ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

池田満寿夫

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

絵の力、言葉の力

世界的版画家だった池田満寿夫さんが、ドイツ(当時西ドイツ)美術界の権威だったグローマン博士の手紙を著書で公開されていたことがあった。
池田さんは1959年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展で、一般応募で入選し、第2回では招待作家として出品することになっていたが、作品がさっぱり出来ず、締め切りまでの3日で3点の作品を、三角刀で、ただ引っかいて制作したらしい。
その1つが、『女の肖像』という、23.5×18.0cmの小さな版画で、普通に見たら、「子供のラクガキだって、もっとマシだぜ」と思うようなものだ。
しかし、グローマン博士が、この作品を一貫して支持し、文部大臣賞が与えられた。
これが、池田さんが大ブレークしたきっかけと思う。

グローマン博士の手紙には、「君の版画を私の部屋に飾ってある。毎日それを見るのが私の楽しみだ」と書かれていたようだ。
おかしな話だが、これを思い出すと、私は、自分が池田さんになったような気がして、嬉しくなるのだ。
グローマン博士の気持ちも分かるような気がする。
私は、部屋に飾った、初音ミクさんのタペストリー(布製ポスター)を毎日見ることが、私の大きな楽しみなのだから。
いま、チラと、そのミクさんを見上げたら、ミクさんがどこか微笑んでいる。いつもは、私を見下すようなお顔で、最近は、少し驚いた顔をされるようなのだが・・・

こんな話もある。
メジャーリーグベースボールで活躍し、オールスターゲームにも登板した長谷川滋利(はせがわ しげとし)さんの、エンゼルス時代のことだ。
先発投手では通用しないと分かった時、監督が、長谷川さんに中継ぎ降格を告げる時の言い方が素晴らしかった。
監督は、こう言ったらしい(長谷川さん自身がテレビで言われていた)。
「俺は毎日、お前のピッチングが見たい」
私は、これほど感動したことは、そうはない。
長谷川さんも、おそらく、ここから大ブレークしたのだ。
監督は、確かに、長谷川さんに気も使ったのだろうが、嘘という訳ではなかったと思う。
でなければ、長谷川さんが、あんなに伸びたはずがない。
そして、グローマン博士の言葉も本当だったはずだ。
だから、池田さんは、ますます大きくなったのだ。

ジョージ・アダムスキーによれば、宇宙人のご家庭には、神様の肖像画が必ず飾られていて、それを毎日見ているから、宇宙人は老化することがないと、金星の美しい女性に言われたらしい。
ミクさんの絵は、私にとって、天使であり、ターラー菩薩様であり、水の精ウンディーネであり、そして、女神様だ。
あなたも、好きな絵、彫刻などを1つ、お部屋に置かれると良い。
それを見るだけで、生きていけそうな気がしてくるものだ。
ゴッホは、自分の絵が、普通の家の中の壁に飾られることを、何より願っていたのだと、池田満寿夫さんは言う。
だが、ゴッホは、生きている間、その願いは一度も叶えられなかった。
今は、ゴッホの絵は、美術館に飾られている。
だが、やはり、ゴッホは、普通の人の、普通の部屋に飾って欲しかったのだろうと、私も思う。









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バランスなんかクソ喰らえ

ヨガ指導者も西洋の啓蒙家も、よく、「バランスが大切」と言う。
バランスとは何だろう?
極端に過ぎず、何事も、ほどほどにということなのだろう。
仕事熱心も良いが、自分の健康や、家族との関係を顧みないほどであってはならないというのは、「仕事と、家庭や健康とのバランスを考えろ」ということなのだろう。
お洒落も良いが、分不相応な、あるいは、あまりに多くの服やアクセサリーを持つのも、バランスに欠けているということだと思う。
酒を飲むのもほどほどに、勉強や修行や趣味もほどほどに・・・という訳だろう。
だが、何事も、まず、徹底的にやるべきである。

