「サービスには対価が必要」という観念は、既に日本人にも定着したと思う。
昔は、「サービスという言葉が無料を意味すると捉える日本人は無知で幼稚で世界の非常識だ」と言われたものだった。
CLAMPの漫画『xxxHOLiC』の侑子という怪しげな妙齢の美女は、他の漫画にまで登場し、度々、「何かを得るには対価が必要」と宣言する(その対価は彼女がもらう場合が多い)。
そりゃまあ、自分がしてもらう立場の時は、良い心がけであることは認める。
しかし、「何事にも対価が必要」は、今では理解出来ない人が多いだろうが、正直言って資本主義の洗脳である。
日本には、そんな考え方などはなかったのだ。
尚、資本主義の洗脳と社会主義の洗脳ではどっちが良いかという話はここではしない。
私がこよなく敬愛する・・・というより、男惚れにべた惚れという男に、沢村忠というキックボクサーがいた(2021年3月逝去)。
プロ野球で2年連続三冠王を取った王貞治さんを抑え、日本プロスポーツ大賞を取ったほどのスーパースターだった。
その沢村は、空手の師匠である祖父の教え「男は何かをしてやっても報酬を求めてはいけない」を貫いていた。
まあ、以下は、事実ではないと言う人もいるかもしれないが、それは正直、どうでもいい。
沢村忠は日本キックボクシングの選手第一号で、キックボクシングの興行に漕ぎつけるまでに大変な苦労をした。
そして、ついに実現したキックボクシングの旗揚げ興行の時は、沢村は唯一の趣味であった車を売ってミシンを買い、自らミシンを踏み、全ての選手のガウンにネームの刺繍を入れた。
これは王貞治もそうであったらしいが、人気が出た沢村が、大勢のファンにサインを求められると、最後の1人までサインをした。
テレビ番組の出演依頼は引きも切らずで、本当は練習するか休むかしたかったはずだが、「せっかく営業さんが取って来てくれた仕事ですから」と嫌な顔一つせず、むしろ笑顔でこなした。
沢村は、自分が出場しないと客が入らないことを知っていたので、怪我をしていても黙ってとんでもなく多くの試合に出場した。
孤児院、老人ホームの慰問が好きで自主的に行い、忙しくても、施設でイベントがある時は袋にお菓子をいっぱいに詰め込んで出向いた。
それら、どんな時でも、余計な報酬は一切求めず、それどころか、「男は宵越しの金は持たない」という気っぷの良さで、単に皆で楽しむという目的だけで、若手を引き連れて食事に行き、当然のように自分が全部払った。
だが、決して沢村が特別なのではないのだ。
日本人は、自分の分に応じたレベルで、報酬を求めずに他人のために何かをするのが当たり前だった。
それが、西洋資本主義の思想に犯され、お金をもらわないと何もしないのが当たり前だと思うようになってしまった。
日本人が、昔の日本人らしさを取り戻さないと、滅びは免れない。
日本人は、そんな気風であったから、極端な貧富の差はなかった。
金持ちといったところで、普通の人とそれほどの差はなかった。
ちょっと昔は、大きな会社の社長といっても、せいぜい年収は3千万円程度で、これはアメリカなどでは不思議に思われていた。
ところが、世界に知られる日本の大企業の社長が、一般社員と一緒に社員食堂で昼食を食べるというのがアメリカで報道されると、アメリカ人もそれを奇異と感じるのではなく、称賛したのである。
日本の古来からの考え方が、人間の本当の姿だと、アメリカ人にすら分かったのだ。
小さなことであるが、私は、ゴミ出しの日には、近所の歩行が困難なお年寄りの家のゴミを出してあげていて、他にも手助けが必要な家がないか注意しているが、先日、そんな家からお礼の品をもらってしまった。もちろんありがたいが、それは本意ではなかった。
まあ、死後、閻魔様に「何か人の役に立つことをしたか?」と問われたら、このことでも言おうとは思っていたが、何かもらったらもう言えないのかなあ(笑)。
ダスキンの社是であったと思うが、創業者、鈴木精一の思想は「損な道と得な道があれば、自分に関しては損な道を行く」であったと思う。
まあ、「自分に関しては」を付けないと、自分に権限がないことで、たとえば会社に損をさせる馬鹿がいるから難しいが(結構いると思う)、鈴木精一の意図を理解して実践することが、日本人らしいやり方で、別に特別なことではない。
AIアート523
「風と太陽」
Kay
政木和三さんは、「情けは人のためならずとは、相手を甘やかして駄目にしてはいけないという意味ではなく、他の人に無報酬で貢献すれば、やがては自分に帰ってくるという意味だ」と言われていたが、実際は、帰って来ることも期待してはならない。
ここのところは、イエスの教えでは、人から報酬を得なければ神が報酬をくれるということであるが、神からの報酬すら、控え面に期待すべきだろう。
少なくとも、自分が困らない範囲でなら、日本人なら、無報酬で骨を折る気構えを持てるのではないかと思う。
そして、日本人がそうならないなら、日本人に存在価値はなく、そう遠くなく日本は滅ぶと思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説
(2)思考するカンパニー: 豊かなコミュニティの総和が裕福な国家を超える社会へ
(3)奇跡の実現―欲望を捨てれば不可能が可能になる
(4)ダスキン 祈りの経営―鈴木清一のことば
(5)ラマナ・マハルシの教え
