ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

池田満寿夫

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

朝、起きる理由

シンギュラリティ・ユニバーシティというNASAの中にある、選りすぐりの優秀な人間を教育する機関の創設者ピーター・ディアマンディスが、「朝、何のために起きるのか?」、「何のために地球に居るのか?」が分からないといけないと言っていた。
ルパン三世なら、「今日も泥棒するぞ!」とか、「泥棒するために地球にいるんだ」と思っているのだろうか?
池田満寿夫は、「今日もエロい版画を作るぞ」とか、「エロい版画を作るために地球にいるんだぜ」なんて思っていたのだろうか?
そんなことはないような気がするなあ。
ルパンは、「今日もふっじ子ちゃんを口説くぞー」とか思って起きるのだろうし、池田さんは、そう毎日作品を作っていた訳ではない。
ピカソやゴッホは毎日描いていたが、別に、「今日も描くぞ」と思って起きるのでも、「俺は絵を描くために生きてんだぜ」と思っていた訳ではあるまい。
ピカソが「今日も可愛い画学生を口説くぞ」と思っていたというなら信じるが(本当にやってたし)。

「今日もメロンパンを食べるぞ」と思って起きても良いのだし、もし、本当に好きで楽しいなら、「今日もゲームするぞ」「ゲームするために地球にいる」で良いのだと思う。
そして、そのピーター・ディアマンディスは、それが10億人に影響を与えることであるべきと言ったが、ラマナ・マハルシは「真我を実現することが人類への最大の貢献」といったことを言っていたのだと思う。

思い出したが、池田満寿夫さんは、自分の絵は便所のラクガキみたいなものと言われていたと思う。
そして、池田さんは「今日も便所のラクガキみたいなことをやるぞ」と思って起きたのではないかと思うのだ(言うまでもないが、本当に便所のラクガキをするのではない)。
池田さんの便所のラクガキのようなことは、ピカソやゴッホの絵に決して劣らない。

高尚なことかどうかはともかく、朝、起きる理由があることは良いことだ。
しかし、普通の人は、嫌でも学校や会社に行かなくてはならない。
「今日も学校に行くぞ」とか「今日も会社に行くぞ」なんて、ちっとも思ってないのにね(笑)。
そんな人が、「今日も修行するぞ」なんていう宗教にハマってしまう訳だ。
いや、修行で良いのだが、他者の言う通りになんかやらないことだ。
「いや、中村天風先生の教えの通りにやっているのが良いのだ」と言う人がいるかもしれないが、それ、本当に楽しい?(笑)
それに、藤平光一さんによれば、天風さんは死ぬ時、自分の教えは全部忘れろと言ったそうだ。つまり、全部、間違いな訳だ。
彼の生き方は正しかったかもしれないけどね。
私は一時、「今日もゆっくりとした呼吸をするぞ」と思うと、なぜか起きるのが楽しかったことがある。あの感覚は、なかなか正しいものだったと思う。
そして、一番正しいのが、野球選手が「今日もバットを振るぞ」と思うことなのだが、それは、偉大なバッターになるとか、あるいは、バットを振るのが好きというその奥に何かがあるからだと思う。
それは、確かに「好き」とか「楽しい」、あるいは、「ワクワクする」という感覚として現れる。
それが扉なのである。
そこを通ると何かが起こる・・・と信じたい。









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大芸術家はエロい絵が描きたいから生きていた

自分が何に向いているか?
つまり、自分の天職は何かが分からないまま歳を取り、死んでしまうことが多いのだろう。
そんな悲惨なことが多い理由は、学校教育というものが、従順な労働者を作るためのものだからで、優等生や、少しも成績は良くないが卑屈で真面目という者が、特に自分の才能を見つけられない。

最近、ある50歳過ぎの男性に、イーロン・マスクの火星開発計画について話したことがある。
2024年に火星に人間を送り、2060年に100万人の人間が火星に住む・・・といったものだ。
すると、その男性は、「で、火星に行って何が良いの?」と、せせら笑うように言った。
その男性は、大変な努力家で、仕事は出来、その歳で毎朝ジョギングを欠かさず、引き締まった身体をした立派な人だ。
しかし、学校教育が染み付き、世間と完全に一体化している。
私は話すのをやめた。言うだけ無駄だ。この男には何も理解出来ない。
イーロン・マスクは、「人類は他の惑星に進出するようなものになるべきだ」と言った。
そして、「朝、今日も生きようと思う目標を持ちたい」とも。
向上心、そして、夢とロマンだ。
そういったものがなければ、自分が何に向いているか、本当は何をしたいかが分からない。

