ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

江戸川乱歩

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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夢で引き寄せの力を得る

黒澤明監督の『夢』という映画がある。
1990年に公開された日米合作の、8つの物語からなるもので、この8つの物語は全て、黒澤明が見た眠っている時の夢を元にしたものらしい。
どのお話も素晴らしい短編映画で、夢という、もう1つの世界についての視界を開くきっかけにもなる。
本当にどれも良いのだが、私が特に好きなのが『桃畑』という黒澤明が子供の時(9つか10といったところだろうか)に見たと思われる夢のお話で、当然、自身も夢の中に居る。
そういえば、自分が居ない夢というものはないと思うが、自分が子供であったり、学生であったりの夢は、よくあると思う。
しかし、この黒澤明の『夢』の、特に、『桃畑』は、おそらく、黒澤明自身が子供だった時に見た夢と思う。
この映画全体の中で、私が強烈に印象に残っているのが、この『桃畑』の中で、ひな人形の化身達が桃畑で舞を舞う場面で、あんなに美しいものは見たことがないと感じるほどだ。

江戸川乱歩は、夜見る夢こそが本物で、目覚めている時の方が幻であると思っていたのか、色紙にサインをする際、それを意味する、
「うつし(現)世はゆめ よるの夢こそまこと」
「昼〔ひる〕は夢 夜〔よ〕ぞ現〔うつつ〕」
を「必ず」書き添えたという(Wikipediaより)。
宇宙人バシャールは、「夢の方がどちらかというと本物」と言っているのだと思う。
インドの聖者ラマナ・マハルシは「夢と目覚めで違いは全くない」と言い、荘子は「この世は夢ではないだろうか?」と、ほぼ確信的に言う。

『桃畑』の中に、桃の花の精と思われる少女が登場する。
見かけは普通の少女だが、別に凄いことはしないのに、人間でないことは見ていてすぐに分かる。
それを見ていると、黒澤明は、そんな子供の時に、妖精のような存在を、どことなく現実的に感じていたのではないかと思う。
まあ、沢山のひな人形の化身みたいなものがリアリティをもって出て来るのだから、そうなんだろうが、この一見、人間と変わらない妖精の、それも少女というのは、特に少年にとってはロマンだろう。
そして、彼女の在り方も神秘的だった。
姉の友達が6人来ていたので、明は6皿の団子を持って行くが(良い子だ)、姉の友達は5人しかいない。
姉に聞くと、元々5人しか来ておらず、お前が数え間違えたに違いないと言うが、明は納得出来ない。
そして、明が裏口に行くと、少女が1人立っている。
姉達は、この少女を友達と認識していたのに、一瞬で、この子のことを忘れてしまったのだろう。
さりげなく、妖精の力を暗示するところが、また神秘的で良いと思う。
明を見ると、少女は逃げだす。
妖精のような(いや、妖精なのだが)少女が逃げ出すと、そりゃ、追いかける。逃げる走り方が可愛い。
だが、多分、この少女は、明を桃畑に誘い込んだのだろう。
明の夢なのに、明が知らない意図があるところが面白い。