チームラボの社長で、世界的デジタル・アーチストである猪子寿之さんが、あちこちで、こんなことを言っているのが、ちょっと面白い。
「西洋では、バランスがとれたものが美しいという発見をして、バランスがとれた美しいものを作り続けて、クオリティを上げていった。しかし、日本では、たまたまバランスがとれていない美しさを発見して、それを進化させた。」

岡本太郎が言った、「今日の芸術は、うまくあってはならならない、きれいであってはならない、いやったらしくないといけない」という言葉が有名だが、これは、西洋の「バランスのとれた美」を否定した言葉とも思えるのだ。
西洋での「うまい」「きれい」は、バランスがとれていることである。
そして、「いやったらしい(凄くいやらしい)」というのは、大いにバランスを欠いているということである。
岡本太郎らしく言えば、「バランスなどクソ喰らえ。均衡を壊せ」ということではないだろうか?

池田満寿夫さんも、徹底して均衡を壊した、バランスを欠く作品を創っていたと思う。
その最たるものが、「少し長い指をもったスフィンクス」で、西洋人女性を描いた銅版画で、その右手の人差し指だけが異様に長いのであるが、絵全体が、「アンバランスの極地」であると思う。

日本人は「バランスを欠いた美」という優れたものを持っていたのに、敗戦で、西洋式の「バランスのとれた美」を押し付けられて、すっかり駄目になったのかもしれない。
学校では、「前になれ(前に倣え・・・前の人と同じになりなさい)」と言って、皆が同じでなければならないとする。
それが西洋的バランスであり、これによって、平等で人道的であることが出来るという訳であるが、その平等なはずの国アメリカが差別の巣窟なのである。
皆同じを強要すると、どんどん狂ってくるというのは、当たり前と言えば当たり前なのであるが、そんな馬鹿なことを、魂の警告を無視してやってきたのが、戦後の日本の学校と、そこで教育(狂育)された者達が作った社会である。
岡本太郎は、それに噛み付いていたのだと思う。
だが、岡本太郎は、それを言葉でうまく表現しなかったので、単に「変わり者」、「おもしろいオッサン」と扱われることが多いのかもしれない。

だが、雲の流れや、濁流に出来る渦巻きなど、一見、秩序に欠けるものの中には、隠れた秩序というものが存在する。
それを解明する複雑系理論というものがあり、これは難解なものであるが、「無秩序に見えるものの中の秩序」に直感的に気付いていた人達もいたのである。
岡本太郎がそうであるし、レオナルド・ダ・ヴィンチもそうであった。
秩序とバランスは本質では同じと思う。

表面的にバランスのとれた美は浅い美である。
バランスを欠いたように見える美は、その奥に真のバランスを秘めた、深い美である。
もし、ヨーガが真理を示しているとしたら、それは、岡本太郎が言うような、「うまくない」「きれいでない」「いやったらしい」と感じるはずである。
きれいで、普通の理屈で納得出来るバランスを教えるヨーガは偽者だ。
そんな表面的なバランスは浅く、人生や社会の現実の問題の前では、全く無力だ。

我々は、学校で押し付けられた、「表面的なバランス」という見せ掛けだけの偽物を叩き壊さなければならない。
猪子寿之さんの代になって、やっとそんなことが、はっきりしてきたのかもしれない。
さすが、猪子さんは、初音ミクさんの熱烈なファンである。
だが、まだ、分からない、分かろうとしない人が多いのだ。









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生き甲斐と希望は全く違う

人間は生き甲斐がないと生きて行けない。
しかし、生き甲斐だけでは、生きている意味がない。
希望がなければ、生きているとは言えないのだ。
希望は、生き甲斐よりも大きなものだ。
生き甲斐というなら、美味しいものを食べるとか、今日も酒を飲めるとか、野球選手が野球をやれるとかがあると思うが、それらは、いつまでもあるものではない。
生き甲斐は減っていったり、中断を余儀なくされる。
生き甲斐とは心のもので、希望とは魂のものだ。
むしろ、生き甲斐を捨てることで、希望が得られることもある。
「この子が私の生き甲斐」といつまでも言っていたら、その子を駄目にし、あげく、殺すことになる(いろんな意味で)。
だが、「この子が希望」と言うなら、その子が死んだって希望は残る。