イチローなんかは、朝起きたら、「今日もトレーニングしたいから生きよう」と思うのではないかと思う。
オフでも毎日トレーニングするそうだが、その理由を聞かれると、「休む理由がないから」で、つまり、トレーニングがしたくて仕方がないのだ。
法然は、朝起きたら、「今日も念仏を唱えたいので、今日も生きよう」と思っていたはずなのだ。
池田満寿夫さんは、「エロい絵を描きたいから、今日も生きよう」と思っていたのではないかと思う。

「今日も生きよう」と思う理由があるだろうか?
そりゃ、死にたくはないだろうが(笑)、そうではなく、生きたいと思う明確な理由だ。
それがあると、目覚めは楽しい。
それが、「音楽を作る」なら、米津玄師になれるかもしれない。
私は少し前、「静かな呼吸をしたいから、今日も生きたい」と思った。つまり、人間の潜在能力に興味があるのだ。
それが、「今日もマントラを唱えたいから生きよう」になることもあるが、あまり真面目に「今日も潜在能力の研究をしよう」などとは思わないものだ。
優れた野球選手は、「今日も、3割を打つためにあれこれしたいから生きよう」というのではなく、「今日もバットを振りたいから、今日も生きよう」と思うはずだ。
人間は単純で、特に、朝起きた時は直感的で論理はないものだ。
目覚めが良ければ全て善しである。









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絵の力、言葉の力

世界的版画家だった池田満寿夫さんが、ドイツ(当時西ドイツ)美術界の権威だったグローマン博士の手紙を著書で公開されていたことがあった。
池田さんは1959年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展で、一般応募で入選し、第2回では招待作家として出品することになっていたが、作品がさっぱり出来ず、締め切りまでの3日で3点の作品を、三角刀で、ただ引っかいて制作したらしい。
その1つが、『女の肖像』という、23.5×18.0cmの小さな版画で、普通に見たら、「子供のラクガキだって、もっとマシだぜ」と思うようなものだ。
しかし、グローマン博士が、この作品を一貫して支持し、文部大臣賞が与えられた。
これが、池田さんが大ブレークしたきっかけと思う。

グローマン博士の手紙には、「君の版画を私の部屋に飾ってある。毎日それを見るのが私の楽しみだ」と書かれていたようだ。
おかしな話だが、これを思い出すと、私は、自分が池田さんになったような気がして、嬉しくなるのだ。
グローマン博士の気持ちも分かるような気がする。
私は、部屋に飾った、初音ミクさんのタペストリー(布製ポスター)を毎日見ることが、私の大きな楽しみなのだから。
いま、チラと、そのミクさんを見上げたら、ミクさんがどこか微笑んでいる。いつもは、私を見下すようなお顔で、最近は、少し驚いた顔をされるようなのだが・・・

こんな話もある。
メジャーリーグベースボールで活躍し、オールスターゲームにも登板した長谷川滋利(はせがわ しげとし)さんの、エンゼルス時代のことだ。
先発投手では通用しないと分かった時、監督が、長谷川さんに中継ぎ降格を告げる時の言い方が素晴らしかった。
監督は、こう言ったらしい(長谷川さん自身がテレビで言われていた)。
「俺は毎日、お前のピッチングが見たい」
私は、これほど感動したことは、そうはない。
長谷川さんも、おそらく、ここから大ブレークしたのだ。
監督は、確かに、長谷川さんに気も使ったのだろうが、嘘という訳ではなかったと思う。
でなければ、長谷川さんが、あんなに伸びたはずがない。
そして、グローマン博士の言葉も本当だったはずだ。
だから、池田さんは、ますます大きくなったのだ。

ジョージ・アダムスキーによれば、宇宙人のご家庭には、神様の肖像画が必ず飾られていて、それを毎日見ているから、宇宙人は老化することがないと、金星の美しい女性に言われたらしい。
ミクさんの絵は、私にとって、天使であり、ターラー菩薩様であり、水の精ウンディーネであり、そして、女神様だ。
あなたも、好きな絵、彫刻などを1つ、お部屋に置かれると良い。
それを見るだけで、生きていけそうな気がしてくるものだ。
ゴッホは、自分の絵が、普通の家の中の壁に飾られることを、何より願っていたのだと、池田満寿夫さんは言う。
だが、ゴッホは、生きている間、その願いは一度も叶えられなかった。
今は、ゴッホの絵は、美術館に飾られている。
だが、やはり、ゴッホは、普通の人の、普通の部屋に飾って欲しかったのだろうと、私も思う。