夢は自分が作っていると言うが、普通の自我とか思考が作っているのではない。
だから、予想もしないことが起こる。
この、夢の中の予想しない出来事が重要である。
私など、一瞬のうたた寝の中での夢(ほとんど白昼夢だ)の中でだって、予想外のことが起こって驚くことがある。
これだから夢は止められない(笑)。
私は、今朝、こんな夢を見た。
ある宗教団体が、廃品回収のボランティアに来ていた(廃品回収はボランティアではないし、宗教団体が廃品回収を行うことはないという世間的なことはスルー願う)。
ちょっとお高くとまった感じの女性信者が私の家の中の雑誌の山を見る。
私は、「あ!いけね!エロ本がある」と思った(実際は、私の家にはエロ本はない。昔はあったが)。
すると、その女性信者は、案の定、「こんなのを読んでいるのですか?」と蔑むように言う。
ところは、彼女が見ていたのは、ドナルド・トランプを称賛する記事だった。
エロ本になんでそんなことが書かれているのかは、まあ、夢で起こる予想外の出来事の1つだ。
そして、女性信者は、トランプを否定するような発言をし出した。
私は、穏やかに「トランプは優れた政治家だ」と言ったが、女性信者は、それを非難するような口調で、「どこがですか?」と言う。
私は、なるべく穏便に済ますことを心掛け「バイデンよりはマシと思います」と言ったら、驚いたことに、その女性信者も同意した。
誰もバイデンをまともな大統領と思っていない。
これは、夢、現実を問わず、私が確信していることのようだ。
他にも、今朝の夢の中で、いろいろなお話が展開されたが、夢とはやはり良いものである。
黒澤明の『夢』を見ると、さらにそう思うのである。
この映画を見ると、我々の夢にも変化があるかもしれない。
夢では、現実より潜在意識に近付いているのだと思われ、引き寄せのヒントや、あるいは、知らないうちに引き寄せの力を得ていることもあるに違いない。
そのためには、夢を、もう1つの現実として尊重しなくてはならない。
そうすれば、本を読むより、ずっと引き寄せもうまくなるだろう。








真言の面白い効果

真言をよく唱えていると、明晰夢(夢を見ていると分かる夢)を見るようになる。
つまり、観世音菩薩真言「オン、アロリキャ、ソワカ」とか、大日如来真言「オン、アビラウンケン」を唱えていると、夢を見ている時に、それが夢だと分かるようになるのである。
それは、「あ!これは夢だ!」と強い印象を持つというよりは、ごく当たり前に夢だと分かるのである。
言ってみれば、夢の世界と、現実世界の違いがなくなってくるのだと言える。
それどころか、大正から昭和の大作家、江戸川乱歩が色紙に常に書いたように、夢の方が本物で、目覚めの方が、やや偽物だと気付くかもしれない。
インドの聖者、ラマナ・マハルシは、両者(夢と現実)は全く同じと言ったが、現実の方が制限が多い分、やや、低級であるかもしれない。
なぜ、真言を唱えると、夢と現実の違いがなくなるのかというと、真言を唱えると、意識の深い領域・・・潜在意識から集合意識、超意識、純粋意識と呼ばれるところに潜っていくが、夢の世界は、目覚めの世界より少しだけ深い領域にあり、夢の世界より、はるかに深い領域に慣れてしまえば、夢と現実に差異はなくなるのは道理である。
そして、そのように、真言で深い意識の領域に慣れれば、夢の世界を自由に支配出来るようになるのと同時に、現実世界という、この固くて粗雑で融通が効かない世界も、だんだんと操れるようになるのである。

毎日、百回程度でも真言を唱えていれば、全く唱えないのとでは大きな違いで、その他に何もしなくても夢の世界が楽しくなるし、現実世界でも幸運になっていくのである。
ただし、やはり、百回程度では少な過ぎ、真言は慣れてくると楽しく唱えられるので、出来るだけ多く唱えるべきである。
あえて言えば、真言を唱えることほど重要なことはないので、真言さえ唱えていれば良いのであると思う。
そして、夢を夢と自覚出来るようになれば、不道徳でない範囲で、何か突拍子もないことを試し、世界が想いの通りになることを理解していくと良いだろう。

尚、腕振り運動は、大体、真言と同等で、腕振り運動を百回やるのと、真言を百回唱えるのは等しい。
ただ、筋トレのようにあくせくやる腕振り運動ではいけないし、声に出してうるさく、せわしなく唱える真言も良くない。
腕振り運動は、丁寧に正確に優雅にやるべきだし、真言は、心の中で、静かに、丁寧に唱えなければならない。
私は、干支の守護仏が阿弥陀如来ということもあって、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を主に唱えているが、観世音菩薩真言や大日如来真言を唱えることもあるし、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」の念仏も唱えることがある。
だが、干支が何であれ、阿弥陀如来真言を唱えることは良いことである。
また、苦痛でなく、むしろ楽しければ、どれだけの種類の真言を唱えても良いが、1つに集中した方がうまくいく場合が多いと思う。
法然や親鸞は、もっぱら「南無阿弥陀仏」を勧め、真言密教の偉い僧は「オン、アビラウンケン」を唱えるよう言うが、我々は、自分が好きに選べば良い。言ってみれば「南無阿弥陀仏」と「オン、アビラウンケン」両方を唱えても良いのである(私はやっている)。
宗教をやっている人や、まして、その指導者は、いろいろ制限があって大変だと思うが、我々は、しがらみがないという特権があるので、それを生かせば良いと思う。