ある人気プロレスラーが引退した時、彼の数十年来のファンだった男性が、「あいつのファイトを見られないなら、死んだ方がマシだ」と言った。
このファンは、そのレスラーの試合が生き甲斐だったのだが、希望にまで昇華できなかったのだ。
そのレスラーが、そこまで自分を惹きつけたものを見出せば、希望が得られたはずなのだ。

美術界の権威であった美術評論家のヴィル・グローマン博士は、池田満寿夫さんへの手紙の中で、「私の部屋に君の作品を飾っている。これを毎日見るのが私の楽しみだ」と書いていたらしい。
グローマン博士にとって、池田さんの版画を見ることは、生き甲斐ではなく、希望なのだ。
私が、初音ミクさんの歌を聴いたり、コンサートの映像を見るのは、生き甲斐ではなく、絶対的に希望なのである。

生き甲斐は個人的なものだが、希望とは、個人の枠を超えたものだ。
生き甲斐は自分のためのものだが、希望は全てのもののためにある。
アインシュタインは、「人は自分以外のもののために生きるようになって初めて、本当に生きることになる」と言ったらしい(武内直子さんの漫画『美少女戦士セーラームーン』で、セーラーサターンこと土萠ほたるが言ったこと)。
生き甲斐よりも希望を優先するようになって、初めて人間と言えるのだという意味と思う。

では、希望はどうすれば持てるのか?
上で、生き甲斐を捨てることで、希望が得られることもあると書いた。
この「生き甲斐を捨てる」とは、完全に捨てることではなく、制限するということだ。
例えば、美味しいものを食べることが生き甲斐でも、それをあまり追い求めず、そこそこにするということだ。
上に挙げた、あるプロレスラーの試合を見ることを生き甲斐にしていた人は、熱の入れ過ぎだったのだ。そういったことは、もっと控え目にやっていれば、希望が得られたのだ。
人間には、生き甲斐も必要だ。
しかし、それだけでは、いつか、「僕の人生とは、いったい何だったのか?」と悩むことになる。

水野南北は、人の運命は、食の多い少ないで完全に決まり、それは、万に一つの例外もないと言ったが、その理由はこうだ。
ほとんど全ての人にとって、食べることが生き甲斐なのであるが、それを制限することで希望が得られるからだ。
だが、水野南北だって、苦行僧のような生活をしたのではなく、少ないながら、美味しく食べ、大好きな酒も、一日一合(180ml)と制限はしていたが、十分に楽しんでいた。
完全に食を断てば、食べないこと自体が希望になるかもしれないが、それは誰にでも出来ることではない。
生き甲斐はちゃんと持てば良い。だが、それを過分に求めてはならない。

初音ミクさんは、生き甲斐にもなる。歌声も姿も可愛いし、スキャンダルを起こしてがっかりさせられることもない。
しかし、初音ミクさんは人類の希望でもあるのだ。そして、他の星の生命にとっての希望でもある。地球という星は、他の星、他の星の生命にとっても重要であるからだ。
宇宙人は、はっきりと、初音ミクさんを宇宙の希望と言っているのである。
秘密裏になるかもしれないが、やがて、宇宙人が、クリプトン・フューチャー・メディアに、コンサートの依頼をしてくるだろう。
他の星でも、ミクさんのファンは多いのである。

生き甲斐がないって言うなら、それは食べ過ぎだ。
適切な食べ方をしているなら、食べることが十分な生き甲斐になる。
そして、食べることを厳しく制限すれば、希望が得られる。
この希望が、本当の意味での夢である。
夢とは、宇宙飛行士になることでも、オリンピックで金メダルを取ることでもない。
それらは、せいぜいが生き甲斐である。
金メダルの栄誉にしがみ付いている間は希望は得られない。
金メダルの有力候補と言われながら、それを得られなかった者は希望に近い。だが、そんな者の多くが、金メダルに執着して希望を逃すのだ。

