土三部経)を拠り所としているが、正直、仏典は難しい解釈を必要とするし、しかも、百人が解説すれば、百通りの解説になる。早い話が、「これが正しい解釈」というものはなく、各自で好きなように読めば良い。
対して、「全てうまくいく」「絶対大丈夫」を唱えることの効果は、おそらくだが、脳科学や心理学、精神分析学、神経科学から説明出来ると思う。
今のこれらの科学で説明出来るし、未来の科学では、もっと説明出来るだろう。

『ヨハネ福音書』の初めに、「言葉は神である」と書かれている。
もちろん、これがどんな意味かは「誰にも分からない」。
神も仏も同じである。
だから、クリシュナとかアミターバ(阿弥陀仏)という神仏の名を唱えるのは良いことであるが、言葉が神なのであり、「全てうまくいく」「絶対大丈夫」という言葉も神である。これらの言葉を唱えれば、必ずや神の恵みがあり、現代人には抵抗がない。
そして、教わるまでもなく、うまくいく人間は、頭の中で「大丈夫」「オールライト」と常につぶやく習慣を持っているのである。
「7つの習慣」や「13の習慣」として知られているものは、誰にも満足に出来ない。
しかし、言葉を使うことは誰でも絶対に出来るのである。
独断であるが、7つとか13とか、あるいは、30の習慣を薦めている成功者も、本当は、常に1つの言葉を頭の中でつぶやいているだけなのである。









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夏休みの真の課題

どれほどの、まるで駄目男、まるで駄目子であっても、1つの言葉でアファーメーション(呪文と言って良い)を続ければ、まずは普通の人並になり、平凡を超え、アファーメーションを本当に多くやれば、やがてはエリート、英雄になる。

ところで、10日近い休暇を取っていると、学生の時の夏休みを思い出す。
ほとんどの小中学生は、午前中などは、ある程度暇でゴロゴロしていることも多いと思うが、ぼーっとしながらでも、頭の中で1つの良い言葉を淡々と繰り返せば、すぐにでもヒーロー、ヒロインになれるものを、大切な時間を無駄にしてしまっている。
そして、親やテレビや、いまでは、ネットの悪い影響を受け、下がっていくだけなのかもしれない。
頭の中で「大丈夫」「無敵」「絶好調」「不死身」など、1つの言葉をずっとつぶやいていれば、夏休みの終わりに自死するようなことはなくなる。

あらためて、エマーソンの『自己信頼』を読むと、自己信頼がいかに大切なものであるかが分かるし、ブリステルの『信念の魔術』を読むと、信念の力の強大さがはっきり分かるが、では、どうすれば、自己信頼や信念が得られるかは、全く書かれていない。「書かれていない」などと言うと、反論もあるだろうが、実際に、それらを得るためのことが何も出来ないのだから、書いてないも同様なのだ。
優秀なだけでなく善良なはずの彼らでさえ、正しいかもしれないが難しいことを書くのが精一杯なのだ。
ニーチェすら、ツァラトゥストラに「高貴な魂の持ち主」と言わせたイエスは(※ニーチェはイエスが嫌い)、いくつかの易しいやり方を教えはしたが、それでも難しい。なるほど、彼の教えにより、世界は2千年をかけて随分良くなったが、いまだ多くの庶民は苦しいままだ。
イエスは、第一の法として、「神を強く愛しなさい、誰でも自分のように愛しなさい」と言ったが、感情を込めず、淡々と、「わが信頼する神」と頭の中でつぶやきなさいとは教えなかった。
実際は、それだけで良いのだ。
そして、それを教えたのが、善導、道綽といった中国の僧で、それを日本で引き継いだのが、法然、親鸞だった。
「南無阿弥陀仏」とは、「わが信頼する神」と全く同じ意味である。
しかし、宗教が、念仏に余計な意味をつけてしまい、人々が救われないようにしてしまった。
「南無阿弥陀仏」とは、無限の知恵と力を持ち、限りなく世話を焼いてくれる仏様への親愛を示すものなのだが、宗教は、そんな当たり前で簡単なことを教えない。

自己信頼を難しく考えるくらいなら、「凄いぞ俺」と、頭の中で淡々とつぶやけば良いし、「信念とは何ぞや」などと時間つぶしをするくらいなら、「大丈夫」と心でさりげなくつぶやきながら好きなことをすれば良いのである。
長嶋茂雄は「俺は絶対に打てる」といつも言葉でつぶやいていたし、200安打にこだわったイチローはきっと「俺は200本打てる」という言葉が頭の中にあったのだろうと思う。