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バランスなんかクソ喰らえ

ヨガ指導者も西洋の啓蒙家も、よく、「バランスが大切」と言う。
バランスとは何だろう?
極端に過ぎず、何事も、ほどほどにということなのだろう。
仕事熱心も良いが、自分の健康や、家族との関係を顧みないほどであってはならないというのは、「仕事と、家庭や健康とのバランスを考えろ」ということなのだろう。
お洒落も良いが、分不相応な、あるいは、あまりに多くの服やアクセサリーを持つのも、バランスに欠けているということだと思う。
酒を飲むのもほどほどに、勉強や修行や趣味もほどほどに・・・という訳だろう。
だが、何事も、まず、徹底的にやるべきである。

チームラボの社長で、世界的デジタル・アーチストである猪子寿之さんが、あちこちで、こんなことを言っているのが、ちょっと面白い。
「西洋では、バランスがとれたものが美しいという発見をして、バランスがとれた美しいものを作り続けて、クオリティを上げていった。しかし、日本では、たまたまバランスがとれていない美しさを発見して、それを進化させた。」

岡本太郎が言った、「今日の芸術は、うまくあってはならならない、きれいであってはならない、いやったらしくないといけない」という言葉が有名だが、これは、西洋の「バランスのとれた美」を否定した言葉とも思えるのだ。
西洋での「うまい」「きれい」は、バランスがとれていることである。
そして、「いやったらしい(凄くいやらしい)」というのは、大いにバランスを欠いているということである。
岡本太郎らしく言えば、「バランスなどクソ喰らえ。均衡を壊せ」ということではないだろうか?

池田満寿夫さんも、徹底して均衡を壊した、バランスを欠く作品を創っていたと思う。
その最たるものが、「少し長い指をもったスフィンクス」で、西洋人女性を描いた銅版画で、その右手の人差し指だけが異様に長いのであるが、絵全体が、「アンバランスの極地」であると思う。

日本人は「バランスを欠いた美」という優れたものを持っていたのに、敗戦で、西洋式の「バランスのとれた美」を押し付けられて、すっかり駄目になったのかもしれない。
学校では、「前になれ(前に倣え・・・前の人と同じになりなさい)」と言って、皆が同じでなければならないとする。
それが西洋的バランスであり、これによって、平等で人道的であることが出来るという訳であるが、その平等なはずの国アメリカが差別の巣窟なのである。
皆同じを強要すると、どんどん狂ってくるというのは、当たり前と言えば当たり前なのであるが、そんな馬鹿なことを、魂の警告を無視してやってきたのが、戦後の日本の学校と、そこで教育(狂育)された者達が作った社会である。
岡本太郎は、それに噛み付いていたのだと思う。
だが、岡本太郎は、それを言葉でうまく表現しなかったので、単に「変わり者」、「おもしろいオッサン」と扱われることが多いのかもしれない。

だが、雲の流れや、濁流に出来る渦巻きなど、一見、秩序に欠けるものの中には、隠れた秩序というものが存在する。
それを解明する複雑系理論というものがあり、これは難解なものであるが、「無秩序に見えるものの中の秩序」に直感的に気付いていた人達もいたのである。
岡本太郎がそうであるし、レオナルド・ダ・ヴィンチもそうであった。
秩序とバランスは本質では同じと思う。

表面的にバランスのとれた美は浅い美である。
バランスを欠いたように見える美は、その奥に真のバランスを秘めた、深い美である。
もし、ヨーガが真理を示しているとしたら、それは、岡本太郎が言うような、「うまくない」「きれいでない」「いやったらしい」と感じるはずである。
きれいで、普通の理屈で納得出来るバランスを教えるヨーガは偽者だ。
そんな表面的なバランスは浅く、人生や社会の現実の問題の前では、全く無力だ。

我々は、学校で押し付けられた、「表面的なバランス」という見せ掛けだけの偽物を叩き壊さなければならない。
猪子寿之さんの代になって、やっとそんなことが、はっきりしてきたのかもしれない。
さすが、猪子さんは、初音ミクさんの熱烈なファンである。
だが、まだ、分からない、分かろうとしない人が多いのだ。









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生き甲斐と希望は全く違う

人間は生き甲斐がないと生きて行けない。
しかし、生き甲斐だけでは、生きている意味がない。
希望がなければ、生きているとは言えないのだ。
希望は、生き甲斐よりも大きなものだ。
生き甲斐というなら、美味しいものを食べるとか、今日も酒を飲めるとか、野球選手が野球をやれるとかがあると思うが、それらは、いつまでもあるものではない。
生き甲斐は減っていったり、中断を余儀なくされる。
生き甲斐とは心のもので、希望とは魂のものだ。
むしろ、生き甲斐を捨てることで、希望が得られることもある。
「この子が私の生き甲斐」といつまでも言っていたら、その子を駄目にし、あげく、殺すことになる(いろんな意味で)。
だが、「この子が希望」と言うなら、その子が死んだって希望は残る。