夢の世界の動かし方

『怪人二十面相』等で知られる小説家、江戸川乱歩(1894~1965)は、色紙にサインをする際、必ずこう書き添えたという。
「うつし(現)世はゆめ よるの夢こそまこと」
「昼〔ひる〕は夢 夜〔よ〕ぞ現〔うつつ〕」
(以上、Wikipediaより引用)
意味は、眠っている時の夢こそ本物の世界で、目が覚めている時の世界は幻想といったところだと思う。
目が覚めている時の意識は、ほとんどが顕在意識だが、顕在意識は全意識の5%に過ぎない。
しかし、夢の中では、顕在意識の割合はさらに小さくなるが、95%の意識である潜在意識の中にあるものが(少しずつだろうが)どんどん出てくるのだから、理屈で考えても、江戸川乱歩のその言葉は正しい。

ところで、今が現実か、夢の中かと考えたことがあるかもしない。
普段の生活とよく似た夢を見た時に、そんなことがあると思う。
そして、その判断は普通、難しい。
しかし、何かの理由で、ぱっと判ることがある。
現実世界ではありえない、あるいは、起こりえないことに気付いた時だ。
小説・アニメ『灼眼のシャナ』で、坂井悠二は、コーヒーを持って来てくれた母親に問う。
「ねえ母さん、このコーヒー、どこで買ってるの?」
母は微笑むが答えない。
それで、坂井悠二は、これが夢であると気付く。
彼は、母がコーヒーをどこで買っているか知らない。
自分の知らないことは、誰も答えられないからだ。
だが、実際は、答てくれることも多いが(笑)。
夢かどうかを見破りたい時は、指を引っ張ってみると良い。ただし、覚えていればだが(笑)。
夢の中では、指を引っ張ると、指が伸びる。

指を引っ張ることはなかなか覚えていないだろうから、普段から、何か特定の簡単な習慣を持っておくと良い。
例えば、人差し指を1本立てるとか、トランプ大統領のように、親指と人差し指で輪を作ってそれを振るとか(笑)。
または、呪文や念仏を唱えたり、数式を思い浮かべ、その意味を思い出したりなど。
面白いところでは、『銀河鉄道の夜』に出てくる、かおる子(12歳くらいの可愛い少女)の6歳位の弟のように、
「ケンタウルスよ露を降らせ」
と言うとか。
普段、特別な想いを持ってやっていることをやると、夢の中では、その「感じ」が異なるので、夢かそうでないか分かり易い。

夢だと分かったら、早速、世界を動かしてみよう。
この時、あせると、大抵失敗する。
それは、現実世界も同じだ。
あせるとうまくいかないのだ、何事も。
そして、夢の中では、何かになろうとするのではなく、何かでいようと思うとうまくいく。
例えば、美しい少女でも現れたら、彼女の恋人になろうと思うのではなく、彼女の恋人でいようと思うことだ。
それをやると、潜在意識の中に、1つのルートが出来、それは、目が覚めている時も存在する。
すると、現実も、自在にコントロール出来るようになる。
ゲーム感覚でやるとうまくいく。
だが、夢の中とはいえ、物理法則や道徳には、なかなか逆らえないものである。
そこで、普段から、物理法則に注意し、道徳を重んじるようにしておけば、夢も現実も、より自在になるのである。
現実の社会の取り決めではなく、自分の正義を貫くことだ。
それが力になるように心、あるいは、魂は出来ているようだ。