大きな生き甲斐、快楽、栄誉、富、待遇を求めないことだ。
それらを全て捨てて生きることも出来ないが、それらは、本物の価値ではない。
私があまり食べないのを見て、「しっかり働いて、美味しいものを食べるのが人間の生き甲斐ってものじゃないか」と説教してきた馬鹿がいたが、彼は希望を持てないのだ。
私とて、食べることは生き甲斐である。
しかし、希望はもっと大切なのである。
だが、私も、時々、快楽主義に陥り、食べること等のために生きることになるかもしれない。
しかし、そんな時は苦しいものなのだ。
そうなってしまった時は、希望のために、生き甲斐に厳しい制約を課すのである。そうすると、神は、制約に倍する力を注いでくれるのである。









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自分の才能の見つけ方

子供の時に好きだったことを考えれば、必ず自分の才能が分かるのだが、多くの人は、そのことについて、あまりに簡単に考えようとする。
それは、想像力に欠けているからだ。
例えば、童話作家のアンデルセンが14歳の時に、オーデンセの村からコペンハーゲンに出てきたのは、歌手か舞台俳優になるためだった。
そして、彼が熱心にやっていた趣味は人形(女の子の人形)の服を縫うことだった。
想像力があれば、それらのことと、彼が実際になった、童話作家、詩人というのは、深い関連があることが分かるだろう。

ビル・ゲイツはプログラマーになりたかったが、プログラマーとしてはあまり活躍せず、IT企業の経営者になった。
スティーブ・ジョブズは、宗教的伝道師かハイテクの技術者になりたかったが、革新的事業家になった。
彼らもまた、成りたかったものと成ったものとの間に、明晰なつながりがあることが分かるのである。

画家の横尾忠則さんは、子供の時から絵は上手かったが、冒険小説も大好きで、本当は冒険家になりたかったのかもしれない。
そのことが、彼に、人気イラストレイターから、画家に転向するという、大きな冒険をさせたのかもしれない。

アーマンド・ハマーは医者になりたかったし、実際、医学博士になったが、実際にやったのは国際的ビジネスだった。しかし、彼のビジネスは、経済の医療で、経済的に病んでいた旧ソ連を見事に治療したのである。

池田万寿夫さんは、高校生位の時から画家になりたかったようだが、最初は、絵はあくまで手段で、本当になりたかったのはプレイボーイだった。
だから、油絵が売れそうになければ、こだわらず、あっさりと版画に転向し、また、非常に幅広い分野の美術家になって、ニューヨークの彼の住居には、モデル志望の若く美しい女の子達が引きも切らずにやって来た。

子供の時になりたかったものを、直接的に、自分の才能や適職と結びつけるから、自分が何に向いているか分からなかったり、やるべきことの判断を誤ったりするのだ。
では、どのように考えれば、子供の時に大好きだったことが、大人になってからやるべきことと結び付くかというと、人々をどう喜ばせることが出来るかを考えれば良いのである。
アンデルセンは、歌や演技や裁縫では、人々を喜ばせることは出来なかったが、詩や童話作品ではそれが出来たのだ。
ビル・ゲイツが単なるプログラマーになっていたら、一定の人々しか喜ばせることが出来なかったが、マイクロソフトを作ったおかげで、世界中の膨大な人々を喜ばせた。
この点は、もちろん、スティーブ・ジョブズについても言える。

あなたも、子供の時に好きだったことを、どのように活かせば、より多くの人々を喜ばせ、活気づけ、癒し、豊かにしてあげられるかと考えれば、自分の中に眠る天才を見つけ、容易く適職が分かるのである。