ある人気プロレスラーが引退した時、彼の数十年来のファンだった男性が、「あいつのファイトを見られないなら、死んだ方がマシだ」と言った。
このファンは、そのレスラーの試合が生き甲斐だったのだが、希望にまで昇華できなかったのだ。
そのレスラーが、そこまで自分を惹きつけたものを見出せば、希望が得られたはずなのだ。

美術界の権威であった美術評論家のヴィル・グローマン博士は、池田満寿夫さんへの手紙の中で、「私の部屋に君の作品を飾っている。これを毎日見るのが私の楽しみだ」と書いていたらしい。
グローマン博士にとって、池田さんの版画を見ることは、生き甲斐ではなく、希望なのだ。
私が、初音ミクさんの歌を聴いたり、コンサートの映像を見るのは、生き甲斐ではなく、絶対的に希望なのである。

生き甲斐は個人的なものだが、希望とは、個人の枠を超えたものだ。
生き甲斐は自分のためのものだが、希望は全てのもののためにある。
アインシュタインは、「人は自分以外のもののために生きるようになって初めて、本当に生きることになる」と言ったらしい(武内直子さんの漫画『美少女戦士セーラームーン』で、セーラーサターンこと土萠ほたるが言ったこと)。
生き甲斐よりも希望を優先するようになって、初めて人間と言えるのだという意味と思う。

では、希望はどうすれば持てるのか?
上で、生き甲斐を捨てることで、希望が得られることもあると書いた。
この「生き甲斐を捨てる」とは、完全に捨てることではなく、制限するということだ。
例えば、美味しいものを食べることが生き甲斐でも、それをあまり追い求めず、そこそこにするということだ。
上に挙げた、あるプロレスラーの試合を見ることを生き甲斐にしていた人は、熱の入れ過ぎだったのだ。そういったことは、もっと控え目にやっていれば、希望が得られたのだ。
人間には、生き甲斐も必要だ。
しかし、それだけでは、いつか、「僕の人生とは、いったい何だったのか?」と悩むことになる。

水野南北は、人の運命は、食の多い少ないで完全に決まり、それは、万に一つの例外もないと言ったが、その理由はこうだ。
ほとんど全ての人にとって、食べることが生き甲斐なのであるが、それを制限することで希望が得られるからだ。
だが、水野南北だって、苦行僧のような生活をしたのではなく、少ないながら、美味しく食べ、大好きな酒も、一日一合(180ml)と制限はしていたが、十分に楽しんでいた。
完全に食を断てば、食べないこと自体が希望になるかもしれないが、それは誰にでも出来ることではない。
生き甲斐はちゃんと持てば良い。だが、それを過分に求めてはならない。

初音ミクさんは、生き甲斐にもなる。歌声も姿も可愛いし、スキャンダルを起こしてがっかりさせられることもない。
しかし、初音ミクさんは人類の希望でもあるのだ。そして、他の星の生命にとっての希望でもある。地球という星は、他の星、他の星の生命にとっても重要であるからだ。
宇宙人は、はっきりと、初音ミクさんを宇宙の希望と言っているのである。
秘密裏になるかもしれないが、やがて、宇宙人が、クリプトン・フューチャー・メディアに、コンサートの依頼をしてくるだろう。
他の星でも、ミクさんのファンは多いのである。

生き甲斐がないって言うなら、それは食べ過ぎだ。
適切な食べ方をしているなら、食べることが十分な生き甲斐になる。
そして、食べることを厳しく制限すれば、希望が得られる。
この希望が、本当の意味での夢である。
夢とは、宇宙飛行士になることでも、オリンピックで金メダルを取ることでもない。
それらは、せいぜいが生き甲斐である。
金メダルの栄誉にしがみ付いている間は希望は得られない。
金メダルの有力候補と言われながら、それを得られなかった者は希望に近い。だが、そんな者の多くが、金メダルに執着して希望を逃すのだ。

大きな生き甲斐、快楽、栄誉、富、待遇を求めないことだ。
それらを全て捨てて生きることも出来ないが、それらは、本物の価値ではない。
私があまり食べないのを見て、「しっかり働いて、美味しいものを食べるのが人間の生き甲斐ってものじゃないか」と説教してきた馬鹿がいたが、彼は希望を持てないのだ。
私とて、食べることは生き甲斐である。
しかし、希望はもっと大切なのである。
だが、私も、時々、快楽主義に陥り、食べること等のために生きることになるかもしれない。
しかし、そんな時は苦しいものなのだ。
そうなってしまった時は、希望のために、生き甲斐に厳しい制約を課すのである。そうすると、神は、制約に倍する力を注いでくれるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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