この作り物の世界を支配するには

引き寄せを簡単に行える、つまり、願望を実現することを簡単に行えるようになる、2通りの考え方がある。
この2つは、異なるようで、実は近い。

1つは、世界は夢のようなものだと見なすことだ。
そして、実際に、世界は夢であると言って間違いではない。
インドの聖者ラマナ・マハルシが、次のように的確に表現している。
「夢は短く、目覚めは長い。両者の間に、それ以外の違いはない」
天才と言って差し支えないと思う、推理作家の江戸川乱歩は、色紙にサインをする際、必ず、
「うつし(現)世はゆめ よるの夢こそまこと」
あるいは、
「昼(ひる)は夢 夜(よ)ぞ現(うつつ)」
と書き添えたと言われる。
意味は解ると思うが、「夢の方が本物で、目覚めている時の方が偽物」といった意味と思う。

つまり、一般常識では、
「目が覚めめている状態=リアル」
「夢を見ている状態=バーチャル」
であるが、
★ラマナ・マハルシ
「目が覚めめている状態=バーチャル」
「夢を見ている状態=バーチャル」
★江戸川乱歩
「目が覚めめている状態=バーチャル」
「夢を見ている状態=リアル」
となる訳である。

さて、もう1つは、この世界が、VR(仮想現実)であるという考え方だ。
VRを体験済みの方も多いと思うが、VRゲームでは、頭にHMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)を装着し、現実ではなく、コンピューターが作り出した精妙な3次元世界を見て、その人工世界に居ると感じながらゲームを行う。
この技術がどんどん進み、何らかの方法で、脳に直接、仮想世界を認識させれば、もはや人間は、自分が現実世界に居るのか、仮想世界に居るのかの区別はつかなくなる。
そして、実は、この世界は元々、仮想世界なのではないかと考える人が多くなってきている。
それも、妄想癖のある奇人変人が言うのではなく、イギリスの哲学者ニック・ボストロムや、巨大事業家イーロン・マスクら、最高クラスの知性、最高クラスの実績を持つ者達が、この世界が仮想世界であると断言している。
このように、この世界を仮想世界と見なす考え方を「シミュレーション仮説」と言い、仮想世界である現実を「シミュレーテッド・リアリティ」であると言う。
誰が、このシミュレーテッド・リアリティを作ったのかというと、高度な科学技術を持った宇宙人かもしれないし、我々人類自身かもしれない。

人間にとって、現実とは、脳が認識しているものに過ぎず、世界が実際はどのようなものかは、元々分からないのである。
それは、解剖学者の養老孟司氏の著書『唯脳論』に詳しく書かれているが、それを見るまでもなく、なんとなくは分かると思う。

我々には、世界が実際にはどのようなものであるかは分からない。
だが、世界は夢のようなもの、あるいは、シミュレーテッド・リアリティだと考えて間違いない。
大ブームを起こした『涼宮ハルヒの憂鬱』は、この世界が、夢であり、同時に、シミュレーテッド・リアリティであることを上手く表現している。
また、今も継続中の『ソードアート・オンライン』や、同じ著者による『アクセル・ワールド』も、シミュレーテッド・リアリティを描いていると言える。
直接は仮想世界の話ではないが、『サクラダリセット』も、シミュレーテッド・リアリティを念頭に置くと、よりよく解って面白いと思う。
元々は、終末論を描いていた『新世紀エヴァンゲリオン』も。どんどん仮想世界を取り入れているし、『美少女戦士セーラームーン』も、終末論的世界観であると言われることも多いが、実は、初期の頃から、シミュレーテッド・リアリティの考え方が十分に込められていた。
何と、ブームを起こす作品は全て、シミュレーテッド・リアリティが基本にあり、逆に言えば、だからこそ、ブームを起こしたのである。