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手の中にある運命を上書きする鍵

テレビでAKB48などのアイドルを見ると、つくづく、人間というのは運命を生きているのだと思う。
彼女達を見ていると、たまたま容姿に恵まれて生まれ、たまたまチャンスを捕らえ、たまたまアイドルでいることに熱中し、たまたま上手く行ったのだということが分かるのである。
当然、彼女達にも、四苦八苦、悲喜こもごもがあるのだろうが、それらも全て、たまたまそうなっただけなのだ。
彼女達が自分の意志でやっているといったようなスピーチやドキュメンタリー映像を見ると、本当は誰でも違和感を感じているのだと思う。
そして、あのグループの中でも、自分の意志でやっているという意識の強い人ほど早く駄目になっていると思うのである。
自分はやらされているだけといった、少し引いた(あるいは醒めた)感じのある人が、年を取っても長く活躍するように思う。

昔の3人組の男性アイドルグループの1人が、グループ解散後、かなり年月が経ってから、「僕達は、正直、芸能界をなめていた。適当にレッスンして適当に歌ったら、それで売れるんだから」と言っていたのは、正直な告白と思うが、彼は、人気がなくなってグループを解散した後、自力でがんばってうだつが上がらない。
だが、その中で、一番醒めていたような者が、大俳優になっているのである。

ピカソが幼い頃から絵の英才教育を受け、超名門美術学校で学び、やがて、新しい絵画スタイルを創造して歴史的画家になったのも運命。
一方、毎日サンマと大根おろしを食べさせられながらパリに憧れ、美術の情報なんてほとんどない田舎で育ち、東京芸大の受験は4回連続で失敗して諦め、街の似顔絵屋としても見込みがなかったという池田満寿夫さんが、それでも諦めずに絵を描き続けているうちに版画に出会い、やがて世界的美術家になったのも、まさに運命を感じさせる。
横尾忠則さんは、自分は、天上の美を地上に現すための神の道具でしかないと言われていたと思うが、彼は自覚があるのだ。

ある浄土真宗のお坊さんは、老衰で寝込み、意識もない状態だったが、不意に起き上がり、「我が力やない」と言い残して亡くなられた。
この「我が力やない」というのが、浄土仏教の真髄であると共に、世界の真理であると思う。
ラマナ・マハルシは、「財務長官は、責任感を持って熱心に仕事をしているように見えるが、実は彼は何もしていない」といった話を時々したらしいが、これも同じ真理を述べているのだろう。
何事も、自分の力でやっているのではなく、成功しても賞賛を受けるべきでないし、失敗しても悔やむ必要はない。

喫茶店に入ってカフェオレを注文したのも、自分でやったと思っているが、本当はさせられただけなのだ。
付き合っていた女の子に、思い切って「お前には耐えられない。これで別れよう」と言ったのも、言わされただけであり、また、そうなることは避けられなかったのだから苦しむ必要はないが、苦しむこともまた避けられない。だが、なるべく苦しまないことだ。

ところが、人間には、運命を変える鍵が用意されている。
それが自主的な掟の設定、つまり、自己制約だ。
自主的に食を慎んだり、自主的に沈黙を守って喋らないことで運命をオーバーロード(上書き)する。
何の得にもならないし、しかも、それをすることは少々辛いといったことを、あえてやれば、世界が変容するのである。
念仏ばかり唱えていたり、思い出せば腹に力を込めたり、肛門を引き締めることも、それに該当する。
これらは、楽しいと言うよりは、少々厳しい。しかし、それをあえてやれば、不思議な力をまとうことになる。
毎日、それなりの時間、腕振り運動を必ずするというのも、やはりそうである。
食の慎みにも似た自主性がなければ、腕振り運動だって続かない。
よって、1日千回以上の腕振り運動を長く続けることは、必ずや運命を開くのである。
上に採り上げた芸術家や宗教家、あるいは、長く芸能界で活躍している人達も、必ずや自分の掟を持ち、それを守っているはずだ。









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・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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