私は、プログラマーとしては、短期間でバグのないプログラムを書くことにこだわった。
それで、普通の人が1ヶ月かかるプログラムを数日で書くし、バグはほとんどなく、リリース後は、あまりにトラブルがないので、その仕事から縁がなくなってしまうほどだ。
私はずっと昔、あまり程度の良くない本だったかもしれないが、その中に、
「短期間でバグのないプログラムが書ければ、ロリコンの変態でも一目置かれる」
と書かれていたのをよく覚えていたのだ。
私は、ロリコンでも変態でもない・・・はずだから(笑)、なおさらそうである(変態でない人間などいるのか?)。
だが、「バグのないプログラムを超スピードで書ける」という言葉にして、頭の中で淡々とつぶやいていれば、もっと上手くなっていたと思う。

ただ、法然の時代と違い、今は、誰もが英雄になる時代だ。
だから、唱える言葉は、自分で1つ選ばなければならない。
それが出来れば勝ったも同然であるが、実際、好きな言葉なら、何でも良いのである。









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まるで駄目な2人の青年が、なぜ生まれ変われたのか

当時、20代だったヨガ指導者の藤本憲幸氏の本の中に、面白い実話があった。
自信のない暗い二十歳くらいの青年(男性)が、突然悟りを開いて超人になったと自称してやって来て、藤本氏も、胡散臭くは感じたのだろうと思う。
しかし、その立ち居振る舞いは堂々として立派だし、実際、沢山の人達に敬われているようでもある。
その若き超人が話したことを読むと、私も、やはり何かを掴んでいるとは思う。
コリン・ウィルソンの本にも、やはり劣等感と無力感に取りつかれた駄目な青年が、少しの間に啓示を受けたように生まれ変わり、実際に人々の信奉を集め、賢者と言えるほどであるというお話がある。

藤本氏は、その超人の青年に、ダイエットの方法を尋ねている。
超人の青年は、「自分はすでに10kg痩せてすっきりした身体になったと思うと良い。食事を制限したり、運動したりは不要」と言う。
藤本氏も、それには反対ではないようだったし、私もそう思う。
ただ、「思う」というのは、かなり、シンドイ・・・つまり、負担なのだ。
シンドくて負担だから、大抵・・・いや、99%続かない。
そうではないだろうか?
成功哲学の本に書かれている通り、金持ちになった自分、美人美男になった自分をイメージしても、それを10日続けられた人は、まあ、いないと思う。
一方、コリン・ウィルソンの本にあった「元駄目で今は立派な」青年の方は、もっと良い・・・つまり、実行可能な、実際的、合理的なヒントを与えてくれる。
その青年は、ある時、「僕はなんて駄目なんだ」とつぶやいたら、それを聴いた人が「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」と青年に言ってくれた。
それから数日で、青年は生まれ変わった。
その本には、青年が「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」という言葉について、ずっと考え続けたことになっているが、考えるだけでは、少し気が晴れはするかもしれないが、すぐに元に戻るはずなのだ。
本には書かれていないが、この青年が、そんなに立派になれたとしたら、1つにことをやっただけなのだ。
即ち、自分は駄目ではないという意味の言葉を、頭の中でずっとつぶやき続けたのだ。
それは、「僕はちっとも駄目じゃない」を意味するような言葉で、例えば、「僕は可能性に満ちている」「僕は希望に満ちている」「僕はどんなことでも出来る」などだ。
「大丈夫」とか「絶好調」でも良いし、その時、たまたま、その青年が、ノーマン・ヴィンセント・ピールの本『積極的考え方の力』(トランプ大統領の愛読書でもある)や、聖書を読み、「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでも出来る」という言葉を覚えて、それを唱えたのかもしれない。

藤本氏の本の方の超人の青年も、やはり、何かの言葉を唱え続けたはずなのだ。
心で抽象的に思ったり、イメージするのは、やはり、大きな負担であり、それを続けられる人はいない。
法然も、仏の姿をイメージし続ける正統的な修行は、よほどの人でなければ続かない・・・あるいは、よほどの人であっても続かないと思ったから、「南無阿弥陀仏」の念仏だけを選ぶべきであると言ったのだと思う。

どんな駄目な人間・・・このブログに時々出てくる、まるで駄目男君(30歳過ぎの人生の落伍者。派遣の雑用係)ですら、たった1つの言葉をつぶやき続ければ、上の2人の青年のように、強くなり、幸福になれるのである。
その言葉は、早い話が何でもいいし、何度か変えても良い。
1つの特別な言葉があれば、人生の問題の99%以上は(おそらく100%)解決する。
「大丈夫」「絶好調」で良いのである。
「私に恐れはない」でも、「奇跡は起きる」でも。
すぐに1つ決め、ずっと唱えるべきである。
もちろん、独自に決めても良いが、あまり凝らないことだ。
すぐに始めた方が良い。
ただ、注意しておきたいのは、特別な言葉は1つでなければならないということだ。
2つ以上だと、ほとんど続かないのだ。それで失敗する人が、あまりに多いのである。
つまるところ、「大丈夫」も「絶好調」も「奇跡は起こる」も同じなのである。








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