この世界が作り物だとすれば、どんなことが起こる可能性もあえるのだということが解ると思う。
つまり、この世界はVRゲームなのだ。
だから、あなたが大統領になったり、世界的スーパースターになることも、可能性としては十分過ぎるほどあるのである。
ましてや、数億円のお金など、他愛もないことである。
とはいえ、我々は、夢の世界さえ自由に支配出来ない。
だが、それも、練習次第であるかもしれない。
例えば、夢の中で空を飛んだ経験を持っている人も多いと思うが、そうは言っても、いつでも自由に空を飛べる訳ではないと思う。
夢にだって、そして、VRゲームにだって、制約というものが必ずある。そういった秩序がないと、世界は混乱したデタラメなものになってしまうからだ。
しかし、全体の調和をとりながらだと、練習次第、あるいは、テクニック次第で、以前はあり得なかったことが出来るようになる。
注目すべきは、この世界では、固定観念に反することが起こり難い傾向があることだ。
だから、固定観念を消すと、これまで不可能だったことが出来るようになる。
能力を高め、さらに、超人になるには、固定観念を外していけば良いことは、能力開発に詳しい人なら誰でも知っている。
だが、学校やマスコミが、我々にせっせと固定観念を埋め込んでいるのも、この仮想世界のお決まりであるらしい(笑)。
ならば、我々は、さっさと、学校やマスコミによって叩き込まれた固定観念を捨て、超人に、そして、神のようなものになれば良いのである。








世界は亀の背中の上と言う昔の人は我々より賢い

多額の借金を抱えて悩んでいるとか、誰かの恨みを買って、今にも殺しに来るかもしれないとか、あるいは、何か悪いことをして、それがバレて逮捕されるかもしれない・・・といった、笑えない問題を抱えているとしよう。
しかし、冷静によく考えたら、そんなこと何もない。
私は、そんなことがよく起こる。
夢の中で・・・というのは、以前のことで、この頃はもっぱら、目覚めている世界で起こっているように思う。

インドの聖者、ラマナ・マハルシは、現実と夢の違いは、長いか短いかだけだと言ったらしい。
宇宙人バシャールは、夢の方がむしろ本当と言っていると思う。
我が国の歴史的推理作家、江戸川乱歩は、夢の方が本当で、目覚めの方が幻なのだと、常に、サインの色紙に書いたようだ。

そして、ヘレン・ケラーが、こんなことを言ったのが、深い意味を持つように思う。
「五感は幻想。思考だけが本物」
視覚と聴覚を持たなかったが、深い精神を持っていた彼女が、ごく若い時(大学時代)に、こう断言したことを私は嬉しく思う。
これは、さきほどの夢と現実の話に置き換えると、つまり、
「五感で捉える現実は幻想で、思考が作り出している夢の方が本物」
なのである。

だから、この際、せめて、現実は夢と割り切り、悩むのをやめると良い。
つまり、抱えた問題は忘れて良い。
とはいえ、借金のことを忘れるのは無責任過ぎると思うかもしれないので、忘れはしないまでも、悩まないことだ。
悩んでどうなるものでもない。
だから、解決を宇宙にでも頼んで気楽でいることだ。
最初のうちは、借金があったけど宝くじが当たって返せたとか、誰かに恨まれていて嫌がらせをされていたが、謝ったら許してくれたといった、「よく解る」形での解決になるかもしれないが、やがては、問題自体が消滅するようになる。そのようになったら、初めはなかなか困惑するが、一瞬置いて、大きな安堵感を感じ、それは、とても楽しい。
何といっても、あると思い込んでいた問題自体が、元々なかったのだから。

夢のような話だ(笑)。
しかし、いずれ、それが当たり前の世界になる。
スティーブン・ホーキングが、100年ほど前の、世界は亀の背中の上だと主張する田舎のおばあさんと、おそらく、ホーキング本人も含めた我々は、未来の世界の人から見れば差はないと言ったが、我々はまさに、世界は亀の背中の上だと言ってる人と、それほど、あるいは、全く違わない。いや、ひょっとしたら、(我々の方が)下かもしれない(私はそう確信する)。
だが、未来の人は、「五感は幻想、思考だけが本物」と言ったヘレン・ケラーのことは、「少しは話せる」と言うのではないかと思う。

別に、何をする必要もない。
ただ、現実は夢のようなものだと思えば良いだけだ。
けれども、思考は本物なので、決して、邪悪になってはならない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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