(6)×××HOLiC(1)
昔は、「サービスという言葉が無料を意味すると捉える日本人は無知で幼稚で世界の非常識だ」と言われたものだった。
CLAMPの漫画『xxxHOLiC』の侑子という怪しげな妙齢の美女は、他の漫画にまで登場し、度々、「何かを得るには対価が必要」と宣言する(その対価は彼女がもらう場合が多い)。
そりゃまあ、自分がしてもらう立場の時は、良い心がけであることは認める。
しかし、「何事にも対価が必要」は、今では理解出来ない人が多いだろうが、正直言って資本主義の洗脳である。
日本には、そんな考え方などはなかったのだ。
尚、資本主義の洗脳と社会主義の洗脳ではどっちが良いかという話はここではしない。
私がこよなく敬愛する・・・というより、男惚れにべた惚れという男に、沢村忠というキックボクサーがいた(2021年3月逝去)。
プロ野球で2年連続三冠王を取った王貞治さんを抑え、日本プロスポーツ大賞を取ったほどのスーパースターだった。
その沢村は、空手の師匠である祖父の教え「男は何かをしてやっても報酬を求めてはいけない」を貫いていた。
まあ、以下は、事実ではないと言う人もいるかもしれないが、それは正直、どうでもいい。
沢村忠は日本キックボクシングの選手第一号で、キックボクシングの興行に漕ぎつけるまでに大変な苦労をした。
そして、ついに実現したキックボクシングの旗揚げ興行の時は、沢村は唯一の趣味であった車を売ってミシンを買い、自らミシンを踏み、全ての選手のガウンにネームの刺繍を入れた。
これは王貞治もそうであったらしいが、人気が出た沢村が、大勢のファンにサインを求められると、最後の1人までサインをした。
テレビ番組の出演依頼は引きも切らずで、本当は練習するか休むかしたかったはずだが、「せっかく営業さんが取って来てくれた仕事ですから」と嫌な顔一つせず、むしろ笑顔でこなした。
沢村は、自分が出場しないと客が入らないことを知っていたので、怪我をしていても黙ってとんでもなく多くの試合に出場した。
孤児院、老人ホームの慰問が好きで自主的に行い、忙しくても、施設でイベントがある時は袋にお菓子をいっぱいに詰め込んで出向いた。
それら、どんな時でも、余計な報酬は一切求めず、それどころか、「男は宵越しの金は持たない」という気っぷの良さで、単に皆で楽しむという目的だけで、若手を引き連れて食事に行き、当然のように自分が全部払った。
だが、決して沢村が特別なのではないのだ。
日本人は、自分の分に応じたレベルで、報酬を求めずに他人のために何かをするのが当たり前だった。
それが、西洋資本主義の思想に犯され、お金をもらわないと何もしないのが当たり前だと思うようになってしまった。
日本人が、昔の日本人らしさを取り戻さないと、滅びは免れない。
日本人は、そんな気風であったから、極端な貧富の差はなかった。
金持ちといったところで、普通の人とそれほどの差はなかった。
ちょっと昔は、大きな会社の社長といっても、せいぜい年収は3千万円程度で、これはアメリカなどでは不思議に思われていた。
ところが、世界に知られる日本の大企業の社長が、一般社員と一緒に社員食堂で昼食を食べるというのがアメリカで報道されると、アメリカ人もそれを奇異と感じるのではなく、称賛したのである。
日本の古来からの考え方が、人間の本当の姿だと、アメリカ人にすら分かったのだ。
小さなことであるが、私は、ゴミ出しの日には、近所の歩行が困難なお年寄りの家のゴミを出してあげていて、他にも手助けが必要な家がないか注意しているが、先日、そんな家からお礼の品をもらってしまった。もちろんありがたいが、それは本意ではなかった。
まあ、死後、閻魔様に「何か人の役に立つことをしたか?」と問われたら、このことでも言おうとは思っていたが、何かもらったらもう言えないのかなあ(笑)。
ダスキンの社是であったと思うが、創業者、鈴木精一の思想は「損な道と得な道があれば、自分に関しては損な道を行く」であったと思う。
まあ、「自分に関しては」を付けないと、自分に権限がないことで、たとえば会社に損をさせる馬鹿がいるから難しいが(結構いると思う)、鈴木精一の意図を理解して実践することが、日本人らしいやり方で、別に特別なことではない。
AIアート523
「風と太陽」
Kay
政木和三さんは、「情けは人のためならずとは、相手を甘やかして駄目にしてはいけないという意味ではなく、他の人に無報酬で貢献すれば、やがては自分に帰ってくるという意味だ」と言われていたが、実際は、帰って来ることも期待してはならない。
ここのところは、イエスの教えでは、人から報酬を得なければ神が報酬をくれるということであるが、神からの報酬すら、控え面に期待すべきだろう。
少なくとも、自分が困らない範囲でなら、日本人なら、無報酬で骨を折る気構えを持てるのではないかと思う。
そして、日本人がそうならないなら、日本人に存在価値はなく、そう遠くなく日本は滅ぶと思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説
(2)思考するカンパニー: 豊かなコミュニティの総和が裕福な国家を超える社会へ
(3)奇跡の実現―欲望を捨てれば不可能が可能になる
(4)ダスキン 祈りの経営―鈴木清一のことば
(5)ラマナ・マハルシの教え
(6)×××HOLiC(1)